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王太子殿下、信頼は引き継げませんわ――断罪された悪役令嬢は海辺で未来を楽しむ

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/05

「おーっほっほっほ! 見た目では王宮菓子に完敗しておりますけれど、お味はこちらの勝利ですわ!」


 春の園遊会に、オクタヴィアの高笑いが響き渡った。


 王宮の庭園には、王都でも名高い菓子職人が腕を振るった品々が並んでいる。

 砂糖で作られた花。

 金箔を散らした焼き菓子。

 口へ入れれば雪のように溶ける、淡い色の菓子。


 けれど、オクタヴィアが手にしているのは、それらではなかった。


 少し焦げ目がつき、形も揃っていない、小さな蜂蜜菓子だった。


「ほ、本当でございますか?」


 菓子を持参した男爵令嬢が、期待と不安の入り混じった顔で尋ねる。


「ええ。蜂蜜の香りが、とてもよく残っておりますわ」


 オクタヴィアは金髪の縦巻きを揺らし、満足そうに頷いた。


 豪奢な金の髪。

 大きな扇子。

 花と宝石を惜しみなく飾ったドレス。


 公爵令嬢らしい華やかな容姿に、よく通る高笑い。


 初めて彼女を見た者は、決まって同じ印象を抱く。


 傲慢。

 高飛車。


 自分より身分の低い者など、人とも思っていないに違いない。


 だが、その予想は、たいてい最初の会話で外れる。


「ただし、この菓子を王都で売るのはおやめなさいませ」

「やはり、見た目が悪いからでしょうか……」

「違いますわ」


 オクタヴィアは、残っていた半分を口へ入れた。


「焼いてから、どれくらい経っておりますの?」

「昨日の朝でございます」

「領地で焼きたてをいただけば、もっと蜂蜜の香りが強いのではなくて?」


 男爵令嬢が目を見開く。


「はい。よくお分かりになりましたね」

「これほど良い蜂蜜を使っているのに、香りが少し弱いですもの。時間が経てば経つほど、良さが失われるのでしょう?」

「そのとおりです」

「でしたら、遠くへ運んではなりませんわ」


 オクタヴィアは扇子を閉じ、男爵令嬢の肩越しへ目を向けた。


「エルミーヌ様」

「はい?」

 名を呼ばれた伯爵令嬢が、驚いて振り返る。


「あなたのご実家は、街道沿いの温泉街に宿をお持ちでしたわね」

「え、ええ。ですが、最近は宿泊客が減っておりまして……」

「ちょうどよろしいではありませんの」


 オクタヴィアは、男爵令嬢と伯爵令嬢を交互に見る。


「王都まで菓子を運ぶのではなく、温泉街へ工房を置いて、焼きたてを旅人へお出しなさいませ。その場でしか食べられない物なら、持ち帰れないことも価値になりますわ」

「その場でしか、食べられない……」

「宿でお茶と一緒にお出ししてもよいでしょう。香りにつられて、隣の宿の方までいらっしゃるかもしれませんわよ」


 男爵令嬢と伯爵令嬢が顔を見合わせる。


「ただし、いきなり大きな工房を作ってはなりません」


 落ち着いた声が、オクタヴィアの隣から加わった。


 赤毛をまっすぐ背中へ流したバーナデット侯爵令嬢が、すでに小さな手帳を開いている。


「職人の滞在費、材料の輸送費、宿側の設備費を確認してください。まずは1か月だけ、試験的に始めるのがよろしいでしょう」

「バーナデット、紹介状をお願いできます?」

「すでに文面を考えております」

「まあ、さすがですわ!」


 オクタヴィアは嬉しそうに笑った。


 バーナデットの表情はほとんど変わらなかったが、赤い瞳にはわずかな満足が浮かんでいた。


「また始めたのか」


 背後から声がして、周囲の令嬢たちが一斉に姿勢を正した。


 アルフォンス王太子が庭園を歩いてくる。


 その隣には、白と淡い青のドレスをまとったイヴェット公爵令嬢がいた。

 長い金髪は、作り込んだ巻き髪ではなく、柔らかな天然の波を描いている。


 背筋はまっすぐ。

 歩幅は一定。

 挨拶を返す角度まで、寸分の乱れもない。


 生まれながらの高位貴族とは、彼女のような者をいうのだろう。


「何のことでございましょう、殿下」


