その後の医者と患者 前編
「由宇香ちゃん、どうぞ」
名前を呼ばれて顔を上げると、受付のおばさんが診察室の入り口を指差しながら笑顔を浮かべていた。ぺこりと小さくお辞儀をしてから、わたしは半開きになっている診察室のドアを潜る。
背後で看護師さんがそのドアを閉める音を聞きながら、わたしは小さな丸い椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃい。怪我の調子はどう?」
白衣を纏ったお医者様は、いつもと同じ優しい眼差しを向けてくれながら、いつもと同じ言葉でわたしに問いかけて来た。
「ときどき痛くて不便だけど、大丈夫です」
うっかりざっくり切ってしまった指先の傷。定食屋であるうちのお隣で開業医をしている若先生のお兄ちゃん先生に縫って貰ってから、これで何日消毒に通った事か。けれどそれもそろそろ塞がる頃だろう。
指先だから包帯ではすぐにずれてしまうから、と、怪我をした翌日にはネット包帯に替えられている。だから傷を見せるのも簡単だ。
「うん。傷口もきれいにくっついているみたいだね。じゃあ、予定通り今日抜糸してしまおうか」
わたしの大好きなお兄ちゃん先生は、にっこりと笑いかけてくれた。反対にわたしの頬がわずかに引きつったのを見て、小さく吹き出している。
春日さんという名の看護師さんが、かちゃかちゃとピンセットやらハサミやらを載せた小さなトレイを運んで来た。
「怖かったら、目を瞑っているか、どこか他の所を見ているといいよ」
目を瞑っていると怖さが大きくなる気がして、わたしは後者を選んだ。とはいえ何か興味を引く物でもなければ、じっと見ているのも難しい。
「ひゃっ!」
さて何を見ようかなときょろきょろしていると、指先に冷たいものを感じて、咄嗟に変な声を上げてしまった。
「ごめん、ごめん。冷たかった?」
お兄ちゃん先生が持つピンセットの先には消毒用の綿があり、さっき冷たいと感じたのはこれだったのかと得心がいった。
「じゃあ、始めるよ」
その言葉に、慌てて視線を泳がせる。まだどこを見ていようか決めていなかったのだ。
指先に、ぴちん、とハサミが糸を切る感触が伝わり、ますます焦りが大きくなる。そして漂う視線はある場所でぴたりと止まった。お兄ちゃん先生の、頭に。
糸が引き抜かれる時にもたらされる小さな痛みに声を上げるのを我慢しながら、目の前の黒い物体を見つめる。少しくせのあるその髪は、ちょうど軽くパーマリングをしたような感じになっている。お医者様だから長く伸ばす事はできないのかもしれないけれど、決して短くはない今の髪形は、お兄ちゃん先生にとっても似合っているなと思った。
ちくりちくり。そんな痛みを堪えながら、ある物を見付けて思わず口元が緩んだ。わたしよりも十二歳年上のお兄ちゃん先生は、背もずっと高くて、いつも見上げる事しかない。だから多分、目にするのは初めての物。
髪の毛の中に埋もれる事なくそこに存在するのは、真ん中よりも少しだけ右寄りの位置にある、小さなつむじ。あたり前の事だけれど、お兄ちゃん先生の頭が動くたびに一緒に左右に揺れるそれが、なんとも言えず可愛く感じられる。
「はい。終ったよ」
それまで俯けられていた顔がいきなり上向き、至近距離で目と目がばっちりと合ってしまった。
突然の事でとっさに言葉が出て来なくて、結果的に無言でお兄ちゃん先生の顔を見つめる事になってしまう。そしてしっかりすっかり視線を外すタイミングを逃がしてしまった。
「こっちの患者さんは由宇香ちゃんで最後だし、お父さんの方ももう終ったし、そろそろ閉めてしまいましょうか。って、いやだもう、二人で見つめ合っちゃって」
受付を担当しているお兄ちゃん先生のお母さんの、楽しそうなからかい口調で我に返った。
「やだ、おばさん。これはそういうんじゃないんですよ」
「照れない、照れない。今日はこれから二人でお出かけなんでしょ? いいわねえ、初デート」
おばさんの言葉通り、土曜日である今日の午後は、お兄ちゃん先生の家業のお医者は休診になっている。高校生のわたしは、当然の事ながら学校は休みだ。だからこそ午前中の最後の患者になり得たのだから。
そしてこの後、おばさんの言う通り、お兄ちゃん先生と二人で出かける約束をしていた。生まれて初めての二人きりのお出かけはつまり、想いが通じてから初めての外出でもあるわけで。つまりはやっぱりおばさんの言うように初デート、なのかもしれない。
「母さん」
お兄ちゃん先生の声音には、僅かだけれどおばさんに対する非難の色が滲んでいる。
