1─君と僕が出会った日
─これは売れっ子作家と
親の愛を知らない子供の
運命の出会いのお話──
『中川はるか先生』とは、ここ数年で若者を中心に人気を博している有名な小説家である。乙女の甘酸っぱい青春ラブストーリーから背筋の凍るような恐ろしいホラーまで様々なジャンルを執筆しており、そのどれもが世間に高く評価されている。
ただ有名な作家であるにも関わらず、中川先生の性別や年齢、経歴等について情報は一切公開されていない。故にそのミステリアスなところも含めて話題になっている人物だ。
その正体については、絶世の美女だとかダンディーなおじさまだとかファンの間で議論されることもしばしばあるが、実は平凡な青年だったりする。
本名は御子柴悠一。
20代半ばの独身男性だ。
若くして作家として成功を収めた彼は、周りの人間から見れば羨ましくも思えるだろう。
普段であれば優しく人当たりの良い好青年で通っており、艶のある黒髪や端正な顔立ちに加えて身長もそれなりに高いため、近所のおばちゃんに大人気だったりする。
しかしこれは“普段通り”であればの話だ。
では今、彼はどこで何をしているかというと…
自宅であるマンションの一室でゴミに埋もれていた。
大量のゴミ袋に、執筆の資料と思わしき本や、まだ洗ってないであろう衣類などが山積みになっている真ん中で彼は大の字で寝ている。髪はボサボサで服はヨレヨレ、髭も生えっぱなしである。好青年の見る影もない。
実は彼、炊事洗濯掃除等の家事が全く出来ないダメ人間なのだ。
これが大人気作家『中川はるか先生』の嘘偽りのない正体である。
立派なゴミ部屋と化した床の上で悠一は爆睡していた。近くにあるパソコンは電源が付いたままで、この暗い空間で唯一の光源となっている。
現在は午後10時過ぎ。
その時、悠一の寝息以外は何も聞こえない部屋に突然ピンポーンと来訪者を報せるチャイムが響いた。その音にピクリと反応を示すが、悠一の意識を完全に覚醒させるには至らない。いまだに夢の世界をさ迷っていると、またさっきと同じ音が悠一の耳に届く。しかし寝返りを打っただけで、やはり起きない。
チャイムが鳴ったのはその二度だけだったが、暫くしてから丁度自身の耳の横に置いてあるスマホの着信音が大音量で鳴り出したのには流石に驚いて飛び起きた。
「うわぁっ!!え、何!?」
起き抜けのため頭は若干混乱していたが、寝ぼけ眼を擦りながら液晶画面を確認すればそこには橘薫の文字が表示されている。
彼は悠一の高校からの友人であり、親友と呼んでいい程度には気の置けない仲だ。今も交流がある友人は薫くらいのものである。
こんな時間に何の用かと通話ボタンを押すと鳴り響いていた着信音は消えたが、代わりに怒りを抑えたような低い声がスマホから聞こえてきた。
『ちょっと悠一、アンタ今どこで何やってんのよ』
「え?…うーんと、家で寝てたみたいだけど…」
『はぁ?こんな時間にこの私を呼び出しておいて自分は寝てた、ですって…?』
「呼び出した?僕が、薫を?…んー全然覚えてないや……もしかして君、寝ぼけてたんじゃない?も〜お茶目さんだなぁ薫は!まぁそんなところも可愛いんだけどね?」
『いいからさっさと玄関の鍵開けろや、ぶん殴るぞコラ』
「スイマセン今すぐ開けます」
この友人が怒ると怖いことは長い付き合いで嫌というほどわかっている悠一は、玄関まですっ飛んでいった。
急いで施錠を外してドアを開ければ、そこには少し長めの黒髪の間からまるで女性のように長い睫毛に縁取られた切れ長の目を覗かせる長身の男性が、腕を組んで仁王立ちしており、尚且つ青筋を立てている。
これはマズイ。確実に怒っている。原因は多分、いや絶対に自分だろうという確信がある。
薫は黙っていれば誰もが振り返るイケメンモデル顔負けのルックスでありながらおネエキャラという強烈な個性の持ち主だが、怒ると男口調に戻るのだ。それがより怖さを増長させる。
「私を待たせるなんていい度胸してるわね…悠一?」
「いやほんとふざけてスイマセンでした寝ぼけてたのは僕のほうでした」
平謝りした後、悠一がスマホの発信履歴を確認したら30分前確かに自分から薫へ電話をしていた。
