第二十五話 雪山にて
見渡す限りの白。
荒々しく自然によって削り出された岩も、冷たい大地から鋭く突き出した木々も、
その全てが、隙間なく降り積もった氷雪によって、びっしりとコーティングされている。
頭上に広がるのは、深海を思わせるような重い濃紺の夜空。
その中を、毒々しく光る黄色の月が不気味に揺蕩っていた。
一面が純白に塗りつぶされた北部の森は、まるで一枚の絵画のように幻想的で美しい。
だが、実際にこの地を訪れてみれば、呑気に雪景色の美しさを鑑賞できるような場所ではないと即座に悟るはずだ。
立っているだけで容赦無く体温を奪い去っていく極寒の気候と、のっぺりと特徴のない無数の木々が織りなす迷路によって、この地は神聖皇国の中でも5指に入るほど恐ろしく、そして過酷な魔境と化していた。
狩猟や採集などで生計を立てている地元住民でさえ、ここまで深い場所にはそうそう立ち入ることはない。ましてや、月が出ているとは言え、今は深夜である。
ここで暮らしている野生動物たちも、深く積もった雪の下や、樹木の陰、あるいは自身の巣穴にひっそりと身を潜めており、この凍てついた世界に現れることはない。
いつもなら、冷たい白銀の上に影を落とすような存在は、小鼠の一匹すらいないはずだった。
――そう、いつもなら。
白く染まった森の、さらにその奥。
とりわけ太く大きな樹木の陰に隠れるように、一人の少女が蹲っていた。
歳の程は16歳前後だろうか。
まだ少しあどけなさが残る容姿はそれなりに整っていたが、派手なメイクや華美な装飾品によって、彼女の個性はすっかり塗りつぶされてしまっている。
そればかりか、派手なワインレッドのコートや、光沢のある上等な皮のブーツが、ただでさえ華美な彼女のことを、一層ゴテゴテと飾り立てていた。
ただし、身に付けているものからは、ひと目見ただけでそれと分かるような上質さが窺えた。田舎街に住む娘の装いにしては、少しばかり金が掛かっているようだ。
もしここが学園内であったなら、派手な化粧にせよ高価な服にせよ(例えあまり似合っていなくとも)彼女をそれなりに引き立ててくれるはずだった。
だが、今は見る影もない。
はっきり言って、ひどく惨めな有様だった。
コートはあちこち破けたり解れたりしており、何とか服としての体裁を保っているといった有様である。
彼女のブーツも冷たい泥水をぐっしょりと吸って、元の上質な色彩は、既にすっかり損なわれていた。
年齢に見合わぬ濃い化粧すらも、彼女の汗や涙でほとんど押し流されてしまっており、その奥には彼女本来の容姿を垣間見ることができた。
背伸びしたメイクとは裏腹に、年相応のあどけなさを残す美しい顔立ちである。
しかし、その顔は恐怖と疲労ですっかりやつれ、一晩にして倍は老け込んでしまったかのようだった。元が着飾っていた分、彼女の今の様子は、いっそう痛々しく見える。
そんな無惨な姿の少女は、木の陰でガタガタと震えていた。無理もない。
吐息に含まれるわずかな水蒸気でさえ、即座に氷結してしまうような環境なのだ。
今の少女の装いも、とてもではないがこの場所にふさわしいものとは言えない。
多少は寒さを凌いでくれるだろうが、この雪山では大した意味を為さないだろう。
少女が顔を青くして震えるのも、当然だと言える。
しかし、彼女が震えている原因は、単なる寒さのせいなどではない。
むしろ、深夜の雪山だというのに彼女の心臓は、今もバクバクと早鐘を打っている。
――“あいつ”が来る。
最初は、父親だった。
酒癖は悪かったが、その分うんと甘やかしてくれた。
逃げる母親と少女を守ろうと二人の前に立ちはだかったが、呆気なく“あいつ”に握りつぶされて死んだ。
次は母親。
口うるさかったけれど、大切な場面ではいつも自分を助けてくれた。
大声を出しながら、少女とは別方向に逃げて“あいつ”の気を引こうとしてくれたが、ついさっき聞こえてきた絶叫から察するに、もう既に彼女も事切れているのだろう。
そして……きっと次は、自分の番だ。
少女にも、既にそのことは何となく分かっていた。
だが、恐怖は理屈ではない。
両親を失った悲しみよりも、今はただひたすら恐ろしかった。
――パキッ
それは、ほんの小さな音だった。
凍りついた枝がへし折れたら、きっとこんな音がするのだろう。
普段なら気にも留めないような、微かな音である。
しかし、それを聞いた少女は、その小柄な身体をびくりと大きく震わせた。
――今の音は、それほど遠くからのものではなかった。
