プロローグ
はじめまして。よろしくお願いいたします。
霧は重く、灰色のヴェールのように森の木々を包み込んでいた。
まるで世界そのものが、息をひそめているかのようだった。
冷たさは「気温」ではなく、「時間が凍った」ことによる静けさの残滓だった。
かつて四季が巡っていたこの森に、今はもう春も夏もない。
“変化”を失い、ただ記憶だけが漂う場所——セレンの森。
古びた葉の匂いがかすかに鼻をくすぐり、足元の落ち葉は湿り気を帯びていた。
踏みしめるたび微かな音が鳴るが、その響きすら霧の沈黙に吸い込まれていく。
木の幹には苔が厚く貼り付き、時折、朽ちた枝が風に揺れてカサリと小さく音を立てた。
霧の中、遠くで小さな動物の鳴き声がかすかに響き、その命の気配が森に静かな緊張感を与えている。
老人は、ゆっくりと杖を頼りに歩いていた。
背は曲がり、骨ばった指はかつての力強さを失っていた。
乱れた白髪と深い皺。瞳は虚空を見据えるように、遠い記憶の底を追いかけていた。
彼の歩みは遅く、しかし確かな意志を感じさせた。
かつて若き日の輝きは消え、今はただ一つの目的のために体を動かしている。
疲労と孤独にまみれながらも、彼の内には微かな火種が灯っていた。
この「セレンの森」は、彼が自らの終焉の地として選んだ場所だった。
誰にも見つからぬ静寂の中、ただひとり、死を受け入れるための場所。
三年前、忘れかけていたその名を、記憶の底からそっと掘り起こした。
その名が蘇った瞬間、彼の胸に込み上げたものは複雑だった。
懐かしさ、悔恨、そして最後の望み。
過去の自分と向き合うための決意がそこにあった。
森は想像より遥かに厳しかった。
雪も雨もないのに、霧がすべてを湿らせ、冷えが骨の芯にまで染みこんでくる。
その冷えは、じわじわと内側から命を削っていくようだった。
ましてや老いた身には苛酷すぎた。
壮年の男ですら、この森に数日留まれば生き延びられるかどうか——それほどの過酷さだった。
日に何度か光が変わることはあった。
しかし昼と夜の区別も曖昧なまま、旅はただ静かに続いた。
——その沈黙を裂くように、森の奥から低いうなり声が響いた。
獣の気配とともに、鋭い爪が落ち葉を掻き分ける音が近づいてきた。
赤い目が霧の中に浮かんでいる。深紅の光は、まるで血のように冷たく、明確な殺意を宿していた。
それは狼に似た姿をしていたが、ただの野生動物ではない。
まとわりつく気配には魔力が混じっていた。
獲物を見つければ、ためらいなく牙を突き立てるだろう。
かつての彼であれば、剣を抜き、真っ向から構えていただろう。
若き日の手は、鋼の重みに耐え、正確に、迅速に斬り結ぶことができた。
だが、今の彼に、もはや剣を振るう力はない。
それを自覚していたからこそ——旅立つ前に、剣を手にした祠へ返してきたのだ。
老人は杖を強く握り直し、ゆっくりと手を上げた。
呼吸は乱れず、だがその手には久しく使われていなかった魔力が宿っていた。
彼の魔法は、雷のように速くはない。
しかし、まるで長い眠りから目覚めた筋肉がぎこちなくも確かな動きを取り戻すように、ゆっくりと、でも確実に彼の意志に従った。
無詠唱で放たれた魔法は淡く光り、宙に浮かび、魔獣の進路を遮る。
その魔法は、彼にとって忘れていた古い感覚がほんの少し蘇るようなものだった。
長年休んでいた身体に流れる、僅かな力の息吹。
獣は一瞬たじろぎ、霧の中へと姿を消した。
老人は息を整え、再び歩みを進め、静けさが戻る。
だが、何かが劇的に変わるわけではない。
飢えをしのぐために、湿った地面からひとつひとつ木の実を拾い集め、
残された少ない魔力を振り絞って、わずかな水滴を集める日々。
それは決して尊厳のある生ではなかったが、彼の命をつなぐ最後の灯火だった。
老いた身は静かに力を失い、旅の記憶と現実の境は少しずつ溶けていった。
時折、遠くで響く獣の咆哮や、耳鳴りのような幻聴に心が揺らいだ。
だが彼は、ただ前に進むしかなかった。
彼はある一本の樹を探していた。
かつて若き日にこの森を訪れた折、目にした不思議な樹だった。
