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その後の医者と患者 後編




 言われた言葉があまりに予想外で、すぐには理解する事ができない。一瞬だけれど、頭の中が真っ白になった気がした。

「え」

 お兄ちゃん先生は、なんと言ったのだろう。賛成できないって、何に対してなんだろう。確かさっきまではわたしの進路の話をしていたはずだから、それじゃ看護師になる事に賛成できないという事なのだろうか。

「ど、して」

 お兄ちゃん先生なら。医療の現場に携わっている人だから、その特殊性と重要性を分かっているからこそ、きっと賛成してくれると思っていたのに。

「由宇香ちゃんが選んだ進路なら、僕も精一杯応援してあげたいとは思うよ。だけど、もしも動機が僕なんだとしたら」

 お兄ちゃん先生の言いたい事が分かり、わたしは慌てて首を横に振る。

「あのね、違うんです。そりゃ、お兄ちゃん先生とお父さん先生のお手伝いができればいいなっていう気持ちはあるけど、それだけじゃないの」

 お兄ちゃん先生の難しい顔が、いくぶん柔らかくなった気がした。

「お兄ちゃん先生は知らないと思うけど、わたし、子供の時から看護師さんになりたかったんですよ。それに近藤医院には春日さんがいるから、これ以上看護師さんはいらないでしょう?」

「いや、まあ、もう一人欲しいところではあるんだけど」

 お父さん先生とお兄ちゃん先生の診察室は、パーテーションで区切られている。それぞれの診察内容が違うから当然なのだが、看護師さんは今は一人しかいないから、両方かけもちの春日さんは大忙しだ。もう一人いた若い看護師さんが今年の春結婚退職してしまったから、人手不足なのは確かなんだけれど。

「でも看護学校って三年あるから。どんなに頑張っても、わたしが看護師さんになれるのはそれよりも先ですよ」

「う」

 お兄ちゃん先生が、答えに詰まってしまった。どうやらそこまでは考えていなかったらしい。昔からそう。とても頭がいいはずなのに、お兄ちゃん先生はどこか抜けているところがある。かっこよくて優しそうな外見からは想像できないけれど、そのギャップがちょっと可愛くて好きだったりする。

「だから、たぶん、お兄ちゃん先生が思っているような不純な動機で決めたわけじゃ、ないから。だから、賛成しかねる、だなんて言わないでください」

 両親よりもお父さん先生やおばさんよりも。誰よりもお兄ちゃん先生には応援してほしいから。一所懸命にその気持ちを伝えようとしていると、目頭が熱くなって来る。泣くつもりなんかないのに、じんわりと涙が滲み出て来るのが分かった。

「う、うわわわわ。ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないんだけど。って、実はそんなつもりだったんだけど、でもそれは僕の勝手な思い込みで、だから、由宇香ちゃん、泣かないでよ」

 お兄ちゃん先生が目に見えておたおたと狼狽え始めた。

「うん。今まで何も言っていなかったから、そう思われても、仕方ないと、思うんです、け、ど」

「あ、いや、でも、由宇香ちゃんとお付き合いする事になったのはついこの間だし、まあ、僕に相談してくれていなかったのがちょっとだけ悔しかったかなっていうのもあって。でも時期的にそれは無理だったんだろうって、わかってはいたんだけど、ね」

 悔しいって、どうして。

 きょとんとしていると、お兄ちゃん先生の目が泳いでいる事に気がついた。と思ったら、いきなり腕を引かれて、がしっと抱え込まれてしまう。

「うぎゃっ」

 びっくりして上げた声、が自分でも情けない。せめてもっと、きゃあっとか可愛ければよかったのに。

「ちょっと恥ずかしい話をするから、このままで聞いてクダサイ」

「わ、わわわわわかりまし、た」

 ほんとうは恥ずかしいやら照れくさいやらで大変なんだけど、お兄ちゃん先生も大変そうなんだと気がついたから、我慢する事にした。




「さっき僕が言った事、覚えてる?」

 さっきって、どの事だろう。

「由宇香ちゃんが僕のところにお嫁に来てくれるといいな、っていう、あれ」

「あ、は、はい。覚えて、います」

 思い出したら、既に真っ赤になっている顔に余計に熱が集まって来た。

「まあ、それくらい真面目にっていうか真剣に由宇香ちゃんとの事を考えているわけなんだけど。だから、由宇香ちゃんが将来何になりたいとかそういう事を全然知らなかった事が情けなくて、ちょっと悔しかったんだよ」

