2─命の過去
暗い夜道を一つの小さな影が、夜風を切りながら駆けて行く。
その影の正体は、中性的な顔立ちの子供だ。柔らかそうな薄い茶髪とサファイアのような青い瞳を持っていることから、異国の血が混じっているのがわかる。
折れてしまいそうなほどか細い手足を必死に動かして、その子供は無我夢中になって走っていた。
足がもつれて転びそうになりながらも、走り続ける。目指している目的地などなく、ただ自分を追ってくる影から逃げるために。
アスファルトの地面を蹴る靴音だけが深夜の住宅街に反響している気がした。自分の荒い呼吸と心臓の音が、やけに耳につく。まるで肺が酸素を求めて悲鳴をあげているみたいだ。
──怖い……怖い、怖い…ッ! はやく…早く逃げなきゃ……捕まる…!!
その考えだけが頭の中で何度もぐるぐるまわる。
恐怖と焦りが心を支配していた。
周りを気にしている余裕なんてこれっぽっちもない。
「ッ…!! …っ、はぁ……ハッ」
逃がした獲物を捕らえようと、自分を追いかけてくるあの醜悪な男の気配が間近に迫っている。
息が苦しい。足も段々と重くなってきた。
でも足を止めたらあの男に捕まる。それだけは避けなければならない。もし、奴に捕まって連れ戻されれば、自分がどんな酷い目にあうかなんて考えなくてもわかる。
──あの男と初めて会ったのは、今から遡ること数ヶ月前の夕暮れ時だった
「みこと」
「……はい。何ですか、お母さん」
部屋の隅でいつものように顔を伏せて座り込んでいたら、頭上から気だるげに声をかけられて反射的に顔を上げる。そこには母が腕を組みながら不満そうな顔で自分を見下ろしていた。細い体躯に、緩く巻いている黒い髪を後ろで無造作に纏め上げている。
時計を確認すると、あと少しで母の出勤時間だ。派手な化粧に派手な服装なのは夜の仕事をしているのだから、当たり前。嫌悪感を隠すことなく子供の自分を蔑むように見下ろしてくるのも、いつもの事。
ただ、母から名前を呼ばれたのはかなり久しぶりだったので、つい返事が遅れてしまった。
自分の言動に少しでも気に入らないところがあればすぐに躾と称した暴力を与えられる。いつもならぶたれていてもおかしくはないのだが、今回は母の平手打ちが飛んでくる気配はなかった。
不思議に思っていると、自分の死角になっていた母の後ろから見知らぬ男性が現れたので、驚いて二人を見上げたまま固まってしまう。
自分は母からキツく言い付けられていて、この狭いアパートの一室から出ることが出来ない。もし勝手に外に出ようものなら、どんなお仕置きが待っているのか考えるのも恐ろしいので、火事や地震でもない限り家でじっとしている。なので、他人を見る機会など殆ど無いに等しいのだ。見たことのない男が突然の目の前に現れたことに多少の緊張や恐怖を抱いても仕方がない。
その男性の外見は中肉中背で、顔にもこれといって特徴のない人だった。服だって決してオシャレとは言い難いけれど、当たり障りのない普通の服を着ている。一言で言えば、普通すぎて記憶に残りにくいような人だ。化粧や服装の派手な母の隣に並ぶと、よりいっそうその男性は地味に見える。
ただ、自分のことを見下ろしながら、終始ニコニコと微笑んでいるのが印象的だった。
この人は一体誰なのか、と戸惑いながら目で訴えると母は面倒そうに口を開く。
「この人はアナタのお父さんになるのよ」
「え……おとうさん?」
実父は自分が産まれてまだ間もない頃、愛人と共にこの家を出ていって、そのまま行方知れずになったと聞いていた。母がお酒を呑んだ後はその事を何度も何度も呪詛のように繰り返し呟いていたので、よく覚えている。
だから、何故今更その単語が母の口から出てくるのか、理解が追い付かなくてオウム返しのような受け答えになってしまった。
驚きに目を丸くしていると、その男性は前に歩み出て自分へ右手を差し出す。急に手を近付けられて、いつもの癖でつい両腕で自分を庇うように身構えてしまった。でも、そんな自分にも絶えず笑顔を向けてくれていて、この人は自分のことを叩かない人なんだ…と少しだけほっとする。
その男性に倣って自分もおずおずと右手を差し出した。
「よろしくね、みことちゃん」
ほぼ無表情の自分とは違い、彼は笑顔で握手をしてくれる。
笑顔の作り方を知らない自分にとって、それはなんだかとても羨ましいことのように思えた。
その男性は、居川剛と名乗った。
母の再婚相手…ということらしい。
籍を入れた後、その居川さんの家に三人で暮らすんだと言われた。そんなことをいきなり言われても、物心ついた頃からずっと母と二人きりの生活だったのだ。自分が赤の他人と一緒に暮らすなんて、考えたこともない。それに、ほんの少しだけしか会ったことのない人をお父さんと呼ぶのには抵抗があった。
母だって、裏切られてもまだ父のことを深く愛している筈なのに、何故再婚の話を了承したのだろうと疑問に思う。自分は一番近くにいたから知っているのだ。
当時まだ十代だった母は親と絶縁して駆け落ち同然に父と結婚し、自分を身籠った。これで愛しいあの人を永く繋ぎ止めることが出来ると思ったのに、どうして私からあの人は離れて行ってしまったのか。きっと全部、産まれてきたお前のせいなのだと幾度も責め立てられ、その度に殴られた。
