私の名前は、彼しか知らない。
今、私の眼の前に死体がある。
つい先ほどまでは息をしていて、言葉を喋っていて、なのに死んだ。
私は今、この死体を食べようかどうかで迷っている。
あの日の事は今でも鮮明に覚えている。季節は夏。
その日も私はいつものように、人々から奇怪な眼で見られていた。
「なあなあ。これ、大特価だって」
「え、どれが? ……いや、これはちょっと」
「やっぱり?」
気持ち悪いもんな。
そんな言葉を残して、彼らは私の檻から離れた。
――せめて犬に生まれていればよかったのになあ、と思う。それならたとえペットショップで売られようと、人々からこんな眼で見られないはずだ。「かわいい」とか「飼いたい」とか、そんな言葉をかけてもらえるはずなのに。
残念ながら私は犬でも猫でもなく、化け物だ。
化け物だと卑下しているのではなくて、本当に化け物なのだ。正真正銘の化け物として、『化け物屋』なる場所で売られている。ここに来るまで、そんな店があることも知らなかったけれど。
分類としては『ヒト型』に入るので、一応人間のような形をしている。
ただ、人間とは明らかに違う点がいくつかあるのだ。
まず、腕と脚の一部にうろこがある。脚にうろこ、と言ったら人魚姫を想像されるかもしれないけれど、そんなことはない。爬虫類のような緑色のうろこで覆われた脚は儚げでもなんでもなく、ただ不気味なだけだ。手にはうろこがないから長袖を着ていたら見えないけれど、今はわざと半袖を着せられている。
それから尻尾。これがまた不気味で、ネズミのような尻尾なのだ。大きなミミズを彷彿させる尻尾は、人間の女性が見たら悲鳴をあげる程度に気持ち悪い。これも隠そうと思えば隠せるけれど、店の人間から「隠すな」と指示されているので隠せない。
「うわ。この化け物、目の色やばい。真っ赤じゃん」
「あんまり近づかない方がいいよ。知ってる? 人間を殺した化け物って、目が赤くなるんだってさ」
「ええ!? そんな化け物、売れるはずないよね。ただでさえ気持ち悪いのに」
私の檻の前にいた女性二人組が、そんなことを言いながら隣の檻へと移った。……散々言われてきたことだけれど、何度言われても慣れない。両眼を手で覆いたくなるけれど、それも店から許されていない。
一応言っておくけれど、私の眼は生まれつきだ。『人を殺した化け物の眼は赤くなる』という話は本当だけれど、私は人間を殺したことなんて一度もない。なぜか、生まれつき眼が赤いのだ。
うろこと尻尾だけでも相当不気味だけれど、この眼の色が一番のネックだと思う。おかげで私は、森の中で『化け物屋』の人間に捕まってから今日まで五年間、ずっと売れ残ったままだ。
「ねえ」
檻の前から声が聞こえてきて、私は俯いたまま震えた。俯くな、と指示されていただろうか。覚えていない。少しでも眼を隠せるのなら、俯いたまま一日過ごしたい。
「聞こえてる? 君に話しかけてるんだけど。檻の中の。名前は分かんないけど」
その声に、私は思わず顔をあげた。人間の男性と眼が合う。二十代半ばくらいの男性、としか分からない。スーツを着ているわけではないんだけれど、真面目とか誠実とか、そういう言葉が似合っていそうな雰囲気を醸し出している。
「んー……」
しばらく沈黙が続いたかと思うと、男性はふいに柔らかく微笑んだ。
「やっぱり。君の目」
――また眼の話だ。俯く私に、彼はささやいた。
「あ、だめだよ」
勿体ないから。
それだけ言い残すと、彼はどこかへ行ってしまった。
……勿体ないって、なんのことだろう。
俯いたままぼんやりと考えている私の耳に、先ほどの男性と店員の声が聞こえてきた。
「買います、四番」
「四番って……。お客様、よろしいんですか」
「ええ。現金で」
耳を疑った。四番といえば、私の檻の番号だ。今までコールされたこともなかったその番号を、彼は何のためらいもなく口にした。
