その後の医者と患者 中編
近藤医院を飛び出したわたしは、そのまま隣に建つ自宅に駆け込んだ。どうせ思い切り走ったところで、運動オンチのわたしはきっとすぐに追いつかれてしまう。それならいっそ自分の部屋に、と思ったのだけれど。
お昼のかきいれ時で父も母もお店に出ているから、家の中は静まり返っている。ちなみに住まいは一階のお店の奥と二階全部で4LDKと、三人家族には十分な広さがある。近藤医院の場合はもっと広くて、同じ敷地内の別棟が自宅になっている。
二階にある自室に駆け込んだわたしは、自分の迂闊さを呪った。何ともなれば、ドアに鍵なんて付いていないのだから。
「由宇香ちゃん!」
大きな足音と共に、お兄ちゃん先生がわたしを呼ぶ声が聞こえた。躊躇している場合じゃない、とばかりに、部屋に入ってドアを思い切り閉めた。途端に、ごんっという音と共にお兄ちゃん先生の唸り声が聞こえたから、もしかするとドアに激突しちゃったのかもしれない。
「お、お兄ちゃん先生、大丈夫っ?」
慌ててドアを開けたら、外開きの扉に、またしてもごんっという振動が伝わってきた。
「い、いたたたた」
足元にうずくまっているお兄ちゃん先生は、予想通りおでこと鼻を押さえている。
「きゃあっ、ごめんなさいっ!」
「あ、うん、大丈夫だから」
本当に大丈夫なんだろうか。鼻の頭なんて真っ赤になって、かなり痛そうに見えるんだけど。
「それよりも」
思いがけないハプニングでうっかりすっかり油断していたわたしは、こちらに伸びてきたお兄ちゃん先生の手に気付かなくて。がっしりと両肩を捕まえられて逃げられない状態になってしまってから、しまった、なんて思った。
「なんで、逃げるの」
そう言えばすっかり忘れていたんだけど、何で逃げていたんだっけ? そう考えて、ようやく思い出す。
「だって、お兄ちゃん先生が」
とても迷惑そうな、困ったような顔をしていたから。そしてその原因は多分わたしだと思ったから、いたたまれなくて逃げ出したのだ。
「僕が、なに?」
肩を掴まれているから仕方がないんだけど、お兄ちゃん先生の顔が近い。さっき傷の抜糸をして貰っていた時の方が近かったかもしれないけれど、あれは医療行為だからあまりに気にしていなかったのに。まあ、最後はちょっと焦っちゃったけれど。
思わず体を引こうとしたら、右肩にかかっていた方の手が背中から腰に回されて、しっかりと捕まえられてしまう。
お兄ちゃん先生とお付き合いをする事になるまで彼氏いない暦十八年だったわたしは、こんなに近い場所に男の人の顔があるのも、こんなふうに体ごと捕らわれてしまうのも、ましてやこんなに体がくっつくのも経験した事がない。全く意識しない相手でもきっと困るんだろうけれど、好きな人ともなると恥ずかしいのと嬉しいのとでどうしていいのか対処のしようがなくなってしまった。
かあっと頭に血の気が上り、焦りが焦りを生んで雪だるま式に膨れ上がって思考が麻痺して、まともに考える事さえもできなくなっている。
「そ、その前、に」
「ん?」
「もう少し、離れてクダサイ」
お兄ちゃん先生は少しだけ変な顔をして、逃げ出さない事を条件にわたしを解放してくれた。
わたしの話を聞いたお兄ちゃん先生は、両腕を組んでうーん、と低く唸った。
とりあえず落ち着いて話をしよう、と、わたしの部屋の床に腰を下ろし、向かい合って座っている。わたしはともかくお兄ちゃん先生まで正座で。
「さっき僕が不機嫌になったのは、由宇香ちゃんのせいなんかじゃないからね」
「え。そう、なの?」
「そうなの」
こっくりと頷いているのを見ると、そうなのかーとほっとした。わたしはどうしてか小さい頃から、お兄ちゃん先生の言葉には全幅の信頼を置いてしまっている自覚がある。そのお兄ちゃん先生が念を押してまで言う事なんだから、嘘のはずがないのだ。多分。
「由宇香ちゃんとお付き合いさせて頂く事になりました、って、克俊さんと瑤子さんには、ちゃんと僕から挨拶させて貰うつもりだったんだよ。それを、ほら。母が先に言っちゃったもんだから」
なるほどと納得した。そんな事で不機嫌になってしまったお兄ちゃん先生が、なんだか子供っぽくて可愛く感じられる。
「いま、そんな事くらいで、って思ったでしょ」
「え。いやだなあ、そんな事」
「思ったよね」
