雨の音だけ、先に好きになっていた
雨の日は、なぜか少しだけ人との距離が近くなる。
傘の中、肩が触れるだけのはずなのに、それが妙に特別に感じてしまう瞬間がある。
これは、まだ“恋”と呼ぶには曖昧で、でも確かに心が動き始めているふたりの、
ほんの短い帰り道の話。
放課後の教室は、雨の匂いで満たされていた。
窓を叩く音が、やけにやさしく響く。
「傘、忘れたの?」
彼の声は、最初から決まっていたみたいにそこにあった。
振り向くと、いつもの彼が立っている。
少しだけ前髪が乱れていて、それだけでなぜか安心した。
「うん。天気予報、外れた」
「それ、今日いちばん信じちゃダメなやつ」
彼は笑って、当然みたいに折りたたみ傘を開いた。
「一緒に帰る?」
その一言が、妙に軽くて、妙に重い。
軽いのは言い方で、重いのは意味だった。
「……うん」
返事をした瞬間、少しだけ心臓が遅れて動いた気がした。
傘の中は、思ったより近い。
肩が触れるたびに、雨の音がひとつ減っていく。
代わりに、隣の呼吸がはっきり聞こえた。
「ねえ」
彼が言う。
「傘ってさ、こういうときだけ狭くなるの、不思議じゃない?」
「うん」
「でもさ」
少しだけ笑って、
「嫌じゃない」
その言葉が、雨より先に胸に落ちた。
駅までの道は短いのに、なぜかゆっくり流れていく。
彼はときどき、傘の角度を少しだけこちらに寄せる。
濡れないように、というより。
“離れないように”みたいに。
「駅まで送るだけだからね」
「うん」
「勘違いしないでよ?」
「……しないよ」
言ったのに。
その声が少しだけ優しすぎて、すでに手遅れだった。
改札の前で立ち止まる。
雨はまだ降っているのに、そこだけ静かに見えた。
「これ」
彼は傘をこちらに押し出す。
「持って帰っていいよ」
「じゃあ、君は?」
「走る」
「また?」
「うん。君と帰るの、ちょっと好きだから」
さらっと言うのに、目だけはちゃんと見てくる。
ずるい。
ずるいのに、嬉しい。
「風邪ひくよ」
「心配してくれるの?」
「……当たり前でしょ」
その瞬間、彼が少しだけ笑った。
まるで勝ったみたいに。
「じゃあ次は、ちゃんと一緒に帰れる日作るね」
それは約束というより、もう予定だった。
改札の向こうへ行く彼を見送る。
振り返った彼が、小さく手を振る。
今度は、迷わず振り返す。
雨の音はまだ続いているのに、
さっきよりずっと静かに感じた。
たぶんこれは、
好きって言葉の一歩手前の、いちばん甘い場所。
さっきより距離が近いのに、ちゃんと“まだ付き合ってない”のがポイント
こういう「もう好きなのに、まだ言わない時間」がいちばん甘い気がする。




