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ハナチラセ様

作者: 冷世伊世

 うちの近所には不思議な神様がいる。

 その名も「ハナチラセ様」。

 春の盛りに強風とともに現れて、町内の咲きほこる花々を散らせていってしまう神様だ。



 私が「ハナチラセ様」にはじめて会ったのは、小学三年生のときだった。

 わけあって両親と喧嘩した私は、その日家に帰らないことにした。

 夕方から近所の神社の境内に居座りつづけ、賽銭箱の影に隠れたりしていたが誰も探しに来てはくれず、ついに姿を隠すのが馬鹿らしくなり狛犬の横で膝を抱えて座っていた。

 春とはいえ夜は寒い。空腹でひもじくなってきた私はひとり泣きべそをかいていた。

 優しい風がときおり吹くと、境内に植わる満開の桜を落としていく。月夜に桜は白く光り、それが一枚ずつ落ちていくのが物悲しい。

 私がそうして真夜中の神社でひとりぼんやりしていた時だ。

 とつぜん強風が吹いたのだ。

 ごうと耳元で大きな音がして、神社の入り口、鳥居の方で小さな竜巻が起こった。

 砂を巻き上げ桜を散らし、それがゆっくりとこちらへ進んでくる。私はとっさに強張る体を狛犬の影に隠し、必死でその台座にしがみついた。

 てっきりその強風に飛ばされるかと思ったのに、一瞬あとには風は止み、辺りは静かになっていた。

 しんとした境内に砂利を踏む音がして、誰かがやってきたのだとわかる。私は狛犬の後ろに隠れているので、その向こう側に誰がいるのかは見えない。

(さっきまで誰もいなかったのにな……?)

 私はそろりと狛犬の後ろから顔をのぞかせてみた。

「見るならしかと見んか、腹立たしい!」

 予期せずばしりと怒声が飛んできた。驚いて見た先に苛立った顔の少年が立っている。

 うす緑の狩衣に背の高い黒下駄を履き、こちらを居丈高に見おろしている。

 宝石のようなつり目が感情のままに煌めいて、口もとが不愉快げに歪められていた。勝気そうな顔だった。

「おぬしは誰だ。なぜ、誰の許可をえてここにおる!」

「わ、わた、わたし……」

 焦って言葉がつかえた。事情を説明しなければ、と思うのにとっさのことでまとまらない。

 私は今日、体育の授業のことで両親と喧嘩をしたのだ。心臓の弱い私を二人は過度に心配し、急に「体育の授業に出てはいけない」と言いだした。でも私だって友達とドッジボールやサッカーをして遊びたい。体育の授業は私のお気に入りなのに、心配性の父母はそれを私から奪うと言う。それで喧嘩になり家を飛び出したのだ。

(だから今日は家に帰らないんだから)

 そう説明しようとしたら、少年は腰にさしていた扇子を取り出して閉じたそれで肩を叩いた。投げやりに面倒くさげな視線をよこしてくる。

「まあ良い。おぬしのことなど、今はどうでも良いのだ。腹立たしいくらいにどうでも良いわ」

 あ然と狛犬のそばでへたりこむ私を無視して、彼は桜の方へ歩いていった。境内のぐるりを囲うようにして植わっている桜の古木たち。それらをきっと睨みつけ、ぱしぱし肩を叩いていた扇子を桜へ向けて言い放つ。

「問題はお前だ桜よ! ほんに憎らしい……! 毎日毎日、飽きもせずに咲きおってからに」

 少年は満開の桜の古木をじとりと見渡してから、閉じた扇子を手首でひと回転させた。

 バッと勢いよく紙が開く音がして、すると扇子が少年の背丈ほどのサイズへ変わる。いったいどういう仕組みなのか、一瞬にして大きくなった扇子に私は釘づけになった。

 開いた扇の紙は豪奢な金色で、真ん中にひとつだけ赤丸が描かれている。柄の部分は黒漆が塗られ、美しく月光に照り光る。

 持つだけでも大変そうな巨大な扇子を、少年は開いたままでこともなく片手で掲げた。

「腹立たしい、散り降ろせや!」

 ごう、と大きな風が吹き、少年に扇子を向けられた桜の木がたわんだ。花びらが一斉に枝から振るい落とされ、落ちた花は風に巻かれ飛ばされて、境内の上をひらひら舞っている。私は降り注ぐ桜のシャワーにぽかんと口を開けてしまった。

