第四十二話 出現
「おいッ! ここは危険――ッ!? 貴様らかッ! 何の用だッ!」
「やはり、こうなりましたか……」
レイは内心、頭を抱えていた。
レイが見つけた気配の正体は、やはり【紅】だった。
それだけならまだ良い。
しかし、それが先日一戦交えたばかりの【紅】の副隊長、乾美春ともなれば、レイも自身の運のなさを嘆きたくなると言うものだ。
乾はもう一人【紅】の隊員を連れていたが、そちらもレイのことを鋭く睨みつけており、こちらも友好的とは言い難い。
唯一の味方と言ってよい存在であるはずのランは、退屈そうに空を見上げており、完全に頼りになっていなかった。
レイは頑張って状況を説明しようと試みた。
「私たちも……」
「野良犬めがッ! 獲物を横取りしようと考えているのだろうが、そうは問屋が卸さんぞッ!」
「いえ、そういうわけでは……」
「失せろッ! 犯罪者がッ!」
……やはり、会話にならない。
レイは深々とため息を吐きたくなった。
もちろん、レイには【紅】への蟠りなどない。
自分が【黒】であるという点を加味しても、これほどまで憎悪を向けられるような心当たりもなかった。
ただし、レイはこの時、先日の「レイの偽物騒動」のことを失念していた。
レイの偽物が【紅】に襲い掛かり、ひとりを意識不明にした挙句、乾と交戦したという事件は、レイにとっては風評被害以外の何ものでもなかったからである。
彼女にとっても、あれは不可解な事件だった。被害者である、と言ってもいい。
ただし、【紅】にとっては、見方が全く異なる。
【紅】からすれば、レイが偽物であるなどということは思いもよらないことであったし、たとえ懇切丁寧に説明しても信じなかったに違いない。
当然、乾はレイのことを「突然襲いかかってきて後輩に重傷を負わせた危険人物」だと認識していた。
それどころか、彼女は内心、容易く自身の【心理能力】をあしらって見せたレイに対し、恐れと悔しさが入り混じった複雑な感情を抱いていた。
そんな二人が出会ってしまったのだから、諍いになるのも当然というものだ。
とはいえ、レイの方に隔意は全くなかったので、乾が一方的に吠えているという状態だったが。
乾は相変わらず激高していたし、レイは文字通りキャンキャン吠えている乾に辟易とし始めていた。
とうとう周囲も吹雪に覆われ、視界も狭まりつつあった。
こんなところで油を売っているわけにはいかない。
この吹雪の中、今も【巨足】が獲物を狙っているかも知れないのだ。
そんなふうに考えていたレイの思考は、苛立ちと焦燥に支配されていた。
この時、周囲への警戒を怠っていたレイのことを、責めることはできないだろう。
だからこそ、彼女は“それ”を聞き逃してしまった。
「あ、【巨足】や」
「ラン! 冗談にしては不謹……慎……」
空を見上げながら、気の抜けた声でふざけたことを言い出したランを咎めようとしたレイの声は、小さく萎んでいった。
なぜなら、レイの優れた聴覚が、吹雪に紛れた微かな風切り音を捉えたからである。
その音は、徐々に大きくなってきていた。
何か巨大なものが飛んでくる時のようなバタバタという音が、徐々に接近してくる。
レイが慌てて上を見上げた途端。
“それ”が、空から降ってきた。
ずん、と地響きを立てて、“それ”は着地した。
吹雪によって新たに地面を覆っていた雪がもうもうと舞い上がり、ただでさえ悪い視界を真っ白に染め上げる。
レイは反射的に顔を庇いながらも、白霞の向こう側にいる“それ”を見た。
“それ” は、例えるなら巨大な猿だった。
隊長は5〜6mと言ったところだろうか。
頭や掌、足といった部位が極端に肥大しており、輪郭は歪な粘土細工のようだ。
顔や胸元といった一部を除き、真っ白な長毛が全身をびっしりと覆っている。
白い体毛がバタバタとはためいているため、真っ白な吹雪の中では輪郭がぼやけて見える。かなりの大きさにも関わらず、ともすれば、その姿を見失ってしまいそうだった。
何よりも印象的なのは、その眼球だった。
レイの知る猿とは異なり、ぶくぶくに膨れた眼球は、むしろ魚類のそれに近い。
体毛の中に埋まっている巨大な眼は左右別々に蠢きながら、目の前の獲物――つまり、レイたちのことだ――を睨め付けている。
これが、【巨足】。
一つの街を恐怖に陥れた、Aレートかつ名付き級の【外魔】だ。
そんな【巨足】であるが、ひどく興奮しているようだった。
息遣いも荒く、びゅうびゅうと吹き荒ぶ雪の音に紛れ、ぶぅぶぅという醜い鼻息が聞こえてくる。
そして、不思議なことに、【巨足】は既に負傷していた。
全身が血と泥で汚れ、豊かな毛並みがところどころ虫食いのように剥がれている。
右腕には銃弾によって穿たれたような穴が空いており、そこからドロドロと油ぎった血液が流れ出していた。
討伐対として出ている【紅】と、どこかで交戦してきたのかもしれない。
そこまで考えたとき、レイは【巨足】が空から降ってきたのではなく、長距離を跳躍してきたのだと気がついた。こいつは、ここまで跳んで逃げてきたのだ。
