5話 稀血 ①
居心地が悪い。
実家のベッドみたいだ。
物は悪くないけど、息苦しい。そんな感覚。
こんなところにいたくない。
意識が覚醒したのは、自分の咳によってだった。
微細なほこりが気管に侵入したのがわかる。
最悪の目覚めだ。
むせて、涙でぐずぐずの目を開く。
ここは薄暗い大空間ーーの、一角のようだ。
辺りに無造作に置かれているのは、錆びた機械のようなものや鉄パイプだ。無骨なライトが周囲をまばらに照らしている。
廃工場といった感じの雰囲気だ。
そして、それらには不似合いな、大きくてふかふかのソファの上に、私は寝かされていたようだった。
嗅がされた薬品がまだ残っているのか、からだがだるい。
どことなく頭もくらくらする。
近くに人影はなく、私をここへ連れてきたのが誰かもわからない以上、声を出すのもはばかられる。
私の家族じゃなさそうなのは確かだ。
そうなると、誘拐……?
けれど私の手足も自由なまま、見張りもいないなんて、誘拐犯が何を考えているのかわからない。
……とにかく、出口を探そう。
誘拐犯の目的も正体もわからないが、逃げてしまえば関係ない。
うまく動かないからだへの不安を消し去るように深呼吸をして、立ち上がる。
その瞬間、私の肩に誰かが触れた。
「おはよ」
思わず、肩が跳ねる。
単純な驚きと、出口を探そうとしたのがバレたかもという焦りのせいだ。
冷静にいようと思えば思うほど、心臓はばくばくと大きな音をたてる。
今、私の後ろにいるのは、誘拐犯に違いない。
……けれどそれにしては、威圧感のない声色だった。
もしかすると、誘拐なんて私の勘違いかもしれない。
なにしろ、薬品のせいか記憶が曖昧になっている。
だから自分のことが信用できなかった。
きっと、大丈夫。怖くない。
そんなふうに心の中で自分に言い聞かせーー意を決して、振り向く。
「ばぁ」
そこにいたのは、陸君だった。
広げた両手を顔の横に出し、おどけている。
その様子に、からだの力が抜けた。
「く、陸君! 脅かさないでよ……」
陸君は、何も言わない。
「……陸君……?」
陸君の顔をうかがうが、彼の長めの前髪が目線を隠し、口元を覆うマスクのせいで表情が読めない。
誘拐犯だと思った人が陸君だとわかった瞬間は、ほんの少しだけ安心した。
でも、陸君と誘拐犯がイコールである可能性はゼロじゃない。
「……陽奈ちゃん、だいじょーぶ? 顔色悪い」
マスクのせいでくぐもっているからかもしれないが、優しいはずの言葉が、少し怖く感じる。
「ーーなんで陸君、こんなところにいるの?」
「んー……」
陸君は考えるような素振りをしながら、ゆっくりとした歩みでソファを回り、私の元へ来た。
「まー、色々考えることはあったんだけどさ、そろそろかなぁと思って」
「そろそろって、なにが……?」
「食べ頃」
陸君の言葉に感想を抱く暇さえ与えられず、私は、あっという間に抱えあげられてしまった。
「えっーー」
そのままソファへそっと下ろされ、陸君はおもむろに私に覆い被さる。
「陽奈ちゃんの血、すっごくおいしいんだってね」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
「もう待ったよ。待ちくたびれちゃった。だからもういいでしょ?」
マスクを下げた陸君は、牙を見せて笑う。
その顔は紛れもなく、獲物を前にしたヴァンパイアそのものだ。
「……陸君が、私をここに連れてきたの?」
「そーだよ」
紫月の勘は正しかった。
陸君はいい人なんかじゃなかった。
ショックを受けている場合じゃないし、誘拐犯が陸君なのは薄々気づいていたことだ。
「……それって、私の血を飲むため?」
「んー、半分当たり」
話せば話すほど、陸君がひどい人だって理解していく。
けれど心の中で、どうか悪い人じゃありませんようにと願ってしまう。
「で、でも、どうして私のこと、拘束もしないでほっといたの? だって、逃げちゃうかもしれないのに」
そんなことを聞いたのは、少しだけ希望が欲しかったからかもしれない。
もしかして陸君は、私に猶予を与えてくれていたんじゃないかって。
絶対的な悪人なんかじゃないのかもしれないって。
陸君はおもしろがるように、笑った。
「ははっ、それ本気? わかんないんだ?」
「えっとーーどういうこと? わかんないよ……」
「へぇ、かわいーね。陽奈ちゃん」
目の前に、陸君の顔が迫る。
笑顔なのに、優しい声なのに、どうしようもなく恐怖を感じるのは、口に覗いた牙のせいだろうか。
「そんなの、君が無力だからに決まってるでしょ」
絶望のどん底に突き落とされたようだった。
やっぱり陸君は、悪いひと。
少しでも信用しようとした自分が馬鹿馬鹿しく思える。
「っ、やめて!」
首筋に迫る陸君を、必死に押しのける。
しかし私の両手はすぐに掴まれて、陸君の片手の中に収められてしまった。
「ほら、ね?」
無力だ、なんて、自分が一番わかってる。
けれど、だから、ちゃんとしたかった。
紫月と一緒にいるために、私にもできることがあるから。
だったらそれから始めようって、そう思ったのに。
結局、こうして捕まって、私の抵抗なんか無意味で、紫月と話すことも叶わない。
……なにしてるんだろ、私。
「あー、泣いちゃった。涙って血からできてんの。もったいないから泣かないでよ」
陸君は、私の目のふちをちろりと舐めた。
「……騙されたかなー、俺」
「え……」
陸君の呟きがなんのことかわからなかった。
騙された? 誰に、何を?
