恋する乙女
頭がかなり混乱している。自分が二十一世紀の現代日本に生まれて、いまの私がいる世界のことを小説で読んでいたなんて。
信じられないような事実を突きつけられると、人間は何もできなくなるようだ。
「とりあえず自分が『求愛の果てに』の中で覚えていることを全部書き出してみるか・・・。」
メイドに紙とペンを用意させる。
『求愛の果てに』の主人公はクロリッサ・リッチモンド。アメリカ生まれの型破りな考え方をする女性である。父親は貿易会社を営んでおり、かなり裕福なようだ。
メアリ・ウルストンクラフトをこよなく愛し、結婚という女性を縛る窮屈な契約を苦々しく思っている。
アメリカでは彼女に求婚する男性はいなかったようで、父親たってのご希望で遠路はるばるイギリスはロンドンの社交界まで花婿探しにやって来たというわけだ。
絶対的な階級社会のイギリス社交界を息苦しく感じている。その最たる人物サイモン・ウォルズ公爵に対しては鼻持ちならない男と当初はかなり嫌っていたが、彼の誠実さに触れて次第に惹かれ合うようになる。
魅惑的なお相手はサイモン・ウォルズ公爵。今のイギリスで最も花婿にしたい独身男性。少しばかり傲慢なところもあるが、ユーモアもあり彼の周りには常に人だかりができる。
かなりのハンサムでプレイボーイ、女遊びに慣れているが、クロリッサのようなタイプの女性とは付き合ったことがなく、最初はかなり敬遠していた。だが、次第に彼女の心の美しさを理解するようになり、いつの間にか愛するようになってしまう。
爵位もイギリス社交界での身元保証人も持たないアメリカ人との結婚は大きな問題が山のようにあったが、困難を乗り越えてめでたくゴールインすることになる。
そして私、アデライン・フィッツモーリス伯爵令嬢。ウォルズ公爵を慕い、次期公爵夫人の座を狙うなかなかにしたたかな女性。小説の中では社交界の華と称されるほどの美貌であったが、今の私に当てはまるかは謎である。
話の最後には、ウォルズ公爵の親友であるリチャード・ボーモンドと紆余曲折を経て結婚することになる。これもハーレクインロマンスお決まりのパターンで、弾かれた者同士、何故か気が合って結婚に至ったりするのだ。リチャードはウォルズにすげなくいなされるアデラインをずっと傍で見守っていた。
思い出せる限りのことを全て書き出してみた。何故自分がいつの間にか『求愛の果てに』の中の登場人物に生まれ変わっているかは謎ではあるが、考えたって仕方がない。世の中には人間には想像もつかない世界があるのだ。神のみぞ知る。
ドアを開けて入ってきたふくよかな女性。乳母のメリル。彼女の身体にはたくさんの愛情が詰まっているのだ。
「お嬢様が椅子に座って書き物なんて珍しいこともあるんですのね。五月のロンドンに雪が降ってしまいますわよ。」
「私だって大人しく椅子に座ることもあるのよ。確かに馬に乗っている方が落ち着くことは否めないけど。」
メリルの腕には大きな花束が抱えられている。色とりどりの宝石のようにきらきら輝く美しい花束。
「お嬢様に宛ですよ。立派な格好の従者がわざわざ持ってきてくださいました。」
「どなたから?」
「サー・ウォルズですわ。まだ社交界にデビューしてもいないお嬢様に、なぜあのウォルズ公爵からお花が届くんです?ばあやに説明してくださいな。」
「体調を崩した私がリージェント・ストリートの書店の前で伯母様が馬車を呼ぶのを待っていたとき、彼が心配して声をかけて下さったの。カードにはなんて書いてある?」
青紫のカードには深紅の上質なベルベットのリボンがかけられている。
「お元気になられることをお祈りして、サイモン・ウォルズと。街で声をかけただけの女性に、こんなにも立派なお花を送る男性はいらっしゃいませんわよ。サー・ウォルズはお嬢様をお気に召したようですわね。」
「そんなことなくってよ。本当にただ心配してくださっただけ。彼は紳士ですもの。」
「サー・ウォルズを知っているかのような口ぶりですこと。」
本当に彼を知っているのだ。前世で読んだ小説の中に彼はいたんだもの。女性には優しい人だ。私なんて、彼が優しくする数多くの女性のうちの一人でしかない。そう考えると胸が締め付けられるように苦しくなってきた。
「サー・ウォルズにお返事を書かれては?」
「なんて書けばいいのかしら・・・。従兄弟のコリンを除いて殿方にお手紙を書くのは初めてよ。」
「まあまあ、お嬢様。こないだまでお転婆さんだったというのに、いつの間に恋する女性になってしまったんです?ばあやの知らないところで大きくなってしまったのですね。素直な気持ちで感謝を伝えればよろしいんですよ。難しい言葉は要りません。」
「こ、恋なんてしてないわよ!
・・・確かに彼はとても素敵な方だったわ。『高慢と偏見』のダーシーのような人。ハンサムだけど、鼻持ちならない男だと思われてしまうような。でも本当はとっても誠実なのよ!」
「お嬢様はダーシーについて話しているんですか?それともサー・ウォルズについて?」
呆れたような顔をするメリル。
「もちろんダーシーについてよ。サー・ウォルズのことはほとんど知らないもの。だけど、彼はダーシーのように誠実で素晴らしい人のように思えたのよ、私には。」
親愛なるサー・ウォルズ様
素敵なお花をどうもありがとうございます。この時期にこれほどのお花を揃えるのは大変なことだったでしょう。中でも私の愛するブーゲンビリアはロンドンでは手に入れるのが難しかったかと思います。コッツウォルズでは大変美しく咲くんですよ。あなたにもあの幻想的な景色をお見せしたいものです。
追伸
体調をお気遣い下さってありがとうございます。すっかり良くなりました。
アデライン・フィッツモーリス