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世界を救って帰った勇者ですが、娘には「また来てね」と言われました

掲載日:2026/10/10

第一章 五年ぶりの我が家


 世界を救った勇者と呼ばれる男が、実の娘と交わした最初の言葉は、これだった。


「また来てね」


 まだ玄関の敷居をまたいだばかりで、旅靴の泥すら落としていないというのに。


◇◇◇


 故郷と魔王領を隔てる海峡は、出征してまもなく敵に封鎖された。闇に紛れて封鎖を抜ける補給船が、食糧や薬、手紙を細々と届けていた。帰りの船は、戦えなくなった負傷兵を運ぶだけで手いっぱいだった。


 娘が生まれたという便りを受け取ったとき、俺は短い帰郷を願い出た。だが、兵を入れ替えるだけの輸送の余裕はなく、戦役の間、前線の者に一時帰郷は認められなかった。たとえ帰れても、次の補給船がいつ出るか分からず、前線へ戻る日を決められなかった。討伐隊を率いる俺も、隊を離れるわけにはいかなかった。


 帰れないまま、手紙の中の娘は寝返りを打ち、立ち上がり、言葉を覚えていった。


 五年間、ずっと夢に見ていた光景だった。


 魔王を討伐し、荒れ果てた魔王領の残敵掃討と航路の封鎖解除を見届け、ようやく故郷の港に船が着いた。そこから馬を飛ばし、辿り着いた我が家は、出征前と少しも変わらない佇まいで俺を迎えてくれた。


 だが、木製の扉を開けた瞬間、俺の前に現れたのは見知らぬ小さな女の子だった。


 亜麻色の髪を二つに結び、大きな茶色い瞳をぱちくりとさせている。


 リゼットの面影を色濃く残したその子は、板張りの廊下にぺたりと座り込み、木彫りの小鳥を握りしめていた。


 出征したとき、リゼットのお腹の中に宿っていた命。戦場の泥水の中で届いた手紙で、無事に生まれたと知った我が子。四歳と半年になる、俺の娘――ミナだ。


「……ミナ、なのか?」


 肩から降ろした巨大な背負い袋を玄関の土間に置き、俺は思わず膝をついた。


 奥の台所から、濡れた手を前掛けで拭きながらリゼットが駆け寄ってきた。


「ロディン! 本当に……本当に帰ってきたのね!」


 リゼットを迎えて立ち上がると、胸に飛び込んできたその額が、胸当てにこつんと当たった。


「……まず、これを脱いで」


「ああ。今すぐ」


 留め金を外そうとして、二つ続けて順番を間違えた。戦場では目を瞑っていても外せる鎧の金具が、指先で滑る。


 胸当てを床に置くと、今度こそリゼットを抱きしめた。背中へ回った妻の指が、俺の服を一度だけ強く握った。五年分の歳月が、確かな重みとなって胸に伝わってきた。


 身体を離すと、リゼットが足元の娘に向き直った。俺はもう一度、その場にしゃがみ込んだ。


「ミナ、ほら。ずっとお話ししていたでしょう? 遠いところでお仕事をして、魔王をやっつけてくれた、あなたのお父さんよ」


 ミナは小鳥の玩具を胸に抱いたまま、立ち上がった。


 そして、俺の顔と、玄関の隅に置かれた大荷物をじっと見比べた。


 その視線には、警戒というよりは純粋な観察の色があった。時折村を訪れる行商人や、年に一度やってくる教会の巡回神父を見るような、まったく悪意のない、距離のある目。


 やがてミナは、両手を膝の前に揃え、ぺこりと綺麗にお辞儀をした。


「こんにちは。また来てね」


 ……また来てね?


