もしもしあなたは
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ガチャリ。ゆっくりと閉めたはずの玄関扉が思いの外強く音を立てる。バラバラと脱いだ靴が玄関に転がり、一滴二滴と水が落ちる。雨に濡れた身体は芯まで冷え、一回二回とくしゃみが出る。べしゃべしゃの服を脱ぎ捨て素早くタオルを持ち、湿った身体を拭いていく。
暗い部屋の中、外から聞こえてくる雨音が鼓膜を捉える。ベットやテーブルの上を見る。無造作に置かれた僕のものではない物たち。積もった孤独を感じる。それがもう戻りはしないと感じる。
スマホを開いてみればメッセージは来ていない。電車に乗っているときメッセージを送ったが、なんら返事はなかった。昨日送ったメッセージに既読が付いているのみ。緑と白が基調のメッセージアプリが空虚に見える。清潔感などではない、ただ冷たさだけが僕の目に映っている。
どうして、こうなってしまったのか。いいや、理由は明白だ。これまで犯してきた僕の利己と罪が途端に押し寄せる。
春が来ると言った。そんな彼女は終始泣いていた。
なにも出来ないと言った。彼女は最後これからを願った。
味方を求めて言った。彼女は自身に嘘をつかなかった。
そして、夢を望んで言った。彼女は雨に打たれていた。
雨に、打たれていた。
僕は、確かでありたいと願いながら、ずっと柱に縋っていたんだ。
彼女は最後――会えるという淡い呪いを残した。それがずっと、僕を支えていたんだ。
なにかが変えてくれると思っていた。否、時間が解決してくれると思っていた。レールに乗ってた。そうして静岡、青森を辿ってきた。それがまた過去を払拭し忘れさせてくれるだろうと思っていた。今思い返せば、だ。
……結局、何ひとつだって変わらない。繋がりによって生きられる自分と、忘れられる不安に駆られた自分。その二つを結びつけていたのは、僕をこの世界で生きる決意を明確にさせたのは、彼女だったんだ。
あの日見た、明るい月。春を待つ蕾、葉桜の揺れる音。積乱雲の雷鳴、ヒグラシの切なげな声。紅葉の赤い海、青白い月。白雪の世界、葉無しの木々。傷つけた者たちと季節がぐるぐると脳裏に走る。
そのたびに固まっていく僕はまるで閉じ込められているようだった。それが苦しいことだとも気づかなかった。……本当は、気づきたくなかったんだ。自身の力で生きてこそ、彼女と共に生きられると思っていた。途中で捨てようとしても、その考えは変わらなかった。
……閉ざされていた扉がガタリと音を立てて開いた。中には氷。その奥には僕の、大事なだいじな、しかし大人になろうとする過程で不必要となった心。魂を分ける青。そこに先ほどまで渦巻いていた感情や記憶たちが熱となって入り込む。
だんだんと氷は溶けて、やがて河を作った。なだらかな丘にツーっと流れる河。しかしそれだけではない。熱は扉と氷の奥に存在している魂に触れ、複雑に絡み合い、融合し……地を鳴らし地脈を動かす。より活発に、より熱っぽく。やがて熱は音となって大穴から漏れ出る。不規則に打たれるリズムはまさに――
僕、そのものだった――。
これまで我慢していたわけではない。ただ泣けなかっただけなのだ。しかし今は、溢れる涙を抑えられない。それが苦しいのか嫌なのか、はたまた嬉しいのか楽しいのかも分からない。ぐしゃぐしゃに絡まった糸が絡まっているのか解けているのかさえも分かっていないのだ。
手には鼻水、目には血液。髪はぐしゃっとしていて、同時に部屋のものを別の場所、別の形にしていく。コップは割れ、机は傾き、あの歯ブラシも雑誌も原稿用紙も、全てが床に落ちた。しかし、壊せなかった。そうしたくはなかった。
どうしてあの時、連絡先を交換しなかったのか。そうすればこんな悲しみの日々は無かっただろう。
どうしてあの時、泣かせることしか出来なかったのか。彼女の心に消えない傷を付けた。
どうしてあの時、幻影を見てしまったのか。あれが引き金になってしまった。
どうしてあの時、味方になれなかったのか。やはり自分が可愛かった。
どうして今日、雨に打たれる彼女を抱きしめることが出来なかったんだろう。
でも、こうして扉を開いて、心が溶けだした今だからこそ、溢れ出るのは望み。希うこと。それが指し示すのは、やはり過去の繋がり。たったひとつしかない、どこかにいるあの人への執着。
久しぶりにあの番号へと電話する。繋がらないと分かっていても、すでに消え去った未来だとしても、縋ってコールをする。両手でスマホを耳に当てる。そしてツーツーとなる電話口に向かって問いかけるのだ。
「もしもしあなたは……ハルは、お時間いいですか?」
答える者はいない。しかしアプリを閉じることなく、ひたすらに縋る。……そうして夜は更けてゆき、やがて窓の外に映る空は紫とオレンジに変わってゆく。ずっとずっと。前から言葉にしたかったのは、いつも欲していたものは、これだけだったのだ。
もう一度、ハルに会いたい……。曇りなき一点、それのみを想う。想い出の場所は近くとも、きっと彼女はどこか遠く。二度と会えないのだろう。それでも、僕は――
僕は、彼女を……ハルを想い続けるだろう。そうして生きていくのだろう。……ただ希い、それだけを想いながら僕は、暁の空の下、一滴の雫を流して眠った。深い深い、眠りだった。
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