5話 稀血 ⑤
うまく、言えたかな。
恐る恐る陸君の顔を見ると、陸君は驚いたように目を丸くしてから、楽しげに口角を上げる。
「え、なに、どしたの。命乞い?」
「……うん。そうだけど……陸君、私のこと、好みって思ってくれてるんだよね。だったら、今ここでなんでも好きにしていいから、助けて?」
私は、陸君のシャツをきゅっと握り、上目遣いで言った。
「ははっ、陽奈ちゃんさぁーー」
きっと大丈夫だ。陸君は、私のお願いをきいてくれる。
指の背で唇を拭い、背伸びをして、目をつぶる。
「……ほんとにかわいーじゃん、気に入っちゃったな」
陸君の唇が、私の唇に触れた。
私は紫月の顔を一瞬でも見ないように、よりいっそう強くまぶたを閉じる。
紫月を見たら、躊躇が生まれてしまうから。
私が葛藤を押し殺している間にも、陸君はついばむようなキスで私をもてあそぶ。
ーーけど、まだ、終わらせない。
私は陸君の首に腕を絡めた。
それから、陸君の薄く開いた口の中に、精いっぱい舌を伸ばす。
陸君は、無力な私を拒まない。
私はそれを確信してから、隠しておいた切り札を舌で陸君の口内に押し込んだ。
陸君は、すぐに違和感を察知したようだ。
私から離れようとした陸君の頭を、私はできる限りの力で押さえつける。
やがて陸君の喉がごくりと鳴ったのを確認してから、私は口を離して叫んだ。
「紫月! 命令して!」
次の一瞬で、私以外の全員が動いた。
陸君は私に掴みかかろうとし、樹莉ちゃんは銃口を私に向けようとした。
けれど一番早かったのは、紫月の言葉。
「ーー樹莉のヘッドフォンを取れ!」
陸君は紫月に従って、樹莉ちゃんからヘッドフォンを奪う。
樹莉ちゃんは戸惑った様子でありながらも、左手でヘッドフォンを取り返そうとし、右手の指先で引き金に触れた。
「動くな!」
紫月の一声が放たれた瞬間、陸君と樹莉ちゃんは凍りついたようにぴたりと止まる。
……私の作戦は、成功した。
陸君に紫月の血液入りのカプセルを飲ませることができた。
あのとき、こっそりカプセルをもらっておいてよかった。
紫月がすぐに状況を理解してくれたのも助かった。
これでとりあえずは、一安心のはずだ。
肩の力が抜けた……かと思うと、そのまま腰が抜けてしまう。
紫月が駆け寄り、私を抱きしめてくれた。
「悪かった、陽奈」
「わっ、私こそ、隠し事してて、ごめん……!」
紫月の体温に触れると、勝手に涙が溢れて止まらない。
理由は自分でもわからない。
けれど紫月の優しさもあたたかさも、今は私に向けられていることがうれしかった。
「……おーい、イチャつくのやめてもらえる?」
ため息まじりに言った陸君を、紫月は睨みつける。
「手錠の鍵、どこだ」
「……俺のネックレス」
もう計画を諦めたのか、陸君は抵抗する気力もないようだ。
紫月が陸君の首もとから、手錠の鍵がぶら下がったネックレスを引きちぎる。
そして、私の手を解放してくれた。
自由になった手で、今度は私から紫月を抱きしめる。
「ありがとう。ごめんね、紫月……」
「……大丈夫。とりあえず、こいつら片付けてからな」
無気力な陸君とは対照的に、樹莉ちゃんはわなわなと震えている。
樹莉ちゃんからは、怒りや嫉妬、悲しみーーとにかくネガティブな感情が入り交じった視線を感じる。
「なんで、その女なの」
紫月は樹莉ちゃんの質問に答えない。
ただ無言で歩み寄り、震える手からピストルを取りあげた。
「ーー紫月、わかってんの? その女は暁家の、跡取り娘なんだよ!?」
「っ、それはーー」
それは、私が自分の口から言うつもりだったのに。
今ここでそう言っても、嘘つき呼ばわりされるだけだ。
祈るような気持ちで紫月を見ると、紫月は私に一瞬だけ視線を送って、ぼそりと言った。
「……んなこと、知ってるよ」
「え……」
私がハンターの名家である暁家の娘だって、紫月は知ってたの?
