12日目
鍵を開けて家に入った瞬間、
エリは深く、静かに息をついた。
(……戻ってきちゃった)
玄関で靴を脱ぎながら、ふと見た指先に、
タクヤの体温が残っている気がして
すぐに首を振る。
(ダメ……)
キッチンの明かりをつけると、
何も変わらない日常があった。
乾いた茶碗、洗って伏せてあるまな板。
電子レンジの横に、昨日使いかけたカレールウ。
けれど、彼女の中にはまるで「別の世界」の風が吹いていた。
(なにやってるんだろ、私……)
トントン、とまな板の上で人参を刻みながら、
エリは手元を見つめたまま、自問する。
「少しだけ寄っていっていい?」
そう言ったときの自分の声。
それは、明らかに震えていた。
でも、抑えられなかった。
あのとき、ほんの30秒の沈黙があったら
自分でも気持ちを引っ込めていたかもしれない。
でもタクヤは、笑って受け入れた。
“待っていた”という顔で、まっすぐに。
(……嬉しかった)
エリは包丁を止めた。
“嬉しい”なんて、そんな気持ち...
感じてはいけなかったはずなのに。
数分で終わった、主婦仲間との世間話。
でもその間、ずっと頭の中では、
タクヤの顔がちらついていた。
(今、タクヤくんはどうしてる?)
(私が行くのを、待ってたのに)
(……私も、行きたかったのに)
手のひらで口元を押さえ、ひとつ、息を吐く。
自分の中で、“妻としての正しさ”と、“女としての本能”
が激しくぶつかり合っていた。
今からでも理由をつけて彼の家に...
(……そんな勇気、あるわけない)
彼のアパートの前に立ったときの胸の高鳴り。
もう理性なんて保てなかった。
だからきっと、あの声がかかったことは
「助け舟」だったのかもしれない...でも。
(あのまま、タクヤくんの部屋に入ってたら)
(どんな風に、抱きしめられたんだろう)
(どんな声で、私の名前を呼んでくれたんだろう)
欲望がじわりと胸の奥に滲んでいく。
唇が、自然に指先を求める。
(私...こんなに、欲しがってるんだ)
ママ~ごはんまだ~ 腹減った~
娘とタカシの声。
エリは、何事もなかったかのように微笑んだ。
まな板の上のじゃがいもに目を落としながら、
その心は、まだタクヤの隣に座っていた。