◇1
短いです。
マリアンはいつものようにユスティーナの寝室に足を運び、ユスティーナの寝台の側に立つとそっと声をかけた。
「朝でございます、皇妃さま」
マリアンの言葉に、ユスティーナはしばらくよく分からないうなり声を上げながら寝台の上をごろごろした後、突然パチリと目を開け、おもむろに身体を起こした。
「そうだわ、マリアン」
ユスティーナが寝起きの少し掠れた声でマリアンにささやく。このときのユスティーナの声は少しハスキーで、マリアンは最高にセクシーだと思っていた。
「はい、なんでしょうか、皇妃さま」
マリアンは、ユスティーナに水をついだコップを差し出しながら答える。
「今日は、ディックに会いに行こうと思うの。許可をもらってきてちょうだい」
マリアンから受け取った水を飲み干すと、ユスティーナはいつもの美声でそう言った。ユスティーナの言葉に、マリアンの手が思わず止まる。
「ディック様でございますか……。それは、陛下がお許しになるかどうか……」
言いよどむマリアンに、ユスティーナは笑顔を向ける。
「陛下? 陛下がどうかして? ディックは私の騎士なのよ。私が会いに行くのに、陛下の一体何の許可が必要だと言うの。私がもらってきて、と言ったのは、後宮を出る許可よ」
そう言うと、ユスティーナはさっと寝台から下り、身支度に取りかかった。エディアルドが会いにくるときよりも入念に、楽しそうに、時折鼻歌を歌いながら……。
いや別にディックはお前の騎士じゃないから。
ユスティーナの相変わらずの、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」発言に心の中でつっこみを入れると、ユスティーナの世話を他の侍女たちに任せ、マリアンはしぶしぶ許可を得るためにユスティーナの居室を後にした。
帝宮の敷地内の一角に設けられた軍のための訓練場では、兵たちがいつものように鍛錬に勤しんでいた。訓練場は主に、皇帝やその皇子、皇女たち、そして皇帝の女たちが住まう後宮を護衛することを主な任務とする近衛騎士団と、アスナルト帝国の帝都ロクサーヌを守備することを主な任務とする第一帝国軍の兵たちが使用している。帝国軍は騎士団と正規兵団からなる。騎士団団長と帝国軍団長を兼ねる将軍を筆頭に、将軍の副将の役割を持つ二人の師団長を長におく右翼師団と左翼師団。そしてそれらは連隊、大隊、中隊、とそれぞれ細分化されていく。それぞれの隊の長には騎士団に所属する騎士がつき、それに従うのが歩兵を中心にした正規兵団である。
その第一帝国軍の副将にして右翼師団長であるディック・フィッシャーは、その日の早朝練を終え、朝食を食べに兵舎に戻ろうとしているところで、何やら寒気を感じでぶるりと身体を震わせた。
「おい、どうした?」
ディックと並んで歩いていた、同僚のハンス・ローウェルが、ふいに身体を震わせたディックを見て不思議そうに問いかけた。ハンスは、ディックとともに郷里から出てきた古い友人で、ディックが最も信頼する人間のうちの一人であった。それ故に、右翼師団師団長の補佐である副長を任せている。
「いや、何でもない」
何度も経験したことのある身に覚えのある寒気であったが、ディックは気のせいだと思い込むことにした。気のせいだ、そうに違いない。何度も自分に言い聞かせると、何ともなさそうな顔をして、ディックはハンスにそう返答した。
「そうか? ならいいけど。……それにしても、お腹すいたなあ!」
ディックの様子に首をかしげながらも、ハンスはそれ以上追求せず、話題を変えることにした。ディックが何でもないというならそれ以上は追求しない。
「そうだな。今日は少し訓練に身が入りすぎた」
「いやいや、少しどころじゃねーぜ。ありゃあ”相当”だわ。何人か死んでたもんな」
くつくつと笑いながら、ハンスはそう答える。いつにも増した師団長の様子に、兵たちはみな真っ青になっていた。
「仕方ない。昼の訓練は少し緩めてやるか」
ハンスの言葉に、にやり、とディックか口を緩めてそう答えたとき、その声が聞こえた。
「ディック!」
自分の名を呼ぶその声は、ディックがこの世で最も聞きたくない、悪魔の声。
それは、地方のただの民兵だったディックを、帝都の、しかも腐った貴族どもの巣窟である騎士団に無理矢理引っ張り込んだ張本人の声だった。放り込まれたあと、腐った貴族どもから目の敵にされたディックはしかし、あのクソ女!と張本人を心の中で罵りながらも、生来の負けん気の強さでその貴族どもを蹴散らし、平民でありながら師団長にまで上り詰める結果となる。地方の一民兵として生活しそのまま一生を終えるのだろうと、平民として生まれ落ちた時点で対して上昇志向も持たなかったディックではあったが、この帝国軍での生活は案外楽しく、ディックの性に合っていた。そういう意味で、あの張本人に感謝する気持ちも僅かばかり、ほんのほんのほんの僅かばかり、ないではなかったが、しかしその気持ちを本人に言う気には到底なれるはずもなかった。あんなクソ女に誰が言うか!というのが、ディックの本音である。
「ディック、よかったわ、ここにいたのね」
後ろから呼びかけられた声に、観念して振り返る。そこには案の定、ディックの頭に浮かんだあのクソ女の姿があった。ディックはゆっくりと膝を折って、騎士の礼をとる。隣にいたハンスも、慌ててそれに倣う。
「ご機嫌麗しゅう、皇妃さま」
「嫌だわ、ディック。ティナと呼んでといつも言ってるじゃない」
呼べるわけねーだろ、このクソ女!!
ディックの心の叫びもむなしく……皇妃さまは今日も、華麗に笑う。
ティナはユスティーナの愛称です。
右と左なら左の師団長の方が、立場的には上という設定。
つまりディックは第一帝国軍№3です。
あれ、上過ぎ??