第二十三話 忘れ物
「ふぁ……ぁ」
硬いベッドの上に身を起こしたレイは、控えめな欠伸をしながら大きく伸びをした。
普段のキリリとしたポーカーフェイスも、この寝起きの瞬間だけは“へんにょり”と言った具合に緩んでいる。
しばらく目覚めた格好のまま目を擦っていたレイは、やがてベッドを降り、テラス窓へと近づいていった。
彼女が分厚く埃っぽいカーテンを開け放つと、粗悪なガラスから差し込んだ日光が柔らかい態度で彼女を迎えた。
僅かな眩しさに目を細めたレイは、そのまま厚ぼったい窓に手をかけ、外向きにバタンと開く。途端に早朝特有の冷たい空気がレイの白い肌をくすぐるが、それすらもどこか心地良く感じられた。
窓の外には、【水端】の整然とした街並みが広がっている。
つい昨日、この町から一つの大きな犯罪組織が駆逐されたというのも手伝って、今のレイには、この街並みが訪れた時よりも美しく感じられた。
久しぶりに爽快感のある目覚めだ。
体調もいい。
それにこの後はレイとの約束通り、一緒にこの街を散策する予定だった。
そんなわけで、今朝のレイの機嫌はすこぶる良かった。
彼女は鼻歌混じりに安っぽい備え付けの寝巻きを脱ぎ捨てると、いつもの黒い軍服……ではなく、数少ない私服に袖を通した。
飾りっ気のない紺のブラウスに、細身の黒いパンツという格好だ。
傍目にはポーカーフェイスのまま、ふんふんと機嫌良さそうに鼻を鳴らしている彼女の姿は、なんだか非常にちぐはぐで、同時にどこか可愛らしくもあった。
***
「ふふ……朝からいい食べっぷりですね♪」
「……ング、すみません」
「いえいえ、構いませんよ? よく食べる人は、見ていて気持ちがいいですからね♪」
そんなエルの言葉に、少しだけ恥ずかしそうに頭を下げたレイは、再び山盛りの朝食に取り掛かった。
やや硬めのどっしりとした黒パンは表面がパリッとするまで焼き上げられていて、まだほのかに香ばしい湯気が立ち昇っている。輪切りにされた黒パンの上には、この街の周辺で採れた果実のジャムがたっぷりと塗りつけられており、鮮やかな色彩が目にも楽しい。
シャキッとした歯応えを残した新鮮な野菜を、ナッツから作られた香りの良いドレッシングで和えたサラダや、甘味の強い根菜類を溶かし込んだスープの皿のそばには、旨味の強いチーズや蜂蜜を垂らしたヨーグルトといった乳製品がいくつも並んでいる。
極め付けは、大皿に盛られた燻製肉と腸詰だ。
カリッとするまで炙られた肉からは、保存用の食品に特有の塩気と、口の中でジュワッと溶け出す脂の甘みが感じられた。
メニューそのものはそれほど豪華なものではないが、朝食にしてはかなり量が多い。
どっさりとバスケットに盛られた黒パンだけでも、優に数人前はあるだろう。
それら全てが、かなりの速度でレイの腹に収まっていく。
彼女は、見た目から想像もつかないほど健啖なのだった。
場合によってはマナーが悪いと評されるほどのスピードであったが、丁寧かつ異常に素早い咀嚼のせいか、不思議と下品な印象は受けない。
ちなみに、その向かいに座っているエルの前には、温かな紅茶が注がれたティーカップと、小ぶりのパンがふたつ盛られた皿だけが置かれている。
ただ、レイの前で積み上がっている黒パンとは異なるタイプのパンだった。
月のような形状をしており、ザクザクとした食感とバターの香りが楽しめる、「くろわっさん」という名前のパンである。田舎暮らしのレイは、これまで見たことのないパンだったが、交易が盛んなこの街では、やや高価ながらも比較的メジャーなものだという。
その「くろわっさん」を上品に齧りつつ、エルはニコニコしながらレイを眺めていた。
単純に、レイの食べっぷりが微笑ましかったのである。
エルはかなり少食な方で、過去の経験から肉を食べることができない。
魚や乳製品は問題なく食べられるし、少量の干し肉ぐらいなら大丈夫だ。
要するに、「肉」っぽさがあるものがダメなのだ。
(容赦なく犯罪者を血祭りにあげる彼女からは想像もできないが)
そんな彼女からすれば、よく食べるレイの姿を見ていると、少し羨ましくもあり、同時に嬉しくもあるのだった。