 オクタヴィアは扇子を胸元へ添え、婚約者へ礼をした。


「下位貴族を集めて、また取引を始めたのだろう」

「取引を始めるのは、あちらのお2人ですわ。わたくしは美味しい菓子をいただき、もっと美味しく食べられる場所を考えただけですの」

「君は王太子妃となる者だ。いつまでも商人の真似事をしていては困る」

「商人の真似事ではございませんわ」


 オクタヴィアは、悪びれずに微笑んだ。


「商人の方なら、もっときちんと利益を計算なさいますもの」


 周囲から小さな笑いが漏れる。


 アルフォンスの眉が寄った。


 イヴェットは笑わなかった。


 彼女の視線はオクタヴィアではなく、先ほど紹介された2人の令嬢へ向いている。


「オクタヴィア様」

「何でしょう、イヴェット様」

「あなたが紹介なさった男爵家の商品を、すでに3つの伯爵家が扱っていると伺いました」

「ええ。北部の乾燥果実と、東部の染料と、南部の香油ですわね」

「公爵家の信用を保証としてお使いになった自覚はございますか?」

「最初のお引き合わせには使いましたわ」


 オクタヴィアは、あっさり認めた。


「ですが、今は皆様が直接お取引なさっています。契約も代金のやり取りも、わたくしを通しておりません」

「それが問題なのです」

「まあ」


 オクタヴィアは不思議そうに瞬いた。


「上手くいっているのに?」

「上手くいかなかったとき、誰が責任を負うのですか」

「取引を決めた方々でしょう?」

「あなたの紹介があったからこそ、契約が成立したのではありませんか」

「ご紹介しただけで、永遠に面倒を見る必要がございますの?」


 イヴェットの眉が、ごくわずかに動いた。


「公爵家の名とは、そのように都合よく切り離せるものではございません」

「ですから、最初から皆様へ申し上げておりますわ。わたくしが保証するのは、最初のお引き合わせだけ。続けるかどうかは、ご本人たちがお決めになることです」

「下位の家々が、すべて正しい判断をできるとは限りません」

「公爵家なら、必ず正しい判断ができるのでしょうか」


 空気が静まった。


 だが、オクタヴィアの声に挑発の色はない。


 本当に分からないという顔をしている。


「より大きな権限を持つ者は、それに相応しい教育を受けております」


 イヴェットは静かに答えた。


「それは分かりますわ。でも、蜂蜜菓子の売り方なら、その蜂蜜を作っている方の方が詳しいのではなくて?」

「詳しい者の意見を聞き、上位者が最終的な判断を下す。それが秩序です」

「詳しい方同士で決めた方が、早いこともございますわ」


「……早ければよいというものではありません」

「遅くて困ることもございますでしょう?」


「オクタヴィア」


 アルフォンスが会話を遮った。


「イヴェットは君を案じているのだ。公爵令嬢の気まぐれで、多くの家を振り回してはならないと言っている」

「わたくし、気まぐれで他人の契約書に署名したことはございませんわよ」


「そういう話ではない」

「では、どういうお話でしょう?」


 アルフォンスは答えず、唇を引き結んだ。


 オクタヴィアは数秒待ったが、やがて興味を失ったように男爵令嬢へ向き直った。


「温泉街の件、試してみてくださいませ。上手くいかなければ、次を考えましょう」

「はい、オクタヴィア様!」

「わたくしではなく、エルミーヌ様とお話をなさいませ。お2人のお仕事ですもの」


 令嬢たちが頷き合う。


 イヴェットは、その様子を黙って見ていた。



 バーナデットがオクタヴィアへ心酔するようになったのは、2年前のことだった。


 当時のバーナデットは、侯爵家の執務室で夜を明かすことが珍しくなかった。


 父は国境警備に忙しい。

 兄は軍務に就いている。

 家令は優秀だったが、領地の水害対応に追われていた。


 そこへ婚約者の家からも、書類が持ち込まれるようになった。


 最初は数字の確認だけだった。

 次は収支報告。

 その次は領地間の契約書。


 婚約者は無能ではない。


 ただ、バーナデットへ任せれば、自分で行うより速く正確だった。


「夫を支える立派な婚約者だ」


 周囲は皆、そう褒めた。