 俺は固まった。


「あ、あのな、ミナ。俺は……」


「ミナ、違うのよ」


 リゼットが苦笑いしながら割って入る。


「お父さんはね、今日はお客さんとして来たんじゃないの。これからは、ずっとこのお家で一緒に暮らすのよ」


「いっしょ?」


 ミナは首を傾げた。その瞳には「よくわからない大人の理屈」に対する困惑だけが浮かんでいた。


 無理もない。この子にとって、父親とは壁に掛けられた似顔絵と、手紙の主でしかなかったのだ。目の前に現れた髭だらけの大男が、今日から突然「家族」だと言われても、納得できるはずがなかった。


「……腹が減っただろう。荷物を片付けたら、買ってきたものを出そう」


 俺はできる限り穏やかな笑みを作って立ち上がった。


 世界を救う戦いより、目の前の四歳児に家族として認めてもらうほうが、はるかに難しい。そんな予感がしていた。




第二章 ミナの宝物


 荷解きをしながら、俺はあらかじめ用意していた切り札を取り出した。


「ミナ、お前に土産があるんだ」


 革袋の奥から取り出したのは、小さな真鍮の小箱だ。蓋を開けると、中から親指ほどの大きさの鉱石が現れた。


 魔王城の地下迷宮、最深部の祭壇で見つけた『星輝石』だ。深い碧色の結晶の中に、無数の星屑を散りばめたような光が明滅している。王都の宝石商なら目の色を変える、国宝級の結晶だった。暗闇でも常夜灯のように淡く輝き、魔除けの効果もある。