 ああ、もう。お兄ちゃん先生は、わたしを殺す気なんだろうか。こんなとんでもなく凄い事を、さらりと言っちゃうんだから。それとも、もしかすると気がついていないのかもしれない。だって真剣に真面目に考えているとか、お嫁に、なんて、まるでプロポーズみたいだから。

 もうずっと長い間お兄ちゃん先生に片想いしていたわたしは、嬉しすぎて死んじゃいそうだ。

「もしも看護師になりたいっていう理由が、近藤医院で働きたいから、っていうのだったとしても、たぶん、反対はしないんだけど」

「え。でもさっき、賛成できないって」

 それがショックで逃げ出してしまったのは、つい先ほどの事なのに。

「うん。だからそれは、悔し紛れの言葉って言うか、まあ」

 なんとなくしどろもどろになっているお兄ちゃん先生がおかしくて、わたしは小さく吹き出してしまった。

「あ。今泣いたカラスがもう笑った。っていうか、由宇香ちゃんに笑われると本気で恥ずかしいんだけど」

「だって、お兄ちゃん先生がおかしい」

 可愛いなと思ったのは、言わない方がいいんだろうな、きっと。




 その後少ししてから、お昼ご飯を食べにうちの定食屋に顔を出すと、なんとお隣の皆さんも勢ぞろいしていた。

「あら。由宇香ちゃん、もしかして泣いちゃった?」

 わたしの顔を見たとたん、おばさんがお兄ちゃん先生を睨みつけながら聞いて来た。一応目元を冷やして来たんだけど、まだ少し目が赤かったみたい。ごまかす事もできないから、お兄ちゃん先生とちょっとだけ気まずく顔を見合わせて、小さく頷いた。

「浩行。男のヤキモチは見苦しいぞ」

 お父さん先生も、じっとりとした目つきでお兄ちゃん先生を見ている。

「あらあ。ヤキモチなんて、妬いてもらえるうちが華だもの、女の勲章よねえ」

 母が朗らかに笑えば、父も

「まだまだ青いな、浩行君」

 とにやりと笑った。

「まったく、これで由宇香ちゃんが看護学校に入ったらどうなるのかしらね、このバカ息子は」

「え?」

 おばさんの言葉に、わたしとお兄ちゃん先生が同時に聞き返す。

「ここから通えるところならいいけど、寮に入ったりしたら滅多に帰って来られなく なるでしょう。それに看護学校ってカリキュラムが詰まっているから、実習が始まったらとんでもなく忙しくって、デートしている暇もなくなっちゃうわよ」

 お兄ちゃん先生の顔色が、心なしか悪くなった気がした。

「そのあたりは、由宇香はもう覚悟しているからいいけど。ひろくん、大丈夫?」

「大丈夫、じゃ、ないですね」

 お兄ちゃん先生がじっとわたしの顔を見つめて来る。それから大きな溜息を吐き、父と母に向き直った。

「克俊さん、瑤子さん」

 そこでひとつ、大きく深呼吸。

「由宇香ちゃんが高校を卒業したら、お嫁にください」

 がたがたん! と大きな音を立てて、わたしは椅子から転げ落ちた。アルバイトのお兄さんが手に持ったお盆をひっくり返し、何人か残っていた常連のお客さんたちが食べ物を喉に詰まらせてむせている。

