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ユスティーナが皇帝エドヴァルドの下に嫁いできて早や10数年が過ぎていた。
「早いものねぇ」
ユスティーナはいつものようにテラスで午後のティータイムを楽しみながら、考え深げに呟いた。彼女の一番のお気に入りの侍女頭のマリアンが、ユスティーナのカップにハーブティーをつぎ足しながら、彼女の言葉にそっと頷いた。
「本当に、早いものですね、皇妃さま」
彼女たちの目の前に広がるのは、ユスティーナの大好きなユフレリアの花たち。白をメインに、赤や黄色、青と、数種類のユフレリアの花々が美しく並び、ユスティーナの目を楽しませている。
ユフレリアの花は、一年中花をつけることで有名な花であった。そのため、国の常の繁栄を望んだ何代か前の皇帝によって、ユフレリアは帝国の国花とされていた。一年中花を咲かせるというその不思議は未だ解明されてはいなかったが、そんなことはユスティーナにはどうでもいいことであった。大事なのは、ユフレリアの花がいつも彼女を楽しませることができるということ。
数年前に国一番と噂の造園家に整えさせ、熟練の庭師たちが日々ぬかりなく世話をしているこの花園は、いつ訪れても変わりなくユスティーナを喜ばせる。花園を臨むことができるこのテラスでのティータイムは、ユスティーナのお気に入りの時間の一つであった。
耳を澄ませてみても、物音一つ聞こえない。侍女たちがせわしなく仕事をする音も、皇帝の寵妃たちが罵り合う声も、後宮の中の煩わしい音の数々が何も聞こえない。この花園は、ユスティーナだけが入ることを許されている場所であった。もちろん皇帝と、彼女の息子たちだけは例外であったが、彼らがこの場所に来ることはまずない。彼女の怒りを買うことを、彼らがわざわざするはずがなかった。
マリアンは、ユスティーナの傍らに立ち、穏やかな顔でくつろいでいる彼女をそっと見守りながら、この花園を作るきっかけとなった出来事を思い出していた。
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「お目覚めでございますか、皇妃さま」
マリアンは、寝台で半身を起こしているユスティーナにそっと声をかけた。彼女が自分が来るよりも先に目覚めているとは珍しい。マリアンは少し訝しげな表情を見せながら寝台に近づいていった。
ユスティーナは生まれたそのときから、現皇帝の皇妃となることが決まっていた。皇妃とは、その性質上生涯娶らなかった皇帝も存在するほど、安易に決めていいものではない。だからもちろん貴族たちからの反発はすごかった。しかし最終的にはユスティーナの父、ロレイン公爵の力でそれらの反発は押さえつけられることになる。ロレイン公爵家は、巨大な港町を領地にもち、この国の発展に代々貢献してきた由緒ある家系の一つであり、特に前ロレイン公爵であるユスティーナの祖父と、現公爵であるユスティーナの父の代にその権力を一気にのばした。現在ロレイン公爵家に太刀打ちできる者は、この帝国内にはほぼ存在しない。その財力をとっても、政治家としての手腕をとっても、現ロレイン公爵は例え皇帝といえども無碍にできる存在ではなかった。
ユスティーナは未来の皇妃として、大変厳しく育てられたのである。
そうしてできあがった皇妃さまは、何故かこの至極我が儘気ままなお姫様にできあがった。あの厳しい皇妃教育で、どうやったらこんなお姫様が誕生するのだろう。公爵家時代からユスティーナに仕えてきたマリアンであったが、いつまで経ってもその謎は解けなかった。帝国の七不思議の一つだと思うことにする。
「マリアン、外が騒がしいのは何故なの?」
マリアンが寝台に近づくと、ユスティーナは憮然とした顔を隠しもせずに問いかけた。
「おかげで目が覚めてしまったわ。今日は惰眠を貪る日と決めていたのに!」
「皇妃さま、惰眠を貪るなどとそのようなはしたない言葉をお使いになられるのはお止めくださいと、何度も申し上げているはずですが。しかも皇妃さまともあろう方が惰眠などと……」
「うるさいわね。睡眠は大事なのよ! お肌にいいの! 美容よ、び よ う!」
お前は単に寝たいだけだろう!
