5話 稀血 ⑥
「何とでも言えよ」
残酷だって、紫月は自分でも言っていた。
記憶を消してしまうというのは、確かにひどいことかもしれない。
私に樹莉ちゃんの過去のことはわからない。
けれど記憶を消すことで盲目的な執着をやめられるのなら、それで健全な未来を見ることができるようになるのなら、残酷だとは言い切れないとも思う。
「で、陸……てめーは好き勝手に人を襲おうと思うのをやめろ」
「……え、なになに? 俺の記憶は消さなくていーの?」
陸君は意外そうに、目をぱちくりさせる。
「そもそもお前は自由に血を飲みたいだけだろ、だからその考えを改めろって言ったんだ」
「そりゃそーだけど……回りくどいっていうか、もっとはっきり言えばいいじゃん。それこそ記憶消すのが早いよね?」
「うるせぇな、俺には無駄に他人を支配するような趣味はないんだよ」
「へぇ、優しい王様で助かったよ。ねぇ陽奈ちゃん?」
私は蚊帳の外だったのに、突然話しかけられて思わず肩が跳ねてしまった。
私が返事をする前に、紫月は私を隠すように前へ出る。
「二度と陽奈に話しかけんな」
「それ、無駄な支配じゃない?」
「……あと、もうひとつ」
「ん?」
紫月は陸君に近寄って、陸君の胸ぐらを掴んだ。
「え」
陸君が抵抗をする暇もなく、紫月は振り上げた拳を陸君の脇腹に向かって打ち込む。
骨が折れるくらいはしたんじゃないかという強さに思えた。
「しっ、紫月……」
誰のためにやったのか、それと紫月の負った怪我のことを考えると、やりすぎじゃないか、とは言えなかった。
「陽奈に触れた分な。俺の肩を撃ったのは許してやるよ」
「……そ、れは、どーも……やさしーね」
陸君は、脇腹を押さえたまま立ち上がれないようだ。
相当痛かったはず。
それでも軽口を叩くのはいっそ尊敬すら覚える。
「もうお前に用はねぇ。樹莉を連れてここから消えろ」
「……思いっきり殴っといて、ちょっとひどくない? 優しくなんかねーわ、やっぱ」
陸君はそう言いながらも、戸惑う様子の樹莉ちゃんを促してこの場を離れる。
血を飲んだ以上、紫月の言うことには逆らえないのだろう。
二人が完全に部屋を出るのを見送ってから、紫月は私の手を引いてソファに座った。
それから、沈黙。
話したいことはたくさんあるけど、最初の言葉がうまく出てこない。
「……ごめん」
静寂を破ったのは、紫月からだった。
「そんな、私こそ、ごめん……ほんとに、色々。紫月が謝ることなんて何もないよ」
「あるだろ、山ほど」
「なっ、ないよ! それは私の方だよ!」
「俺だって」
「私が悪いんだって!」
……また、沈黙。
このままじゃ埒が明かない。
「あのさーー」
とにかく何か話そうと、私が身を乗り出したとき。
紫月は、私の顎を指先で持ち上げた。
こんなに真正面から、真剣な瞳を見るのは初めてだった。
金色の瞳は、見れば見るほど引き込まれて、視線を逸らすなんてできなくなる。
「噛みついて、いい?」
「なっ、に、それ」
「言葉通りだけど」
「な、なんで、今ーーて、いうか、なんでわざわざ聞いて……」
いつもだったら、勝手にやるくせに。
私は紫月の言いなり。それが紫月と私の契約だから。
「訊くだろ。契約は、もう無しだからな。俺が破ったから」
「……どういうこと?」
「お前を誰にも襲わせないって言った。……けど、守れなかっただろ」
……確かに、そんな契約だったっけ。
でも、それじゃあ私と紫月の関係はどうなるんだろう。
「で、噛みついていいのかよ」
「……私に拒否権あるってこと?」
「そうだったら拒否するか?」
「……いじわる」
口角を上げる紫月の顔を、久々に見た気がする。
「いただきます」
噛みつかれるのはいつものことで、首筋に触れられるとわかっているから、目をつぶって身構える。
けれど触れられたのを感じたのは、唇だった。
驚いてまぶたを開くと、紫月の瞳が目前にある。
ーーキス、されてる?
突然のことで、気を抜けばパニックになりそうだ。
噛みつかれたことなら何度もあるし、それはキス以上に勇気がいることのような気がしていた。
でも、されてみれば。
キスの方がよっぽど、ドキドキする。
顔が紅潮していくのが自分でもわかる。
うれしいんだか恥ずかしいんだか、自分でもよくわからなくなってきて、思わず、逃げた。
「っは、し、紫月……んっ」
離れられたのは息継ぎ程度の時間だった。
またすぐに唇を重ねられて、今度は私もそれを受け入れた。
もう逃がさないとでも言うように、紫月は私の頬に手を添える。
ーー私たちがキスしていた時間が短かったのか長かったのか、よくわからない。
けど、確かに私は幸せだった。
こんな時間がずっと続いてほしいと願ってやまない。
そうして私は、もう他のことなんてどうでもよくなって、これからのことなんて考えもせずに。
言わないと決めた気持ちを、言葉に変えてこぼしてしまう。
「……紫月のことが、好き」
少しの静寂が流れてから、紫月が口を開こうとする。
途端に、私はそれがとてつもなく怖くなった。
「ま、待って!」
「……なんだよ」
「べつに、なにか返事がほしいとか、紫月とどうにかなりたいとか、そういうのじゃないから! ただ、一緒にいられたらいいとは思うけど……でも、だから、何も言わないで!」
自分でも、何がしたいのだろうとは思う。
けれど紫月の返事によって、もし、今の関係が壊れてしまったら。
もし、一緒にいられなくなってしまったら。
それを考えると、返事を聞くことが怖くてたまらない。
紫月は少し困ったように口を開く。
「……でも、もう、契約は無しだろ」
ーーそうだった。そんなことを言ってたっけ。
そもそも、一緒にいる理由もなくなっちゃったのかな。
「なっ、無しにしない! 言うこと聞くから! だから、まだ一緒にいてよ……」
「……お前さ、俺がなんでーーキス、したと思ってんの」
「えっーー……な、なんで?」
紫月の気持ちがまったくわからないといえば嘘になる。
だって紫月は、私のことをエサでもモノでもないと言ってくれた。
でも、まだ、私の中で確信してるわけじゃない。
私はどうしようもなく怖がりで、だから、紫月の気持ちをわかってるなんて言うわけにはいかないんだ。
「じゃあ、なんでお前と一緒にいるかはわかってる?」
「……なんで?」
こっちの質問の答えの方が、私にとっては難しい。
そもそもどうして、紫月は私なんかを拾ったのかもわからない。
「……俺は、お前がいるだけで救われてるんだよ」
「す、救われ……私、そんなに大層なことした?」
「いるだけでいいんだっての。だから今さら手放したりしねぇよ」
「……えっと、それじゃあ、今まで通りーー一緒にいてくれるってこと……?」
「……お前がそれでいいならな。でも、さっきの返事はいつかするから覚悟しとけよ」
つまり、私の……こ、告白の返事ってこと?
覚悟しとけと言われても、わかりましたなんてすぐには言えない。
「ぜ、善処します……」
私がそう言うとまた、紫月は私にキスをした。
沸騰しそうな脳みそで、私はこれからのことを必死に考えていた。




