1話 王様 ③
これから何をされるのか想像した瞬間、緊張で固まってしまったようだった脚が考えるよりも先に動いた。
ドアの方向へ一歩を踏み出――そうとして、つまずく。
床へ転ぶ寸前、間宵紫月に抱えられ、転倒は免れた。
「あっぶねーな……」
「はっ、離して!」
私がちょっと手足をばたつかせると、彼は本当に手を離す。
そのまま私は重力に従って床に落ちた。
「いった……何すんの!」
「お前の言うとおりにしてやったんだけど?」
間宵紫月はため息まじりに言いながら、電気を点けた。
「今さら逃げようとしたって、無理に決まってるだろ」
彼の言うとおりだ。
私は、差し伸べられた手を取るしかない。
手を掴まれ、引き寄せられて、不適な笑みを浮かべる顔が目の前に来る。
金の瞳は見れば見るほど、引き込まれそうだ。
「もう逃げんなよ?」
「わ、わかった! けど――」
逃げられないのはもう、充分過ぎるくらいにわかった。
でも本当に、これだけはお願いしたい。
「――けど、食べないで!」
言うこと聞くって言ったって、食べられちゃったらおしまいだもん。
「食ったりしねーよ」
「……ほんと?」
「ヴァンパイアは血を吸うだけな」
そんなの、私からすれば同じようなことだ!
ヴァンパイアに血を吸われた人間は、普通じゃいられなくなってしまうのだから。
「そっ、それも、ダメ!」
「ふっ、ピーピーうるせぇヒヨコだな。そんな心配する前に、シャワーくらい浴びろよ。泥ついてんぞ」
わ、笑われた……。
しかもシャワーを浴びろだなんて、ちゃんと綺麗にしてからいただくつもりなんだ、きっと。
……やっぱり、ヴァンパイアの王なんてとんでもない奴と一緒にいるなんて無理すぎる。
諦めの悪い私が必死に逃げ道を思い浮かべようと悩んでる間に、彼は私の背中をぐいぐい押す。
廊下の奥へ追いやられた。
それから間宵紫月が開けたのは、バスルームに繋がる洗面室のドアだった。
「とにかくシャワーを浴びろ。そんな格好のままで家を汚すな」
彼は洗面室に私を押し込んで、そう言い残した。
……私の頭の中は、不安で一杯だ。
けれど今さらもう、どうしようもない。
逃げられないと決まっているなら、びしょ濡れのままでいるよりもさっぱりした方がいいに決まってる。
なんだかとても疲れたし、もうそれ以上深く考えることはやめて、とりあえずシャワーを浴びることにした。
シャワーはあたたかくて、気持ちよかった。
夏とはいえ、しばらく濡れた服を着たままだったせいか、気づかない間に体は冷えていたようだ。
並ぶのは知らない銘柄のシャンプーやボディソープ。
それを見て、私は本当に家を出たんだな、なんてことを実感する。
まあ、知らない男――もといヴァンパイアの王様の家に転がり込むことになってしまったのは予想外過ぎるけど。
家を出てからそんなに時間も経っていないはずなのに、なんだかすごく色々なことがあった。
もし間宵紫月に助けてもらわなかったら、私、ヴァンパイア男に襲われた時点でもうダメになってたかもしれないし。
……そういえば彼がヴァンパイア男を撃退したときのこと、どうやったのか聞きたいな。
それに、そもそもどうして私を助けてくれたんだろう。
ヴァンパイアの王っていうなら、ヴァンパイアの味方じゃないのかな?
いや、でも、私のことを『うまそう』なんて言ってたし、もしかしたら獲物をひとりじめしたいだけかもしれない。
けど、言うこと聞けとか召し使いとか、一体私に何をさせたいんだろう。
いくら考えたって、ヴァンパイアの王の思考なんてわかるはずもない。
なんだか頭痛がしてきたところで、私は考えることをやめた。
――もしかしたらこれが、人生最後のシャワーかもしれないし。
私がこれからどうなるかは間宵紫月次第だ。
彼のところに戻った瞬間、私は食べられちゃうかもしれない。
そう思うと、石鹸のやさしい香りとシャワーのお湯のあたたかさが、ひどく尊いものに感じた。
◆
浴室から出ると、タオルと、彼のものであろうTシャツとハーフパンツが用意されていた。
……そういえば、濡れてしまったから下着がない。
服を借りられるだけ感謝しなきゃ。
そう自分を納得させた頃、洗面室のドアが一度ノックされた。
「おい」
「はっ、はい!」
「開ける」
「ちょ、ちょっと待って! 服着るから!」
慌てて服を身にまとう。
それを見計らったように間宵紫月はドアを開けた。
「そこにあるのは好きに使え。さっき着てた服はそっちな」
それだけ言うと、また去っていく。
彼が指差した洗面台の下の収納には、ドライヤーやコームがあった。
服を入れろと指示された洗濯機のそばには、洗剤が備え付けてある。
……意外と優しいし、なんていうか、ちゃんとしてるかも?