けれどこの状況で疑問を言葉にする余裕はない。
「まーいいや、こうすればわかるよねぇ。いただきます」
陸君が言った次の瞬間、首筋に痛みが走る。
ーー紫月と、違う。
紫月が血を吸うときは、全然痛くなかった。
ふと、紫月に言われたことを思い出した。
『人間が吸血依存症なんてのになるのは、血を吸ったヴァンパイアがよっぽど下手くそか、わざとやってるからだ』
もしかすると陸君は、私を吸血依存症にさせるつもりじゃーー?
「くっ、陸君、やめて! 私、依存症になりたくない!」
私が言い終わるのと同時か少し早いくらいに、陸君は私の首筋から口を離して起き上がった。
陸君の唇の端から滴る血が私のものかと思うと、頭がくらくらする。
「……クソ、やっぱりな。あの女、許さねー」
女? 陸君、誰かに怒ってる?
戸惑う私に気づいたのか、陸君は私を見下ろしながら口を開く。
「安心して、陽奈ちゃんの血、もういらないから。俺、騙されちゃったみたい」
「……さっきから、騙すとか、女とか、何の話? 私に関係あるの?」
「陽奈ちゃんが稀血だって聞いてたから楽しみにしてたのに。嘘じゃん? 最悪だよ」
「稀血……?」
珍しい血、ということだろうか。
そんな話、親からも聞いたことがない。
「稀血、知らない? 陽奈ちゃん、ほんとにかわいーね」
「な、なんなの、それ。私が稀血だったら何?」
「稀血は俺らヴァンパイアにとってのごちそう。すっごくおいしい血のことね。で、君がその稀血って聞いてたの。けど違った。なんか混ざったみたいな味するし」
ーー聞いてたって、誰から?
そう思いはしたけど、その疑問は私にとって重要じゃない。
「つまり私の血が飲みたかったけど、もう用無しってことでしょ? それなら解放してよ!」
「……いや、待って。陽奈ちゃんさぁ、最近、怪我とかした?」
怪我といえば、樹莉ちゃんにやられた傷がある。
けれどそれを正直に話すことで、どれだけのリスクがあるかわからない。
「……教えない」
「じゃあ、単刀直入に言おっか。血が混ざるようなこと、した? 輸血とかね」
「……あ……」
ふと考えてーーいろんなことに納得がいった。
紫月に会ったばかりのときも、他のヴァンパイアにも、『うまそうな匂いがする』と言われたこと。
病院で輸血を受けてから、他のヴァンパイアに襲われていないこと。
つまり、私は元は稀血というやつで、それが輸血によって失われたのだろう。
「当たり? 当たりなんでしょ。だとしたらーー余計、ムカつくよ」
陸君がソファの背もたれを掴んだ手に力を込めているのがわかる。
手の甲には筋が浮かび、ソファはぎりぎりと軋む音を立てている。
「あいつがやったの? せっかくの稀血を? 意味わかんねー……」
「……と、とにかく、もう稀血じゃないんだから、いいでしょ? 私、帰りたいの」
ぶつぶつと呟く陸君に言うと、陸君はハッとしたように、起き上がった私の肩を掴んだ。
「ムカつくからさぁ、陽奈ちゃんにひどいことしちゃおっか!」