(雪がたくさん降ったときみたい)

 少年が扇子であおぐたび、境内の桜の木から一本ずつ綺麗さっぱりと花びらが落ちていく。不思議なことにかなりの強風が吹いているはずなのに、周囲の植え込みや広葉樹の葉はまったく揺れていない。まるで狙いすましたかのように、桜の花だけが木から落とされていくのだ。

 私は降ってくる花びらを眺めていた。それはただひたすらに美しい光景だった。

 広い境内へ躍り出るようにして空を見上げれば、夜の星空を埋め尽くすようにして白い花びらがたくさん降ってくる。見上げたままくるくる回り笑っていると、花びらと風がぴたりと止んだ。

「——何がおかしい?」

 少年が開いた扇子であおぐ手を止め、目を細めてこちらを睨んできていた。不機嫌そうなその眼光は鋭く、私は気まずい思いで口を開いた。

「あの、綺麗だったからつい」

「〝綺麗〟? ……この〝桜が〟か」

 なぜか少年はますます不機嫌になった。低くなるその声音にじゃっかん怖くなったが、私は反射的に首をふっていた。

「違うの。あの、散っている花びらが……こんなにたくさん落ちてくるの、見たことなかったから」

 桜は確かに美しい。けれどその散り際はもっと美しいものだ。

 ひとつ、ふたつと惜しむようにして散ると思っていたそれが、今日は何の惜しげもなく一斉に夜空へ舞い散ったのだ。いっそ凄惨なほどの美しさが私を魅了していた。

 少年は私の言い分を理解してくれたようで、もっともらしく頷いている。

「なるほど。つまり儂の技に魅せられたということだな?」

「わざ?」

「ふん。そうならそうと早う言わんか。少しくらいなら見物を許してやる。やってもよいぞ。こちらへ来い」

 少年はなぜか急に機嫌を良くした。少しだけにやけている顔を咳払いで正して、厳しい表情を取り戻すと、「来い来い」とこちらを片手で招き寄せてくる。私は恐る恐るとした足取りで近づいていった。

「しゃんと歩かんか! ぐずぐずするでない!」

 また怒られてしまった。

 随分と短気な彼のそばへ行くと、その背は私より少しだけ高かった。勝ち誇ったように笑うつり目の奥はなんとも珍しい緑いろである。透き通る翡翠の瞳に、息をのむ自分の顔が映りこんでいる。よく見ればざっくばらんに切られた少年の髪も、緑がかった黒で不思議な色合いをしていた。

「見ておれ。いまからこの境内の桜をぜんぶ落としてやるぞ。それ!」

 少年が扇子をひと降ろしすると、強風が後ろから桜へと吹き抜けた。目の前にある木が一本、桜の花びらをすべて落とされ、枝だけの姿に変わる。取られた花はそのすぐ後に頭上から大量に降ってきた。紙吹雪のように軽やかで奇跡みたいに美しい。手のひらを伸ばすと簡単にふたつみっつと花びらが掌中へ収まった。

「すごいっ……!」

 夢中になる私の横で少年はこちらに目もくれず、一心不乱に次から次へと花を落としていた。

「ええい忌々しい! どれだけ咲けば気が済むのだ、とっとと散れ!」

 真横にいる私のことなど忘れたように悪態をつき、彼はばっさばっさと風を起こしては花を散らせていく。なにか桜に恨みでもあるのか、心底憎たらしいといった雰囲気だ。はじめは少年のことを興味深く観察していた私も、しばらくすると舞い落ちてくる花びらの方へ気をとられていた。