 幼い女の子なら、きっと喜ぶはずだ。


「ほら、綺麗だろう。触ってみなさい」


 俺が手のひらに載せて差し出すと、ミナはとてとてと近寄ってきた。


 碧い光をじっと見つめ、人差し指でつんつんと突く。


「きれーい」


 よし、と心の中で拳を握った。


 だが、娘の称賛はそれだけで終わった。感情の起伏の少ない、どこか儀礼的な「きれーい」だった。


 ミナはすぐに興味を失ったように視線を外すと、自分の吊りズボンの右ポケットに小さな手を突っ込んだ。


「これ、みて」


 そう言って小さな手のひらに載せて差し出してきたのは、一個の石ころだった。


 黒っぽい川原の石だ。形は平べったい楕円形で、中央に白い筋が一本、すうっと横切っている。


「……石、だな」


「うん! ミナのいし!」


 娘の顔全体がぱっと輝いた。


「これね、おひさまのところに置いておくとね、ぽかぽかになるの。あとね、ここ」


 小さな指先が、石の表面を撫でる。


「ひよこさんのおしりみたいに、つるつるなんだよ。さわってみて」


「ひよこのおしり?」


「うまれるまえの!」


「……卵か」


 俺は魔王城の祭壇から持ち帰った鉱石を卓に置き、娘の差し出した小石を受け取った。


 指先を滑らせてみる。確かに川の流れで角が削られ、吸い付くような滑らかさがあった。そして何より、ミナのポケットに入っていたせいで、じんわりと温かい。


「本当だな。すごくつるつるしている」


「でしょ!」


 ミナは誇らしげに胸を張ると、俺の手の上で石を指先でくるりと裏返した。


「こっちも、さわって。こっちが、おひさまのほう」


 言われた通りに撫でると、陽光を吸い込んだ石肌は確かにほんのり温かかった。


「あのね、白い線があるでしょ? これ、川の橋なんだよ。ここをね、ありさんが渡るの」


「蟻が?」


「うん。ミナが見たの。落ちないで渡れたんだよ」


 この四歳児にとっては、自分がしゃがみ込んで見つけ、手触りを確かめ、蟻の行進を見守った時間のほうが、何倍も確かな宝物なのだ。


「いい石だな。大事にしなさい」


 小石を返すと、ミナは嬉しそうに両手で包み込み、再び大切そうにポケットに仕舞い込んだ。




第三章 もういっさつ


 その夜、寝支度を整えたあと、俺は名誉挽回の機会を狙っていた。


「ミナ、寝る前に昔話をしてやろう。お父さんが北の雪原で、巨大な氷の狼と戦ったときの話だ」


 ベッドに潜り込んだミナの枕元に腰掛け、俺は胸を張った。


 猛吹雪の中、三日三晩にわたる追撃戦の末、仲間と力を合わせて魔獣を討伐した緊迫の記録だ。


「雪原の風はな、刃のように鋭くて――」


「ふぁあ……」


 開始三行で、盛大なあくびが返ってきた。


 ミナは布団から這い出すと、部屋の隅にある小さな木箱へ向かった。そして、一冊の薄い冊子を抱えて戻ってきた。


「これ、よんで」


 差し出されたのは、角が丸く擦り切れ、背表紙が麻布のテープで補修された絵本だった。


 表紙には素朴な筆致で、エプロンをつけた大きな熊が描かれている。『もりのパンやさん』という題名だった。


「……これを読むのか?」


「うん。これ」


 ミナは当然のように俺の膝の上に座り直した。


 膝に乗った小さな体から、温もりが伝わってくる。玄関で顔を合わせたときよりは、少しだけ距離が縮まった気がして、俺の緊張がわずかに緩んだ。


「よし、任せろ」


 俺は頁を開いた。


 森の奥でパン屋を営む熊の親方が、動物たちのためにパンを焼くという、極めて平穏な物語だった。


 感情を込め、劇的な演出を加えようと試みる。


「――その時! 東の空が白み始めると同時に、熊の親方は叫んだッ!『かまどの火を絶やすなァ! こんがり焼けたぞォ!』」


「……おとうさん、うるさい」


 ミナが両手で耳を塞ぎ、眉をひそめていた。


「あ、すまん」


「くまさんはね、叫ばないの。『ふんわり、焼けたかな』って、やさしく言うの」


「そ、そうなのか。すまない……コホン。『ふんわり、焼けたかな』」


 頁をめくる。狐の親子が買いに来る場面だ。


「そこへ、きつねの親子が――」


 俺は一度、口を閉じた。


 敵襲ではない。客だ。客として読む。


「……『おはようございます、あまいパンをください』」


「そう」


 ミナが満足そうに頷く。よし、合っていたらしい。


