第一話 月夜にて
神聖歴1794年12月14日
男は走っていた。
石造りの夜の街は、昼間とはまた違った冷たい表情を見せている。
道を照らすのは、冷たい夜空に浮かぶ冬月と、古くなって明滅を繰り返す、まばらに並んだ街灯だけ。
焦っているのだろう。
ちょっとした段差で転んで、いかにも高級そうなスーツが破けても、男はそれを気にする素振りさえ見せない。
ダストボックスを薙ぎ倒し、ゴミ袋を蹴り飛ばし、ただただ走った。
息遣いは荒く、既に肩で息をしていたが、それでも男は走り続けた。
ペースを無視して走ったせいか、男の鍛え上げた屈強な身体にも、既に限界が訪れようとしていた。季節はそろそろ12月に差し掛かり、夜の空気はかなり冷え込んでいたが、男の額からは大量の汗が滴っていた。
それでも、男は走り続けなくてはならなかった。
立ち止まることはできない。
なぜなら――今も“あれ”が追ってきているのだから。
男は、ここ【水端】の中で最も大きな裏組織の一員だった。
実態としては組織の使い走りに過ぎないが、【水端】は神聖皇国の中でも特に交易で栄える中級都市であり、常に人や物、そして金が飛び交っている。
彼の所属する組織はこの大きな流れに寄生することによって、ケチなマフィアなどとは比較にならないほど莫大な利益を獲得することに成功していた。末端の彼であっても、上から回されてくる誘拐や恐喝といった簡単な仕事だけしていれば、一般市民などとは比較にならないほど豊かな生活を送ることができていたのだ。
――今夜、“あれ”が来るまでは。
何かに取り憑かれたように、わき目もくれず、一心不乱に走り続けていた男は、やがて目指していた場所に辿り着いた。
そこは、建物が複雑に入り組んだ裏路地の一角だった。
一見してそうは見えないが、裏路地を構成する建物の外壁に隠し扉があり、“商品”を仕舞っておく為の倉庫に繋がっている。
先日分は“出荷”したばかりなので、今は身を隠すのにもってこいの場所だった。
「くそッ、どこだ……!」
しかし、時刻は真夜中を過ぎており、既に周囲は真っ暗だ。
男が焦っていることも手伝って、なかなか入口の目印が見当たらない。
彼は一瞬だけ逡巡したが、やがて路地裏の外壁に、自らの人差し指を近づけた。
直後、その指に真紅の炎が灯り、薄暗い裏路地が明るく照らし出される。
男が【心理能力】を発動したのだ。
――【心理能力】。
それは、神聖皇国に住まう人々が、生まれつき等しく備える能力。
本能のままにしか生きられない動物とは違い、人は“心”を持つ生き物だ。
それは強い感情であり、豊かな想像力であり、秘めたる欲望でもある。
【心理能力】とは、その“心”を世界に投影する力そのもの。
かつて世界を救済し、神聖皇国の祖となった神子が人々に与えたとされる、奇跡の片鱗。
心を映すと言うだけあって、その能力は千差万別。
身体能力を上昇させるような単純なものから、世界に一つだけの特殊なものまで。
そして、この男の【心理能力】は、火炎を発生させる能力だった。
ただし、それほど強力なものではない。
火力も大きさもライター程度のものだし、人差し指の先端にしか発生させることができないため、まず戦闘には使えない。
ただでさえ、男性の【心理能力】は女性と比較すると出力が劣ることが多いのだ。
これまでも、せいぜい、タバコに火をつけたり、皮膚を焼いて拷問したりといったことぐらいにしか使ってこなかった。
そんな使えない【心理能力】であっても、今は好都合である。
やがて男は、指先の火炎で照らし出された外壁の片隅に、隠し扉を示す目印を発見した。
この暗闇の中で【心理能力】を使うのはどうかと思ったが、どうやら俺にも運が向いてきたようだ――。
男が、そう考えた時のことだった。
――カツン
甲高く、硬質な音が背後から聞こえた気がして、思わず男は息を呑む。
