医者と患者
「由宇香ちゃん、どうぞ」
名前を呼ばれて顔を上げると、受付のおばさんが診察室の入り口を指差しながら笑顔を浮かべていた。ぺこりと小さくお辞儀をしてから、半開きになっている診察室のドアをくぐる。背後で看護師さんがそのドアを閉める音を聞きながら、わたしは小さな丸い椅子に腰を下ろした。
「うわ。また派手にやっちゃったね」
タオルを巻いて止血しているわたしの左手をちらりと眺め、白衣を纏ったお医者様が溜息を吐く。
「やっちゃったんですよね」
学校が終わってから家業の定食屋の手伝いをしていたわたしは、添えのキャベツを作るべく巨大なピーラーを使っていた。そしてそれを洗っている時に悲劇が起こったのだ。
刃先に絡んだキャベツの屑が気になって、ついうっかり指を横にスライドさせてしまったのが運のつき。ピーラーだって立派な刃物。わたしの左手の親指の腹の部分に痛みを感じたと同時に、赤い血がまな板の上に滴となって落ちて来た。
呆然とするわたしよりも母の方が驚いて、悲鳴を上げた。反対に妙に冷静な父が無言で絆創膏を貼りタオルでぐるぐる巻きにした手際はなかなか素晴らしかった。
そしておもむろに保険カードと財布をわたしに押し付けた父は
「お隣に行って来い」
とのたもうたのだ。
我が家のお隣は個人が経営する小さな開業医。お父さん先生が内科と小児科を、お兄ちゃん先生が皮膚科と外科を、それぞれ専門に診てくれる。
「結構血が出ているね。これはかなり痛いでしょ」
「うん。痛いです」
実際、待合室で待っている間も絶え間なく、じくじくずきずきと傷口が痛みを訴えていた。間に合わせに貼った絆創膏は既に真っ赤で、タオルに血が滲み出ているという状態だ。
「舐めとけば治るかなーとか思ったんですけどねー。お母さんが大げさに騒いじゃって」
「ああ、瑶子さんならそうだろうねえ」
絆創膏をめくって傷口を見るお兄ちゃん先生の顔が、痛そうに引きつっている。怪我をしたのはわたしの方なのに。
「これは舐めとけば治るって傷じゃないよ。ちょっと痛いけど、縫っておいた方がいい」
縫う? 傷を? そんなに深かったのかと驚いて、思わず傷口を自分で確かめたのが間違いだった。
「う。気持ち悪い」
ぱっくりと開いた傷口からは、止血のために手首を絞めているにもかかわらず、未だ血が滲み出ている。余計に痛くなった気がして、わたしは思わず目を閉じた。
「そうそう。そのまま目を瞑っていた方がいいよ。このくらいの傷なら、麻酔するよりもぱぱっと縫い合わせる方が早く済むんだけど。どうする?」
「先生におまかせで」
「了解」
消毒薬がしみた痛みで傷口が麻痺したのか、脈に合わせて襲って来るずきずきする痛みの方が勝ったのか、縫う時の痛みはさほど感じずにすんだ。
「はい。これで終わり。しばらくは指先に負担がかかる事は禁止。明日からは消毒に通ってね」
「はあい」
「でもあれだよね。由宇香ちゃん、色が白いし綺麗な肌をしているのに、生傷が耐えないよね。もったいない」
確かに。子供の頃からしょっちゅう、切り傷や擦り傷でここにはお世話になっていた。当時はお父さん先生が診てくれていたけれど、お兄ちゃん先生が大学を出て研修を終えてここに来てからは、ずっとお兄ちゃん先生が傷の手当てをしてくれている。
「もう、膝も手も傷痕だらけになっちゃっているわよねえ」
ひょっこり顔を出して来た受付のおばさんことお兄ちゃん先生のお母さんが、しげしげとわたしの顔を見ながら溜息を吐いた。もう受付時間が終わっているらしく、待合室には人の気配がない。
「すっかり疵物で、お嫁のもらい手がなくなっちゃうかもー」
わたしは軽い口調で笑いながら、おばさんに答える。お隣さんだし生まれた時からお世話になっているから、とても気安い仲なのだ。
「あらあ、由宇香ちゃんなら大丈夫よ。いざとなったら浩行がいるじゃない」
カルテに何かを書き込んでいたお兄ちゃん先生の手から、ボールペンがぽろりと落ちた。
「えー。でもわたしなんかじゃ、お兄ちゃん先生が迷惑ですよー」
「迷惑だなんて。そんな事あるはずないでしょ。ねえ」
最後の「ねえ」はお兄ちゃん先生に向けられていた。お兄ちゃん先生はボールペンを握り直し、それには答えずにまた字を書き始める。
「あ。でもひと回りも年上じゃ、由宇香ちゃんが可哀想よね」
「あ。それは大丈夫。うちのお父さんとお母さんも十歳離れてるから、そういうのは全然気になりませんから」
今度はボールペンが床に落ちた。
「でもこんな子供じゃ、お兄ちゃん先生が相手にしてくれないですよー」
お兄ちゃん先生よりもひと回り年下のわたしはまだ十七歳で、この春高校三年生になったばかりなのだ。わたしが生まれた時お兄ちゃん先生は小学六年生で、わたしが小学校を卒業した年にお兄ちゃん先生が大学の医学部を卒業した。
