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皇妃さまは艶やかに笑う  作者: 田上 みあ
皇妃さまは今日も華麗に笑う
9/22

◇2

 アスナルト帝国の帝都ロクサーヌから南西に少し進んだところに、アスナルト帝国最大の森林であるウルバキヌが広がっている。帝都ロクサーヌと、帝国の西側にある産業都市ルートベアスをつなぐサーナス街道は、そのウルバキヌを沿うように作られていた。


 ロクサーヌ郊外のそのサーナス街道上を、一台の荷馬車が走っていた。馬車を守るように、周りに数人の者たちが馬に乗って付き添っている。一見商人の乗る荷馬車とその護衛として雇われた傭兵たちのように思えるが、周りを走るものたちの動作は、荒くれ者の集まりである傭兵とは違いどこか洗練されているように見える。


 その荷馬車の中で、一人の女が、隣に座る別の女にとうとう溜まりに溜まった不満をぶちまけた。


「ああ、暇だわ、マリアン!! どうしてこんなにぴっちりと布を閉めているの。これじゃ外の風景も見えないじゃない!」


 帝都ロクサーヌを抜けて数刻、しばらくは我慢していたが、ユスティーナにはそろそろ限界だった。作りのしっかりとした、ユスティーナが普段使う豪華な馬車ならば、ゆったりと寝て過ごすということも可能だっただろうが、彼女が今乗っているのは普通の荷馬車である。平民たちの間でよく使われているそれはお世辞にもしっかりしているとは言い難く、整備された帝都内ではまだよかったが、郊外に来るに従ってその揺れは激しくなっていった。荷馬車内にはユスティーナのためにふかふかの絨毯が何枚もひかれ、その上軟らかいクッションもいくつか置かれていたが、それでも、貴族生活に慣れきっているユスティーナにとって、この荷馬車での旅程は苦行以外の何物でもなかった。その上防犯上の都合で、荷馬車にかけられている布は全てぴっちりと閉じられ、外から中を窺い知ることができなくなっている。当然、中からも外は全く見えない。帝都郊外の美しい風景を楽しむこともできないまま、閉めきられた狭い空間でユスティーナはマリアンと二人、もう何時間も過ごしていた。マリアンのことは大好きだし、彼女との会話はいつもとても楽しいのだが、さすがにそれももう限界だった。精神的にも、それ以上に身体的に、ユスティーナはすっかり根を上げていた。


「もう少しでケアンです、ユスティーナさま。後少しの辛抱ですよ。お身体の方は大丈夫ですか? もう一枚絨毯をひきましょうか」


 その後も何度もおこるユスティーナの不満の爆発に、マリアンは慣れたように彼女をなだめ、いそいそとユスティーナの下に絨毯を敷き直した。こんなことならケアンに行きたいなんて言うんじゃなかった。ユスティーナの心の声であった。しかしここまできてそんなことを言えるわけもなく、ユスティーナはそっとため息をつくと、少しでも痛くない位置に身体を落ち着かせようとごそごそと身体を動かすのだった。


 




 ユスティーナたちが目指しているケアンは、ウルバキヌの少し手前に位置する、知る人ぞ知る温泉街であった。アスナルト帝国で有名な温泉街であるミルレアやピルキスなどよりはその規模や知名度は数段落ちるが、その水質に美肌効果が期待できるのではということで、最近になって密かに知られるようになってきていた。


 アスナルト帝国の国民の例にもれず、ユスティーナもまた、無類の温泉好きであった。帝都ロクサーヌ内には残念ながら温泉は湧いてはおらず、帝都の民たちは帝都内の公衆浴場か、もしくは帝国内の各地の温泉街にまでわざわざ赴いて湯を楽しんでいた。ユスティーナの生まれ育ったロレイン公爵領にはいくつかの温泉街があり、また領主館が建てられているルートベアスにも温泉が湧いていた。その源泉から領主館内にも温泉がひかれており、ユスティーナは毎日のように温泉を楽しんでいたのである。そんなユスティーナにとって、後宮内の湯殿だけで満足できるはずがなかった。そのためユスティーナは、度々、お忍びで帝国各地の温泉街に出向いているのだ。