 髪や服に大量の花びらがくっついて、足元のコンクリートはピンク色で埋もれている。

 見上げると、空の面積より桜の花の面積の方が大きくなっていた。

 風にあおられた花弁が雨あられと降りそそぎ、むせ返るほどの花の匂い、肌に触れる柔らかなそれで視界が覆われていく。強風が吹き、前が見えなくなるほどの花びらが一瞬だけ辺りを埋め尽くした。思わず息を止め、反射的に閉じてしまった目を開いた時には風ははやみ、私の目の前から少年の姿は消えていた。

「あれ?」

 後に残されたのは空を舞う大量の花びらと、丸裸にされた桜の老木だけだ。

 ひらひらと空から落ちてくる桜もしだいに数を減らして、元の静かな神社の境内へ戻っていく。

 私は足元に積みあがった桜の花びらを蹴り上げてみた。ふかふかのそれは一瞬だけ小さく舞い上がるけれど、重力には逆らえずに落ちてくる。さっきのように綺麗に空へ舞い上がったりはしない。なにか特別なものを逃してしまったようで、少しだけ残念な思いで境内に留まっていると、両親が迎えに来てくれた。泣いている母と極度に疲れた顔をした父に抱きしめられ怒られて、私は二人が方々を探し回ってくれたことを知り、申し訳なくなった。




 家に帰った後のことだ。眠る前に母に神社で会った少年と、起きたことの一部始終を伝えると、母は顔を曇らせ、それがハナチラセ様であると教えてくれた。

「ハナチラセ様?」

 町に古くから伝わる風神で、春先に花を落として回るのがお役目らしい。私はもう少し詳しく話を聞こうとして、母の憂い顔を見て口をつぐんだ。

(なにか隠したいことがあるみたい)

 私の両親は心配性なのだ。特に母の過保護ぶりは度を越しており、私に必要がないと思った情報は覆い隠されてしまうことがある。経験則からそう学んでいた私は、ハナチラセ様にはなんの興味もないふりを装った。安堵した顔の母に普段通りの振る舞いをみせるかたわらで、それからは少しずつこっそりと『ハナチラセ様』についての文献を漁った。

 学校の図書館にこれといった資料はなく、国語辞典にも『ハナチラセ様』なんて書かれていない。友達に聞いてみても誰からもめぼしい情報がえられないので、仕方なく図書館へ足を運んだ。

 「地域の歴史」と書かれたコーナーから大人向けの分厚い本を取り出して、読めない漢字がつらつら並んでいる中の「神」という単語のみを探していく。

「ハナチラセ様、ハナチラセ様……」

 あった。

 机の上に山と積み上げていた本の一冊に、地域の祭神の項目があったのだ。

(『風守神、華首落御風之男神』?)

 読めない。幸いなことに小さく仮名で読みがふってある。『かぜまもりがみ、はなくびおとしみかぜのお』とある。ハナチラセ様とは書かれていないが、地域の神様についてはこれしか記載がないし、おそらくこれが正式名称なのだろう。その神様についての説明は次のたった二行に収まっていた。


——毎春、四月二十九日に現れるこの風神は、古くより土地の死をつかさどる神として祀られてきた——


 私はその文章を読み理解して、どうして母がこの話をしたがらなかったか悟った。

 私の体はぜい弱だ。小さい時には何度か死の淵をさまよったこともあり、母は死という単語に敏感なのだ。私の心臓は特に悪く使い物にならない。近いうちに入院しなければならないと、母から心配げに言われたばかりでもある。

(ハナチラセ様は……)

 死をつかさどる神、つまりは死に神なのだろうか。とてもそんな風には思えない。死に神というのはおどろおどろしい格好の骸骨姿で、首狩り鎌を持っているのではないのか。私が見たのは少し変わった格好の、自分と同じ歳くらいの少年だった。

(『ハナチラセ様は毎春、四月二十九日に現れる』)