「相手が由宇香ちゃんなんだから、大丈夫よ。ねえ」
カルテに押すために手に持ったらしいゴム印が、ころころと音を立てて転がるのが見える。
「だったら嬉しいんですけどね」
今度はゴム印の箱ごとひっくり返った。さすがに見かねて拾うのを手伝おうと、うっかり包帯巻きの手を伸ばす。ずきんと忘れていた痛みを感じ、顔を顰めてしまう。
「こら。けが人は大人しく座ってなくちゃ」
「えー。でも」
「せっかく縫った傷口が開いてもいいのなら、かまわないけどね」
傷口が開く。それはぜひとも避けたい。わたしはじくじくと痛み出した指先を包帯の上から撫でながら、お兄ちゃん先生に大人しく従う事にした。
「そうしていると案外お似合いよね」
せっかく拾い集めたゴム印が、また床に散らばってしまう。
「えー。そうですかあ? えへへ」
「母さん」
お兄ちゃん先生の声が、いつもよりずっと低い。
「さー。今日の診察時間も終わったことだし、春日さん、夕食の用意、手伝ってくれる?」
「はーい。これ以上お邪魔しちゃ悪いですものねー」
楽しそうに声を上げながら看護師さんと一緒に出て行くおばさんを、ひらひらと手を振って見送った。
後に残されたお兄ちゃん先生が、中腰でゴム印を拾いながら盛大な溜息を吐く。
「あのね、由宇香ちゃん。迷惑なら迷惑だって言わないと分からないからね、あの人は」
上目遣いに見上げて来るお兄ちゃん先生の表情が、なんだか子供っぽくて可愛い。
「迷惑なら言いますけど、迷惑じゃないからいいです」
またゴム印が床に散らばった。さっきから同じ事ばかり繰り返して、今日のお兄ちゃん先生はとっても変。
「でもほら。由宇香ちゃんにも彼氏くらいいるでしょう」
「いませんよー。彼氏いない暦十七年ですから」
つまりは生まれてこの方、男の人とお付き合いしたことなどないのだ。全然自慢できることじゃないけれど。
お兄ちゃん先生は、まだ床に落ちているゴム印はそのままに、両手に掴んだ数個だけを机に置いた。最初からそうしていれば、きっともう片付いていたような気がする。
「ほんとに?」
「ほんとです」
お兄ちゃん先生が、顎に手をあてたまま何事かを考え込んでいる。真面目な顔をしている時のお兄ちゃん先生は、とてもかっこいい。たぶん。
「でもほら。告白とかされていたよね」
「知ってるんですか? でもそれ、断りましたから」
確かに高校に入ってから、何度か男の子から告白をされたことはあった。一番最近では、ほんの数日前だ。
でもどうしてお兄ちゃん先生がそれを知っているのだろう。
「彼、子供の頃からの父の患者さんでね。相談を受けていたらしいんだ。でも断ったの? どうして?」
「だってわたし、好きな人、いますから」
この気持ちに気付いてから、もうかれこれ十年越しの片想いだけれど。
「あ。そうなんだ」
「そうなんです」
「だったらなおさら迷惑じゃないのかな。その。うちの母のあれ」
「だから迷惑じゃないっていうか、むしろ嬉しいんですけど」
お兄ちゃん先生の目が、びっくりしたように見開かれた。
「えーと。聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「由宇香ちゃんの好きな人って、だれ? あ、いや、言いたくなかったら答えなくてもいいから」
慌てて両手をぱたぱたと振るお兄ちゃん先生に、わたしはにっこりと笑顔を向けた。胸のどきどきを悟られないよう、必死に平静を装いながら。
「わたしの目の前にいる人です」
数歩後退ったお兄ちゃん先生の足がキャスターつきの椅子に引っかかり、派手な音と共にひっくり返ってしまった。けがをしていなければいいけれど。
「へ、へえ、そう。って、いつから?」
「ずっと前から」
床に座ったままで再び考え込んでしまったお兄ちゃん先生の前に腰を下ろす。幸いにも、痛みをそれほど感じなかったようだ。
「迷惑じゃ、ないんだよね?」
「むしろ嬉しいんですけど」
「あー。うん。そういうことなのか」
「そういうことです」
なぜかお互い正座になって、向かい合って座っている。
「僕は、由宇香ちゃんがいいのなら」
「わたしも、お兄ちゃん先生がいいのなら」
お兄ちゃん先生の顔がだんだん赤くなってきているけれど、わたしの顔もきっと真っ赤だ。
「じゃあ、まあ、ひとつよろしくということで」
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」
冷たい床の上で、膝を突きあわせてお互いお辞儀をして。
顔を上げたら、二人同時に吹き出した。