真意こそわからないが、今は甘えさせてもらうことにした。
◆
……――前言撤回!
間宵紫月の元まで行って、すぐに思い知らされた。
まったくもって、優しくないし、ちゃんとしてない。
ついさっきまでの自分の目を覚ましてやりたい。
「ほら、心配するなら今だぞ?」
私は今、ソファに押し倒されている。
「た、食べないでってば!」
「だから、ヴァンパイアは人間を食うんじゃなくて、血を吸うだけだっての」
「どっちも変わらないよ! だって、血を吸って、人間を吸血依存症にするんでしょ!?」
――吸血依存症。
それこそが、人がヴァンパイアを恐れ、ハンターがヴァンパイアを狩る理由だ。
ヴァンパイアに血を吸われた者は吸血依存症になる。
そうなれば、人は自らヴァンパイアに吸血されることを求めて、正気を失ってしまうらしい。
そんなの、食われて死ぬのと変わらないと思う。
だから絶対にお断りだ。
「そのとおり。よくご存知で」
「だから、離して!」
私は間宵紫月を押しのけて無理やり上半身を起こす。
彼はそれを許したのか、私のスペースを空けてソファに座り直した。
「けどな、全員が全員、そうなるわけじゃねぇよ」
「……え? そうなの?」
「人間が吸血依存症なんてのになるのは、血を吸ったヴァンパイアがよっぽど下手くそか、わざとやってるからだ」
……知らなかった。
ハンターとしての教育を受ける中で、そんなの聞いたことがない。
いくら私が真面目に話を聞いていなかったとはいえ、ヴァンパイアに関してまったく知らない事実があるなんて。
「お前を襲ってた奴は、後者だろうな。わざとやってやろうってのが透けて見えてた」
「なんでわざわざ、そんなこと……」
「嫌がらせとか、単に面白がってるだけとか、理由なんていくらでもあるさ。――人が憎くて仕方ない、とか」
間宵紫月の真剣な声色に、恐怖を覚えた。
私の体がこわばったのがわかったのか、彼は私の肩に優しく手を触れた。
「もちろん俺は、そんな下品な真似しない」
優しい言葉に聞こえるが、私はもうなんとなく、彼が次に言うことがわかってる。
「……だから、あなたに血を吸われても大丈夫って?」
「そういうこと」
間宵紫月は、再び私を押し倒す。
大丈夫なんて言われたって、100%信じるなんてとてもできない。
でも現に私がこうして、一応は無事といっていい状態なのは、彼のおかげだ。
……だったら少しくらい、信じてみたっていいのかも。
それに、抵抗したって無意味だってわかる。
今の私は、力でも口でも、彼には絶対敵わない。
間宵紫月の唇が、首筋に触れる。
くすぐったくて、恥ずかしくて、つい目を瞑る。
そして、そのまま噛みつかれた。
牙が当たる感覚はある。
けれどそれは思っていたよりもずっと優しくて、心地よさすら感じた。
牙が肌に刺さって血を吸われるなんて、想像では痛くて怖いものだったのに。
身を委ねて少しの時間が経ち、間宵紫月は名残惜しそうに私から離れた。
「お、終わった……?」
「まだやってほしいか?」
私は首を横に振る。
正直なところ、まだやってもらってもいいなんて思ってしまった。
けれど彼の試すような視線が、肯定したら何をされるかわからないと私に思わせた。
「で? どうすんの、お前は」
立ち上がった間宵紫月の唐突な問いに、頭が追いつかない。
噛みつかれていた首筋に残る温もりが、よけいに脳を鈍らせる。