 誰も、彼女の机に積み上がった書類の量を問題にしなかった。


 オクタヴィアを除いて。


「まあ。何ですの、この山」


 相談もなく侯爵邸を訪れたオクタヴィアは、執務室へ入るなり顔をしかめた。


「今月中に処理すべきものです」

「あなたの侯爵家には、これほど仕事がございますの?」

「半分は婚約者の家のものです」

「なぜ、あなたが?」

「彼は数字が不得手ですので」


「不得手なのではなく、あなたに任せれば済むと思っているだけではなくて?」


 その言葉に、バーナデットは初めてオクタヴィアを睨んだ。


 金髪を派手に巻き、流行の菓子店や観劇の話ばかりしている公爵令嬢。

 責任を背負ったことのない者から、自分の努力を軽んじられたように感じた。


「わたくしが処理するのが、最も早く確実なのです」

「そうでしょうね」


 オクタヴィアはあっさり頷いた。


 そして、勝手に書類の山へ手を伸ばした。


「お触れにならないでください」

「こちらはあなたの侯爵家の予算書。これは家令の仕事。こちらは婚約者の領地報告ですわね」


 オクタヴィアは書類を次々と分けていく。


「こちらは、同じ数字を別の様式へ書き写しているだけ。誰も比較していないのでしたら、作成する必要がございませんわ」

「しかし、先代の頃から提出されております」


「誰が読みますの?」

「それは……」

「読まない書類を作るために、あなたが眠らず働いておりますの?」


 オクタヴィアは、机上の書類を3つの山へ分けた。


「これは、あなたが処理するもの。こちらは家令へ返すもの。これは婚約者へお返しなさいませ」

「返せば、滞ります」


「滞らせなければ、できない方ができないままでしょう?」


 バーナデットは言葉を失った。


「放っておけと申されるのですか」

「いいえ。期限を1か月延ばし、最初の2回だけあなたが確認なさいませ。その後は、ご自分でしていただけばよろしいでしょう」


 オクタヴィアは机上の便箋を取り、引き継ぎの順序を書き始めた。


「家令のお仕事も、副家令へ一部移します。あなたが確認なさるのは、金額の大きいものだけ。その他は月末に一覧で報告させれば十分ですわ」


「なぜ、そこまで……」

「見れば分かりますもの」


 オクタヴィアは顔を上げた。

 いつもの明るい笑顔ではなかった。


「あなたが優秀であることと、皆様が怠けてよいことは、まったく別のお話ですわ」


 バーナデットの能力を褒める者は、大勢いた。


 けれど、その能力を使い潰していると指摘した者は、オクタヴィアだけだった。


「今夜は眠りなさいませ」

「まだ、こちらの契約書が」

「明日でも国は滅びませんわ」

「期限が」

「明日までの期限を守るために、来月倒れていては意味がないでしょう?」


 オクタヴィアは扇子を広げ、高らかに笑った。


「おーっほっほっほ! わたくし、来月もあなたと遊びたいのですもの。勝手に壊れていただいては困りますわ!」


 その日から、バーナデットはオクタヴィアの隣にいる。



 夏の終わり、北部から急報が届いた。


 長雨により、伯爵領へ入る主要な橋が崩落した。

 収穫前の食料が流され、冬を越すための保存食も不足している。


 王宮では即座に会議が開かれた。


 被害規模の確認。

 予算の確保。

 担当部署の決定。

 救援物資をどこから集め、誰が運ぶか。


 アルフォンスも連日、会議へ出席した。

 イヴェットは必要な資料を揃え、各部署へ指示を出した。


 誰も怠けてはいなかった。


 ただ、国を動かすには確認すべきことが多かった。


 一方、オクタヴィアがその知らせを聞いたのは、学院の食堂だった。


「橋が壊れましたの?」

「はい。北部への荷車は、すべて足止めされているそうです」


 北部出身の伯爵令嬢が、青ざめた顔で頷く。


「旧道は?」

「幅が狭く、大型の荷車は通れません」

「でしたら、小型馬車を使えばよろしいですわ」

「数が足りません」

「以前、軽量の馬車を作った子爵家がございましたでしょう?」


 バーナデットが即座に答える。


「ミュレー子爵家です。山間部の郵便用として、車幅を狭く設計しております」

「保存食は南部に余剰がございましたわね」