 だが、さらに頁を進めると、つい文字を追う速度が上がってしまい、一行読み飛ばしてしまった。


「――こうして森のみんなは、焼きたてのパンを分け合いました」


「まって!」


 ミナが身を乗り出し、俺の指を掴んで前の頁へ戻した。


「ここ、読んでない。『ぽかぽかの、いいにおい』って言わなかった!」


「あ、本当だ……『かまどからは、ぽかぽかの、いいにおいが立ちのぼっています』……これでいいか?」


「うん」


 ミナは再び俺の胸に背中を預けた。


 それからは余計な芝居を打たず、一行ずつ丁寧に、ミナが次の頁を指差すのを待ってからめくった。


 やがて最後の頁を読み終え、熊の親方が眠りにつく絵で行儀よく本を閉じた。


「……ふう。どうだ、ミナ?」


 尋ねると、ミナは膝から降り、すたすたと木箱へ向かった。


 やはり退屈だったか、と肩を落としかけたその時、ぽすん、と膝の上に別の絵本が載せられた。


 表紙には木の実を抱えた栗鼠の絵。『ちいさなどんぐり』と書いてある。


「もういっさつ」


 見上げると、娘が大きな瞳でじっと俺を見つめていた。


「……よし。もう一冊だな」


 俺は姿勢を正し、今度は最初から優しい声を作って、新しい頁を開いた。




第四章 小さな暮らしの手ほどき


 帰還してからの十日ほどは、穏やかに過ぎていった。


 朝、裏庭の井戸から水を汲み上げ、廊下を歩いていると、居間の入り口の柱に目が留まった。


 柱の低いところに、小刀で刻まれたような短い横線がいくつも並んでいる。


「これ、ミナの、ちっちゃかったとき」


 いつの間にか足元に来ていたミナが、見上げて言った。


 一番下の線に、目が留まった。遠い戦地で受け取った手紙に、「ようやく立てるようになった」と書いてあったことを思い出す。


 俺が思わず一番下の線へ指を伸ばして触れると、ミナは俺の手首を小さな指で掴み、少し上へと引っ張った。


「でも、いまは、こっち」


 一番上に新しく刻まれた線を、ぽんぽんと叩く。


「こんなに、おおきいんだよ」


「……そうだな。ずいぶん大きくなったな」


 俺はそこへ指を置き直した。


 その日の朝食の後、ミナが座る子供用の椅子を手入れした。


 座るたびにがたついていたので、工具箱から小刀と木槌を出し、脚を削って長さをそろえ、留め木をしっかりと打ち直す。


 作業をしている最中、背後から忍び寄る気配があった。手元から目を上げずに、俺は声をかけた。


「ミナか」


 ぴたりと小さな足音が止まった。


「なんで、わかったの?」


「この板が教えてくれたんだ」


 俺が床を指さすと、ミナは真剣な顔でその場にしゃがみ込み、廊下の板に人差し指を当てた。


「……しー」


 床板に内緒話の口止めをしてから、娘は立ち上がり、直したばかりの椅子へ腰掛けた。体を前後に二度揺らす。


「おとなしくなった」


 そう言って、座面をぽんぽんと撫でた。


「いいこ、いいこ」


 褒められたのは椅子だった。まあ、直した甲斐はあった。


 数日後、庭で洗濯物を取り込んでいる時にも、小さな出来事があった。


 低めに張った物干し縄に、ミナが干してあった自分の手拭いを取ろうと背伸びをしていた。


 抱き上げようと手を伸ばしかけて、俺はふと足を止めた。


「自分で取りたいのか?」


「うん」


 俺は物干し縄の留め木を緩め、縄の端を少しだけ手元へ下げてやった。


 娘の背伸びした指先が、布の端に届く。


「とれた!」


 胸に大事そうに抱え込むのを見てから、俺は縄を結び直した。


 取り込んだ洗濯物を縁側で畳んでいると、ミナがやってきて手拭いを奪い取った。


「それ、ミナがやる」


 俺が綺麗に端を揃えたばかりの手拭いが、目の前でもう一度広げられた。


 小さな手で一生懸命に折られ、少し斜めに歪んだ四角が出来上がる。俺は何も言わず、そのまま他の洗濯物の山の上に重ねた。


「つぎ、どうぞ」


 誇らしげに手を出されたので、俺は笑みを堪えながら、次の一枚を娘に手渡した。


 別の日の昼前、台所でパンを焼いた。


 小さくちぎって分けたパン生地を、ミナは板の上で手のひらを使って細長く伸ばした。


「へびさん」


「へびか。上手に伸ばしたな」


 かまどに入れ、こんがりと焼き上がる。