それに、このホテルで提供されるような食事は、いずれも決して高級品ではない。
エルからすれば、黒パンはボソボソとした舌触りだったし、ジャムも砂糖が少なめなせいか、甘さよりも酸っぱさが強調される味付けになっていた。
彼女の前にあるクロワッサンも、無理を言って用意立ててもらったものなのだ。
その食事に文句を言うこともなく、いかにも美味そうに頬張っているレイの姿は、エルにとっては何とも可愛らしく映ったのだった。
一方、エルに見つめられているレイは、少しばかり落ち着かない気分にさせられたものの、彼女の中では食欲が優先されたようで、その意識は即座に目の前の朝食へと戻っていった。グレイの制服を着た従業員が忙しく厨房と彼女たちのテーブルとを行き来し、レイの手もそれに合わせて皿と口とを猛スピードで往復する。
安ホテルにしては、接客は非常に丁寧だ。
彼女のグラスが空になると、冷えたミルクを注いでくれるという奉仕っぷりだった。
彼女たちの他に利用客はいないようで、それほど広くないフロアが一層がらんとして見える。
普通なら、地方の安物ホテルでは、ここまでのサービスは望めない。
実はここ「黒崎ホテル」は、名前の中に【黒】が入っている通り、【死神】の手が掛かった拠点のうちの一つでもあるのだ。
【死神】のメンバーには、時に隠密行動や、素性を詮索しない場所での長期潜伏が求められることもある。このホテルの支配人は【死神】の下部組織にあたる人間が担当しており、平時は通常のホテルと同じように営業しているが、任務の際にはこうやって場所や食事を提供してくれるのだった。
今回は早期解決が望まれる任務だったため、深夜の受け入れや部屋の貸切などといった形で、【死神】の2人は手厚いサポートを受けていた。
既に任務は完了しているものの、寝泊まりする場所の提供や食事の増量ぐらいなら、こうやって融通を効かせてくれるのである。
黒パンの最後の一欠片まで完食し、最後にコップに注がれたミルクをこくこくと飲み干したレイが手を合わせると、既に食べ終わっていたエルが感心したように言った。
「……いつ見ても、よく食べますねぇ……。そんなにお腹も膨れているように見えないのに……不思議です」
「昔からなんです。燃費が悪いので、孤児院でも“学園”でも苦労しました」
「……ふふ♪ 私たち【黒】にとって、食事や衣服といった生活補助が受けられる、と言う点だけは恵まれてますものね♪」
エルの言葉に、レイは肩をすくめながらいった。
「お給料は出ませんけどね」
「あら、出ますよ? 歩合制ですけど」
「……えっ」
エルの言葉に、レイは思わず彼女の顔をまじまじと見た。
レイは【死神】になってから、一度も給料なるものをもらっていなかったので、てっきり給金は出ないものだと思っていたのだった。
驚いたように問いかけるレイに対し、エルは困ったような顔で説明する。
「うーん……。「お給料」という言葉は、確かに少し正確ではなかったかもしれませんね……。要するに、大きな任務を完了させる度に与えられる報奨金みたいなものがあるんですよ♪ 額は大したことありませんが、使途については指定されていませんので、実質お給料みたいなものですね。……だから、今回はレイにも自分で使えるお金が入ってくるはずですよ♪」
エルの言葉に、レイはなるほどと頷いた。
「そうだったんですか……。でも、少し意外ですね」
「あら? 何がです?」
「我々は、既に人間扱いされていないものとばかり思っていたもので」
「あぁ……そう言うことですか」
レイの言葉を聞いて微苦笑するエルは、彼女の疑問に答えた。
「確かに私たちは「死刑囚」です。既に記録状は死亡しており、皇国の所有する「道具」扱いになっているわけですが……道具とはいえ【心理能力】を持っています。【心理能力】は使用者の精神状態に左右されますから、食事や衣服にしても報奨金にしても、健全な精神状態を保つための必要経費……言わばメンテナンス料みたいなものですね♪」
レイは納得しながらエルの話を聞いていた。