「はいはい。馬に蹴られたくはないから、余計な口は挟みません。でも浩行。うっかりお隣に顔向けできないような事だけはしでかすんじゃないわよ」
「するわけないだろう」
後半部分はちょっと真面目に言ったおばさんに、お兄ちゃん先生が睨みつけるような視線を向けながら不機嫌そうに言った。ついさっきまでにこやかだったお兄ちゃん先生は、今はすっかり不機嫌さんだ。
「まあ、せいぜい暴走せんように気をつけてな」
最後の患者さんの診察を終えたらしいお父さん先生が、ひょっこりと顔を出して来る。
「父さんまで」
怒る気力もないのか、お兄ちゃん先生の肩ががっくりと落ちた。
「お父さん先生、こんにちは」
「はい、こんにちは」
お兄ちゃん先生とよく似た優しい笑顔を向けられ、ほにゃんと頬の筋肉が緩む。お父さん先生には、乳児湿疹とオムツかぶれができた頃からお世話になっている。とても優しくて時々厳しくて、そしてとても頼れるおじさんなのだ。
「今日もお家のお手伝いはいいの?」
春日さんが、思い出したように声をかけてくれた。
「あ、はい。怪我をして手伝えなくなっちゃってから、アルバイトの人に来て貰っているんです。三年生だし、受験があるからこのまま来春まで休んでいていいって父が」
家業の定食屋は、お昼時と夕方からがかき入れ時。平日の昼間だけはアルバイトの人を頼んで、夜はずっとそれこそ小学生の頃から、わたしが手伝いに入るのが当たり前になっていた。友達と遊べないと両親は気にしていたみたいだけれど、のん気なわたしはほとんど気にした事がない。
手伝い中に包丁などで怪我をする事はあったけれど、指先を縫うほどの怪我をした今回は、両親の方から手伝う事を拒否されてしまった。大急ぎでアルバイトを募集して翌日には決まっていたという父の早業に、驚くよりも呆れてしまったという事はわたしだけの秘密。
「進路次第では、春からも無理になるかもしれないんですけどね」
わたしの進路は、実はまだはっきり決めていない。普通なら二年生の時に決めておかなければならないのだけれど、思うところがあって決めかねていた。
三年生になると就職クラスと進学クラスさらには理数系と文系にクラス編成されるのだけれど、一応文系の進学クラスを選択しているし、受験勉強もそれなりにしてはいたのだけれど。
「勉強はいつでもできるけれど、今しかできない事もあるからね。しっかり考えて決めればいいんじゃないかな」
ぽんぽん、と大きな優しい手に頭を撫でられ、やっぱりほにゃんと気持ちよくなってしまう。お父さん先生の手はきっと、魔法の手なんだ。小さい頃からずっとそう思っていた。だってこんなに安心できるんだから。実の父の手でもこうはいかない。
「うちにお嫁に来て貰うっていう選択肢もあるわよ」
語尾にハートがつきそうなほど楽しそうなおばさんの言葉に、ぼっと顔から火が出そうなほど血が上った。
「お、おおおおお、おばさ、んー」
狼狽えながらお兄ちゃん先生に助けを求めるように見ると、思い切り顔を顰めている。
「母さん、なにをいきなり」
「あら。克俊さんも瑤子さんも、いいって言っていたもの」
克俊と瑤子は、わたしの両親の名前だ。
「お、お母さんとお父さん、が?」
「この間、二人がお付き合いする事になったみたいだって報告したら、由宇香ちゃんがそうしたいのならお嫁に出してもいいって」
あの両親は一体何を考えているんだか。でも考えてみれば、両親は母が十七歳で父が二十七歳の時から付き合い始めて、二年後に結婚したのだ。
いや、でも、わたしとお兄ちゃん先生は、付き合い始めたと言ってもまだ二人で出かけた事すらないと言うか、怪我の消毒をして貰いに毎日ここに通っているだけなのだけれど。
「お隣には、僕がちゃんとご挨拶に行くからって、言っただろう」
お兄ちゃん先生は、完全に渋面になっている。そんなに嫌なんだろうか。わたしの場合は単に恥ずかしかっただけなのだけれど、もしかしてお兄ちゃん先生にとっては迷惑な話なのかもしれない。そう思い至り、一気に血の気が引いていく。
「ごめんねえ。でも由宇香ちゃんが娘になるかもって思ったら、嬉しかったんだもの」
そしてそれとは対照的に、おばさんは満面の笑顔。隣で腕組みをしているお父さん先生は、面白そうにそれを眺めている。
でももうわたしの頭の中は、お兄ちゃん先生の不機嫌な顔でいっぱい。お兄ちゃん先生が吐いた溜息にさえ、びくりと体中で反応してしまう。
「由宇香ちゃん、ここが片付いたら、家に迎えに行くから。由宇香ちゃんっ」
お兄ちゃん先生の顔をまともに見る事ができなくて。お父さん先生やおばさんや春日さんの驚いている顔を視線の端っこに捉えながら、わたしはその場から逃げるように走り出してしまった。