 私はその一文をしっかりと頭に刻みこんだ。きっとあの少年が司るのは「花の死」なのだ。風を起こして春先に、美しく花首を落とすのがお役目の風神様。

 四月二十九日という日が、私の中で誕生日よりも特別になった瞬間だった。



 ハナチラセ様に会うために一年待った。

 その間に私は年をひとつとり、冬を越す前に手術をすることが決まった。

 入院をして検査をし、冬に手術を無事終えた。けれど私の体はまったく良くならない。むしろ前よりひどくなっている。

 病院から自宅に戻り、支障なく生活できるくらいに回復してからも、両親の顔色はすぐれない。時々涙をため声を詰まらせる母を見て、私は自らの体の状態を知った。

 私は死ぬのだろうか。「死」とは何なのだろう。その言葉の意味を考えてみたことはあるが、私には曖昧で実感がわかない。なにしろ誰も「死んだことがない」ので、それが何かを聞こうにも分からないではないか。

(ハナチラセ様なら知ってるかも)

 あの少年は神様だ。死に神ではないかもしれないが、神様ならそれが何か、どういったものか聞けば答えてくれるかもしれない。去年の春、私はただ純粋に「ハナチラセ様」にもう一度会いたいと考えていた。冬をひとつ越えてみて、あの少年に会いたいという気持ちは強まったが、その動機は不思議と変わってきている。

 私は万全の体勢で四月二十九日を迎えた。こっそりと抜け出せるように靴まで準備して、両親が寝静まった頃合いを見計らい、自室のベッドに人型にクッションを詰め込んだ。私の部屋は幸いにも一階で、庭に面した大きな窓がある。それをそっと開けてパーカーを羽織ると、誰にも見つからないように家を出た。

 一年前に少年と会った神社は家から坂を上ったところにある。去年は苦にもならなかったその登り道が今年はかなりこたえている。ぜぇはぁ息をきらし、ようやくまだ遠くにある神社の鳥居が見えてきた時だ。

 突如、強風がふいた。

 ごう、と身を竦ませるほどの疾風が坂上から降りてきて、疲労ですでによろついていた私へ直撃した。

「きゃっ——!」

 私は風に簡単に押された。後ろで踏ん張ろうとした足が空を切り、足元の階段を踏み外した。

(しまっ……)

 落ちる。背中から宙に投げ出される感覚にぎゅっと目をつぶったが、いつまでたっても衝撃がこない。恐る恐る目を開けてみると、私の体は宙に浮いていた。

「うろちょろと目障りな! お主、誰の許可をえて儂の通り道をふさぎおるか!?」

 目の前にあの少年が立っていた。一年たってもその姿は変わらない。気の強そうな緑のつり目に勝気そうな口もと、不機嫌そうな眉。

 少年が片手をひらつかせると、宙に浮かんでいた私の身はゆっくりと地へ降りていく。

 改めて彼を正面から見てみれば、その背は心なしか小さくなっているようだ。

(いや、私の身長がのびたのか)

 少年はすると何かに気づいたようにこちらをじろりと見て、もの凄く嫌そうな顔をした。そのまま私を無視して真横を早足で通り過ぎていってしまう。坂を下り行く後ろ姿に私は慌てた。

「あ、あの! 待って」

「うるさい、儂は忙しいのだ!」

「〝ハナチラセ様〟っ」

「——なにぃ?」

 坂を下りかけていた足が止まり、キロリと眼光するどく振り返ってきた。その勢いにおされながらも、私はこの機を逃すまいと言葉をつむいだ。

「あ、あなた、〝ハナチラセ様〟……神様でしょう?」

「まったく違うぞ腹立たしい! 誰じゃ、そんな適当な名をつけたのは!」

 カラコロ背の高い黒下駄を鳴らして、少年はこちらへ戻って来た。

「儂は風神、華首落(はなくびおとし)御風男(みかぜの)()ぞ!? いい加減に呼ぶでないわ! ええい腹立たしい!」

 その下駄を履く足が地団太を踏むと、道の両脇に植わっていたモクレンの花が一斉に落ちた。紫の瑞々しい花びらが風にあおられてふうわりと舞う。

「どうして花を落としちゃうの?」

 少年は不愉快さをこれでもかと顔に出して、腰に両手をあてた。

「仕事だ! 毎日毎日、面倒なことこの上ない。次から次に咲き盛りおって花どもめ」

「毎日って……」

 ハナチラセ様に会ったのは、およそ一年前のことだ。彼は一年中、町内の花を落として回っていたのだろうか。首を傾げる私に律儀な神様は威張った態度で、けれど親切にも教えてくれた。