 取り出してみると、焼く前よりも生地が膨らみ、蛇はずんぐりと太っていた。


「……へびさん、ふとった」


 ミナは焼き上がったパンを両手で持ち、なぜか得意そうに鼻を鳴らした。


 向かいで見ていたリゼットが、「よく育ったわね」と吹き出した。


「おとうさんも、ひとくち」


 差し出されたパンにかじりつこうとすると、ミナが慌てて引っ込めた。


「ちがう。ミナが、ちぎるの」


 少し待つと、親指の先ほどのパンが、俺の掌にちょこんと載せられた。


 口に運ぶと、香ばしくて甘かった。


「頬に粉、ついてる」


 リゼットが濡らした布を持ってきて、俺の頬を拭いた。


「……もう取れたか?」


「取れたわ」


 そう答えたのに、妻は布を持っていないほうの手で、もう一度だけ俺の頬にそっと触れた。掌の温もりが、くすぐったかった。


 ある日の昼前、台所で食器を片付けていたリゼットに声をかけた。


「ミナの昼飯は用意した。食べた後の片付けも俺がやるから、少し休んだらどうだ」


「……本当に? じゃあ、一章だけ読もうかしら」


 リゼットは食卓の端に伏せてあった本を開き、頁を繰り始めた。


 昼食を済ませ、二人分の食器を洗い終えても、リゼットの読書は続いていた。


 その時、ミナが俺のズボンの裾をくいっと引いた。小さな人差し指を唇に当てている。


「おかあさん、ほん」


「ああ。邪魔しないよう、あっちへ行こう」


 娘に手を引かれ、二人でそっと庭へ出た。


 背後の台所からは、頁をめくる静かな音だけが続いていた。




第五章 明後日の約束


 庭から戻り、居間で並んで座っていると、ミナが俺の右手の甲をじっと見つめ、そこに残る古い太刀傷を、小さな指先でそっと指した。


「これ、いたい?」


「昔の傷だ。もう痛くないぞ」


 ミナはふうんとうなずくと、自分の小さな手のひらを、俺の手の甲の上に重ねた。


 五本の指をいっぱいに広げ、俺の手と見比べる。


「ミナの、ぜんぜん、たらない」


「大人になったら、もっと大きくなるさ」


 そう言うと、ミナは満足したように手を引き、今度は空っぽの木の器を持って立ち上がった。


「おちゃ、どうぞ。あついから、ふーってしてね」


「ああ、ありがとう」


 俺は両手で受け取り、念入りに息を吹きかけてから、喉を鳴らして飲むふりをした。


 ミナは満足そうに頷き、小さな手を差し出した。


「おかわり、いる? こっちは、つめたいの」


「じゃあ、冷たいのを一杯もらおうか」


 大真面目に返すと、娘は嬉しそうに器を受け取り、とてとてと戻っていった。


 夕食後、リゼットが真鍮の小箱から星輝石を取り出し、廊下の水差しの横へ置いた。淡い碧色の光が、薄暗い廊下をぼんやりと照らし出す。


「これなら、夜中に起きたときも足元が分かるわね」


 ミナはその光をしばらく見つめ、部屋の隅から木彫りの小鳥を持ってくると、石のすぐ隣にちょこんと座らせた。


「いしさん、ひとりだと、さみしいから」


 国宝級の石に、小鳥の付き添いができた。俺とリゼットは顔を見合わせて笑った。


 その翌日、庭で遊んでいたミナがつまずいて転んだ。


 俺が手を伸ばすより先に、「おかあさん」と泣き声を上げた。


 駆けつけたリゼットの腕に抱きとめられると、娘は腕の中から俺を見上げた。


「いし、あっち……」


「落としたのか。探してくる」


 草むらを探し、あの黒い小石を見つけて差し出すと、ミナはそれを受け取り、空いた小さな手で俺の袖をきゅっと掴んだ。


 母親を一番に求めながらも、俺のことも頼りにしてくれている。その小さな手の重みが、たまらなく愛おしかった。


 夕方の台所で、洗い物をするリゼットの袖がずり落ちてきた。


 俺が声をかけて濡れた袖を折り上げてやると、リゼットは自然に反対の腕も差し出してきた。


「こっちも」


「ああ」


 その直後、俺が煮込みの終わった重い鉄鍋を持ち上げると、リゼットは何も言わずに、卓の空いた場所へ敷布をさっと敷いた。


 その夜、ミナが寝息を立てたあと、台所で針仕事をするリゼットの前にお茶を淹れて置いた。


「蜂蜜は、半匙だったな」


「今はひと匙よ」


「そうか。覚え直す」


 ひと匙をきっちり量って溶かすと、リゼットは湯気の立つ茶碗を両手で包み込んだ。


「ありがとう。……助かっているのは、家事だけじゃないわよ。向かいにあなたがいるの、まだ少し慣れないけれど、すごく落ち着くわ」