「今年は豆と乾燥肉が豊作です。ただし、北部伯爵家には即金で支払う余力がないかと」

「来年の羊毛でお返しすればよろしいでしょう。北部の羊毛を欲しがっていた伯爵家がございましたわよね?」


「モンテーニュ伯爵家です」

「では、モンテーニュ家が代金を立て替え、来年の羊毛を優先的に買い取る。輸送費は北部伯爵家が3年で返済。最初の冬は利息なしでいかが?」


 オクタヴィアは、昼食のパンをちぎりながら話している。


「街道警備は?」

「旧道は魔獣が出ます」

「騎士家の訓練を兼ねていただきましょう。実地訓練の費用を輸送護衛で賄えるなら、悪い話ではありませんわ」


 バーナデットが手帳へ書き留める。


「各家の了承が必要です」

「ええ。嫌だとおっしゃる家へ、無理にお願いしてはなりませんわ」


 オクタヴィアは伯爵令嬢を見た。


「あなたから、ご実家へ確認なさいませ。必要な量と、いつまでに届けば間に合うのか。助けていただくからといって、言われた物を何でも受け取っては駄目ですわよ」

「はい」

「足りない物を正確にお伝えするのも、助けを求める側の責任ですもの」


 その日のうちに、各家へ連絡が飛んだ。


 南部から保存食が集められた。

 狭い旧道を通れる小型馬車が用意された。

 若い騎士たちが護衛につき、崩れた橋を迂回して北へ向かった。


 王家の救援計画が正式に承認される2日前。

 最初の物資が北部へ届いた。



「結果として、人命が救われたことは認めます」


 王宮の回廊で、イヴェットはオクタヴィアへ告げた。


「まあ。でしたら、よろしいではありませんの」

「正しい結果が、正しくない手順を無条件に正当化するわけではございません」

「正しい手順を待って凍死した方へ、何と説明なさいます?」

「だからこそ、手順を早めるための制度が必要なのです」

「それができるまでは、目の前の方を見捨てますの?」

「見捨てるなどとは申しておりません」


「では、わたくしが先に動いても問題ございませんでしょう?」

「問題が起きなかったから、そう言えるのです」


 イヴェットの声が、わずかに強くなった。


「護衛中に騎士が死亡していたら。代金が返済されなかったら。届けられた食料で体調を崩す者が出たら。誰が全体の責任を負ったのです?」

「騎士の安全は騎士団。商品の品質は売った家。返済は契約を結んだ家同士ですわ」


「それでは責任が分散します」

「分散させておりますもの」


 イヴェットが目を見開いた。


「すべてを1人で決め、すべての責任を1人で負うなど無理でしょう? それぞれ、分かる方が決めればよろしいのです」

「全体を統括する者が必要です」

「必要なときは必要でしょうね。でも、毎回わたくしが許可しなければ動けない方々になってしまっては、わたくしが病気になっただけで皆様がお困りになるではありませんの」


 オクタヴィアは、いつものように明るく笑った。


「皆様を直接おつなぎしておりますの。わたくしがいなくても続くように」


 イヴェットは、その言葉を無責任だと思った。


 公爵家の名で始めたものなら、公爵家が最後まで管理するべきだ。

 権限を持つ者が、結果に責任を負う。

 それが貴族であり、秩序だった。


「あなたは、ご自身の影響力を軽く考えすぎております」

「イヴェット様は、ご自分がいなければ何も決められない方を増やしたいのですか?」

「正しい指示を受けて動く者を育てたいのです」


「わたくしは、ご自分で考えられる方とお友達になりたいですわ」


 最後まで、2人の言葉が重なることはなかった。



 北部救援から1か月後。


 アルフォンスはオクタヴィアを王宮へ呼び出した。

 執務室にはイヴェットも同席している。


「君が各家の間に築いた連絡網を、王家の管理下へ移す」


 挨拶を終えるなり、アルフォンスは告げた。


「連絡先と契約の一覧なら、お渡しできますわ」


 オクタヴィアは、ためらうことなく頷いた。


「ですが、王太子殿下。信頼は引き継げませんわ」

「何だと?」

「皆様が殿下へ協力なさるかどうかは、殿下ではなく、皆様がお決めになることですもの」

「代表者を集めろ。今後は王家の指示に従わせる」

