夏の向こうに
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乗車口がゴトンと閉まり、静かな唸りを上げて電車は動く。だんだんと遠ざかっていく瀬辺地駅の駅舎とホームはやがて、僕の視界から消えた。
電車の窓から見える空は、ポツリポツリと雲が漂っている。田園に見知らぬ人々が見える。風景は絵の具で描いた一枚絵のようにパッキリと青、白、緑に彩られていて、最後の瀬辺地での夏を祝っているように見えた。これが最後なのだと、僕の中で何度も告げられる。きっともう一度があるとするならば、それは何十年も先の未来だろう。
この快晴の夏空が果たして、僕からそう見えているだけなのか、はたまた誰の目にもそう見えているものなのか、きっと分かりはしない。
けれど、どちらでも良いのだと思う。
車内には僕以外の乗客は居なくて。それがやけに嬉しく思う。だってきっと、僕は今すごく切なげで哀しい顔をしている。こんな顔を見られたら、たまらない。
これほどまでに特定の場所から離れてしまうのが苦しいものだなんて、思いもしなかった。瞼を閉じてかの場所を想う。先ほどまであった駅舎。堤防から見える大間の地と雄大な海。夏緑樹林の他にはない青さに、寂れた民家。克明に想像できるその地に、誰一人として姿はない。
……いや、きっと見ないふりをしているだけだ。たった一人だけ、姿がぼんやりと浮かぶ。彼女は小さく、たった一枚の毛布と電池切れのスマホをベンチに置いて、少しよれたジャージと目には見えない温もりに身を包まれて、赤のマフラーを巻いて待っている。小さいちいさい、片隅の駅舎で。
そこまで想像して、ふと電車の端を見れば、そこには彼女に似た女の子。先ほど停車した時に乗ってきたのか、降車口のすぐそばで佇んでいる。
どこかで見たことのある、少女だった。
あれはそう、一昨年の夏だ。僕はそのあと電車を降りて瀬辺地駅のホームに着いた。――ずいぶんと前のことをよく覚えているものだ。我ながら感心したが、それ以上に目の前にいる女の子のことが気になった。
女の子は以前よりだいぶ大人びていた。身にまとう服装は変わらなかった。視線も、以前と同じで真っ直ぐ窓外を流れる風景に向けられている。しかし、その眼差しは、以前とは打って変わって喜ばしいものだった。
思わず釘付けになる。すると少女はこちらの視線に気づいたのか、パッと振り返り会釈をする。僕も頭を少し下げて応える。するとどうだろう、彼女は僕の座っている席の目の前に立ち、対向席に座ってこちらを見るではないか。
「……以前も、ここで会いましたよね?」
彼女がそう言うので、驚きを隠しつつコクリと首を縦に振る。少女は照れくさそうに話す。
「あの時、私、泣いてたので……それで覚えているんです。泣き顔見られちゃったな~って思って」
「あぁ……それで」
僕はてっきり、あの後そそくさと隣の車両に移ったことで覚えられていると思っていた。人から避けられることは記憶に残るから。
少女は片手でセミロングの髪を撫でる。もう片方の手は上品に膝へ置かれている。その仕草が、先ほど想像した彼女のものと似ていて。……あぁ、僕はつくづく未練がましい奴だな、と半ば呆れてしまった。しかし、そんな自分も慣れた。
「それで今日話しかけたのは、その涙とお別れできたからなんです」
「……涙と、お別れ?」
「はい……二年も、掛かっちゃいましたけど。……って、なんでこんなこと話してるんだろ?ごめんなさいっ、自分でもまだ整理がついてなくて」
そう言ってはにかむ彼女に陰りは見えない。いや、きっと晴れたのだろう。そのことに僕も嬉しく思ってしまう。僕はずっと、この陰りを背負って生きていくから。すっきり晴れた彼女が、羨ましいから。
「でも、見ず知らずのあなたに知っておいて欲しかったんです。二年前からずっと浮かない顔だった、あなたに」
「僕に……?というか、やっぱりそういうふうに見える?」
「ま、まぁ。この人も悩みを抱えてるんだ~って思ってました。それに今でも、どこか寂しそうです」
「……」
「だから、知っておいて欲しいんです」
少女は止まりそうな電車の中をゆっくりと立って、視線はそのまま僕に向けて、なにか希望や想いを託すように告げる。
「途切れてしまっても……きっと、繋がってるんです。どこかで。会えなくても、見えなくても、たとえこの世にいなくても。想いって、そういうものだと思います」
「……そっか」
「……って、私はなんでこんなこと言ってるんでしょ?やっぱり変ですよね!?すみません、こんな小娘風情がっ」
「小娘風情って」
少女は頭を下げながら照れくさそうに笑う。……きっと、彼女は神様がくれた虚像なのだと思う。僕が未来を見ながら、過去を振り返ってしまうから。それでも過去を背負って生きられるように。今をゆっくり生きられるように。
「とにかくっ、私はあなたを応援してます!また会った時、ぜひお話ししましょう!それじゃ、私はここで」
「そう……ありがとう」
バタバタと降りてゆく少女の視界に、僕はいない。その背中に僕は小さく礼を言って、二度と目にすることのない少女を車窓から眺めていた。彼女は小さなストライドで元気よく地上を駆けて行く。それはやはり、いつかの彼女に似ている。
一人になった車内で天を仰ぐ。
たとえ引きずろうとも、過去を眺めてしまっても。僕はこの先、見えなくなった繋がりを大事にしまって一人で生きてゆくのだ。それが確かとなった今、僕は僕を初めて信じられた。
空の彼方に浮かぶ、一筋の飛行機雲。宙にある大海原をスーッと泳いでいる飛行機。それを最後に、僕は窓から見える景色を眺めなかった。
明日も21時です!