この店で化け物を買う人間はゲテモノ好きか、性的な目的で買うことが多い。特に後者が多いらしく、猫と人間を混ぜたような女性型の化け物は一番の売れ筋だった。十代後半から二十代前半に見える女型、という意味では私も需要がありそうだけど、いかんせんこのうろこと尻尾と眼が邪魔だ。
私を性的な目的で買うお客はいないだろうと思う。だとしたら、あのヒトはゲテモノ好きなのだろうか。あるいは、『何かに暴力をふるいたい人』なのかもしれない。化け物に暴力をふるっても法的には一切問題がないので、そういう意味で私達を買っていく客もいた。
化け物を購入した客には「飼育マニュアル」が渡される。私達化け物には「人間に飼われた時のルール」がみっちりと仕込まれていた。人間を襲わない、指示には素直に従う、など。覚えているかどうか不安だ。自分はあの店で死ぬ運命なのだと、ずっと諦めていたから。
錠が外され、よたよたと檻の外に出た私に、彼は微笑んだ。
「行こうか」
「え……」
「うん?」
彼は私の視線の先を見て、笑った。
「俺は気にしないけど……君は嫌かな?」
うろこで覆われた腕に手を当て、俯く。こんな姿で外に出たら何を言われるか分からないし、私の事を買ってくれた彼にも迷惑をかけそうで嫌だった。
「分かった、ちょっと待ってて。すぐここに戻ってくるから」
彼がショップに戻ってきたのは二十分後。彼が下げていた紙袋には、無地の長袖Tシャツとデニム、穴だらけのサンダルみたいな何か(クロックスというらしい)、それからサングラスが入っていた。
一度でも人間に捕まった化け物は、二度と森に帰ることはできない。森に帰れば、仲間だったはずの化け物たちから忌み嫌われ、追い出されてしまう。一度人間の手に落ちた化け物は『人間の味方になった化け物』とみなされ、自分達の情報を人間に売るんじゃないかと思われるからだ。
そんなわけで、彼に「帰りたい場所はある?」と言われても、首を振るしかなかった。残念ながら私の世界は、昔住んでいた森か、先ほどまでいた店くらいしかない。それ以外は未知数で、近づくのも恐ろしかった。
「じゃ、俺の家でいい? 狭くて古くて、おまけに散らかってて悪いけど」
頷くしか、なかった。
……もしも私に「帰りたい場所」があったなら、彼はそこに連れて行ってくれたんだろうかと思いながら。
彼の家はお世辞にも広いと言えないけれど、決して散らかってはいなかった。というよりも、物がなかった。生活するのに必要なものだけを、置いているようだ。
「このアパートさ、幽霊アパートってあだ名がついてるんだ。特にこの部屋は出るんだとか。でも俺、霊感とかないからさー。格安で住める物件を見つけてラッキーだったよ。家族がいるわけでもないし、広さはそんなに必要なかったから」
そんなことを言いながら、彼は靴を脱ぎすてる。私はどうすればいいのか分からなくて、玄関先で立ち尽くした。このアパートは今度から、化け物屋敷と呼ばれるかもしれない。などと、我ながらどうでもいいことを考えた。
彼は玄関にいる私を見て、首をかしげる。
「えーっと、今更だけど、俺の言ってる事分かる?」
「……はい」
「じゃ、あがって。あと、敬語じゃなくていいから」
――人間の指示には、従うこと。
私は穴だらけのサンダルを脱ぐと、彼の家にあがりこんだ。フローリングの床はひんやりしていて、私が歩く度にぺたぺたと音が鳴った。
ヒトには名前がある。化け物にはない。
彼は「ユータ」というらしい。私は
「ツバキ」
彼が私の顔を見ながらそう言って、沈黙して、私はそれが『自分の名前』になるのだと理解するまで十秒ほど時間がかかった。
「ツバキってどう、いや?」
「いえ、大丈夫です」
「敬語」
「あ、うん、大丈夫」
どうしてツバキなの? 思わず尋ねると、彼は笑いながらこう言った。
「君の目の色が、赤い椿みたいだったから。あと、俺の好きな花だから」
椿の花なら、私も知っている。私の眼なんかよりもずっと鮮やかで綺麗な赤色だ。比べ物になんてならないし、椿に申し訳ない気さえする。こういうのを、ヒトは『名前負け』というんだっけ、確か。