「代表者などおりませんわよ」

「君が代表なのだろう」


「違いますわ」

 オクタヴィアは即答した。


「わたくしのお友達と、お友達同士のお取引先ですもの」

「君の言葉で動いた」

「必要だから動いてくださったのです」

「王家の命令より、君の言葉を優先しているではないか」

「殿下の命令に魅力がないだけではなくて?」


 バーナデットが小さく息を呑む。


 イヴェットは目を伏せた。


 アルフォンスの顔が赤くなった。


「王太子に向かって、何という口を」

「事実を申し上げただけですわ。命令を受けなければ動かない方より、困っている方を見てご自分で動く方の方が、わたくしは好きですもの」

「国は好き嫌いで動かすものではない!」

「ですから、国を動かしているつもりはございませんわ」


「君がそのつもりでなくとも、周囲は君を選んでいる!」


 アルフォンスは机を叩いた。


「王家を差し置いて、下位貴族たちが君の判断を求めている。このまま放置すれば、君は王権へ対抗する存在になる」

「対抗するつもりなどございませんのに」

「意思の問題ではない!」


 オクタヴィアは困ったように首を傾げた。


「では、殿下が選ばれる方になればよろしいのではなくて?」

「王は選ばれる者ではありません。臣下が仕えるべき者です」


 答えたのは、イヴェットだった。


「身分と役割は、生まれたときから定められております。王は統べ、貴族は支え、民は従う。それぞれが責務を果たすことで、国は成り立つのです」

「そこが、わたくしたちの合わないところですわね」


 オクタヴィアは微笑んだ。


「わたくし、王家に生まれただけで何をしても選ばれる方より、また会いたいと思われる方の方が好きですの」


 その日、アルフォンスとの話し合いは決裂した。



 断罪は、秋の王太子生誕祝賀会で行われた。


 王宮の大広間。


 貴族たちが見守る中、アルフォンスはオクタヴィアを中央へ呼び出した。

 彼の隣には、イヴェットが立っている。


「オクタヴィア公爵令嬢」


 王太子の声が響いた。


「君は公爵家の権威を私的に利用し、伯爵家以下の貴族を扇動した。王家の認可を得ずに諸領間の流通網を築き、救援を名目に各家へ影響力を及ぼした」


 広間がざわめく。


「さらに、王家の管理下へ移すよう命じたにもかかわらず、これを拒否した。君の行いは、王権への挑戦と見なさざるを得ない」


 オクタヴィアは黙って聞いていた。


 扇子を胸元へ添えた姿は、どこまでも堂々としている。


「よって、私は君との婚約を破棄する」


 王太子の声が、大広間を揺らした。


 伯爵家以下の若者たちが、いっせいに顔色を変える。


 バーナデットはオクタヴィアの斜め後ろに立ち、アルフォンスを冷たく見つめていた。


「イヴェットも、君の行動が危険であると認めている」


 オクタヴィアは、初めてイヴェットへ視線を向けた。


「そうですの?」


 イヴェットは、しばらく沈黙した。


 やがて、王太子から一歩だけ距離を取る。


「オクタヴィア様の影響力を、適切に管理する必要があるとは申し上げました」

「イヴェット」

「ですが、反逆者であるとは申し上げておりません」


 アルフォンスが振り返る。


「何を言っている」

「オクタヴィア様が行った取引は、すべて当事者間の正式な契約によるものです。北部救援についても、王家へ反抗する意図を示す証拠はございません」

「君は彼女を庇うのか」

「事実を訂正しております」


 イヴェットの声は、わずかにも揺れなかった。


「わたくしは、オクタヴィア様の思想に同意いたしません。ですが、同意できないことと、虚偽の罪を認めることは別です」


 広間が静まり返る。


 オクタヴィアは少し驚いた後、柔らかく笑った。


「ありがとうございます、イヴェット様」

「礼を言われることではございません」

「では、婚約破棄についてはどうなのだ」


 アルフォンスが苛立たしげに問う。


「君は自らの非を認めるのか」

「いいえ」


 オクタヴィアは、あっさり答えた。


「殿下との結婚を続ける価値がなくなったと認めましたの」

「何だと?」