「……あの子が泣くと、まだ何をしたらいいか迷うんだ」


 昼間のことを思い出しながら俺がこぼすと、リゼットは茶碗を見つめた。


「私がいいって言うとき?」


「ああ。父親として、どう接すればいいのか……」


「私も、最初は何も分からなかったわ」


 リゼットは静かに首を振った。


「夜中にミナが高熱を出して泣いていたときなんて、おろおろして、ただ朝が来るのを待つだけで……手紙を抱きしめて、無力さに泣いたこともあったわ」


「……そばにいたかった」


「うん」


 リゼットは小さく頷き、微笑んだ。


「これからは、いてね」


「……ああ。帰ってこられて、よかった」


 それ以上の言葉はうまく出てこなかったが、心の底からの本音だった。


 ふと薪の残りを思い出し、立ち上がろうとすると、リゼットが俺の茶碗を手元へ押し戻した。


「明日の分まであるでしょう。あなたのお茶も、温かいうちに飲んで」


「……ああ」


 俺は座り直した。温かいハーブの香りが、五年の空白をゆっくりと満たしていくようだった。


 村の子供たちが遊びに来て、帰る前には必ず玩具を箱に片付けるというこの家の決まりも、その頃に知った。


 そして、十日目の夕暮れ時。


 庭先の縁側に腰を下ろしていると、ミナがやってきて、俺の右隣の板をとんとんと叩いた。


「ここ、すわっていい?」


「ああ、座りなさい」


 ミナは腰掛けた。小さな肩が、俺の脇腹に触れそうな距離だ。


 ポケットから、あの白い筋の入った黒い石を取り出し、夕日にかざしている。


「これね、川のね、大きな木のそばで拾ったの。大きな岩があって、飛び石がぽん、ぽん、ぽんってあるの」


「東の森の手前のところか」


「うん。お花も咲いてるんだよ。きいろい、ちっちゃいお花。あとね、お水の中にね、あおーい魚がいるの。ミナ、見たんだよ」


「青い魚か。綺麗だろうな」


「うん。……あのね、おとうさん」


 自然に呼ばれた声に、胸が温かくなる。


「あしたのあした、連れてってあげる」


「……え?」


「川! あさごはん食べたら、おさんぽ行くの。ミナがね、あおーい魚のところ、教えてあげる」


 明後日の朝、散歩の約束。


「約束だな。お父さん、楽しみにしてる」


「うん、やくそく!」


 ミナの小さな小指と、俺のごつごつした小指が絡み合った。




第六章 凱旋式典への招待


 約束を交わした翌日の昼下がり、蹄の音が村の小道に響き渡った。


 台所でパン生地を捏ねていた俺は、手を止めて外に出た。


 馬を降りた若い将校が、脱帽して深々と敬礼した。


「勇者ロディン殿とお見受けいたします。王国軍総司令部付、ハロルド少尉であります」


「その通りだ」


 敬礼を返そうとして、俺はまず前掛けで粉のついた手を拭いた。少尉の視線が一瞬だけ下がり、すぐに俺の顔へ戻った。礼儀正しい青年だった。


「ご帰還の確認が遅れ、ご案内が直前となりましたこと、まずはお詫び申し上げます。……勇者殿への親書をお届けに上がりました」


 差し出されたのは、金泥で『凱旋式典への御案内』と記された羊皮紙の筒だった。


「魔王討伐の偉業を称えるため、王都の大聖堂前広場にて、国王陛下直々の叙勲式ならびに全軍による凱旋パレードが挙行されます。日程は四日後の朝であります。王都までは早馬を乗り継いでも三日を要し、明日の未明が式典開始に間に合う最後の便でございますゆえ、勇者殿には軍の早便にご同乗いただきたく存じます」


 明日の未明。


 俺の喉が詰まった。明日の朝、ミナと川へ行く約束の時刻には、すでに王都への街道を走っていなければならない。


「かつて共に戦われた討伐隊の生存者の方々も、王都へ集結しつつあります。……亡くなられた方々の追悼式も、式典の冒頭に執り行われる予定です」


 ハロルド少尉の言葉が、胸に重く落ちた。


 戦友たちの追悼。


 五年間、背中を預け合い、魔王城の石畳に倒れていった仲間たち。彼らの名を呼び、魂を弔い、生き残った者たちと肩を抱き合いたいという思いは、嘘偽りのない本物だった。


「本日日没までに宿場の軍連絡所へお返事をいただければ、夜立ちの早馬で王都へ急報いたします。返書は三日後の夜には王都へ届きますゆえ、式次第の変更には間に合います。では、明日の未明、お迎えに上がります」