「ツバキ。君は、好きなように生きて。嫌になったら、ここから出て行ってくれても構わないよ。俺に気を遣う必要はないし、俺の事を飼い主だと思う必要もない。嫌な言い方をすると、俺は君を金で買った。けれど君の魂まで買ったつもりはない。あくまでも、あの檻から出すために金を払っただけ。あとは、君の好きなようにしていい。勿論ここに住んでくれてもいいし、ね」
彼は店で貰った飼育マニュアルを、ゴミ箱に向かって投げた。が、それは見事にゴミ箱を倒し、中身をぶちまけるはめになった。
バサリと音を立てて床に落ちた飼育マニュアルには、赤字の注意書きがされていた。
『お買い求めいただいた化け物に万が一お客様が襲われた場合、当店では責任を負いかねます。十分にご注意ください』
化け物は人間を食べると、人間になれる。
これは「人間を殺した化け物の眼は赤い」という話を同じくらい有名で、確かなことだ。
人間を食べると言っても、生きている人間でも死んでいる人間でも構わないし、自分で殺す必要もない。ただし死体の場合は、死後半日以内に食べなければ効果がないらしい。
私は、私に背を向け料理をしている人間の方を見た。無防備にもほどがあると思う。これじゃ、いつ私に襲われてもおかしくない。実は彼が超人で、私が背後から近づいた途端に拳銃を取り出すとか、菜箸で正確に私の目を突くことができるとか、そんなのじゃない限り。
――実際、襲うつもりなんて毛頭なかったけれど。
「ツバキー。魚とか嫌いじゃない?」
彼が背を向けたまま私に話しかけてきて、私はびくりと身体を震わせた。彼には見えていないだろうけれど。
「さ、魚? 大丈夫で……大丈夫だよ」
「なんか嫌いな食べ物は?」
「えーっと、ないよ。……あ」
「なに?」
「生玉ねぎが、ちょっと……」
「おお、俺も嫌い。焼いたり煮たりしてるやつは食べられる?」
「うん」
「俺と一緒だなー」
なんてのんきな会話なんだろう。こんな会話、ヒトとしたことない。
「ほい、晩御飯できたよー。なんか朝ご飯っぽい内容だけど」
ご飯と、おみそ汁と、焼き魚と、ほうれん草のおひたし。おひたし以外の食べ物からは湯気が出ていて、作り立てだということをアピールしているようだった。
小さなテーブルに置かれたそれらをまじまじと見ていると、彼が微笑んだ。
「どうどう? 見かけによらず、料理うまいだろ」
私が驚いているのは、そこじゃないんだけれど。
だって私は、
「よし、いただきまーす」
「……いただきます」
私はヒトと一緒に、ヒトと同じご飯を食べるのも、初めてだったんだ。
私が彼の家に住むことについて、彼は文句一つ言わなかった。むしろ歓迎してくれた。
彼はいわゆるフリーターというやつらしい。収入は低いけど、工夫したら結構貯金できるんだよね、と言っていた。ヒトの価値観はよく分からないので、私は私の値段が安かったのかどうかもよく分からない。
どうして私の事、買ってくれたの? と度々思う。彼は私に暴力をふるうわけでも、愛玩道具にするわけでもなかった。まるで人間同士のように、……友達のように接してくれる。
ヒトの価値観はよく分からないと言ったけれどそれは金銭的な話で、私は自分自身に価値があるとは思っていなかった。友達になってもらえるほどの何かを、私は持ち合わせていない。
仕事に行く彼を横目に、私は今日も外に出られずにいた。ヒトに何かを言われるのが、嗤われるのが嫌だった。怖がられることを恐れた。そうやって、今日も引きこもるだけ。これじゃ本当に、彼にとって迷惑なだけだ。
自分にできそうなことを、考えてみる。買い物は却下。それじゃあ料理は? と考えて、すぐに諦めた。化け物が作った料理だなんて、本当に不気味なだけだ。うろこの化け物が作った魚料理だなんて、おかしいにもほどがある。ゾンビが肉料理を作るくらい、怖い気もする。
掃除も考えてみたが、これは彼の好きな家事だ。「少し汚れてるところを綺麗にするのが好きなんだよね」といつも言っていた。……だとすると後は何が残ってるんだろう。洗濯?
