1話 王様 ②
「言うことを聞く、とは……?」
「ご主人様になってやるよ」
「や、遠慮します」
嫌な予感しかしないもん。
絶対、とんでもないこと言いそうだもん。
さっきのヴァンパイア男にだって、何をしたのかわからない。
私にだってきっと、あんな風になにか飲ませて無理やり従えさせるつもりなんだ。
「あっそ。じゃ、達者でな」
彼は意外にも、あっさりと手を振ってから引っ込めた。立ち上がり、踵を返して去ろうとする。
「まっ、待って待って!」
「なんだよ」
「……あの、腰が抜けて立てないんだけど、助けてくれたりは……」
「俺の言うこと聞かないのに、お前の言うことは聞けって? わがままか?」
「ですよね……それじゃ、だいじょう――ぶっ!?」
私が言い終わらないうちに、彼は私の脇を掴んでひょいと立ち上がらせる。
あまりにも軽々とやったから、一瞬何が起きたかわからなかった。
「で? これからどうすんの、お前」
「あ、ありがとう……? とりあえず、なんか、住めるところを探そうかなって……」
「そうかよ。ま、ここから出た瞬間、また襲われて終わりだけどな」
「……え……」
「迷子のヒヨコちゃんは気づいてなさそうだけど、ここ、ヴァンパイア居住区な」
――ヴァンパイア居住区。
聞いた瞬間、冷や汗が背中を伝った。
まさかそんな、とんでもないところに来てたなんて。
ヴァンパイア居住区といえば、ハンターを嫌うヴァンパイアたちが結束して暮らす街。
私の家はちょっと名の知れたハンター一族だけど、ヴァンパイア居住区には絶対に単独で近づかない。
ヴァンパイア居住区に、私みたいなただの人間が入るなんて、エサが自ら食われに行くようなものだ。
どうやってここを抜け出そう。
私ひとりじゃ絶対に無理だ。
彼の言うとおり、またヴァンパイアに襲われておしまい。
それなら、私ひとりじゃなければ。
……彼がいれば、きっと。
だって、さっきのヴァンパイア男が自ら去っていったくらいだ。
彼がいれば、この街から出るのなんて簡単なはず。
できれば、ひとりでがんばりたかった。
でも、ヴァンパイアが絡めば話は別。
ただの人間が太刀打ちできる相手じゃないから仕方ない。
生きるにはきっと、そう、助け合いだって大切だ。
「――えと、あの、あのあのぉ……」
「なに?」
「もうすこーしだけ、助けてくれたり、しない?」
「しない」
ですよね。
「まぁ、俺に拾われるつもりがあるなら話は別だけど」
私の出方をうかがうような視線からは、圧を感じる。
蛇に睨まれた蛙。そんな言葉が脳に浮かんだ。
……私が選べるのは、ふたつにひとつ。
一人で逃げて、他のヴァンパイアに追われるか。
彼の言いなりになって、代わりに助けてもらうか。
――どっちにしてもピンチには変わりがない。
けれど今、少しでも安全な道はきっと。
「……い、します……」
「あ? 聞こえねーなぁ」
「お願いしますっ!」
「拾われる気になったって?」
「……うん」
「不満そうだな」
「それは、もちろん」
何を命令されるのかわからないのは怖い。
けど、今は彼の言うことを聞いて、機会をうかがうことにする。
「ふっ、正直か」
……笑った。
さっきまでのような嘲笑とは違う、素直な笑みだ。
それを見て少しだけドキッとしたのは、きっと気のせい。
「じゃ、契約成立ってことで」
「……契約、って……」
そんな大げさな言い方をされると、逃げたい気持ちがわいてくる。
「お前は俺の言いなり。でも他の奴には襲わせない。そういうことだろ」
「言いなりって、つまり私――奴隷、ってこと?」
「……そうだな、召し使いくらいにはしてやるよ」
着いてこい、そう言う彼の背中を見て、私の選択が間違っていないか思いを馳せる。
――どうかこの人が、悪い人じゃありませんように。
そう願いながら、彼の名前を訊ねる。
「あの、名前は……? なんて、呼べばいい?」
「間宵 紫月。好きに呼べ」
まよい、しづき。
どこかで聞いた名前だな、なんてぼんやり考えながら、私は早足の彼の後を必死に追うしかできなかった。