 今回のケアン行きも、もちろんケアンの温泉目当てであった。ユスティーナがケアンのことを知ったのは、ユスティーナの侍女の話からであった。ケアン出身であったその侍女は、30代も後半にかかろうという年齢であったが、未だにすばらしい美肌を保っていた。確か夫とは死別していたが、子供も数人産んでいるはずである。その美肌に興味を持ったユスティーナが侍女と話をしたところ、ケアンの温泉の件を聞いたのである。皇帝陛下の寵愛などにはなんの興味もないユスティーナであったが、自身の美容にはすこぶる興味を持っていた。ユスティーナ自身も素晴らしい美肌を持っているのだが、美容への追求に終わりなどない。その部分だけは世の女性と何ら変わらないユスティーナであった。しかもユスティーナの大好きな温泉である。これは行かないわけにはいかないだろう、とユスティーナはケアン行きを所望したのであった。


 しかし今回のケアン行きは、今までとは少し趣が違った。それまでユスティーナが訪れていた温泉地は、帝都に比較的近い場所であったし、元々皇族の静養地としての役割を果たしてきた都市でもある場所ばかりであった。だからこそ、ユスティーナは豪奢な馬車に乗り、大量の護衛とともに堂々とその地に乗り込んでいた。今回のケアン行きも、ユスティーナはそうなると思っていた。距離的には少し遠いが、ユスティーナはそもそも、ロレイン領のルートベアスから長い時間をかけて帝都ロクサーヌまで嫁いできた身である。だから少々の旅など大丈夫だろう、とユスティーナは安易に考えていたのだが。


 問題は、ケアンの位置にあった。ケアンの近くには、アスナルト帝国の南東に広がるナリューン山脈がそびえ立っている。ナリューン山脈はアスナルト帝国の領内であったが、そこには、アスナルト帝国が国として成立するよりもはるか昔から山の民たちが暮らしていた。帝国側は山の民たちを支配下に置こうと彼らと幾度となくぶつかり合ってきたが、山を知り尽くしている彼らはいつも帝国軍を翻弄し、数多くの被害を帝国側に与えてきた。結果として、互いに無干渉でいるという今の形に収まったのだが、山の民たちは今でもときどき山の下に下りてきては、帝国の商人たちを襲っていた。


 ケアンは、サーナス街道から少し外れたところに位置しているため、そこに行くためには視界の悪い危険な地域も通らなければならない。そんな場所に、帝国の国旗が描かれた馬車が現れたらどうなるか。山の民たちは帝国民を嫌っていたが、特に皇族たちを憎んでいる。度重なる帝国からの襲撃で、山の民たちも多くの被害を被ってきたのだ。憎むなという方が間違っているだろう。山の民たちがよく出没する地域で、国旗が描かれた馬車が通ったら、それはもう襲ってくれと言っているようなものである。しかも危険なのは山の民たちだけではない。帝国内にはもちろん、盗賊たちも存在するのだ。


 ユスティーナのケアン行きは、こういった懸念から当初は中止されるはずであった。しかし止めろと言われてはいそうですかと納得するユスティーナではない。止められればどうしても行きたくなるのが世の常……というよりユスティーナの常である。ユスティーナは絶対に行くと言って聞かなかった。こうなってしまった彼女を止められる人間など、誰もいないだろう。結局、ユスティーナに甘い、というより頭が上がらないエドヴァルドによって、ユスティーナのケアン行きが許可されることとなってしまった。


 そうして、このこじんまりとした荷馬車での旅となったのである。豪奢な馬車では皇族の誰かが乗っているとばれてしまうし、途中で乗り換えるというのも、帝都から出発した時点でばれてしまう可能性があるため、ユスティーナはこうして完全にお忍びでケアンに向かう形となったのだった。


「マリアンは、ケアンに行ったことがあるの?」


 ユスティーナが退屈紛れにマリアンに質問する。


「いいえ、残念ながら。私はロレイン公爵様のところに奉公に上がらせて頂く前は、ずっと父の屋敷で過ごしていましたから」


 マリアンは、ユスティーナの侍女になる以前は、元々モルトナ子爵令嬢という列記とした貴族の娘であった。モルトナ子爵は代々ロレイン公爵に仕えている部下のうちの一人である。ちなみに現在モルトナ子爵は、マリアンの義兄が継いでいるはずである。父の正妻であるマリアンの母は二人の子供を産んだが、そのどちらもが娘であった。貴族の位は、男子にしか継げない。そのため父は、愛人に産ませた義兄を養子にとって後継者とした。数年前に父が突然亡くなったため、その後義兄がモルトナ子爵を継いでいるはずであるが、マリアンはもう長いこと実家に帰っていないため、詳しいことは分からなかった。義兄ともほとんど会ったことがない。