「はい。ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいけどね」
再びこちらに伸びてきたお兄ちゃん先生の手に、思わず体が緊張してしまった。そんなわたしを見て、お兄ちゃん先生がにっこりといつもの優しい笑顔を見せてくれて、ぽんぽん、と頭を撫でられた。
なんだか子供扱いされているなと思いながら、気持ちよくてほにゃんと顔が崩れる。お父さん先生の手とはまた違うけれど、お兄ちゃん先生の手にもやっぱり不思議な力があるのかもしれない。なんて事を考えた。
そしてふと思い出してしまったのは、おばさんが言っていた進路の選択肢の話。お嫁がどうとかこうとか。そして思い出してしまったら、ぼんっと顔から火が出るくらいに恥ずかしくなってしまった。
わたしがお兄ちゃん先生のお嫁さんだなんて。そうなればいいなと思わないと言ったら嘘になる。でもまだわたしは十八歳で、一応なりたいものというか進みたい進路もあったりして。何よりも、お兄ちゃん先生と両思いになれてからほんの数日しか経っていないのに。そりゃあ、それこそわたしが生まれた時からのお付き合いではあるのだけれど。
「何、唸ってるの」
どうやら今度は、わたしが唸っていたらしい。
「え。あ、ううん。何でも」
「ないって事はないよね。由宇香ちゃん、僕の話、聞いていなかったでしょう」
わたしが自分の考えに没頭している間に、お兄ちゃん先生は何かを話しかけてくれていたようだ。もちろんわたしの耳に届いていたはずがなく。
「聞いてなかったです。ごめんなさい」
「やっぱりね。ああ、大丈夫だよ、たいした話はしていないから。母の暴言をね、気にしなくてもいいよって言いたかっただけだから」
おばさんの暴言って、何の事だろう。
「お嫁にね。来ませんかっていうあれ、なんだけどね」
どうやら、まさにわたしの思考とどんぴしゃな話題だったらしい。
ああ、もう。お兄ちゃん先生の口からお嫁さんだなんて言われちゃったら、意識しないでいようと思っても無理じゃない。
「勘違いしないでね。僕としては、いつかはそうなってくれるといいなと思っているし、それはもちろん今すぐでもかまわないんだけどね」
うわあ。にっこりと笑いながら、とんでもない事を言われてしまった。て言うか、お兄ちゃん先生がわたしと同じ事を思ってくれている事がとても嬉しい。だからわたしは、こくこくと頷いた。たぶん間違いなく、顔は真っ赤になっている。
「あ、あのね。でもね。わたし、なりたいものって言うか、進みたい道って言うか、そういうのがあるの」
家業の定食屋は、固定客が多いし一見さんもそれなりに来てくれて、まずまず繁盛していると言える。子供の頃からずっと手伝って来たから、定食屋の仕事は嫌いじゃない。一人っ子のわたしは、だから後を継ぐべきなのだけれど。迷いに迷って進路の相談をした時、父と母は、
「店はバイトを雇えば回せるし、将来的には人に譲ってもいい。だから由宇香は気にしないで、今できる事を、今したい事をしなさい」
そう言ってくれた。もちろんそれは両親の紛れもない本心だったのだろう。けれどきっと心のどこかでわたしに継いで欲しいという気持ちがあるのも確かで。だからわたしは、二年生の初めての進路調査の時から、ずっと悩んでいた。
そんなわたしを後押ししてくれたのは、その話を両親から聞いたお父さん先生で。
「子供は、親に甘えられるうちに甘えておきなさい。度が過ぎた我侭なら親不孝だけれど、そんな可愛い甘えなら親孝行だよ」
その時いっしょに聞いていた両親もおばさんも、お父さん先生の言葉に頷いてくれた。だからこそ、おばさんのお嫁云々の話には本当に驚いたのだ。
でも。だから、進む事に決めた。子供の頃からずっと考えていた事。ずっとなりたかったもの。
「あの、ね。看護師さんに、なりたいな、って」
お兄ちゃん先生には初めて打ち明ける、わたしの望み。
なのにお兄ちゃん先生は、かなり困ったような顔をする。困っていると言うよりも、もしかしてちょっと怒っているのかもしれない。そんな複雑で難しい顔。
そしてその口から零れた言葉が信じられなくて、わたしは大きく目を見開いた。
「それは、あまり感心できないね」
お兄ちゃん先生ははっきりとした口調で、そう言った。