◆
間宵紫月は、スタスタと器用に歩いていく。
避けるそぶりなんてないのに、水溜まりひとつ踏みやしない。
対して私は、着いていくのに精一杯で水溜まりなんて気にしていられなかった。
そもそも全身びしょ濡れだから気にする必要もないんだけど。
「もう少し静かに歩けよ」
「し、仕方ないでしょ、あなたが歩くの早いんだもん!」
「は? 知るか」
そうは言いつつも、どことなくスピードダウンしてくれた気がする。
本当にほんの少しだし、気のせいかもしれないけど。
「もう日も暮れてんだぞ? 夜になったら虫が出るだろうが」
……たしかに。
ヴァンパイアたちは、日光が苦手だ。
だから夜になると外出が増えると、父親から教わった。
「わかった、急ぐ……」
でも、ヴァンパイアが出たとしても、間宵紫月からすれば怖くないんじゃないか。
さっきと同じようにすればいいだけだ。
……というか結局、さっきのアレはなんだったんだろう。
ヴァンパイア男に何を飲ませて、どうやって言うことを聞かせたのか、まだ判明していない。
それに、間宵紫月は気になることも言ってた。
自分のことを『てめーらのトップ』とか、なんとか。
「ね、ねぇ! さっき話してた、トップってどういう意味――」
私の言葉の途中で、突然、間宵紫月が立ち止まる。
突然止まるから思わず躓いて、彼の背中に顔をぶつけた。
「着いた」
「え? ここって……」
「俺の家」
そこにあるのは、例えるならば幽霊屋敷――みたいな、家だった。
草木が生い茂る庭、どことなく洋風な建物のつくり。
辺りが薄暗いせいもあって、一言で表せば、不気味でしかない。
屋敷というには小さなその家の庭に、間宵紫月は門扉を開いて入っていく。
「ね、俺の家って……他に誰か住んでたりしないの?」
「他に誰がいるんだよ」
「えーと、家族とか」
「……いねぇよ、そんなもん」
ぶっきらぼうに言う彼を見て、余計なことを言ってしまったかと後悔した。
でも、必要な確認だった。
だって他に誰もいないなら、今からこの家の中に二人っきりになってしまう。
……本当に大丈夫かな。
間宵紫月が実はヴァンパイアで、さっきみたいに襲われたらどうしよう。
間宵紫月が玄関の鍵を開けるのを不安な気持ちで見ていると、彼は私の方に振り向いた。
「ビビってんの? 今さら」
「えっ……いや、そんな……」
「さっきみたいに襲われたらどうしよう、とか?」
――図星。
だけど、はいそうですと言うわけにもいかない。
「あんなカスと一緒にすんな。俺を何だと思ってるんだよ」
「何って……うーん……」
「そういやさっき、なんか言いかけたろ。俺が言った『トップ』の意味を知りたかったのか?」
私は返事と共にうなずく。
間宵紫月は話しながら、玄関のドアを開け、中に入る。
「トップってのはな、王って意味」
……王?
頭の中で彼の言葉を反芻しながら、私も続いて、家の中に足を踏み入れた。
その瞬間――肩を掴まれて、体を壁に押しつけられる。
「――つまり俺が、ヴァンパイアの王ってことだよ」
ヴァンパイアの、王?
その言葉を理解するよりも先に、嫌な汗が滲むのを感じる。
それから私はあることを思い出して、すとんと腑に落ちる感覚を覚えた。
――そうだ、私、はじめから知ってたんだ。
間宵、といえば、ヴァンパイアの王族だってこと。
それは今まで家族から散々聞かされていたのに。
けれど、今になって思い出しても、もう遅い。
私に逃げ道なんてない。
それを絶つことを選んだのは自分自身だ。
ドアが閉じた今、光はない。
暗闇の中の静寂で、自分の鼓動がやけにうるさく感じる。
「……なあ、お前、気づいてる?」
間宵紫月が、私の輪郭から首筋に手を這わせる。
そのまま、私の濡れた髪が払われた。
「なっ、何に?」
緊張と恐怖と、色々な感情が入り交じって、つい声がうわずる。
「お前の血、死ぬほどうまそうな匂いがする」
その言葉は、私の耳元で小さな吐息と共にささやかれた。
――っ、く、食われる!