考えるだけ考えて、何もしないまま毎日が過ぎた。彼に買われてから三ヶ月経った今でも、私は怖くて外に出られない。私がこの家に住んでいることも、私の名前も、彼しか知らないことだ。せっかく、名前をつけてもらえたのに。
ついでに言うと、私は彼の名前を呼ぶことさえできていなかった。恐れ多い、という表現はおかしいかもしれないけれど、一番しっくりくると思う。
私は大切なヒトに、愛想を振りまくことすらできないのだ。
――やっぱりせめて、犬に生まれたかった。できれば、人間に。
「海に行きたいねえ。泳ぎに行かない?」
蒸し暑い夜、小さなテーブルをはさんで座っていた彼がふいに発した一言。私は思わず辺りを見渡した。当たり前だけれど、家には私と彼しかいない。つまり今の台詞は、私に向かって言ったということだ。
「いや、あの」
「あ、水着なら買うよー。どんなのがいい?」
貰ってきたらしいチラシを広げ始めた彼に、私は首を振る。
「そうじゃなくて、腕とか脚とか……」
「え、ツバキは全然太ってないよ?」
「いやだから、そうじゃなくて」
「んー?」
「だって私、……化け物、だから」
チラシを広げていた、彼の手がとまった。彼の眼は、机に向けられたままだ。私は長袖の裾を引っ張り、俯いた。
居心地の悪い沈黙。けれどもそれは、すぐに破られた。
「それで?」
何事もなかったかのように、彼はチラシ漁りを再開する。「それで?」の意味が分からなくて、私は彼の次の言葉を待った。
一枚のチラシを拾い上げた彼は、ようやく顔をあげた。いつも微笑んでいるイメージのある彼だったけれど、この時だけは珍しく無表情だった。
「人間と化け物、何が違うの? 境目はどこ?」
「どこって……」
「――ツバキ。俺はね、人間の方が怖いと思うよ。化け物というのなら、人間の方がよっぽど当てはまってる」
どうしてそんなこと言うんだろう。いや、言えるんだろう。
私は彼の腕に眼をやった。日焼けした腕には、うろこなんてない。皮膚が緑色だというわけでもない。私から見れば、彼は正真正銘の人間なのに。
私の視線に気づいたのか、彼は自分の腕に眼をやり微笑んだ。
「ツバキ。俺はあの店で、君を選んだ。どうしてだと思う?」
「…………」
「君の目が、他の誰よりも綺麗だったから。なのに、曇っていたからだよ」
――……私の、眼?
誰からも不気味だと言われた、この赤い眼。
「正直ね、目の色はあんまり関係ないんだ。それよりももっと深い部分にある何か。人間ならとっくに汚れて傷ついて、見えなくなってる部分。――君の目は、そこが誰よりもはっきりと見えていて、とても綺麗だった。分かりやすい表現をするなら、君の目は誰よりも純粋だった」
「でも、私の眼……」
「赤色の目をした奴は、人殺しだっていうあれ? 知ってるよ。でもね、君の目は違うかなって思った。確かに赤色だけど、人を殺した奴の目じゃないなって」
息をするのが苦しくなってきた私は、胸に手を当て下を向いた。かすかに衣擦れの音がする。と思ったら、移動してきたらしい彼がゆっくりと私の隣に座った。
「……綺麗だけど曇ってる、って言っただろ」
とても静かな声だった。私が頷くのを確認してから、彼は続ける。
「その曇ってる目を、俺はよく知ってるんだ。――……何もかもを諦めて、ただ死ぬのを待っている目。希望も未来も何もかもを諦めた目。違う?」
当たってる、その通りだよ。
そう返そうとしたのに、うまく声が出なかった。
「……その曇ってる部分が勿体ないなって。せっかくきれいな目をしてるのに、ずっと俯いているのもね。だから、少しでも手を貸してやれないかと思ったんだ」
彼はそう言って、私の頬に手を伸ばした。誰かに触れられるのは初めてで、私はびくりと反応した。
「……君と俺。境目は、なんなんだろうね?」
私の頬を伝うものを拭うと、彼はいつも通りの柔らかな笑みを見せた。
「君の涙も俺の涙も、透明なのにね。ツバキ」
私を抱き寄せた彼の身体は温かくて、なのに「温かい」と言ったのは彼の方だった。
結局海に行く話は却下されたものの、私はいつか胸を張って外に出られるようになりたいと思うようになった。けれどそれはやっぱり、『人間になって』だと思う。今の容姿は、やっぱり化け物だ。彼のように許容してくれる人間は希少で、このままだと生きづらいのが現実なのだ。