「神の一日は人の一年ぞ、そんなことも知らぬとは物知らずめ……しかしお主は。そういえば昨日も儂のことを見ておったな」

 ふん、と腕組みをしたその顔がにやりとした笑みになる。腰にさしてあった扇子を取り出して、少年は得意げに私を見てきた。

「儂の仕事を手伝うのなら、今日も美技を披露してやるぞ?」

 その言葉に私は勢いよくうなずいていた。きっと花を落とすところを見せてくれるのだ。去年のようにまた散る美しい桜を見せてくれるかもしれない。私が期待たっぷりに坂上の神社をちらりと見やると、片眉を上げた彼は冷たく言った。

「なんだ? あそこの桜はもう終わったぞ。今は他の花を探しておるのだ」

 話を聞いてみると、どうやら彼はこの町内のどこに何の花があるのか知らず、落とすべき花を探してひとり苦労していたらしい。

「一日で人の世は万変する。お主、花がたくさん咲く場所を知らんか?」

 そういうことなら私は役に立てる。こうして私は花が咲いている場所までハナチラセ様を連れて行く「案内役」をおおせつかることになった。




 ハナチラセ様は小うるさかった。

 行く先々で花を見つけては「うっとうしい」「腹立たしい」と散らしていってしまう。

 小柄な少年が両手を広げ歩くだけで、道の両脇に植わるチューリップやたんぽぽ、すみれがヒラヒラ舞った。花びらはただ落ちるのではなく、頭上高くまで風で吹き上げられくるくる落ちてくる。カラフルな花吹雪に見惚れ歩いていると、少年はまたしても怒りはじめた。

「お主の歩みは遅すぎる! ちんたら進みおって、『公園』にはまだ着かんのか!?」

「あ、ごめんなさい。でもまだまだ遠いよ」

 私が案内しようとしている『花咲(はなさき)公園』は去年新しくできたばかりだ。巨大な敷地に何千と桜やチューリップの花が植えられている、まさに花のための公園。ここから徒歩で行くとなると数十分はかかるだろう。それに私はさほど早くは歩けない。少年は腹に据えかねたのか、ついに巨大な扇子を取り出して勢いよく開いた。

「もう良い、儂が運んだ方が早いわ!」

「ぅ、わ」

 ぶわり、と足下から風が吹きあがり、私のパーカーの裾や髪の毛を浮き上がらせた。次の瞬間、私は不思議な空気の塊により宙に持ち上げられていた。目の前で巨大な扇を手にした少年が得意げに笑い、同じように浮かんでいる。

「どうじゃ、儂はすごいであろう?」

「うん! すごいよ浮かんでる!」

 ハナチラセ様は一瞬だけきょとんとした。すぐにふいと背を向けてしまうが、その両耳は心なしか赤い。

「急ぐぞ、時間切れになる」

 前を行くその背はなぜか急いでいるようだった。私は風に運ばれるまま、右へ左へと曲がる方角だけを後ろから指示していく。景色が両脇でびゅんびゅん流れて、猛スピードで進んでいるのに障害物に当たることはない。私はジェットコースターにいまだかつて乗ったことがないが、乗ってみればこんな風に楽しいのかもしれない。その速度を堪能している間に『花咲公園』に着いてしまった。

「ふん。これは大仕事になりそうだ」

 『花咲公園』をひと目見たハナチラセ様は、面倒くさそうに腕組みをした。

 私たちは巨大な緑のオアシス、満開の桜とチューリップが咲き誇る公園を遠く見下ろす形で夜空に浮かんでいた。眼下の公園ではお花見が行われていて、ライトアップされた桜が賑やかに薄紅色に輝いている。