 そしてわたしは、椅子にぶつけた脛が痛いとかそんな事よりも、お兄ちゃん先生の口から飛び出した言葉から受けた衝撃の方がよっぽどダメージが大きかった。

 お嫁って、いつかは、って、言っていたんじゃなかったっけ。卒業するのが三月だから、えええええっ。

「あらあ。ひろくんったら男前!」

 母が両手を打ち鳴らして笑い、父がその隣で肩を竦めている。

「浩行、あんた、バカ? お付き合いのご挨拶もしないうちから、何言ってるのよ」

 おばさんの冷静な突っ込みが入り、お兄ちゃん先生が「あ」と大きく口を開ける。

「そっちが先だった。えっと。このたび由宇香ちゃんとお付き合いさせていただく事になりました。ふつつかものですが、よろしくお願いします」

「はい、こちらこそふつつかな娘だけど、よろしく。ついでに結婚の件も了解しました。ねえ、お父さん」

「浩行君なら、気心も知れているしな。まあ、子供は由宇香が看護学校を卒業するまでは作らないと約束してくれるのなら、問題はないんじゃないか」

「そうと決まれば、早く式場を押さえておかなきゃ」

「爺さんと婆さんが喜ぶだろうな」

 あわあわとわたしが何も言えない間にも、親たちが勝手に話を進めてしまっている。当事者のわたしの意思は、この際関係ないらしい。もっとも十年も前からお兄ちゃん先生の事を好きだったわたしが異を唱えるはずもなく、父も母もそれを十分承知しての言動なのだけれど。たぶん。

 転んだままのわたしに手を貸してくれるお兄ちゃん先生は、やっぱり困ったような笑顔。そんな顔をされると、わたしの方が困ってしまう。

「てことなんだけど」

「あ、はい」

 いいのかな。いいんだよね。

 そして大事な事に気がついた。

「あ、あの。ここから通えるところを受験するつもりなんですけど、でもわたし、たぶん、家事とかしている暇はないと思うんです」

 さっきのおばさんの言葉どおり、看護学生は休む暇もないくらいに多忙だと聞いている。春日さんもこっくりと頷いているから、たぶんそうなんだろう。

「そんな事、気にしなくていいのよ。一人分くらい増えたって手間は同じなんだし。とりあえず毎日元気な顔を、このバカ息子とわたしたちに見せてくれれば」

 それだけなら、結婚までしなくてもいいんじゃないだろうか。口には出さないけれどそう思っていたら。

「毎日近くで顔を見ないと、落ち着かなくなりそうかだから。いろいろ心配で」

 こっそりとお兄ちゃん先生が耳打ちして来た内容に、びっくりしてまじまじとその顔を見つめた。

「お兄ちゃん先生って、過保護?」

 囁き返したつもりのわたしの声は、しっかりとおばさんの耳の届いてしまっていたらしい。

「違うわよ。ヤキモチ妬きなのよ。可愛い由宇香ちゃんが知らない男の人に持って行かれちゃったらどうしようーなんて考えているのよ、きっと。ついこの間まで由宇香ちゃんには興味ありません、って顔をしていたくせにねえ。人畜無害そうな顔をしていて、実はむっつり」

「母さん」

 おばさんのとんでもないその言葉は、けれどどうやら図星だったみたいで。お兄ちゃん先生はおばさんをたしなめて、とても嫌そうに表情を歪めているけれど、否定してはいないから。という事は、お兄ちゃん先生はヤキモチ妬きさんでむっつりさんなのか。なんとなく微妙。嬉しすぎておかしすぎて、ちょっと複雑。

 たまらず笑ってしまったら、お兄ちゃん先生がむっすりと拗ねてしまった。

 そしてなんだかんだとバタバタしていて、わたしとお兄ちゃん先生の初デートはうやむやのうちに流れてしまい。

 翌日の日曜からは休みのたびに式場探しやら打ち合わせやらが入り、さらにはわたしの受験勉強が佳境に差し掛かると、二人きりの時間はほとんど取れなくなってしまうのでした。




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