男が履いている革靴の音ではない。
もっと金属質で、冷たい音だ。
例えば、軍靴が石畳を叩くような――。
男が慌てて【心理能力】を解除したことで、指先の炎は掻き消える。
再び路地を夜が覆い、周囲を照らすものは、月光と壊れかけの街灯のみとなった。
全身が総毛立ち、額を冷たい汗が滴り落ちる。
動かずに――正確には、動けずに――男は、ジッと耳をすませる。
人気のない路地で聞こえてくるのは、微かな風の音と、遠くで野良猫が唸る声ばかり。
やがて覚悟を決めた男は、バッ! っと、勢いよく振り返る。
僅かな月明かりと薄暗い街頭に照らされた、そこには…………誰もいなかった。
思わず安堵の息をつき、頭を再び前へと向けた、その時。
男は、くぐもった悲鳴を上げた。
先程まで誰もいなかったはずなのに……。
そこには、一人の少女が立っていた。
美しい少女だった。
かなり大人びて見えるが、恐らく年齢は高等部ぐらいだろう。
切れ長の目に、整った柳眉。
長い黒髪は艶やかに背後に流れ、雪のように白いその肌は、この暗闇の中でも透き通るような存在感を放っている。
しなやかで均整の取れたプロポーションに加え、身長は少なくとも170cm以上。
外見だけ見れば、中央の有名なモデルだと言われても、多くの人が信じてしまうだろう。彼女が身につけている黒い軍服も、細い首に巻かれている黒と銀のチョーカーも、ともすれば無骨な印象を与えかねないものではあるが、いずれも彼女の妖しい美しさを掻き立てる、一つのエッセンスになっていた。
ただし、その美しさは、ただ愛でられるだけの花のそれではない。
例えるならそれは、剥き出しの刃。
彼女の美しさには、不用意に手を出せばスッパリと切れてしまいそうな……そんな危うさが、同時に備わっていた。
この男も普段ならば、こんな美人を見つけたら、自身の幸運に快哉を叫び、その醜い欲望のままに襲いかかっていただろう。
陽も落ちて周囲も暗く、助けを呼んでも誰もこないような裏路地であれば、尚更だ。
男性は女性と比べ、身体が頑強だし、力も強い。
唯一懸念すべきは女の【心理能力】だが、こちらに反撃できるほど強力な【心理能力者】などそうはいないし、大抵の場合は拳銃をちらつかせれば大人しくなる。
そうやって、この男は何人もの女を食い物にしてきた。
それが彼にとっての日常だったし、この街でも、あるいは地方の村でも、きっと同じことだったはずだ。
しかし、今、この瞬間、この男にとっては、彼女の存在は“幸運”などではない。
それは紛れもなく、具現化した“不幸”そのものだった。
少女の冷たく静謐な眼差しと、男の恐怖で濁った視線とが交錯する。
「し……【死神】……ッ!」
男は、黒い軍服を着た目の前の少女のことをそう呼んだ。
闇社会に住む人間が、苛立ちと、蔑み――それから、恐怖を込めて口にする名前で。
実のところ、彼もその存在については噂程度にしか知らない。
分かっていることは三つだけ。
曰く、彼女たちは「黒い軍服」を身に纏っている。
それは、国から与えられた殺人許可証そのもの。
彼女たち以外に、【黒】を身につけることは許されていない。
曰く、彼女たちは「死刑囚のみで構成された、非公式の特殊部隊」である。
一人一人が一騎当千の戦闘能力を誇り、信じ難いほど強力な【心理能力】を扱うと言う。
毒をもって毒を制するために創られた、神聖皇国の暗部にして、最強の切り札。
そして、何よりも重要な、最後の情報は――
――彼女たちに目をつけられたら「終わり」だということ。
一度でもその制裁対象になってしまえば、地の果てまでも追ってくる。
説得することも、逃げることも、隠れることも、殺すこともできない。
その様は、まさに【死神】そのもの……。
調べても大した情報は得られず、男の仲間たちもその存在には懐疑的だった。