 少尉は再び敬礼し、馬を走らせて去っていった。


 家の中に入ると、居間は静まり返っていた。


 そして――部屋の隅で、ミナが動いていた。


 床に散らばっていた積み木を、一つ一つ拾い上げ、木箱の中に仕舞っている。


 さらに、本棚から『もりのパンやさん』を両手で抱え上げると、背伸びをして、ようやく指先が届く上の段へと押し込もうとしていた。


「……ミナ?」


 俺は親書を卓に置き、娘の元へと歩み寄った。


「ミナ、どうしたんだ。まだ片付けなくてもいいんだぞ」


 膝をついて声をかけると、絵本を棚へ押し込んだミナが、一度だけ本に向かって手を伸ばした。


 取り戻したいのかと思った。


 けれど、その手は途中で止まり、吊りズボンのポケットへと戻った。


 振り返ったミナの瞳には、涙はなかった。


 ただ、ポケットの中の手は、小石を握りしめているらしく、少しも動かなかった。


「お片付け、するの」


「どうしてだ?」


「……お客さん、帰るんでしょ?」


 胸を突かれた。


「さっきの人、お迎えにきたから。大きな手紙、もってきたから」


「ミナ、それは……」


「まえに来たお薬のおじさんも、大きなかばん持ってきたら、次のあさに帰ったの。だから、お片付けするの。……いっぱい本よんでくれて、ありがと。また来てね」


 客が帰る前には、玩具を片付ける。


 娘は教えられた習慣に従い、親切なお客さんを見送る準備をしていたのだ。


 絵本を読み、椅子を直し、川の話をして、どれほど親しくなっても――この人は明日もここにいるという確信までは、まだ届いていなかった。


 俺は娘の視線を受け止め、その場でゆっくりと言葉を紡いだ。


「ミナ。明日の約束は忘れていない。……少し、お母さんと話をさせてくれ」


 ミナはポケットに手を入れたまま、こくりと小さく頷いた。




第七章 ここが帰る家


 台所へ向かうと、リゼットが戸口に立っていた。表のやり取りも、ミナとの会話も聞こえていたはずだった。


「リゼット」


 俺は妻の目を見つめた。


「仲間には会いたい。追悼にも加わりたい。その思いは今も消えない。……でも、明日は残ろうと思っている。リゼットはどう思う?」


「私も、明日の朝は三人でご飯を食べたいわ」


 リゼットは迷うことなく答え、居間の食卓の椅子を引いた。


「仲間には、俺から手紙を書く。落ち着いたら、必ず墓参りにも行く」


「ええ。そのときは、また相談しましょう」


 リゼットの柔らかな瞳に背中を押され、俺は卓に向かい、白い羊皮紙を広げた。


 戦は終わり、指揮官の務めも後任に引き継いだ今、明日の居場所は自分で決められる。


 会えなかった時間は戻せない。だからこそ、今結んだばかりの約束を、自分の都合で手放したくはなかった。


 羽ペンを執り、インクに浸す。


『国王陛下


 王国軍総司令部御中


 過分なる御案内を賜り、身に余る光栄に存じます。


 栄誉にお応えしたい思いは尽きませんが、出征中に生まれ、このたび初めて対面した幼き娘と、明日、川原へ散歩に行くという約束を交わしました。


 この約束を、どうしても果たしたく存じます。


 式典への出席は叶いませんが、討伐隊を率いた者として、散華されたすべての戦友の御霊に、此の地より生涯の祈りを捧げ続けることを誓います。


 勝手を申し上げます無礼を平にご容赦いただきたく存じます。


 元討伐隊指揮官 ロディン』


 砂でインクを乾かした書簡を、リゼットが静かに覗き込んだ。


 文面を一読し、リゼットは俺の顔を見て静かに頷いた。


 俺は手紙を丁寧に折り畳み、立ち上がった。


 玄関へ向かう途中、部屋の隅に座っていたミナの前に屈んだ。


「ミナ、明日の散歩には行くからな。そのお返事を届けてくる。夕ご飯までには帰る」


 ミナは驚いたように目を見張り、それから小さく頷いた。


 夕暮れの街道を駆け抜け、宿場の軍連絡所に飛び込むと、ハロルド少尉が立ち上がった。


 俺は両手で書簡を差し出し、頭を下げた。


「ハロルド少尉。私の勝手な都合により、式典への参加を辞退させていただきたい。この書簡を、夜立ちの早馬で総司令部へ届けてほしい」


「辞退……!? し、しかし勇者殿、陛下がお待ちです!」


「すまない。各方面へのお詫びと説明は、後日私からも必ず行う。……今の私には、果たさなければならない約束があるんだ」


 少尉は俺の顔と手紙を交互に見つめ、やがて姿勢を正した。


「……承知いたしました。勇者ロディン殿の御意志、しかと総司令部へお届けいたします」


◇◇◇


 夕餉の支度が整う頃、我が家の扉を開けた。


