10日目
エリの声は、驚くほど穏やかだった。
けれどタクヤの胸は、一瞬にして跳ね上がった。
鼓動の音が、自分にもエリにも
聞こえてしまうのではないかと思うほどに。
エリの表情はどこか照れくさそうで、
でも覚悟のようなものがにじんでいた。
パート終わりの帰宅時間は、いつも決まっている。
娘の帰宅前に、夕食の支度を始めなければならない。
1~2時間遅くなるなど、現実的にあり得ない。
だからせめて30分。いや、30分弱。
タクヤは一瞬目を見開いたが、
すぐに口元を綻ばせた。
「……うん。うれしい」
互いに言葉を交わさぬまま、
アパートの前で並んで歩き出す。
入口まではほんの数十歩。
けれどその間に、エリは何度も自分の心臓の音を聞いた。
だが、そのとき。
「山本さん?」
背後からかけられた声に、
エリの背筋が緊張でこわばった。
(え……)
振り返ると、娘の同級生のお母さんが立っていた。
エリと同じくパート帰りらしく、
手にエコバッグを提げている。
(……よりにもよって、こんなときに)
そうだ。タクヤの家は校区内。
エリの働くファミレスもこの地域にある。
アパートだって、校区の端に過ぎない。
タクヤの住む建物に知人がいても、不思議ではない
そう、不思議ではないが、まずい。
「お疲れ様です、山本さん」
「……あ、どうも。お疲れ様です」
タクヤはさりげなくエリに頭を下げると、
「それじゃあ」とだけ言って、
一人でアパートのドアへ消えていった。
その後ろ姿が頼もしくも、切なくも見えた。
(ごめん……)
エリの胸に、言いようのない重さが落ちてきた。
そのまま世間話が始まる。
「ファミレスでバイトしてる子なのよ」
咄嗟に口にした説明は、どこか拙く、言い訳じみて聞こえた。
でも、聞いた相手は特に詮索もしない。
ただ軽く笑ってうなずくだけ。
けれどエリの脳裏では、
先ほどのタクヤの表情ばかりが繰り返し浮かんでいた。
ようやく会話を切り上げ、家に着いたとき、
エリは台所に立っていても、鍋の蓋を開けても、
何をしていてもタクヤの笑顔を思い出していた。
(ほんの数歩だったのに……近づいたはずだったのに……)
すぐ隣で、確かにあったはずの“あの時間”が、
手のひらからすり抜けるように消えていく。
エリは静かにエプロンの紐を結んだ。
それが、自分の罪を縛る縄であることに、
気づいていながら。