「わたくしを反逆者に仕立てなければ、婚約1つ解消できない方と、これから何十年も暮らすなんて退屈そうですもの」


「君は、自分が何を失うか分かっているのか」

「ええ。王太子妃の地位と、毎朝殿下のご機嫌を確認する生活でしょう?」


 オクタヴィアはバーナデットへ振り返った。


「来月の船は、まだ2席空いておりますわね?」

「3席でございます」

「まあ。誰かお誘いしましょうかしら」


「今、この場で話すことか!」

「来月の予定は、今決めなければ埋まってしまいますもの」


「君は……!」


「オクタヴィア様!」

 伯爵令嬢の1人が声を上げた。


「わたくしたちも、ご一緒いたします!」

「駄目ですわ」


 オクタヴィアの声が、先ほどまでとは違う鋭さを帯びた。


 令嬢が息を止める。


「ご自分の家も、領地も、ご家族もあるでしょう? わたくしのために捨ててはなりません」

「ですが……」

「皆様は、皆様の場所でお暮らしなさいませ」


 オクタヴィアは、大広間を見渡した。


「美味しい物を作り、面白いことを考え、必要な方とお取引なさいませ。わたくしの許可など、最初から必要ございませんわ」


 誰も言葉を発さなかった。


「お手紙はくださいませね。面白いお話がなくても、お菓子だけ送ってくださって結構ですわ!」


 オクタヴィアは扇子を広げる。


「それでは皆様、ごきげんよう!」


 高笑いこそしなかったが、その顔に悲壮感はなかった。

 彼女はバーナデットを伴い、自らの足で大広間を出ていった。



 オクタヴィアが移ったのは、国外でも修道院でもなかった。


 公爵家が所有する、海沿いの小さな保養地だった。

 温泉はあるが、宿は古い。

 港は狭く、大型船は入れない。

 王都から遠く、貴族の避暑地としても人気がなかった。


 けれどオクタヴィアは、婚約破棄の前から少しずつ土地を整えていた。


 異国の料理を食べたい。

 海を眺めながら酒を飲みたい。

 各地の劇団を呼べる劇場が欲しい。

 温泉へ入り、夜まで笑って過ごせる街を作りたい。


 理由はすべて、彼女自身が楽しみたいからだった。


 バーナデットは港の拡張計画を作り、宿の収支を洗い直した。


 伯爵家から葡萄酒が届いた。

 男爵家の蜂蜜菓子が、旅の途中でも香りを失わない新しい製法で送られてきた。

 子爵家の小型馬車が、港と温泉街を往復した。


 誰も領地を捨てなかった。

 誰もオクタヴィアの臣下にはならなかった。


 ただ、それぞれの場所から、自分で選んだ取引を続けた。



 一方、王都では、アルフォンスがオクタヴィアの残した人脈を王家へ取り込もうとしていた。


「今後は王家が全体を管理する」


 各家へ通達が出された。


 契約には王都の承認が必要となった。


 新しい取引を始めるには申請書を提出し、担当官の確認を受けなければならない。


 品質基準も、輸送費も、統一された。


 イヴェットは制度の整備を任された。

 彼女は、それが正しいと信じていた。


 誰が責任を負うか明確になる。

 不当な契約を防ぎ、下位貴族を守ることもできる。

 オクタヴィアの気分ではなく、制度によって公平に運用できる。


 けれど、取引は少しずつ鈍った。


 王都の担当官は、蜂蜜菓子の香りが何日で落ちるかを知らなかった。

 北部の街道が、雪の降る時期によって使えなくなることも知らなかった。

 申請が認められた頃には、果実の収穫期が終わっていることもあった。


「なぜ、以前より取引量が減っている」

 アルフォンスは苛立った。


「各家が王家の指示へ従おうとしているため、判断に時間がかかっております」

「ならば、もっと早く申請させろ」

「収穫量や街道状況は、事前に確定できるものではございません」

「オクタヴィアのときには動いていたではないか」


 イヴェットは答えられなかった。



 その冬、東部で土砂崩れが起きた。

 街道が塞がり、薬草の輸送が止まった。


 王宮へ報告が届いた翌朝。


 イヴェットが会議室へ入ると、すでに被災地へ向けて別の薬草が発送された後だった。


「誰が許可を出したのです?」

 イヴェットは担当官へ問うた。


「事前の許可は出ておりません」