【巨足】の非常識かつ唐突な登場のせいで、二人の【紅】は一瞬だけ呆然と立ち尽くしてしまった。
しかし、その一瞬が命取りだった。
【巨足】は見た目にそぐわぬ俊敏さで腕を振り上げると、その巨大な拳を思い切り振り下ろした。
轟音。
山積した雪が粉塵のように舞い上がり、その下の地面が捲れ上がった。
強かに肉を打つ音が上がった直後、ぼたぼたと血の溢れる音が周囲に響く。
「グゥ……?」
不思議そうに、【巨足】が自身の拳をしげしげと見つめる。
硬く握り込まれていたはずの拳がわずかに裂け、そこから血が滴っていた。
そんな様子を、反応できなかった乾ともう一人の【紅】メンバーは、呆然と眺めていた。
そう、「眺める」ことができていた。
思い切り振り下された【巨足】の拳は、即座に飛び込んだレイによって、正面から受け止められていたのだ。
彼女の【心理能力】は《魔女》。
不可視のエネルギーである〈魔力〉を生み出し、自在に操作する能力である。
レイ以外には一切干渉できない〈魔力〉であるが、彼女にかかれば、凝縮して銃弾のように放つことも、厚く展開して盾のようにすることもできる。
凄まじい硬度を誇るそれは、殴りつければ逆に負傷してしまうほど。
力任せに振り下ろされた【外魔】の拳を防ぐことなど、児戯にも等しい。
レイに命を救われたことに、遅まきながら気がついた【紅】の二人は、大きく遅れをとりながらも、ようやく臨戦体制に入った。刀を抜き、慌てて【巨足】めがけて構える。
しかし、その表情はいずれも優れない。
乾は毛嫌いしていた【黒】に命を救われたことに屈辱と怒りを感じていたし、彼女とペアを組んでいるもう一人は、【巨足】の一撃に反応できなかったことに顔色を悪くしていた。下手をすれば即座に死んでいたという事実が、彼女の戦意を低下させていたのである。その証拠に、彼女の持つ刀は、微かにカタカタと震えている。
だからこそ、彼女は選択を間違えた。
「――し、【心理能力】! 《火球》ッ!」
「ば、馬鹿ッ!」
「うわっ」
乾が叫ぶが、既に彼女の【心理能力】は発動していた。
慌ててレイが火球を避け、その直ぐ側をゴウと音を立てて通り過ぎた《火球》が、【巨足】の胸元を直撃する。
しかし……。
「グゥッ!? ……グゥ……?」
少し驚いたように、その巨大な目を瞬かせただけで、【巨足】にダメージは一切及んでいない。それどころか、《火球》が直撃した箇所をぼりぼりと掻いている始末だ。
乾のペアを務めていた【紅】の少女の名前は高崎という。
そして彼女の【心理能力】は《火球》。
文字通り、火炎を球体にして打ち出す能力だ。
普段なら爆発的な威力を発揮するはずの《火球》であったが、今回は【巨足】に何の痛痒も与えてはいなかった。
「やはり、上位個体かッ! ……お前程度では相手にならんぞッ!」
焦ったように乾が叫ぶ。
一概に【外魔】と言っても千差万別で、全ての個体がそれぞれ別の特徴を持つ。
そのため、基本的には、【外魔】同士には特定の共通点は存在しない。
ただ、階級のようなものは存在しており、それぞれ特殊個体、最上位個体、上位個体、下位個体、最下位個体と分類することができる。
この分類は大雑把なものであるが、【外魔】の持つ知性と強度、そして【心理能力】への耐性によって決まる。そして、この【巨足】は上位個体だった。
高崎の【火球】は4等級の【心理能力】である。
【心理能力】の平均値が2.5等級であることからして、かなり強力な能力であると言える。しかし、その程度では、【巨足】の【心理防壁】を破ることはできなかった。
結果として、高崎の能力は不発となった。
そして、自身の能力を無効化された高崎は、呆然とその場に立ち竦んでしまった。
「グオォォォォーーッ!」
そんな隙を許してくれるほど、【外魔】は優しくない。
【巨足】は雄叫びを上げ、その巨大な腕を高崎目掛けて振り下ろした。
「――高崎ッ!」
「……ごほっ!」
しかし、いつまでも呆然としているほど、乾も無能ではなかった。
彼女の【心理能力】である《跳躍》を使い、立ち尽くしている高崎を突き飛ばす。
結果として、【巨足】の攻撃は空を切った。
ズシンという地響きとともに、巨大な拳が雪の降り積もった地面を揺らす。
《跳躍》によって突き飛ばされた高崎は、地面にうずくまったまま動けないでいるようだった。乾によって救われたとは言え、本来《跳躍》は攻撃用の【心理能力】だ。
その直撃を受けているのだから、致命傷を避けることはできたとはいえ、それなりの深手を負ってしまったのだろう。
乾もそれが分かっているからか、その顔色は悪い。
先ほどの回避は、あくまで時間稼ぎにしかならないと分かっているのだ。
高崎は戦力にならない上に、直ぐには動けない状態だ。
そして乾ひとりでは、目の前の【巨足】に敵わない。
「……くッ!」
自分を見下ろしている【巨足】の巨大な目が、ニタリと細められた気がした。
【巨足】もまた、目の前の乾たちが単なる獲物に過ぎないと分かっているかのようだった。
絶体絶命。
そう思われた時――。
――ドガン!!