見つかるかもしれないという恐怖から、少女はその身をいっそう縮こまらせる。
――どうして、こんなことになったのだろう。
少女は自問する。
容姿にも恵まれたし、学園での成績も悪くなかった。
学園でも常にカースト上位にいた自信があるし、家でも上手くやっていたと思う。
確かに少しばかりヤンチャしたが、ここまで酷い目に遭うのは間違っている。
それなのに、いったい何が悪かったのか。
ひょっとすると、あれがいけなかったのだろうか。
あるいは……。
その時、フッと周囲が暗くなった。
少女の隠れている場所にも、大きな影が落ちる。
月が雲に隠れたのだろうか。
少女は一瞬そう考えたが、即座に自らそれを否定した。
――周囲が明る過ぎる。
今夜は大きな月が出ている。
岩も木々も、周囲にあった自然物は全て、くっきりとした影帽子を連れている。
だが、よく見てみれば、影が落ちているのは自分の周囲だけだ。
恐る恐る、少女は顔を上げる。
そこに彼女は、黄色く濁った月を見た。
彼女を睥睨する、二つの月を。
獲物を見つけた二つの満月は、徐々にその形を三日月へと変えていった。
――嗤ったのだ。
“それ”を認識した瞬間、少女は全身の皮膚が泡立つような感覚に襲われた。
“それ”が浮かべた表情の中から滲み出していたものは、野生動物が獲物へ向けるような、単なる敵意や害意などではなかった。
それは、紛れもない悪意だった。
“それ”は明らかに、怯える少女を嘲っていた。
何もできず、無様な格好で逃げ隠れすることしかできない彼女に向かって、無言で「ざまあみろ」と言っているかのようだった。
たっぷり数秒間も凍りついたように“それ”を見つめていた少女は、ようやく我に帰り、慌てて逃げ出そうとした。だが、もう遅い。遅すぎた。
深夜の雪山に、少女の断末魔の悲鳴が響いた。
純白のキャンバスの上に、パッと鮮やかな紅色が散る。
冷たくキンと澄んだ空気の中に、生臭く、粘り気を帯びた異臭が混じった。
しばらくの間、悲鳴は断続的に聞こえ続けていたが、徐々に何も聞こえなくなった。
深紅に染まった雪を覆い隠すように、新たな雪が降り積もっていく。
時間が経つにつれ、何事もなかったかのように殺戮の痕跡は消えていった。
やがて、山は静寂を取り戻した。
物言わぬ骸を思わせるような……ゾッとするほど、冷たい静寂を。
***
神聖皇国は、大きく分けて9の州部と、それを構成する無数の地区からできている。
数が多いとはいえ、名称はいずれも極めてシンプルだ。
まずは、女皇陛下が座す【中央部】。
神聖皇国の首都である【光都】が存在する【陽光地区】や、それをドーナツ状に取り囲む【月影地区】などから成る、最も小さく最も重要な州部である。
中央部に隣接するのは【東北部】【南西部】【北西部】【南東部】の四つ。
先日、【黒】こと【死神】の手によって壊滅させられた人身売買組織が拠点としていた【水端】は、このうちの【南東部】に位置する中級都市のひとつだ。
そして、国土の辺境をぐるりと取り囲んでいるのは、【北部】【東部】【南部】【西部】の4つの州部。【外界】と接するこれらの地区は、それなりの戦力を保有しており、領土も広い。
しかしながら、【外界】と皇国とを直接隔てているが故に中央部から遠く、有事の際には中央部からの対応が遅れる、と言うことも少なからずあった。
例えば、自然災害や、凶悪な心理能力犯罪の発生などが挙げられる。
いずれも都市機能に甚大なダメージを与える可能性があり、それ以上に多くの命が失われかねないため、皇国が誇る精鋭部隊が対応にあたることになる。
女皇陛下が座す【中央部】に近づくほど人口密度が上がり、同時に都市の規模も大きくなっていく。そのため精鋭部隊の出動は、より人的被害が拡大しやすい【中央部】から優先して行われることが多い。
非情かもしれないが、同じ事件・災害であっても、辺境で発生した場合と都市部で発生した場合とで優先度が異なるのは、まぁ妥当な判断と言えるだろう。
ただ、辺境で発生する災害の中でも、唯一高い優先度に設定されているものがある。
これに対処するためだけに、【紅】と呼ばれる精鋭部隊が設立されているほどだ。
それは、神聖皇国の外延部でのみ発生する災害。
それこそが、【外界】からの侵入者――すなわち皇国内に入り込んだ【外魔】の存在だ。
奴らは人間を殺し、捕食し、虐げ、犯すためだけに生きている。
発生し得る人的被害は、自然災害や人災の比ではない。
そのため国内に侵入した【外魔】への対処は、神聖皇国にとって最優先事項の一つとされている。