「では、規則に反して動いたのですか」

「いいえ。人命に関わる場合、既存契約の緊急条項に基づき、輸送を開始してから王家へ申請することが認められております。申請書は、出発と同時に提出されました」


「では、誰の命令で動きましたの?」

「命令はございません」

 担当官は困惑した顔で書類を差し出した。


「東部の治療院から、必要な薬効が送られました。北部の男爵家が代用できる薬草を提示し、西部の伯爵家が保管していた在庫を提供しております。輸送はミュレー子爵家の小型馬車が担当いたしました」

「代金は?」

「東部伯爵家が半年後に支払います。支払いが困難な場合は、来年度の薬草採取権を一部譲渡する契約です」


「全体の責任者は誰です?」

「おりません」


 イヴェットの声が低くなる。


「責任者がいないまま動いたのですか」

「薬草の選定は治療院と男爵家。品質は提供した伯爵家。輸送は子爵家。それぞれが、自らの担当について責任を負っております」

「誰か1人が、全体を決めたのでは?」

「必要な情報を持つ者同士で相談した、と」


 イヴェットは書類へ目を落とした。


 契約は整っている。

 品質確認もされている。

 輸送中の事故についても、負担範囲が明記されていた。


 王家の事前許可だけがなかった。

 だが、それは規則違反ではない。

 人命に関わる場合に備えた緊急条項を、各家が自ら判断して適用したのだ。


「オクタヴィア様から、指示があったのですか」

「ございません。連絡した者もいないそうです」

「では、なぜ」

「以前、オクタヴィア様に紹介された家同士でしたので、互いに何ができるか知っていたそうです」


 その言葉を聞いた瞬間、イヴェットは思い出した。


 皆様を直接おつなぎしておりますの。

 わたくしがいなくても続くように。


 あのときのイヴェットには、責任の放棄にしか聞こえなかった。

 公爵家の名を使いながら、自分は最後まで管理しない。

 問題が起きれば、下位の者たちへ責任を押しつける。


 そう考えていた。


 違った。


 オクタヴィアは、責任者を置かなかったのではない。

 1人へ、すべての権限と責任を集めなかった。


 自分がいなければ動かない派閥を作ったのではない。

 どこか1つが止まっても、必要な者同士が考え、別のつながりで動けるようにしていた。


「……あの方は、ご自身の影響力を管理していなかったのではない」


 イヴェットが呟く。


「では、何をなさっていたのでしょう?」

 担当官が尋ねた。


 イヴェットは、契約書を静かに閉じる。


「ご自身だけが管理できる形に、しなかったのです」


 オクタヴィアは、彼らを信じていた。


 自分が指示しなければ動けない者たちではない。

 自分が守り続けなければ、契約1つ結べない者たちでもない。


 それぞれが考え、選び、責任を負える人間なのだと。


 イヴェットは、ようやく理解した。



 だからといって、王家の統制が不要だとは思わなかった。


 戦争。

 国全体を襲う災害。

 個々の家では負えない損害。

 弱い家が不当に切り捨てられたときの救済。


 上からしかできないこともある。

 ただ、すべてを王都へ集める必要はなかった。


 王家は最低限の基準と救済制度を作る。

 平時の判断は、現地と当事者へ任せる。

 問題が起きた場合にだけ、王家が介入する。


 イヴェットは新しい制度案をまとめた。

 アルフォンスは当初、難色を示した。

 けれど、王家が一括管理した取引が次々と停滞している以上、反対し続けることもできなかった。


 制度案が完成した夜。


 イヴェットは、海沿いの街へ手紙を送った。


 以前、あなたは、ご自身がいなくても続くようにしているとおっしゃいました。

 あのときのわたくしは、それを責任の放棄だと考えておりました。

 今なら、少しだけ理解できます。

 あなたは皆様を信頼なさっていたのですね。

 ご自身が管理しなければ動けない方々ではないと。


 返事は、予想していたより早く届いた。


 まあ。

 お気づきになるのが少々遅いですわ、イヴェット様。

 ですが、過ぎた時間を惜しむより、次にお使いになればよろしいでしょう?