思わず口から出かかった言葉をなんとか飲み込んで、マリアンは顔をしかめるに留めた。ユスティーナとは長い付き合いだ。主従関係であったが、一人娘であったユスティーナにとって、少し年上のマリアンは姉のような存在であり、またマリアンにとっても、ユスティーナはかわいい妹のような存在であった。実の妹いるけど。
二人は比較的気安い関係であったから、ユスティーナはマリアンの物言いに決して怒ることはないだろうが、というか全く気にもしないだろうが、マリアンは侍女頭のプライドとして口に出すのをぐっとこらえた。侍女頭はこの宮廷に仕える侍女たちの模範となるべき存在である。例えこの部屋にユスティーナと二人しかいないとはいえ、相手は仮にも皇妃さまなのだ。仮にも。
「ところで外の喧噪の件ですが」
とりあえず惰眠発言を流すことにしたマリアンは、何事もなかったようにユスティーナに向けて口を開いた。
「今さらっと流したわね」
ユスティーナのじとっとした視線を感じるが、マリアンは気にせずに続ける。
「寵妃のフレア様とテオドラ様が言い争っておられたようです」
「フレア?」
その初めて聞きましたといわんばかりの顔はなんなのだろうか。マリアンは毎度のことながら、呆れかえる思いを隠せなかった。侍女頭のプライドとか言っているが、彼女も大概ユスティーナの前でその仮面が剥がされていることに全く気付いていない。
「先日寵妃となられました、ハメルーン王国の姫君でございます、ユスティーナ様。我が帝国との友好の証にと一ヶ月程前に後宮に入られまして、皇妃さまにもご挨拶に来られましたが。覚えておられませんか?」
「陛下の女たちのことなんて興味ないわよ。一体何人目なのよ。いい加減覚えておくのも面倒だわ」
寝台から降りながら、ユスティーナは堂々と言い放つ。
「それにしても来て一ヶ月でもう寵妃になるなんて、フレアという女はそんなにいいのかしら。どうせ豊満な身体つきをしているのでしょうね。陛下は巨乳好きですから。それから髪の毛は黒髪かしら? 陛下はエキゾチックな女性が好みですから。少しきつめの顔をしているのではなくて? あときっと経験者ね。よっぽど手練手管の持ち主なのでしょうね。陛下は経験豊富な女性が実はお好き。でもきっとすぐに飽きられる。かわいそうなフレア様!」
散々な言い様である。しかし当たっているから怖い。マリアンは思わず笑いそうになった。ユスティーナにここまで把握されている陛下に対して、である。しかもユスティーナの言ったフレアに関する事柄は、経験者であった、ということを除き、ユスティーナにもほとんど当てはまる。一見均整のとれた全体的にほっそりとした身体つきをしているが、実は脱いだらすごいことをマリアンと、もちろん陛下も知っている。そして奇麗な艶のある黒髪に、黒い瞳。きつめの顔。そのまま、ユスティーナの言う陛下の好みどストライクの容姿である。
他国を併合して領土を広げてきた歴史をもつアスナルト帝国は、元をたどれば二つの民族から成り立っていると言われている。しかしそれも長い年月を経て両民族は混じり合い、今では区別がつかない。それでも皇帝家を含めアスナルト帝国の貴族たちは、元々アスナルト帝国を建国した民族であるいわゆるアースナル民族と言われる、比較的淡い髪色を特徴とした容姿を持つ者が未だに大半を占めている。貴族社会の中で婚姻関係を結んできたため、他民族との交わりが最小に抑えられてきたからだろう。映えるような金髪をもつ皇帝を筆頭に、金髪や銀髪、淡い茶髪などを持つ者が多い中において、異国出身であるロレイン公爵夫人を母に持つユスティーナの美しい黒髪は、他者の目を惹いた。
「それでどうしてテオドラと言い争いを?」
鏡台の前に座り、マリアンに髪を整えられながらユスティーナは尋ねる。
「ユスティーナさまを起こしにくる時間でしたので私もよくは分からないのですが、何やらフレア様のお気に障られることをテオドラ様がなさったとか。テオドラ様は寵妃と言っても近頃は陛下の足も遠のいておられるようですし、近々寵妃の地位を解かれるのではという噂もございますから、後宮でのお立場も悪くなっておられますしね」
今日は後ろに流す感じでいいわ、などとマリアンに注文をつけながら、ユスティーナの口元に一瞬笑みが浮かんだのを、マリアンは見逃さなかった。ああ、来た。来てしまった。マリアンはユスティーナの性格をよく分かっている。この笑みは危ない。危険な香りがする。前回この顔をしたときは何をしでかしたのだったか。
マリアンは、ユスティーナが次に言葉を発するのを、諦めの気持ちをうちに秘めながらそっと待った。こうなった彼女は、もう誰にも止められない。
「テオドラが何をしたのか知らないけれど、フレアとかいう女も、後宮に来てまだほとんど日が経っていないのにずいぶん態度が大きくなったものだわ。それにしても、寵妃だかなんだか知らないけれど、皇妃の居室の近くで騒動を起こすなんて問題よね。少しお灸を据える必要があるのではなくて?」
皇妃さまは今日も、悠然と微笑む。