4話 モノは大切に ③
起きたのは、昼過ぎだった。
それから新居を後にして、家に帰ることになった。
紫月の予定では、あと2週間くらいで引っ越しだ。
けどまだ荷物も全然まとめてないし、ともりのバイトもどうするかマスターと話してない。
新居からともりまではバイクで一時間くらいかかるから、辞めることになりそうだけど。
それはちょっとだけ、さびしいなと思う。
次の日になって、マスターに会いに行くことにした。
私が入院したことは紫月が伝えておいてくれたらしい。
紫月いわくマスターは『すげー心配してた』みたいだから、お詫びにクッキーを焼いてみた。
キッチン中に甘い匂いが漂って、小さなしあわせを感じる。
そこに紫月が微妙な表情を浮かべながら起きてきた。
「なんか作った?」
「クッキー焼いたの、マスターに渡したくて。 ……紫月は、甘いの嫌いだよね?」
紫月は返事もせずに、トレイの上のクッキーを一枚つまんで口の中に放り込む。
「うまい」
「ほんと?」
「……半分、本当」
正直でよろしい。
「半分は、元々甘いの嫌いってことだよね? 結構上手にできたと思うから、よかった!」
マスターに渡すところを想像して、ふと、思い至る。
「あ、でも、よく考えたらさ……クッキー焼くのって、マスターのほうが絶対に上手だよね? なんか渡すの恥ずかしくなってきた……」
「は? 俺がうまいって言ってんのに?」
「渡します!」
「それでいいんだよ、マスターが変に思うわけねーんだから」
これ、励まされてるよね?
なんか圧を感じるけど。
そういえばさっき紫月が選んだのは、少しかたちが崩れてたクッキーだった。
……そういうとこ、優しいよね、本当。
◆
夕暮れ時、紫月と一緒にともりのドアを開く。
「マス――」
「陽奈さん! 大丈夫だったのかい? 僕、もう心配で心配で……」
私が言いきるよりも先に、マスターが心配そうに眉を下げながら駆け寄ってきた。
「もう大丈夫です! 動くと少しだけ痛むくらいで」
「そうかぁ。店は大丈夫だから、治るまでしっかり休んでね」
「ありがとうございます。あの、これ……心配かけちゃったから。マスターほど上手じゃないかもしれないけど」
クッキーの入った箱をマスターに差し出す。
マスターは開けてもいい?と私に訊ねてから、箱を開けた。
「わぁ、かわいいね! ありがとう」
クッキーを見た瞬間、マスターはうれしそうに微笑む。
よかった。マスターの好みそうな星や猫のかたちにした甲斐があったみたい。
「えへへ、喜んでもらえてよかったです」
「な?」
紫月はいつの間にか椅子に座っていて、どこか得意気に小さく笑った。
「それじゃあいただこうかな」
マスターがクッキーに手を伸ばそうとしたとき――店の奥から、知らない男の人が顔を出した。
「あ、うまそー」
男の人は気だるげな雰囲気を醸し出している。
色素の薄い金髪に黒いマスク、耳を飾るたくさんのピアスが特徴的だ。
「そうだ、紹介するね。彼、陸君。アルバイトしてくれる新人さんだよ」
「よろしくねー。ね、それ、俺にもちょーだい?」
陸君はマスクを下げて、それで私や紫月と同い年くらいの顔立ちだとわかった。
彼の口からは立派な牙が覗いていて、それはもう一瞬でヴァンパイアだとわかるほどだ。
陸君が指さしたのは私の方――に見えたが、そんなはずもなく、彼の目線はマスターの持つクッキーに向いている。
「僕はいいけれども……いいかな、陽奈さん」
「あっ、全然、いいですよ!」
「どーも」
陸君が食べたのは、一番綺麗に焼けたクッキー。
べつに全然構わないけど、本当はマスターに食べてほしかったな。
「うま。じょーずだね、陽奈ちゃん」
「あ、あはは、ありがと……」
陸君は私に近づいて、私の頭をぽんと撫でた。
……距離詰めるの、ちょっと早くない?
「……あれ、怒っちゃった? 紫月君」
陸君の言葉に紫月を見ると、冷たい眼差しを陸君に向けていた。
「……馴れ馴れしく呼ぶな」
「そんなこと言わないでよ。有名人と会えてうれしーの、俺」
「有名人?」
「王様でしょー、紫月君」
まあたしかに。王様なんだから、ヴァンパイアの間では有名人どころじゃないのかも。
「で? それ目当てでここに来たのか」
懐っこい陸君とは正反対に、紫月は警戒心むき出しだ。
「まさかぁ。知り合いに勧められた店に来てみたら、バイト募集中だったから、やってみよーかなって思っただけ」
あ、紫月、納得してない顔してる。
二人の間に首を突っ込むのはやめておこう、そう思ったとき、陸君に腕を掴まれた。
「そういえば陽奈ちゃん、ラテアートできる? さっきマスターに教わってたんだけどさ、あっちで俺の見てよ」
「え、ああ、いいけど……」
「おい」
「紫月君も見たいの? 俺の作品」
「は? 冗談も大概にしとけよ」
「はは、りょーかい。行こ、陽奈ちゃん」
陸君に手を引かれながら、キッチンの方へ向かう。
その間ずっと、不機嫌全開の紫月の視線が背中に突き刺さるのを感じていた。
……後で怒られるかなぁ。
そんなことを考えてぼうっとしていると、陸君に頬をつつかれた。
「ねぇ、こっち見て?」
陸君の方を見ると、そこには綺麗なハートのラテアートが完成していた。
「わぁ、上手! 私、最初こんなにできなかったよ」
「こういうの、結構得意なんだよねぇ。料理とかも」
人を見た目で判断しちゃいけないとは思うけど、正直、意外だ。
その後、陸君とは話が合うことがわかって盛り上がってしまった。
料理のことから、家族と不仲なんてことまで。
もちろんヴァンパイアハンターの話はしてないけど。
……で、私はこのときのことを、ちょっとだけ後悔した。
◆
帰宅して、すぐのこと。
玄関に入って突然、紫月は私を壁に押し付けた。
はじめて会ったときとおんなじだ。
「えっと、紫月……?」
紫月はなんにも言わない。
薄暗い玄関で、彼の表情はわからない。
「あのー、離して……」
紫月は私の髪を指ですくって、それから、私の耳に噛みついた。
……場所も強さも、いつもと違う。本気で噛んでない?
「いっ――た……」
思わず声を漏らすと、紫月は何度か甘噛みをして、ようやく離してくれた。
「い、痛いよ……なんで本気で噛むの!」
「……やつあたり」
陸君が気に入らないのはわかったが、私にやつあたりされても困る。
けど、紫月を置いて陸君に着いていった私もちょっとだけ悪かったかもしれない。
ーーあれ、待って、もしかして……嫉妬?
思い至った結論を、すぐに自分自身で否定した。
そんなわけないよね、きっと。
私は紫月にとっておいしいデザートで、それが少し陸君に近づいたから嫌だっただけ。
自分で考えといてむなしくなるけど、それでも、紫月が私を必要としてくれてるように感じて、ほんの少しだけうれしかった。