 話は戻るが、子爵家や男爵家など身分がそれほど高くない貴族の娘たちは、マリアンのように、由緒ある公爵家や伯爵家などに奉公に出されるのが習わしであった。そうして数年働いたあと、結婚適齢期が近づくとどこかの貴族の下に嫁いでいくのである。


「モルトナ子爵家は、セルドランにあったわよね」


 セルドランとは、ロレイン公爵領にある港町の名である。ユスティーナの言葉に、マリアンは嬉しそうに頷いた。


「はい。あの活気に満ちた港町ですわ」


 幼い頃のセルドランでの生活を思い出すと、マリアンは自然と笑顔になってしまう。


「あなたのお父上のモルトナ子爵は、すばらしい執政官だったわね。セルドランが国内でも有数の港町として発展できたのも、あなたのお父上のおかげだと、父も申していたわ。本当に惜しい方を亡くしたわね」


 ユスティーナは、気遣うような笑みをマリアンに向けた。


 マリアンの父である前モルトナ子爵は、セルドランの管理を任されていた。セルドランは元々活気のある港町であったが、アーリアナ海側のハーンやウナセラスの港町には一歩遅れている、という状況であった。それを前モルトナ子爵は、着港税を安くしたり、陸路への乗り換えや積み替えをスムーズに行えるようにしたりすることで他国籍の船を呼び込み、またセルドランの町を船乗りたちに過ごしやすい町に変えたりなどして、セルドランの人気を高めた。結果としてセルドランは、アスナルト帝国内でも有数の港町へと成長していったのである。


「ありがとうございます。公爵様とユスティーナさまにそう言って頂けたら、父も浮かばれるでしょう」


 マリアンは笑顔でユスティーナにそう返した。


 ユスティーナとマリアンが、そうしてロレイン公爵領で過ごしていた時などの昔話で盛り上がっているとき、それは突然起こった。


 ガタガタと揺れながら進んでいた荷馬車が、突然、一段と大きい音を立てて停まったのだ。そして、何事かが起こっていると思われる喧噪。


「一体どうしたと言うの!」


 ユスティーナが突然の急停車に痛みで顔をしかめながら叫ぶ。


「お静かに、ティナさま」


 いつもはユスティーナか皇妃と呼ぶマリアンが、突然自分の愛称を使ったことに気づき、ユスティーナは身体を硬くした。自分の名前を気軽に呼べないほどの、何かが起きた可能性があるということだ。ユスティーナや皇妃の名を使えば、この荷馬車に乗っている女がユスティーナ、つまり皇妃であるということがばれてしまう。


 ユスティーナは、事前に聞かされていた山の民の話を思い出していた。山の民のことはユスティーナも十分知っていた。山の民との戦は、もう何十年も行われていなかったが、小競り合い程度なら多少はあった。一度はロレイン公爵領の方にまで下りてきたこともある。


「外を窺います。ティナさまは奥の方に隠れていて下さい」


 マリアンの言葉に頷きかけた首を途中で止め、ユスティーナは力強く横に振った。


「嫌よ」


 声は抑えられているが、その響きの強さは隠しきれない。


「ティナさま……」


 マリアンは、ユスティーナの強い瞳を見て、彼女を止められないことを悟る。外から聞こえてくる喧噪はまだ止んでいない。今ユスティーナが見つかれば、状況はますます悪くなるだろう。どうしたものかと逡巡するマリアンにかまわず、ユスティーナは彼女を押しのけて荷台の後方部に来る。荷台の後方部入り口をふさぐ布に手をかけながら、ユスティーナはマリアンに言い放った。


「どうしてこの私がこそこそ隠れていなければならないの。ここに隠れていたっていずれ見つかるわ。同じことよ」


 そう言うと、ユスティーナは布を上げ、荷台の外に飛び出していった。



ユスティーナ、はた迷惑な女です。


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