例えば刀などは、どんな高級品であっても、定期的に研いでやったり汚れを落としてやったりしなければ、あっという間に劣化してしまい、粗悪な量産品と変わらない性能になってしまう。かつて彼女のいた“学園”では、武器の整備を自分で行っていたので、そのことは身に染みてよく分かっていた。
ちなみに自分達が道具扱いされていることについては、今更思うところはない。
事実として彼女たちの記録は既に抹消されているし、その身体には死刑囚の証であるタトゥーが刻まれている。
何より、レイは自身の犯した罪から目を背けるつもりもなかった。
エルは頷きつつ話を聞いているレイの様子を見ながら、言葉を続けた。
「……昔は、【死神】たちを無給かつ無休で働かせていたそうなんですが……とある出来事があって、相応のリスクがあると証明されて以降、今のような比較的マシな待遇に変わったそうです」
「そうだったんですか」
「ええ。……尤も、今から20年ぐらい前の出来事のようですが♪」
およそ20年前といえば、エルやレイが生まれる少し前の話である。
とは言え、皇国の長い歴史を考えれば、ごく最近の出来事だと言えるだろう。
死刑を求刑されるほど凶悪な犯罪者たちの集団が、こうして衣食住を保証され、あまつさえ給与に近い報酬までもらっていると言うのは、当事者のレイから見ても身に余る贅沢だ。
レイは「とある出来事」が起こったと言った。
そしてそれは、死刑囚の待遇を丸々書き換えるような出来事だった、ということだ。
約20年前、いったい何が起こったのか。
尋ねようとしたレイだったが、エルが会話を切り上げてしまったので、結局その話を聞くことはできなかった。
***
2人で朝食をとった、その5時間後。
レイは1人で昼食をとっていた。
……なんだか食べてばかりの気もするが、殺伐とした任務に明け暮れ、広い皇国を飛び回っている彼女にとって、各地でとる食事が唯一と言ってもいい楽しみなのだ。
あの後ホテルを出た2人は、早速、服屋をまわり、一緒に買い物を楽しんだ。
前日にあれだけ凄惨な殺し合いを演じたばかりだというのに、レイもエルも完全に普段通りだったのは、流石【死神】の一員といったところだろう。
途中、買い物をしている際に柄の悪い男に絡まれたりもしたのだが、エルが爆発する前にレイが目にも止まらぬ速さで叩きのめしてしまったので、幸い大事には至らなかった。
……充分大事かもしれないが、エルが機嫌を損ねて暴れ出した時のことを考えれば、男にとっても「幸い」なことだろう。例え気絶した状態で路上に放置され、しばらくの間晒し者のようになってしまったとしても、それは「幸い」だったに違いない。
そんな「小事」を挟みつつ、観光者向けのお洒落な店舗を数カ所まわった2人は、近くにあったレストランに入って昼食を取ることにしたのだが……エルが「用事がある」と言って抜け出してしまったので、今はレイひとりだけなのだった。
ちなみに今日のお昼のメニューは、山盛りのサンドイッチである。
(無論、最初から山盛りだったわけではない。レイがまとめて大量に注文したせいで、結果的にピラミッドが形成されてしまっただけだ)
近郊で採れた新鮮な野菜や果物と、輪切りにした燻製肉、チーズやクリームといった乳製品など、具材のバリュエーションは多岐にわたる。その中でも特にレイが気に入ったのは、甘辛く味付けした鶏肉を挟み込んだものだ。
薄切りにされた鶏肉は香ばしく焼き上げられており、しっとりとした柔らかさと相まって、レイがこれまで食べたサンドイッチの中でも、1、2を争うほどの美味しさだった。(彼女はこのサンドイッチだけでも10切れは平らげた)
凄まじい勢いでサンドイッチを消費していくレイへと向けられる視線が「好奇」から「畏怖」へと変化し始めた頃、ようやくエルが戻ってきた。
白い車椅子を滑らかに動かしてレイの座っているテーブルまで到着したエルは、普段通りの柔和な表情で彼女に話しかける。
「お待たせしました〜」
「んむんむ……お帰りなさい、エル」
「……これはまた、凄まじい食べっぷりですね……」
さしものエルも、朝食をあれだけ食べたのにも関わらず山盛りにサンドイッチを消費しているレイを見て、少々呆れ気味の様子である。