いやらしく笑っていた【巨足】の顔面で、何かが凄まじい轟音と共に弾けた。
「グオォォォォ……!」
明らかに苦痛と分かる声をあげながら、【巨足】が顔を手で覆う。
その指の隙間から、ドロドロと眼球だったものがこぼれ落ちていった。
強力な【心理能力】である【火球】でも火傷ひとつなかった【巨足】が、今は重傷を負い、嘘のように悶え苦しんでいる。
いったい、何が起こったのか。
「……ここは任せてください。お二人は避難を」
何のことはない。
無防備だった【巨足】に、レイの【心理能力】が炸裂したのである。
レイの《魔女》は、〈魔力〉を練り上げることで弾丸のように射出することが可能だ。
その威力は、上級【外魔】にさえ痛撃を与えるほどに高い。
乾は親の仇かのように、レイと【巨足】とを交互に睨んだ。
【黒】への敵愾心や対抗心と、目の前の【巨足】の脅威とを比較しているのだろう。
しかし最後に、地面で蹲ったままの高崎が視界に入った時、彼女の心は決まったようだった。乾は歯をギリギリと食いしばると、レイに向かって怒鳴る。
「……くそッ! ここは任せるッ!」
「承知しました。お気をつけて」
乾は高崎を担ぎ上げると、最後にレイのことを一睨みしてから、《跳躍》でその場からかき消えた。彼女の【心理能力】で、一瞬でその場から離脱したのだ。
これで、その場に残ったのは、レイと【巨足】、そしてやる気なくそっぽを向いたままのランだけになった。
「……さて、これで心置きなく戦えますね」
「グオォォォォォォォォォ!!」
冷静にそう呟くレイに対して、眼球を潰された【巨足】は痛みと怒りで咆哮する。
その場でどすん、どすんと巨大な足を踏み鳴らし、レイのことを許さぬといった構えだ。
いよいよ戦いの火蓋が切って落とされる……。
と、その瞬間だった。
「ポチッとな」
「――ッ!? 何が……!?」
ランが何事か呟いた途端、レイの身体を急激な脱力感が襲った。
身に纏っていた〈魔力〉が霧散し、練り固めていた力も同様に消えていく。
「これは……!?」
レイが慌ててランの方を振り返ると、その手には小さなリモコンのようなものが握られていた。状況的に、あの装置でレイに何かしたに違いない。
「ラン!?」
「あ、これ? 首輪の制御装置。レイちゃんの【心理能力】の射程をゼロにしといたで」
「なぜ!?」
あっけらかんと言うランに対して、レイは悲鳴に近い声で問いかけた。
ランが【死神】にとっての(文字通り)命綱とも言える【首輪】の制御装置を持っていたことも驚きだったが、戦闘前に【心理能力】を使用不可にされたレイの衝撃はそれを上回っていた。
「いやぁ、レイちゃん強すぎるからなー。ハンデや、ハンデ!」
「ふ」
「グオォォォォッ!」
ふざけるな! と怒鳴りつけようとした矢先、痺れを切らした【巨足】が背後から拳を振り下ろしてきた。
〈魔力〉による防御壁を封じられているレイは、慌てて横っ飛びに転がる。
彼女の黒い軍服と長髪が雪に塗れ、一気に白く染まった。
「ほんじゃ、危なくなったら助けに入るから! さいなら!」
「こ、こらっ! 逃げるなら、制限を解除してから……っ!」
レイは叫んだが、ランの姿は既に吹雪の向こう側へと消えていた。
文字通り目にも止まらぬ速度で、その場から離脱したに違いない。
一瞬でレイの感知範囲から逃げ出した実力は評価されるべきだったが、今はそれどころではなかった。
何せ、【心理能力】を封じられた状態で、怒り狂った【巨足】と一緒に置き去りにされたのだから。
「グオォォォォ!」
「……いったい、どうしろと言うんですか……」
目の前の怪物を睨み据えながら、途方にくれたレイは、そう呟く。
吹雪にそよぐ彼女の後ろ姿は、隠しきれない哀愁に満ちていた。