「これを全部散らしちゃうの?」

「なんだ、不満か? 儂の美技を見たかったのだろう」

「たしかにそうだけど——」

 なんだか悪い気がしてきた。公園には桜を酒の肴にして楽しむ人たちが大勢いるのだ。ハナチラセ様は、すると不可思議そうに首を傾げてきた。

「お主、昨日は〝綺麗〟と申したではないか」

「え?」

「昨日、神社で。儂が桜の花を落とすのを見てそう申したであろう」

 おそらく去年、私がハナチラセ様と会った時のことだ。桜の花びらが舞うのを見て、確かに私は綺麗だと言った。少年は「見よ」と公園を顎で指し示す。

「今から一番〝綺麗〟なものを全員に魅せてやるのだ。みな喜ぶであろう」

「それは——」

 違う、と言いかけてやめた。そうかもしれない。

(桜は散りぎわが綺麗なのよね。咲いているのも素敵だけど)

 去年見たあの光景を、私だけでなく公園にいる全員が楽しめるのなら、それはそれで良いかもしれない。あの散る桜はたしかに凄絶な美しさだった。私の顔を見て、彼は「よし」と笑う。

「とくと見ておれよ——」

 ハナチラセ様は巨大な扇に力をこめるようにすうと目を閉じた。水平に掲げた扇を横なぎにして、

「散り降ろせ!」

 と大きくひと振りする。公園の上に巨大な竜巻が現れた。公園中の花という花を風が総なめにして、ピンク・赤白黄色の花弁を巻き込む巨大な風のらせんができあがる。

 渦を巻き吹き上がったそれは、一瞬だけ高くのぼると勢いを弱め、しだいに柔らかくほどけていく。風が自由に四散して、桜やチューリップの花びらを辺り一面に飛ばしていった。

 眼下の公園でお花見をしている人たちから悲鳴と驚きの声が上がって、あとは歓声に変わった。みんな舞い落ちる無数の花を喜んでいるみたいだ。

 私とハナチラセ様は暗い夜空に高く浮かんだまま、並んでその幻想的な光景を眺めていた。水平線に大きくて丸いクリーム色の月が浮かんでいる。普段より巨大に見えるその月の手前を、風に落とされた花びらが無数にひらひら舞っていく。それはえもいわれぬ有り様だったが、凄絶な残酷さもある。散る花の命が――

「死ぬって、怖いのかな」

 思わずぽろりと零れた言葉を、少年の神様はむすりとした顔で受け取った。

「お主が言ったのではないか」

「なに——?」

「落ちる様が〝綺麗〟なのであろう? 桜の花は——儂はな、桜が嫌いだった。桜だけではないぞ。生きとし生ける花というものが大嫌いだったのだ。毎日毎日、奴らは咲いて儂の仕事を増やしおる。花首を落とし終わるまで、儂はおめおめ休むことも出来ぬ。花が憎らしくてしかたなかったのだ……お主に会うまで」

「わ、わたし?」

「ああ。花を落とすのを綺麗だと申したな。儂は今まで、そんな風に花を見たことがなかった。お主に言われ考えて、そうして見て気がついた」

 ハナチラセ様はじっと私の顔を覗きこんできた。透きとおる緑いろの両目がきらりと輝いて、勝気そうな口もとがにやついている。

「儂の仕事も悪くない。花は散り際が美しかろう。お主も中々に〝綺麗であった〟ぞ」

(あ……)

 その言葉は私の中にすとんと落ちてきた。

 なにも怖がることはない、ただ少し残念で悲しいだけだ。

 もう会えない人たちのことを思うと、鼻の奥が一瞬だけつんとした。ぐずつく息をのみこめば、まだかすかに花の匂いが残っている。

 私はなんと言ったものか考えて、結局人生で一番たくさん使った言葉を口にした。

「ありがとう、楽しかった」

「………ふん」

 少年は怒るかと思ったのに、腰に手をあてそっぽを向いてしまった。その白い頬はほんのりと赤い。私はほくほくとした気持ちで、眼下の公園とまだ漂っている桜の花びらを視線で追っていた。柔らかな春の四月二十九日はそうして過ぎていき、やがて月が降りて「明日」がくるだろう。そこに私はいないかもしれないけど、ハナチラセ様がまた、悪態をつきながら花を落としているところを想像すると、なんだか悪くない気はした。


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