 新しい制度が完成いたしましたら、ぜひ見せてくださいませ。

 面白ければ褒めますし、つまらなければ遠慮なく申し上げますわ。


 追伸。

 こちらの蜂蜜菓子は、温泉の蒸気を使った新しい焼き方になりましたの。

 以前より日持ちするようになりましたので、同封いたしますわね。



 イヴェットは、手紙の隣に置かれた菓子を見た。


 整っているとは言い難い形。

 けれど、封を開けただけで甘い蜂蜜の香りが広がった。


「……相変わらずですこと」


 イヴェットは、ほんの少しだけ笑った。



 数年後。


 海沿いの街には、新しい桟橋と劇場ができていた。

 港には各地の船が入り、温泉街には旅人が集まる。

 海を望むテラスで、オクタヴィアは異国の果実酒を飲んでいた。


 黄金色の縦巻き髪は、潮風を受けても崩れない。

 隣ではバーナデットが、分厚い予定表を確認している。


「明日は北部伯爵家との羊毛取引。その後、劇場の新演目を確認。夕方からは港湾組合との会食です」

「忙しいですわねえ」

「ご自分で増やされた予定です」

「面白そうなお話ばかりでしたもの」

「翌日は南部から視察団が参ります」


「お菓子は足ります?」

「そこを最初に確認なさいますか」


 従者が、王都から届いた封書を運んできた。


 差出人はイヴェット。


 新しい交易制度の運用実績と、沿岸都市での改善案について意見を求める内容だった。


「まあ」


 オクタヴィアは目を輝かせた。


「イヴェット様も、横のつながりをお使いになるそうですわ」

「必要と判断されたのでしょう」

「でしたら、美味しいお茶も添えて差し上げましょう」

「敵対派閥の公爵令嬢へ、菓子まで送る必要はございません」

「敵対していたのは過去のお話でしょう?」

「現在も、ご意見の半分は合わないかと」


「残りの半分は合うようになったということではなくて?」


 オクタヴィアは扇子を広げた。


 青い海の上を、白い帆船が進んでいる。


「未来のお友達になるかもしれませんでしょう?」


 バーナデットが、小さくため息をつく。


「オクタヴィア様は、本当に過ぎたことへ興味がございませんね」

「過ぎたことを惜しんでいる間に、焼きたての菓子が冷めてしまいますもの」


 オクタヴィアは蜂蜜菓子を1つ取り、満足そうに笑った。


「明日のわたくしが楽しみにしているのです。今日のわたくしが諦めるわけにはまいりませんわ」


 そして、海辺の街へ高らかな笑い声が響いた。


「おーっほっほっほ! 悪役令嬢の末路にしては、ずいぶん楽しそうではありませんこと!」

以前、感想欄で、

「名作とされる悪役令嬢ものの主人公は、いわゆる金髪縦巻きに高笑いが似合う、傲慢で高飛車な貴族令嬢像とは程遠く、むしろ楽天的で享楽的、庶民的で未来志向な子が多い」

という趣旨の感想をいただきました。


言われてみれば、うちには「見た目は典型的な金髪縦巻きの高笑い令嬢なのに、中身は明るく楽天的で未来志向」という子はいないなぁと思い、考えてみたのがオクタヴィアです。


ただ、書いているうちに信頼や責任の分散、引き継ぎの話になっており、だいぶ“うちの子仕様”に魔改造されている気もします。


それでも、明るく楽しく未来を見る悪役令嬢になっていたら嬉しいです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
俺はイヴェットに同意だなあ。 オクタヴィアが有能なのは確かだが、有能であることの影響に対しての自覚がなさすぎる。 個人的にはオクタヴィアが組んだ組織は悪意あるいは悪人に弱い。 明るく楽天的で未来志向と…
愚直な正義と奔放な善意は相容れにくいものなのかもしれない。 イヴェットは比較的早めに折り合いをつけられたようですが、アルフォンスはどうだったんだろう? 親世代の人たちから見たこの物語の裏側も読んでみた…
オクタヴィアは破天荒だけど魅力的で、彼女を王太子の婚約者にしたのはそのあたりを加味したのかなと思いました。
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