7話 きみのためなら ③
「……今晩は、風が強いな」
私は銃声の後で、父親が呟いた声を聞いた。
塀の外に降り立ち、ひたすらに走る。
……父親が撃った一発の銃弾は、私にかすりもしなかった。
けど、私にはわかる。
幼い頃から、ずっと見てきた。ずっと教わってきた。
ーー風が強いくらいで、私の父親が的を外すわけがないんだ。
だからこそまた、父親の存在が私にとっての呪いとなる。
父親が最後に私に向けた、ほんのわずかな親心だったのかもしれないもの。
……それに気づいたら、いけなかった。
私は、今度こそ家を出た。
暁という苗字を捨てた。
私に、家族はもういないんだ。
ーー父親がわざと私を撃たなかったことは、記憶の片隅にしまいこむ。
私の後をついてくる満月に、後悔なんてしないと誓おう。
私の道には、紫月がいればそれでいいから。
……私はもう、迷ったりしない。
◆
ただひたすらに、夜道を走る。
暗闇の中を満月だけが照らしてくれる。
ヴァンパイアの街も、今となっては恐れる必要すらない。
……紫月。
紫月、今、どこにいるのーー?
もしかしたらもう、この街にはいないかもしれない。
紫月は人間になってしまったのだから、こんな危険なところにいる必要もないだろう。
けれど他にあてもなく、私は紫月の家に向かうしかなかった。
ーー紫月の家は、あの日のままだった。
リビングに面する窓ガラスは割れている。
明かりがついている様子もない。
玄関のドアノブに手をかけ、ゆっくりと引く。
鍵は、開いていた。
しんとした室内。
ぎしりと自分の歩みによって床が軋む音、それから、外から吹き込む風の音だけが時折聞こえる。
自分の他に、誰かがいるような気配は感じない。
……いるわけ、ないか。
半ば諦めたような気持ちで、リビングへ進む。
いろんな思い出の詰まった部屋。
いつも隣同士で座ったソファ。
ーーそこに、見つけた。
ソファの上で、紫月が眠っていた。
私は思わず駆け寄り、強く抱きしめる。
「紫月……っ」
呼吸による胸の上下、耳をすませば聞こえる心臓の拍動。
紫月がここに生きていてくれたことだけで、私はもう、それだけでよかった。
紫月の頬に手を添え、口づけをした。
おとぎ話であれば、ここで目を覚ましてくれるけど。
……私と紫月の人生は、おとぎ話じゃないようだ。
反応のない紫月からそっと離れようとしてーー突然、腕を引かれた。
そのまま、私の上半身は紫月の上に倒れこんでしまう。
紫月の顔を見ると、つやめく瞳と目が合った。
「しづーー」
私が名前を呼ぶ前に、顔を引き寄せられてキスされた。
……なにが起こってるんだろう。
紫月は人間になって、記憶をなくして、私のことも忘れてしまったはずなのに。
キスの仕方は、なにひとつ変わっていない。
紫月とこうするのは、うれしくて、幸せで、なにも考えてなんかいられない。
ーー私はただ、身を委ねた。
離れていた時間を埋めるように。
忘れてしまったかもしれない穴を埋めるように。
もう離れたりしないように。
また一緒にいられるように。
私たちのキスは、祈りに似ている。
どちらからともなく口が離れたとき、紫月が呟いた。
「……陽奈」
……私の、名を呼んだ。
紫月は、私の名前を呼んでくれた。
「紫月……どうして……」
「忘れてた方がよかったか?」
「そんなわけ……っ、そんなわけ、ないでしょ……!」
こらえていた涙が、堰を切ったように溢れ出す。
「悪い、泣くなよ。……言っただろ、陽奈のことを忘れたりしないって」
「それは、そうだけど……」
だからって、気持ちだけでどうにかなるようなものじゃないはずだ。
紫月が今、ヴァンパイアじゃなくなって、人間であるのは確かだと思う。
証拠に、ヴァンパイアの私からすると、紫月からはいい匂いがしているからだ。
ーー噛みつきたい。
そんな内なる衝動に、さっきからずっと抗っている。
それなのに一方の紫月といったら飄々とした顔で、もう牙のない口を開いた。
「……銀の弾丸をくらったとき、俺、もう18歳になってたんだよ」
「ーーえ、えぇっ……? あの日、誕生日だったの!? ……あれ、でも人間になれるのは、血を飲まなかったヴァンパイアだけじゃ……」
「飲んでねぇよ。一回も」
「……え!? いや、でも、そんなーーじゃあ、今までのは……」
思い起こされる、今までの、あれやこれ。
散々噛みつかれて、散々羞恥に耐えていたのはなんだったのか。
「……噛みついてただけ」
「は、はぁ!? でも、す、吸うとかなんとかって言ってたよね?」
「あー、肌をな。血を吸うとは言ってねぇ」
……そんなこと、ある?
しかし、私もヴァンパイアになったからこそ、理解できてしまう。
吸いたいけど、吸いたくない気持ち。
だからせめて、ちょっと噛むだけーーなんて気持ち。
「……よかった」
「え?」
「ーー紫月が、私を覚えててくれて、よかったぁ……」
もう、なりふりかまわなかった。
紫月が私を覚えてた、そのことが何よりもうれしい。
情けなく泣く私を紫月は抱きしめて、優しく頭を撫でてくれた。
「……陽奈、迎えに来てくれて、ありがとな」
「ーーっ、うん」
「……本当は、もう会えなくてもいいって思ってた。陽奈はまたあの家を出るだろうけど、それからどこか別の場所で、俺を忘れて、ヴァンパイアからも離れて、穏やかに過ごしてくれれば一番いいーーとかな」
「そんなっ、そんなの……」
そんなの、なんにもよくない。
私は紫月と一緒にいることが、何より幸せなんだ。
「ーーでも、違った。俺、そんなに余裕ねぇ。……だから、陽奈、もう離れたりしない。もう、離したりしねぇから」
「紫月……私もだよ。……私も、紫月とずっと一緒がいいよ」
約束代わりの、優しいキス。
紫月の輪郭を月明かりが染めていて、すごく綺麗だった。
「……じゃあ、帰るか」
「帰る、って……」
「俺たちの、家」
紫月がポケットから出したのは、前に見せてくれた新居の鍵。
「……うん……!」
二人の家と言ってくれて、うれしかった。
当然のように手を繋ぐことが、幸せだった。
これからも、ずっと。
これからは、ずっと。
離れることなく、隣を歩いていける。
ーー私たちの関係に、まだ名前はないけれど。
紫月が隣にいてくれるだけで、私は、幸せなんだ。
 