 台所からは温かいスープの匂いが漂っている。居間の木箱の横に、ミナが座っていた。


「……かえってきた」


「ただいま。夕ご飯に間に合ったな」


 上着を脱ぎ、俺はミナの前へ歩み寄って床に両膝をついた。娘と目線を合わせる。


「……お客さんは、帰るでしょ?」


「ああ。お父さんも、帰ってきたんだ。ここが、お父さんの家だから。ミナと同じだよ」


 俺は娘の両手を、自分の手のひらでそっと包み込んだ。


「おでかけしても?」


「帰ってくる。出かけるときには、ちゃんと話す。お前の顔を見るまで、ずいぶん待たせてしまったけれど……俺は、お前の父親だ。勝手にいなくなったりしない」


「……あしたは?」


「明日もここにいる。朝ご飯を食べ終わったら、一緒に川へ行こう。お前が見つけてくれた、あのつるつるした石の場所へ連れて行ってくれ」


 ミナは俺の手を見つめ、それから顔を見上げた。


 小さな指先が、俺の親指をぎゅっと握り返してくる。


「あさごはんの、あと?」


「そうだ。朝ご飯を食べ終わったら、一緒に行こう」


 ミナは一つ息を吸うと、するりと手を離し、本棚へ向かった。


 背伸びをして上の段から『もりのパンやさん』を引っ張り出し、両手で抱えて戻ってくる。


 俺は床にあぐらをかき、ミナが膝へ収まるのを待った。


 ぽすん、と絵本が膝の上に置かれる。


「これ、よんで」


 いつもの声に、少し戻っていた。


「……ああ」


 俺は絵本を開いた。


「森の奥の、ちいさなパン屋さん。今日も、かまどからは……ぽかぽかの、いいにおいが立ちのぼっています」


 娘が、俺の胸にこてんと頭を預けてきた。


 柔らかく、温かい重みが、確かにそこにあった。




第八章 お父さん こっち


 翌朝。


 雲ひとつない青空だった。三人で朝食を終え、ミナは椅子の背に掛けてあった麦わら帽子を自分で被った。


 台所へ向かって、娘が声をかける。


「おかあさん。かえったら、さかなのこと、教えてあげる」


「ええ。楽しみにしているわ」


 リゼットが笑顔で手を振った。


 ミナは帽子をかぶり直し、俺を見上げた。俺たちは並んで玄関へ向かった。


 玄関の土間に、靴が置かれていた。


 端のほうに、俺の大きな革靴。昨夜のうちに泥を落とし、手入れしておいた旅靴だ。


 そのすぐ隣に、赤い布で作られた、小さな子供用の靴。


 二足の靴は、離れることなく、きっちりと揃えられていた。


 そして、どちらも同じ――開け放たれた扉の向こう、外の小道へ向かって前を向いて並んでいた。


 ミナが土間に腰を下ろし、靴に足を突っ込んでいる。


 左右を間違えそうになっていたので、俺はしゃがみ込み、そっと直してやった。


「こっちが右だ。こうやって履くんだ」


「ん……履けた!」


 立ち上がり、扉の外へ向かって一歩踏み出し、娘が振り返った。


「お父さん、こっち」


「ああ」


 今朝は、呼ばれたことに驚くより先に、返事が出た。


 靴の紐を結んで立ち上がると、台所の入り口からリゼットが顔を出し、腕を組んでくすりと笑っていた。


「気をつけてね。お昼までには帰ってきなさいよ」


「ああ、行ってくる」


 外に出ると、朝露に濡れた草の匂いが広がっていた。


 ミナが小さな手を差し出してきた。俺はその手を握りしめた。


「あっちだよ。お花、いっぱい咲いてるの」


「そうか。楽しみだな」


 並んだ二組の足音が、朝の光の中へと響いていく。


 世界を救い終えた男の、新しい一日が始まっていた。


(おしまい)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ロディンとミナ、そしてリゼットの小さな日々を、楽しんでいただけたら幸いです。

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― 新着の感想 ―
頻繁に家に来ては帰っていくお客さんがいるです?? ちっちゃい子が覚えるくらいに頻繁に家に上がり込む人がいるってどういう状況なんだろう 家に泊まったことがあるらしいお薬のおじさんは熱を出した時の医者かな…
子どもが親と遊んでくれるのは小さいうちだけですからね。戦友たちも分かってくれることでしょう ほっこりして少し切なくなる、素敵なお話を本当にありがとうございました
もともと軍なんていうのは「予定通りにはいかない時はある。その時は臨機応変に動いて対応する」というのを前提にしている。 軍政か軍令の連絡ミスの尻拭いを討伐隊指揮官の主人公がやる義務は無いから、これで正解…
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