エルは早速ウェイトレスに紅茶を注文すると、レイの正面にそっと車椅子を着けた。
(ちなみに正面の椅子はレイが事前に片付けている。彼女は意外と気が利くのだ)
そしてレイに一言断ってから、サンドイッチの山の中から一切れつまんで、いかにも美味しそうにもぐもぐと齧りはじめた。
「……?」
レイはサンドイッチを片手に怪訝な表情を浮かべて、エルの方を見た。
なんだか、いつも以上にツヤツヤしているように感じられたのだ。
それに、なんだか機嫌が良さそうだ。
テーブルの下では、膝までしかない両足を交互にパタパタと動かしている。
これは彼女の機嫌が良い時の癖だった。
手にしているフルーツサンドがご機嫌の理由、というわけでもないだろう。
ふと、レイはエルの車椅子に目をやった。
白い車椅子。
この街にやってきた時のものとよく似ているが、僅かに細部のデザインが異なるように見える。その時の車椅子は池咲たちに叩き壊されてしまったので、その後はアジトで腕輪から召喚した黒い車椅子を使っていた。
少なくとも、先ほど別れるまでは、その時に呼び出した黒い車椅子を使っていたはずだ。
ここに来るまでの間に、わざわざ新調したのだろうか。
それにしては、何というか平凡な品質のようだ。ハンドリムやブレーキがついていないことを除けば、何の変哲もない車椅子にしか見えない。
そんなことを考えていたレイは、すん、と微かに鼻をならした。
エルの方から、いつもとは違う匂いが漂ってきたためだ。
たおやかな香水や、彼女自身の甘い香りではなく、もっと、別の……。
ギョッとしたレイは、弾かれたようにエルの顔を見た。
それを見たエルは「バレちゃいましたか」とでも言うように悪戯っぽい表情を浮かべると、自身の柔らかそうな桜色の唇に、そっと人差し指を押し当てた。
そしてエルは、顔の皮膚を捻じ曲げるようにして、にっこりと嗤った。
この時レイには、笑顔を作っている彼女の顔が、とてつもなく恐ろしいものに見えた。
本来なら目があるはずの場所に、ぽっかりと黒い穴が空いているかのような……そんな風に錯覚してしまうほど、今のエルの笑みは、空虚で、無機質で、そして歪だった。
何か得体の知れない悪寒が背筋を這い上ってくるような戦慄を覚えたレイは、その感覚を誤魔化すようにカップを傾け、温かい紅茶を口に含んだ。
……話は変わるが、エルの車椅子は自走する。
黒い車椅子は【死神】としての正式装備なので、内部にあるモーターを動かして車輪を回すことができる仕組みになっているのだ。
そのため、車輪を手で回すためのハンドリムなどはついていない。
だが、普段使いしている白い車椅子は別だ。
必要最低限のパーツから組み立てられているため、全体的に細くて薄い、繊細なデザインになっている。少なくとも、モーターの類は仕込まれていないことは間違いない。
それでも、何故か白い車椅子は自走するのだ。
そして、エルの【心理能力】は《加工処理》。
人体に限定して、自在にその形状を変化させ、指先一つで操る能力。
紅茶のカップをソーサーに戻したレイは、改めてもう一度、白い車椅子へと目をやった。
チャリチャリ、と言う微かな軽い音。
見れば、白い車椅子の肘掛けの部分に、銀のアクセサリーが巻き付いている。
細くシンプルな、鎖を模ったブレスレットだ。
そしてレイは、そのブレスレットを身につけていた人物に心当たりがあった。
二人を裏路地に誘導した、容姿の整った小悪党の顔が脳裏に浮かぶ。
持ち主を失ったアクセサリー、自走する車椅子、そしてエルの【心理能力】。
全て合わせて考えれば、自ずと答えは明らかだった。
(……ま、いいか)
肩をすくめたレイは気を取り直し、再び目の前のサンドイッチの山へと取り掛かった。
結局のところ、レイにとっては、悪人の末路などどうでも良いことだったのだ。
むしろ今は、目の前のサンドイッチの方が優先されるべき事項だった。
ただ、脳内にある「次に会ったら殺しますリスト」の中から、一人の男の名前を削除するのは忘れなかった。死者の名前など覚えていても意味がない。
事実としてレイは、食事を終える頃にはリストから削除した人物の名前など、既に綺麗さっぱり忘れ去っていた。