彼は相変わらず、私に優しく接してくれる。名前を呼んでくれる。微笑んでくれる。
休みの日は家で一緒にゲームをしたり、料理を教えてくれたり。
彼はいつも笑っていて、私も少しずつ笑えるようになって。
ただ、彼の眼が曇っていることに、私は気付けなかった。
彼は最期まで、「それ」を隠し続けた。
少しだけ冷たくなった風が、窓から室内に入り込んできた。
夏も終わりに近づいたころ。
秋が始まるころ。
『それ』は始まり、そして終わった。
「ごめんな」
窓をあけて夕空を見ていた彼が、わずかにかすれた声を出した。私は窓の外を見る。そこには五線譜のような電線が見えるだけで、誰もいない。となるとやはり、先ほどの言葉は私に向けられたもののようだ。
「何が?」
尋ねると、彼は窓を開けたままこちらを向いた。
「……全部、俺の自己満足で、わがままだったんだよ」
その言葉の意味が分からなくて、私は首をかしげる。彼は微笑んだ。
「ツバキは、人間になりたい?」
「――うん」
「俺はね、死にたいんだ」
どこまでも、さらりと。なんでもないことのように、彼は言った。私は眼を見開く。
「前に、君に手を貸したくなったって言っただろ。……あれはね。半分は本当だけど、半分は嘘なんだ。俺は最初から死ぬつもりで、だけど最後に『誰か』の役に立ちたかった。本当にただの自己満足と自己中心的な考えだけで、君を選んだ」
「どういう……」
「人間を食べた化け物は、人間になれる」
彼は心持ち首をかしげ、微笑んでみせる。「化け物って言葉は使いたくなかったんだけどな」なんてことを呟きながら。
「君と同じように曇ってる目を、俺はよく知ってる。俺自身が『そう』だからね。……死にたい理由なんてない。ただ、死にたいんだ」
彼の言葉が文章になっているのかどうか、それすらも分からなくなっていた。ただ、彼の右手に握られている包丁の鈍い光だけが、鮮明に見えた。
「今からやることも、ただの自己満足でしかない。ただ、最期に誰かの役に立ちたいだけなんだ。君の目から、少しでもその曇りを取り除くことができればいい」
「何言って……」
「俺は死ぬ。君は人間になる。これがきっと、最高のハッピーエンドだって言ってるんだよ」
包丁を首に向けて、微笑む。――彼が何をしようとしているのかなんて、訊かなくたって分かる。止めなくちゃ、と思うのに、思うように足が動かない。
違う。私は、そんなことを望んでいたわけじゃないのに。
「やめ……」
「ツバキ」
彼は私の名を呼ぶ。その声は今までで一番落ち着いて、どこか晴れやかだった。
「俺を食べて、人間になれよ」
私が叫ぶよりも、手を伸ばすよりも早く、彼は自分の首に包丁を突き立てた。
今、私の眼の前に死体がある。
つい先ほどまでは息をしていて、言葉を喋っていて、なのに死んだ。
私は今、この死体を食べようかどうかで迷っている。
食べないままでいるのは、彼に対する最大の裏切りになるのだろうか。
けれど彼を食べて、人間になって、――それで?
彼が何故、死を選んだのか。私には分からない。
彼は最期まで、「それ」を隠し続けた。
ただ、私と出会った時から、彼はこの結末を描いていたに違いない。
化け物でも生きていていいのだと、教えてくれたのは彼だった。
私の眼は綺麗だと言ってくれたのも。
私に名前をつけてくれたのも、名前で呼んでくれたのも、彼だけだ。
化け物でも一人ぼっちじゃないのだと教えてくれたのは、彼だったのに。
私は彼を、救えなかった。
「――……ユータ」
今更、彼の名前を呼ぶ。返事はない。いつものように、微笑んでくれることも。
彼の血が広がっていく床に、ぺたりと座りこむ。
彼は穏やかな顔をしていて、――まるで眠っているようだった。
彼を食べて、人間になって、……それで?
人間になれても、私はまた一人ぼっちだ。
「……ユータ」
力なく、彼の身体を揺する。私の眼と同じ色をした液体が、ぴちゃぴちゃと音を立てた。
赤い眼からこぼれおちる涙は、やはり透明で。
――彼を食べて、人間になって、それで?
人間になって、私は何がしたかったんだろう。