最後のチャンス
まだ早朝だというのに、母親のキンキン声が聞こえてくる。下の階で何やら騒いでいるようだ。
クロリッサがわざわざアメリカからイギリスまでやってきたのは両親たっての希望である。特に母親の。
母はフィラデルフィア出身の生粋のアメリカ生まれである。そのため彼女はイギリス人、イギリス社会に対する劣等感がかなり凄い。自分はアメリカ人の貿易商と結婚したのに、娘の私にはイギリス人の身分ある人間との結婚を切望している。
ここでの生活はそう悪くはないが、かなり窮屈で息苦しい。自分で郵便局にいくのも銀行にいくのも許されない。アメリカでそうだったように、ここイギリスでも同じようにしていたら次の日には高貴なるご婦人方の話の種になっている。彼女たちが話すのは、どこそこのご令嬢がどこそこの紳士と結婚することになっただとか、どこそこの奥方がどこそこの旦那様と不倫しているだとか、そんなアホらしいものばっかりである。そんな会話に嬉々として加わるうちの母もよっぽどであるが。
「今朝は珈琲がいいわ。タイムズはあるかしら?」
メイドたちが朝のお目覚めを待ち受けていた。カーテンをひくと、気持ちの良い朝が感じられる。
いつもなら起き抜けにはお水を頂くところではあるが、母の金切り声で起こされた今朝は目がはっきりと覚めない。こんな日は珈琲が一番である。
メイドから新聞を受けとる。年頃の女性はタイムズなんて読んだりはしないだろう。せいぜいタトラーくらいなものだ。母はタトラーがかなりお気に入りではあるが。
「お嬢様、奥様がお呼びですよ」
声をかけてきたのはメイド頭のイングリッド。イギリスの家の使用人はほとんどがこちらで雇った人間ばかりだが、彼女はアメリカから連れてきた。気が利いて何も言わずともこちらの要望を感じ取れる。
「クロリッサ、あなたに招待状が届いているのよ!侯爵夫人から!!」
階段を下りていくと、母が落ち着かない様子でこちらに向かってきた。右の手にはきつく握りしめられているせいでよくわからないが、封筒を手にしている。
「なんのお誘いなの?こんなアメリカ女を誘うなんてろくな用事じゃないわ。もしかしたらクリケットの人数が足りなくて私を加えてくださるのかもしれないわよ。クリケットなら大の得意だからいいけど」
「何を馬鹿なことを言っているの!侯爵夫人はあなたをサー・ウォルズのブライトンのお屋敷でひらかれる狩りの集まりに誘ってくださったのよ!」
サー・ウォルズ。この間の舞踏会で彼のダンスの誘いをお断りした。そしたら次の日から私はイギリスで最も高貴でハンサムな独身紳士の誘いを断った身の程知らずで馬鹿なアメリカ女って噂されるようになってしまった。
まあ確かに彼はハンサムで素敵だったけど、傲慢な感じで自分が一番だと思っているような雰囲気を漂わせていた。あまり好ましい印象はない。しかも私がアデラインと話していたら露骨に嫌そうな顔をしていた。大事な大事なアデラインには、無作法な女が近づいてくるのが許せなかったのだろう。
「いい、クロリッサ。これが最後のチャンスだと思いなさい。この間ウォルズ公爵にあんなことをしてから、あなたに近寄ってくる殿方は一人もいなくなってしまったのよ。」
言われなくてもわかっている。だが、母に話していないだけで私には気になる人がいるのだ。社交界のいけすかない男なんて思われようがどうでも良い。
「荷造りをしなくてはね!服だって新調しなくてはいけないし、靴だって歩きやすいようにいくつかブーツを新しくしましょうか!」
一人で張り切っている母を置いて、朝食の席につく。
「お嬢様、フィッツモーリス伯爵のご令嬢からお手紙が届いております」
かわいらしい薄紅色の封筒は彼女らしい。
親愛なるクロリッサ・リッチモンド様
この間はあなたとお話ができてとても楽しかったです。私はあなたがこちらに来て始めてのお友達ということかしら?そうだとしたらとても光栄だわ!
そうそう、実はあなたにお知らせしたいことがあってお手紙を書いたの。
サー・ウォルズがブライトンのお屋敷でひらかれる狩りの集まりにリチャード氏が来られるみたいなのです!(これってとっても興奮すべきことよ!)侯爵夫人は未婚の女性と男性をたくさん招かれるらしいわ。あなたの愛するリチャード氏がどこかのご令嬢にとられたくないならこの会に来られることをお勧めします。
もしあなたに招待状が届いていないようなら私の方からサー・ウォルズにお願いしてみるわ。
あなたのイギリスでの一番の親友であるアデライン・フィッツモーリス
なんてことかしら・・・!サー・リチャードと知り合いになれる機会がこんな形でやって来るとは。
うかうかはしていられない。アデラインの言う通り、どこかのイギリス女にとられる前に私が彼の心を捕まえなくちゃ!
「お母様!お母様のおっしゃった通り、これが最後のチャンスですもの!しっかり準備をいたしませんと!」
「あら、やっとあなたもその気になってくれたのね!そうこなくっちゃ!あなたに似合う最高のものを用意しましょ!」
彼を誰かにとられてなるものか!私が彼の妻になるのよ!