男も実際に遭遇するまでは、犯罪者に対する抑止力として設定された、架空の組織だと思っていたぐらいだ。
だが実際に、黒い軍服を纏った少女はそこにいる。
最初にこの少女がアジトに乗り込んできた時は何かの冗談かと思ったが、次々と仲間たちが目の前で殺害されていく様子を見せつけられれば、否が応でも信じざるを得ないというものだ。
男は少女から目が離せなかった。
それは、恐怖ゆえに。
目の前にいるのは、人間の形をした怪物なのだ。
――少しでも目を離せば、瞬きする間も無く男は肉塊へと変わるだろう。
歯がガチガチと鳴る。息ができない。
一方、【死神】と呼ばれた少女は、そんな男の様子を気にも留めていない様子だった。
無表情のまま、彼に向かって、そっと腕を伸ばす。
その時、彼女が身に付けている黒い軍服の裾から、微かに黒いタトゥーが顔を覗かせたのが見えた。
大鎌と識別子が組み合わさった、黒い刻印。
一瞬のことだったが、見間違えるはずもない。
それはまさしく、死刑囚にのみ刻まれる、罪人の証だった。
一見すれば、少女はただ男に向かって手を伸ばしただけ。
だが男にしてみれば、その光景はまさしく、死神の手招きそのものだった。
「うわあぁぁぁぁぁぁあっぁぁぁぁ!」
もう耐えられない。
こちらに向かって手を伸ばしてくる少女を見た男は、とうとう堪えきれず絶叫した。
そして、弾かれたように懐から取り出した大型の拳銃を取り出すと、そのまま少女に目がけて、狂ったように引き金を引く。
巨大な拳銃から吐き出された弾丸は、凶悪な唸り声と共に、少女の身体に吸い込まれていった。まともに狙いをつけていない故か、身体の芯からは外れているものの、命中すれば充分すぎるほどの殺傷力はある。
常識的に考えれば、少女の身体は乱射された銃弾に穿たれ、血を撒き散らしながら裏路地に転がることになったはずだ。
そのはずだった。
しかし――そうはならなかった。
彼女の均整の取れた身体のすぐそばまで飛来した銃弾は、
「――ッ!?」
そのまま、弾き飛ばされた。
バチィッ! という微かな音がなければ、傍目からは最初から銃弾が当たっていないかのように見えただろう。
「な……んでだ!? 【心理能力】があろうが殺せるんじゃないのかよ!」
この銃は裏ルートでしか手に入らない特別性で、どんなに強力な【心理能力】であっても、その防壁を貫通して殺傷することが可能なはずなのだ。
実際に【外魔】や【心理能力者】を“使った”実験”を通じて、その有効性が証明されているはずだった。男も実際に試してみたのだから間違いない。
撃たれた彼女は、自身が銃撃されたというのに、顔色ひとつ変えていなかった。
その顔には、焦りも、恐怖も、怒りも、憎悪もない。
それどころか、目の前の少女からは、敵意や殺意さえ感じ取ることはできなかった。
月明かりに照らされながら、ただただ無機質な視線を男に向けている。
それでも、男には確信があった。
――この少女は間違いなく、これから自分を殺すだろう、という確信が。
男は、彼女の美しくも恐ろしいその相貌に、思わず半狂乱になる。
「――クソッ! この、イカれ女!」
無駄だと分かっていても、毒づかずにはいられない。
確かに、男にも色々と悪さをしてきた自覚はあった。
多くの少女の未来を狂わせてきたし、それ以上に他者の命を奪ってきた。
男はこれまで、常に搾取する側にいたのだ。
それがいざ自分の番となると、これほど恐ろしいことはなかった。
死にたくない。
その一心で男は必死に足を動かして、少女から遠ざかろうとした。
……しかし、それ以上の抵抗は、男に許されなかった。
少女が白く細い指をパチリと鳴らした瞬間。
その軽やかな音が鼓膜を震わせると同時に。
男の意識は、永遠の闇へと落ちていった。
――最後の瞬間、男は自身の頭蓋骨が砕ける音を聞いた気がした。