幹はねじれ、根は岩を砕き、夜になると葉先がほのかに光るように見えた。
あのとき確かに「言葉では捉えられぬ美しさ」を感じた。
だからこそ、終わりはあの樹のもとで、と彼は決めていた。
その樹に寄せる想いは、ただの死の場所以上の意味を持っていた。
彼の若き日の夢と希望、そして忘れられぬ約束。
それは彼にとって、生きてきた証でもあった。
——だが、その不思議な樹は、どこにもなかった。
森を彷徨い、魔物の気配を感じ、耳元の幻聴に導かれるまま歩き続けた。
もう何度、朝と夜が巡ったのかもわからないまま。
やがて食料は底を尽き、足は動かず、彼は崩れるように倒れ込んだ。
地面は冷たく、だが死ぬには十分な静けさがあった。
体の芯は空洞のように冷えきり、手足はしんと沈黙に沈んだ。
意識が霧に呑まれる中、まぶたは重く、もう何も映さぬよう閉じようとしていた。
(……情けないな……)
過ぎ去った日々の自分に、彼はそう呟いた。
無力さ、後悔、そして終わりを迎える自分への哀惜。
そのとき——微かな音が、空気を震わせた。
風のような、歌のような、誰かの囁きのような。
彼は顔だけをわずかに上げた。
霧の向こうに、"それ"はあった。
捜し続けた、あの樹。
ねじれた幹。淡く光る葉先。
かつての姿そのままに、彼を案じるように。
その樹のまわりには、小さな光が漂っていた。
それは、羽ばたくように舞い、木の枝や葉の間をゆらゆらと遊んでいる。
それは、妖精だった——
存在は知っていたが、目にするのは初めてだった。
揺れる暖かな光に、彼の胸の奥で何かがゆっくりと動いた。
美しい、と思った。
言葉を失っていたはずの彼の口から、かすれた声が漏れた。
「……なんで……今さら……」
それが、三年ぶりの言葉だった。
喉は乾いていた。声はかすれていた。
もう流れないと思った涙が、ほんの少しだけ頬を伝った。
その瞬間、彼の中で、何かがそっとほどけた。
「死に場所」だと思っていた木が、気づけば「生きてきた証」になっていた。
胸の奥に、かすかに灯るような熱が揺れた。
老人はただ、見とれていた。
まぶたの裏にまで焼きつくような光。
冷たい大地に身を預けたまま、まるで夢のように。
握ったままだった杖の先が、かすかに土を掻いた。
力の抜けた指先が、まだ何かを求めているようだった。
それが希望なのか、未練なのか——彼自身にももう、わからなかった。
妖精たちは、音もなくその輪を広げ、彼の上を静かに舞っていた。
風は止み、霧の粒だけが、ゆっくりと彼の体を包んでいく。
……ふと、光の輪の向こうに、ひとつの記憶が揺らいだ。
木漏れ日の下、あのねじれた幹の根元。
若い日のふたりが、黙って並んで腰かけていた。
何かを語った気もするし、ただ肩を並べて沈黙を共有していただけのような気もする。
彼女の笑い声が、霧の奥からかすかに聞こえたような気がした。
目を閉じれば、やわらかな髪が風に揺れていた情景が浮かぶ。
ほんの少し振り向いたその横顔を、彼はずっと見ていた。
どこかに置き去りにしてきた、あの微笑み。
本当はずっと、忘れてなどいなかった。
「リセ……」
喉から絞り出すように漏れた声は、かすれ、途切れ途切れだった。
名を呼んだだけで、胸の奥に絡まったものがほどけていくようだった。
あの時、伝えられなかった言葉も、届かなかった想いも、
すべてが今、霧のなかに溶けていく。
彼女がそこにいる気がして、もう一度、そっと唇が動いた。
「……ただいま……」
まぶたがゆっくりと閉じられ、彼の呼吸はやがて、かすかな吐息となって消えていった。
風も音も凪いだような空白の中、ひとつの光がふわりと揺れる。
小さな翅が霧の帳をすべり、ほんの一瞬だけ、彼の額へとそっと指先が伸びた。
ふれるか、ふれないか——その狭間で、妖精はひとつ瞬きを落とす。
その指先には、繊細な輝きがかすかに纏わりついていた。
やがてそれは、霧の奥へと溶け込んでいった。
——エル=アルカ暦一三七二年
《亡国の英雄》リオネル・レンヴァルト、セレンの森にて永き旅路を終える