7話 きみのためなら ②
私は紙の束を持ったまま、物陰に身を潜める。
「……誰か、いるの?」
そう言って階段を下りてきているのは、私の母親だ。
それまで恐る恐るといった感じだった足音が、バタバタと騒がしく変わった。
開けっぱなしの金庫に気づいたのかもしれない。
それから聞こえたのは、階段を駆け上がり扉を閉める音。
そして、また階段を下りながら母親は言う。
「まだここにいるなら出てきなさい。……正直者を咎めたりしないわ」
……嘘つき。
お母さんはいつも、お父さんの言いなりだ。
銀の弾丸の製法を持ち出そうとしたなんてバレれば、ただじゃ済まないに決まってる。
けれどそれも、捕まってしまったらの話だ。
ーー大丈夫。今の私なら、できる。
物陰から飛び出した私を察知した母親が、その手に握った木刀を振るった。
今までの私では考えられないくらいに、その軌道がゆっくりに見える。
ーー私は木刀をかわして、そのまま、跳んだ。
自分でも驚くほどの跳躍力で、母親の頭上を飛び越えて、母親の背に手をついて宙返りをする。
「ーーごめん、お母さん」
私はよろけて床に手をついた母親に別れを告げて、地下室を後にした。
外に向かって、走る。
すると騒ぎを聞きつけたのか、廊下で叔母と弟が待ちかまえていた。
「待ちなさい!」
二人とも木刀を持ち、私を狙っている。
叔母の一振りをかわした瞬間、弟が突くように素早く振るった木刀の切っ先が目前に迫る。
しかしそれは、指先で簡単に払うことができた。
弟は、以前の私では考えられない動きに動揺したのか、目を見開いた。
それから、悔しそうに顔を歪める。
……弟は、姉である私が自分より劣っていて、ある意味安心していたはずだ。
ーー暁家を継ぐのは自分だ、と。
もちろん私は家を継ぐ気なんてさらさらないが、単純な力の優劣さえも私に負けたくなかったのだろう。
弟は悪あがきのごとく、水瀬が使っていたような小さなナイフを取り出し、私に向かって投げた。
ナイフは真っ直ぐ飛び、一直線に私を狙う。
避けるのは難しく、致命傷になるかもしれないと思う。
……私が、ヴァンパイアじゃなければ。
私は虫を叩くように両手でナイフを掴み、弟と叔母の間を狙って投げ返した。
軌道上にあった二人の髪が、少しずつ切れて舞う。
「……ごめんね、私もう、弱くないんだ」
私は呆然とする二人を背に、庭へ向かって走り出した。
庭へ出ると、叔父が立ちはだかり、私にピストルを向ける。
すぐに撃ってきたが、躊躇や罪悪感でもあるのかーーとにかくその照準は定まっていない。
少し離れたところに当たって跳ねた弾は、実弾だ。
今の私はヴァンパイアだなんて、思ってもみないことだろう。
叔父が次の弾を撃ったとき、少しだけかわし損ねた。
紙の束に弾がかすり、焦げたような跡がつく。
「ーーお前っ……それ、どうやって……!」
そこでやっと紙の束の正体に気がついたのか、叔父がひどく焦りはじめた。
一族代々伝わる大切な宝物を私が雑に持っていることはもちろんだが、それに叔父自身が傷をつけてしまったことがまずいと思ったのだろう。
……けど、そこについては安心してほしい。
叔父のつけた傷跡なんて、きっともう誰も気にしない。
「こんなものがあるから、いけないんだよ」
私は、紙の束をビリビリと細かく破いた。
分厚い束だったのに、少しの力で易々と破くことができる。
些細なことだけど、ヴァンパイアの力の強さを実感した。
ーーふいに、強い風が吹く。
必死になって止める叔父の言葉も聞かずに、私は紙の破片を手放した。
宙に舞う破片は、まるで紙吹雪のよう。
最中、足元にあった小石を拾い、叔父に向かって勢いよく投げる。
紙吹雪で視界がくらんだのだろう、叔父は額に小石が直撃するまで私の攻撃に気づかずに、後ろに倒れて気を失ってしまった。
……これはちょっとやりすぎたかな。
けれどもう、外はすぐそこだ。
暁家から銀の弾丸の製法を奪うという目的は果たせた。
ーーこれでやっと、紫月に会いに行ける。
私はおもむろに月を見上げて、塀を飛び越えるための助走のぶん、塀から距離を取る。
「陽奈」
そのとき背後から聞こえたのは、父親の声だった。
「……お前、あのヴァンパイアの血を飲んだだろう」
父親が憎らしげに言ったのは、紫月のことだ。
私が振り返ると、父親は私の返事すら待たずに、銀のピストルを私に向けてきた。
ーー今、撃たれたとしても、消える記憶なんてヴァンパイアになってからのほんの一時間ぶんだろう。
けれど人間に戻ってしまったら、今度こそ私は外に出してもらえなくなる。
……それに、そもそも、生かしてもらえるかもわからない。
「そうしてまで、ハンターになるのが嫌なのか」
「……ハンターになるのはもちろん嫌。だけどーー違う。私は、紫月に会いたいからヴァンパイアになったの」
「……銀の弾丸の製法を消し去ったのは、私たちへの復讐のつもりか?」
「違う! 記憶を消すなんてやり方、間違ってると思うからやったの!」
「……自分がどれほどのことをしたかわかっているのか。銀の弾丸なしで、ヴァンパイア共をどう片付けるつもりだ」
「……それはーー私が、どうにかする」
……何も考えていないわけじゃない。
数は限られているけど、紫月の血液入りのカプセルはまだ残されているはずだ。
紫月の血を利用するみたいで気が引けるけどーーうまく使ってもらえば、ヴァンパイアたちの考えだって変わるかもしれない。
「ーーなるほど。随分、大口を叩くようになったな」
「でも、嘘じゃないから……!」
「……見ればわかる。お前がそんな目をするのは初めて見た」
予想外の言葉だった。
どうせまた、否定されると思ってた。
……お父さん、もしかしたら、私の気持ちをわかってくれたのかな。
「ーーだからここで、お前を止めるとしよう」
次の瞬間、父親の持つピストルの銃口は私に照準を定める。
……期待しちゃいけないって、わかってたのに。
こうやって、何度、打ち砕かれただろう。
同じことを、何度、繰り返したのだろう。
私の父親は、ひどく頑固で、話を聞かない。
ーーわかりあうとか、わかってもらうとか、そんなの到底無理なんだ。
……理解していたつもりだった。
それなのにどうして私は、希望を抱いてしまうのだろう。
勝手に涙がにじんで、その粒を強風がさらっていく。
……父親と、交戦したくはなかった。
父親は、強い。
たとえ私がヴァンパイアでも、それを知っている上に銀のピストルを向けられたら、勝ち目は薄い。
勝ち筋があるとしたら、逃げの一択だ。
ーー強い風に、砂が舞う。
父親のまばたきの瞬間、一か八かの望みをかけてーー私は塀に向かって跳んだ。
そのとき、銃声が耳をつんざいた。