出会ったとき、確かにフルネームはすぐにバレた。
けれどまさか、あの暁家ということまで気づかれていたなんて。
そうだとしたら、どうして紫月は私を拾ってくれたんだろう。
ヴァンパイアハンターのことが嫌いだと、確かに言っていたはずなのに。
「……やっぱり、知ってたんだ。樹莉、そう思ってたよ。わざとらしくイトコだとか嘘ついちゃってさぁ! そんなわけないじゃん、紫月はひとりぼっちの王様で、最後の王族だもんね?」
ーー最後の王族。知らなかった。
家族はいないと言ってたけれど、血縁すらもいないんだ。
マスターが紫月のことを、一人で寂しいと言っていたのはそういうことだったのかもしれない。
「……で? 言いたいことはそれで終わりか?」
「っ、だからなんで、ヴァンパイアの王様が! ハンターの家の女なんかに! そんなに執着してるのよ! もう稀血でもないんでしょ!? なんでっーー」
樹莉ちゃんは取り乱した様子だが、その言葉には共感する。
私だって、どうして紫月が優しくしてくれるのかわからない。
紫月は私の方へ戻ってきて、それを見た樹莉ちゃんは辛そうに顔をしかめて目を伏せた。
「……なんで、樹莉じゃダメなの? 紫月が孤独なままでいるなら、それでよかったよ。けど、なんでそんな女と一緒にいるのよ……」
「……俺が陽奈といる理由は教えない。けど、樹莉、お前といられない理由なら教えてやるよ」
樹莉ちゃんは血がにじむほど唇を噛んで、紫月の言葉を待っている。
「お前が、他人のこと傷つけるのを厭わないからだ。……あの時お前だって、見てたはずだろ」
ーーあの時。
それは私の知らない、二人の過去のことだろうか。
二人の間に、何があったのだろう。
「見てたよ!? だから私はあの時から、傷つける側になるって決めたの!」
「……だからお前とは相容れないって言ってんだよ」
「でも、私っ、紫月のことが本当にーー」
「黙れ」
紫月の一言で、空気が張り詰める。
「……お前は、俺に、蒼生の面影を見てるだけだ」
私の知らない人の名前だ。
その人は、樹莉ちゃんの大切な人だったのかな。
「そんな、こと……」
「だからもう、俺に執着するのはーー」
「嫌だ! やめて! 私は、紫月がいないと嫌だ! だってもう、蒼生はいないじゃない! だから、許してよ……」
樹莉ちゃんにはひどいことをされたけど、樹莉ちゃんの悲鳴にも似た懇願に、キリキリと心を締めつけられるようだった。
「……樹莉。俺はお前を許せないし、許さない。だから今から、命令する。もう二度と俺に関われないようにな」
「嫌だよ、そんなの……紫月と会えなくなるんならーー死ねって言ってよ! 言ってくれるよね!? だって紫月は優しいもん!」
……樹莉ちゃんは、ずるい。
会えなくなるなら死ぬなんて、そんなの脅しだ。
しかもそれを、紫月に背負わせようとしている。
紫月の優しさを踏みにじろうとしているんだ。
「俺は優しくなんかない。だからお前を死なせたりしない。……今から言うことが、残酷だってわかってるよ。だから最後に俺に言いたいことがあるなら、聞いてやる」
樹莉ちゃんは発する言葉を選ぶように、口を小さく開いたり閉じたりを繰り返す。
それは、命乞いにも似ていた。
けれどそれを静かに見つめる紫月はもう、樹莉ちゃんが何を乞うたとしても受け入れる気はないだろう。
きっと樹莉ちゃんにも、それは伝わっているはずだ。
だから樹莉ちゃんは、もう足掻こうとしなかった。
「ーーっ、紫月、大好き……」
樹莉ちゃんの目のふちに溜まった涙が、言葉と共に一粒こぼれる。
「……嘘つけ。ーー樹莉、俺と陽奈のことは忘れろ」
紫月の言葉と視線の端にちらつくのは、蔑みに混じった哀れみ。
それはきっと、紫月から樹莉ちゃんへの最後の贈り物だった。
紫月の言葉の後で、樹莉ちゃんはハッと目を見開き、それから辺りを見回した。
「……陸? 私、何してたっけ……?」
「……べつに、何も」
何も言わないのは、陸君の優しさなのだろうか。
それとも、もう関わりたくないとでも思ったのだろうか。
陸君は、紫月を見て、吐き捨てるように言う。
「……俺らの王様は、ずいぶん優しくて残酷なんだね」




