エピローグ
ーー新居に越して数日、生活が落ち着きはじめた頃。
マスターに最後の挨拶をしたときに餞別としていただいた豆を挽いて、コーヒーを淹れる。
私は砂糖とミルクたっぷり。
いつもより多め。できるだけたくさん。
紫月は相変わらずブラックーーと思いきや、ほんの少し砂糖を入れるようになった。
私が押し付けるお菓子を嫌々ながら食べているうちに、甘いもののおいしさに気づいたようだ。
「……なに、笑ってんの」
「ふふっ、べつに」
そんな紫月のこと、知っているのは私だけ。
なんだか少しだけうれしくて、思わず笑みがこぼれる。
……なんて、穏やかに過ごしてはいるが。
内心では、焦燥感が渦巻いている。
ーー引っ越してきた夜のこと。
私は紫月に、ヴァンパイアになったことを打ち明けた。
それから、暁家で銀の弾丸の製法を消し去ったことも。
私はこれからヴァンパイアとハンターとの争いをどう収めていくかを考えなければいけない。
だから、紫月の血液入りカプセルの使い道を相談したかったーーそれなのに。
そこで私が知らされたのは、驚愕の事実だった。
「……お前、ヴァンパイアどころか、その王様になったんじゃね」
「……え、なに? 王様……? 私が?」
「そう。俺が人間になって、ヴァンパイアの王族は絶えた。けどその後にお前が、まだ王だった頃の俺の血を飲んで、ヴァンパイアになった。お前の中に流れるヴァンパイアの血は純粋な王族の血で、それが流れてるのは今やお前だけ。……わかったか、女王様」
……うん、まったくわからない。
なんなら、あんまりわかりたくもない。
わかりそうな気はするけど、認めたら真実になってしまう気がして、わかりたくない。
「悪意のあるヴァンパイアをどうにかしたいなら、俺の残したカプセルがなくても、お前の血でどうにかなるってことだ。……やってほしくはねぇけど」
……まさかそんなことになるとは思わなかった。
ヴァンパイアになっただけのつもりだったのに。
けど、せっかく手元にカードがあるなら、使わないのももったいない。
私だって、むやみやたらとヴァンパイアたちを言いなりにしたいわけじゃない。
それでも、自分の血液が抑止力になると思えば。
はからずもヴァンパイアの王となってしまったが、それも悪くはないかもしれないと思った。
ーーとはいえ、私がやろうとしていることはきっと大変だ。
大変なんて言葉じゃ言い表せないかもしれないくらい。
それに、早くしないといつハンターたちが動き出すかもわからない。
……そんなわけで私は、今もずっと焦燥感に苛まれている。
「どうした、浮かない顔して」
「いや、なんでもーーんっ!?」
言いかけた私の口に、紫月がクッキーを突っ込んだ。
吐き出すわけにもいかないから咀嚼すると、すごくおいしい。
「なにこれ、おいしい!」
「近所で見つけたケーキ屋の」
……紫月が、ケーキ屋さんでクッキーを選んで買ってきてくれたの?
想像するとなんだかかわいくて愛しくて、思わず笑ってしまう。
「また笑ったな? なんなんだお前は」
「いやだって、幸せだなって思って」
「……そうだろ、だったら思い詰めた顔すんな」
幸せを感じるほど、それまでにあった嫌なことや、これから起こるかもしれない悪いことに思いを馳せてしまう。
ヴァンパイアやハンターのことをずっと考えていても仕方ない、と気分転換しようと思えば、自分が過ごしている部屋を見てまた別のことを思います。
「……紫月、前の家、めちゃくちゃにしてごめんね」
「……なんの話だよ、いきなり」
「ガラス割れちゃったし、部屋の中もぐちゃぐちゃだし……」
あの家はきっと、数年前は紫月とその家族がみんなで住んでいたのだと思う。
一人で住むには少し広くて、ところどころに紫月以外の誰かの名残を感じた。
ーーそれなのに私のせいで、思い出の家が汚れてしまった。
「陽奈が謝ることじゃないだろ。……それに、いいんだよ、別に」
「別にいいなんて……」
「思い出ならこの家でまた作ればいい。俺は陽奈がいてくれればそれでいいんだよ。……お前は?」
「わ、私だってそうだよ」
不意打ちでそんなことを言われると、照れるからやめてほしい。
「……最近浮かない顔してるけどな、ヴァンパイアのことだろ? そんなに心配すんなよ。お前一人で抱えることじゃない。それに、俺がいるだろ。何があっても大丈夫だ」
「ーーうん……うん、ありがとう」
すごくすごくうれしい言葉なのに、素直に態度に出せない。
紫月が手まねく幸せなところへ向かったら、私が背負ったものが、私を引きずり下ろそうとしてくる気がしてしまう。
「……これでも俺の言葉が信用できないっていうならーー」
ーー違う、そういうわけじゃない。
慌てて弁明しようとしたとき、紫月が小さな小箱を差し出してきた。
「……え、これ、ってーー」
「この前の返事」
……この前の返事ーーって、私の、告白の?
それはいくらなんでも急すぎる。
心の準備ができていない。
私が紫月を止める間もなく、目の前で紫月が跪く。
そして、小箱の蓋を開いた。
「ーー陽奈、愛してる。俺と結婚してくれ」
小箱の真ん中に鎮座するのは、ダイヤがきらめく華奢な指輪。
紫月の言葉、それから目の前にある指輪の意味を、瞬時に理解することができない。
あいしてる?
けっこん?
……さすがに、夢かも?
ほっぺをつねるも、しっかり痛い。
自然にあふれ出る涙は、痛みによるものか、うれしさによるものか、自分でも何がなんだかわからない。
「え、えっ……、」
脳内で整理できていないまま、ちゃんとした言葉を喋れるはずもなく、小さく鳴くような声しか出せなかった。
そんな私を紫月はじっと見つめて、笑う。
自然で優しい笑顔だが、まっすぐな眼差しは私を捉えて離さない。
「……守られてるだけは嫌なんだろ? だったら俺は、陽奈がなにかを背負うなら一緒に背負う。どこかに向かうなら隣を歩く。そこが天国でも地獄でも、絶対に陽奈を離したりしない。だから、その約束を形にしたい。……受け取って、くれるか?」
……そんな真剣に言われたら、私も怖がってなんていられない。
夢かもしれないなんて、怯えていられない。
私はずっと、紫月の隣を歩きたかったんだ。
「……うん……紫月、私もーー」
紫月が言ってくれたことは、この世のどんな言葉よりもうれしくて。
胸がいっぱいで、思いがあふれて止まらなくなりそう。
だから、返事は一言だけ。
一番伝えたい、一番大切なこと。
「私も、紫月を愛してる」
紫月は微笑んで私の左手を取り、指輪をそっと薬指にはめてくれた。
「……約束。もう離れない。ずっと隣にいる。だから、何があっても大丈夫だ」
「うん……!」
紫月と交わした約束を、何よりもずっと大切にしよう。
私はもう、ひとりじゃない。
紫月がいれば、大丈夫。
紫月といれば、大丈夫。
きっとこれから、大変なことがたくさんある。
その中で傷つくこともあるだろう。
それでも、ひとりぼっちじゃない。
だから強がらなくていいし、抱え込まなくていい。
何よりも大切な人が、ずっと隣にいてくれるから。
だから私は、弱くもなれるし、強くもなれる。
ーー私は紫月の腕に飛び込んで、とびきり幸せなキスをした。
【おしまい】