母の、父に対する執着は異常だった。
憎くて仕方ないのに、外見が父に似ているというだけでその子供を捨てることが出来ず、手元に置いて軟禁するくらいには未練があるのだ。母はその行き場のない想いを実の子供への暴力で昇華させていた。
血は繋がっていても、物心がつく頃には既に居なかったから自分の父の顔は知らない。写真すら見たことがないからだ。外国人で、母が病的に愛している人ということしかわからないけれど、話を聞く限り髪や瞳の色は自分と父は全く同じらしい。
確かに日本人である母の長い髪や瞳は深い黒色をしている。自分とは全く違う色だ。母が自分を見ると苦しそうに顔を歪めるのは、きっと父を思い出すからなのだろう。
その母の想いを知っているからこそ、不思議だった。
父が居なくなった後もずっと辛いままなのだと言ってヒステリーを起こしてばかりいたのに、いきなり再婚だなんて母は一体どうしてしまったのか…
その再婚話には、いまいち自分の腑に落ちない点が多いように思えた。
──しかし、その疑問が解決した時にはもう何もかもが手遅れになるだなんて、その頃の自分は想像もしていなかった
居川さんが家に来る少し前から、母の様子が変わっていくのを薄々感じてはいたのだ。けれど、自分の身を守るために相変わらず部屋の隅で母を怒らせないよう、じっと息を潜めていることしか出来なくて、ただ時間だけが過ぎていく毎日が続いた。
ずっと何年間も変わらなかった日常に少しずつ違和感が生じている。そう初めに感じたのは、母が誰も居ない空間に向かって話しかけているのを見た時だ。
ただの独り言であれば、またいつもの愚痴だろうと特に気にかけることもなかったのだが、その時はどう見ても母はまるで見えない誰かと会話をしているかのような口振りだった。電話をしている訳でもないのに、一人で話している。それも、とても嬉しそうに微笑みながら。滅多に笑う事のない母の笑顔を見る事ができて嬉しい筈なのに、その光景に何故だか寒気を覚えた。
それから、目に見えて母は日に日に痩せ細っていった。元々痩せ気味の体型だったが、それでも女性らしい膨らみはあったのに、あっという間にガリガリという表現が似合うような身体になっていた。
そして、いつも見えない何かに怯えるようになり、終いには仕事も辞めて家から出なくなってしまった。
誰が見ても、これは異常だ。
母の身に何かが起こっているのは確かだが、父親も親戚も友人すらいない子供の自分では相談できる相手もいないし、どうしたらいいのかわからない。こういう時に頼れる大人が周りにいれば…と考えた時、ふと自分の頭に居川さんが浮かんだ。まだ一度しか会っていないけれど、母の婚約者であるあの人なら助けてくれるかもしれないと僅かな希望を抱いた。
連絡先がわからなかったので、こっそり母の携帯電話を借りて居川さんの名前で登録されている番号に電話をかける。数回の呼び出し音の後、低い男の人の声が電話口から聞こえてきた。
『はい、居川です』
「…あの」
『もしもし?玲子さん?何、もう無くなったの?困るよ、この間の分もまだ、』
「……すみません、私…みことです」
『えっ…あ、あぁ!!なんだみことちゃんか!いやぁびっくりしたな…それ、お母さんの携帯だよね?どうしたの、何かあった?』
「実は…相談したい事があって…」
母のことで、と告げると一瞬の間をあけて『ごめんね、今は手が離せないんだ。ちょうど君の家の近くだから後で直接そっちに行くよ』という返答があった。母の状態を考えれば本当なら今すぐ話をしてしまいたかったが、忙しいなら仕方ないと了承の意を伝えてから電話を切る。
初めは子供の自分ではなく母から電話をかけてきたと勘違いしていたようだけれど、いかにも面倒そうな刺々しい声色で母の名前を口にされて少しだけ驚いてしまった。居川さんが途中まで言いかけた話の内容も気になるが、電話の相手が母ではないとわかると一変してまるで取り繕ったように優しげな口調になったのも気になる。結婚を望んでいる恋人に対して普通あそこまで冷淡な態度をとるだろうか。
ただ、男女間のことは子供の自分にはわからないし、たまたま今は喧嘩をしていただけなのかもしれない。だけど、よく考えたら婚約者がこれだけの状態になっていて何一つ気付かない、若しくは見て見ぬ振りをしている、なんてことが有り得るのか。
やはり、何かが引っ掛かる気がしてならない。あの人を本当に信用しても本当に大丈夫だろうかと不安になってきてしまった。
色々と考え込んでいたら、まだ自分が母の携帯電話を握りしめていることに気付いた。勝手に借りたことが母にバレると自分の身が危うい。どんな暴力を受けるかは母の気分次第だが、意識を失うほど殴られる事もあるからだ。
母はまだ自室に籠っている筈だから、気付かれないようにこの携帯電話をさっさと元の場所に戻してこなければ…と居間の出入口のほうに振り向いた瞬間──目にした光景に、自分はその体勢のまま凍り付くことになる。
視線の先には、包丁を持った一人の女がいた
.