薫が言うには、今にも死にそうな声で「うぅ…薫、助けて…このままだと僕餓死する…」と訴えられて一方的に電話を切られたらしく、心配して弁当や飲み物をわざわざ持ってきたというのに本人にそんな覚えはないと言われたらそれは腹も立つだろう。
お礼にお茶でも淹れるから上がってよ、と軽い気持ちで薫を部屋に招き入れたが更なるお叱りを受けることになると想像もしていなかった悠一は、まだ寝ぼけていたのかもしれない。
案の定、リビングは目も当てられない光景だった。
見渡す限りゴミの山である。
「ちょっと何なのこの部屋!?」
「あー…実は仕事の〆切ヤバくてさ、少し前まで修羅場ってたから暇がなくて、つい」
「つい、で済む惨状じゃないわよ!!というか部屋だけじゃなくてアンタの格好もだらしないったらないわ!!」
「返す言葉も御座いません…」
自分の情けなさに苦笑するしかない悠一の腕を引っ張って、こっちに来なさいと強制的に椅子に座らせた薫は、テキパキと手際よく何かの準備を始めた。最後に散髪用の鋏を持つと慣れた手付きでボサボサになっている悠一の髪を切りながら整え、伸ばしたままの髭も綺麗に剃ってやる。あっという間に悠一は見違えるほどの変身を遂げた。それを見て薫も満足そうに頷く。
このマンションからさほど遠くないところにある美容室で、それなりに名が知れている美容師として働いている薫にとってこれくらいのことは朝飯前なのだ。
「おぉ…流石はカリスマ美容師だね」
「当然!私の手にかかればこんなものよ!」
「ありがとう薫、さっぱりしたよ」
「あんなダッサイ格好は私の美意識に反するの。あとは自分で風呂入って掃除しなさいな。そこまで面倒見きれないわ」
「うん。そういえばここ数日殆ど何も食べてなかったからお弁当も持ってきてくれて助かった」
「……そのままだとアンタいつか本当に餓死するわよ」
「あはは、そうならないように気を付けるよ」
悠一への届け物と散髪等を済ませた薫はこんな不衛生なところで飲食するなんてごめんだわ、と結局お茶も飲まずにさっさと帰ってしまった。
お礼を言いながら薫を見送った悠一は、とりあえず寝る前に寝室のゴミだけ片付けてしまおうと、寝室のゴミ袋やしわくちゃになった衣類をリビングに移動する。リビングは余計狭くなったが明日片付けるから何も問題ないと自分を納得させ、薫が好意でくれたお弁当でお腹を満たすとご機嫌なままシャワーを浴びに行く。そしてシャワーを済ませて戻ってきてからある重要なことに気付いた悠一は、その場で膝をついて頭を抱えた。
「な…っ!?そんな、僕としたことが…まさかビールを切らしていたなんて…!!」
冷蔵庫を開けたまま衝撃を受けている悠一には、シャワーのあとに飲むビールは最早習慣となっていることだった。他人にとってはかなりどうでもいいようなことだが、悠一にとっては一大事である。いつもは冷蔵庫の半分以上が缶ビールに占拠されている筈が、仕事で煮詰まってしまってからは全く買い出しに行けていなかったのだ。
それからの悠一の行動は早かった。
先程までのヨレヨレとした服ではなくちゃんとした服をタンスから引っ張り出し、髪を乾かして財布を片手にいざコンビニへ。
それなら初めから人に頼まないで自分で食料調達に行けばいいだろう、と誰もが思うところである。
自宅から徒歩5分のところにコンビニがあり、眠気による欠伸を噛み殺しながら歩き慣れた道を進んで行く。
もうすぐ日付も変わる時間帯なので車や人通りも少なく、街灯が無ければ辺りは暗闇に包まれてしまうくらい灯りは殆どない。
別に幽霊が怖い訳でもないし、悠一は優男に見えても10代の頃は薫と二人でつるんで色々と無茶をしていたので、優しげな見た目を裏切ってケンカは強かった。
「あの頃はほんのちょっとやんちゃだっただけなんだよ」と笑顔で悠一が過去を振り返ることがあるけれども、それを聞いた薫が「一人であれだけの伝説をつくっておいて何がほんのちょっとなのよ…」と呆れ顔をするのはお決まりのことである。
一体どんな伝説があるのかは割愛するが、つまりは誰に絡まれようとも自分が負ける可能性は低いと思っているということだ。
しかし、やはり梅雨時は空気がじめっとしており、自分しか人がいないこの道はどことなく気味が悪いような気がして、無意識に二の腕を手のひらで擦った。
暫く歩いてから曲がり角が見えてきて、あそこを左に曲がれば目的のコンビニだ、と悠一が気を緩めた時に少し離れた後方あたりから小さな足音が駆け足で自分に近付いて来ているのがわかった。足音から察するに、こちらに駆けてくるのは恐らく子供。だが、こんな夜遅くに子供が出歩いているのはいくらなんでも不自然だ。
家出か迷子だったら交番まで連れて行かないとな…と思いながら後ろを振り返った瞬間、丁度角を曲がって来た小さな影とぶつかってしまった。
「うわっ!?」
「…ッ!!」
道が狭いから曲がってすぐに避けきれなかったのだろうが、悠一も相手が予想よりもかなり早く現れたので反応が遅れてしまった。結果的に二人は衝突してしまい、自分とぶつかったその子供が体勢を崩して転びそうになったのを見た悠一は、咄嗟に細い腕を引いて相手を抱き締めるかたちでそれを回避した。
突然のことに驚いているのか、子供からは何の反応もない。もしや怪我を負わせてしまったのではないかと焦った悠一は、俯いたままの子供の両肩を掴んで自分から離し、目線を合わせるためにしゃがんだ。
「ご、ごめんね…っ大丈夫?怪我はない?」
「……」
「?…あ、もしかしてどこか痛いのかな?それなら手当、を…」
言葉の続きは言えなかった。
それは俯いていた子供が顔を上げた瞬間に、悠一は息をするのを一瞬忘れたから。その澄んだ海を思わせるような美しく神秘的な青い瞳から、目が離せなかったのだ。
色素の薄いベージュの甘やかな髪や、すっと通った鼻筋にぽってりとした小さな唇。子供ながらに顔が整い過ぎていて、精巧な作り物だと言われても疑わないかもしれない。年の頃はおよそ8歳前後くらいだろうか。
しかし、よく見てみるとその子供の体には大小様々な痣や切り傷のようなものがあり、あちこち汚れて破れたままの服の上からでもわかるくらい異様に痩せているように思える。髪も何故か長さがバラバラで、まるで無理矢理切ったあとのようだ。
「君は…」
一体何者で、今までどこで何をしていて、どうしてそんなに酷い格好をしているのか…
どんな言葉をかければ良いものかと考え込んだ悠一が細く頼りなさげな両肩を掴んでいた手の力を緩めると、子供はそれを見計らって何の躊躇いもなく機敏な動きで悠一から離れた。そして一度も言葉を発することも、こちらを振り返ることもなく、そのまま闇の中を駆けていった。
いとも簡単に逃げられてしまったが、たった数秒の出会いでもあの子の姿が頭から離れない。それほどまでに強烈なイメージとして自分の中に飛び込んできた映像だった。
白昼夢にも似た感覚から漸く意識が現実世界に戻ってきた頃、まるでいい加減に目を覚ませと言わんばかりに後ろから右肩にガツンと大きな衝撃があって、悠一は思わず前方へとよろけた。驚いて視線を自分の右横にやると、見知らぬ険しい顔をした中年男性が悠一のことをまるで自身の親の仇でも見るかのように鋭く睨み付ける。
「ぼーっと突っ立ってんじゃねぇよクソが!!」
「え…ちょ、」
悠一対して一言だけ罵声を浴びせると、もうお前に興味はないとばかりに先程の子供が走っていったほうに向かってその男性も走り去ってしまった。一瞬の出来事だったので、ついポカンと呆けて見送ってしまったが、不意にある一つの考えが悠一の頭をよぎる。
─何故こんな夜中に子供があのような姿のまま必死に走っていたのか、そしてその子供が逃げて行った先にあの男も向かっていたのは何故か─
「……嫌な予感がする」
これはただの偶然で、自分の思い過ごしであればそれでいい。
だが…もし、この自分の中で思い至った仮説が事実と合っているのなら、早く追いかけなければ後で絶対に後悔することになる。
そう思った時、悠一は反射的に走り出していた。
名も素性すらも知らぬ二人の後を追って───
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