1話 王様 ①
ヴァンパイア。
人の血を吸う、人ならざる、悪しき存在。
ヴァンパイアハンター。
ヴァンパイアを狩る、人のために生きる、正しき存在。
そのヴァンパイアハンターの一族の、光栄なる跡取り候補が私、暁 陽奈。
……そう、教え込まれて生きてきた。
ーーが、正直なところ、光栄とか全っ然思ってない。
ハンターになるとか絶対にお断りだ。
私は普通に生きて、普通に死にたい。
ヴァンパイアなんて怖い存在に関わりたくもないのに、狩るとか本当、無理すぎる。
そんなわけで、家族みんなに反抗しまくった結果。
いびられいじめられ虐げられて、私は暁家の恥扱い。
けど別にいーんだ、そんなの。むしろ好都合かも。
……なんて開き直って、もう好き勝手しようと思っていた夏休み。
「陽奈、いい加減にしなさい」
「ハンターの自覚を持て」
「私たち一族の使命なんだから」
「ヴァンパイアを狩るんだ」
いつも私のことは厄介者扱いで無視するくせに、私が夏休みに入った途端、ここぞとばかりに家族みんな大騒ぎだ。
ヴァンパイアハンターの極意を教え込むなら、時間がたっぷりある夏休みがちょうどいいとでも思ってるらしい。
普段の私なら、みんなに言い返したりはしない。適当に流して終わりにするのが一番穏便に済ませられるから。
ーーけれど、今日は違った。
夏休みを前に教室で浮かれる同級生たちを見たとき、心底うらやましいと思った。
高校生にもなれば、行動範囲も広がるし、楽しいことだっていっぱい増える。
それなのに私は、どこかに行くのも、なにかをやるのも、何から何まで家族に許してもらえない。
……どうして私だけ、こんな生活なの。
その思いがずっと、心の底に澱となって残っている。
それを吐き出すかのように、私は特別うるさい父親に向かって、口答えをした。
「私はハンターになんてならない。もっと自由に生きたいの!」
そう言い切った瞬間だった。頬に強い痛みが走る。
父親に叩かれたのは久しぶりだ。
「自由が欲しければヴァンパイア共を狩り尽くせ!」
「――私は、普通に生きたいだけなんだよ……っ」
普通にしたい。普通に人と仲良くして、普通に恋愛して、普通に好きな仕事して、普通に死にたい。
どうして、そうやって生きる道を選ぶことも許されないの?
……ヴァンパイアハンターなんて嫌い。
ヴァンパイアなんて、大嫌い!
――私は、何も持たずに家を飛び出した。
知らない道を走る。どうせなら、その方がいい。
もう戻りたくない。もう帰らない。
だから、帰り道なんてわからなくていい。
闇雲に走るうちに、雨が降ってきた。
蒸し暑い夏の空気が、ほんの少しだけ冷やされる。
ただでさえ見知らぬ風景が雨粒でぼやけて、本当に知らない世界に来てしまったみたいだ。
あっという間に全身びしょ濡れ。
ふいに目についた古びた倉庫の軒先で、雨宿りをすることにした。
ずいぶん走ったと思う。
一度立ち止まったら、どっと疲れが押し寄せる。
思わずその場に座り込んだ。
……これからどうしよう。
せめてお金とか、持ってくるべきだったよね。
なんかもう、ボロボロだ。
髪はぐちゃぐちゃ、制服はびしょ濡れ、ローファーは泥まみれ。
せっかく逃げ出したって、自由なんて言葉とはほど遠い。
自由になるって、意外と大変だ。
前髪の先から滴る雨。
それを見ていた瞳からも、一滴のあたたかい水が落ちる。
……なんで泣いてるんだろ。かっこわるい。
きっと叩かれた頬がまだ痛いんだ。そういうことにしよう。
せっかく一歩を踏み出したんだから、こんなところでくじけてる場合じゃない。
雑に涙を拭って、立ち上がった。
その時、後ろで倉庫の扉が開く。
「あれぇ? おいしそうな匂いがするなぁ……」
振り返るとそこには、鋭く光る赤い目が二つ。
――ヴァンパイアだ。
直感。危険だ。逃げなきゃ。今すぐに!
走り出そうとした瞬間、腕を掴まれる。
振りほどこうとしたが、相手はびくともしない。
「離して!」
「やだね」
そのヴァンパイア男の低い声は焦りを孕んでいて、今にも噛みつかれそうな恐怖を覚える。
あっという間に倉庫の中に引きずり込まれてしまった。
それからヴァンパイア男は私のことを乱暴に放り投げる。
倉庫の扉は閉じられて、鍵がかけられる音がした。
薄暗い。
頼りになるのは、高いところにある小窓の隙間からさしこむ、ほんのわずかな光だけ。
――暗闇は嫌いだ。
ヴァンパイアが好むから。
それに、閉じ込められて叱られた記憶がよみがえるから。
外から響く雨と風の音、それに紛れてヴァンパイア男の足音が近づいてくる。
「来ないでよ……」
ヴァンパイアは見た目こそ人間と変わらないけれど、身体能力は普通の人間よりはるかに高い。
力じゃ敵うはずもないってことは、ついさっき身をもって知った。
少しのあいだ掴まれただけの腕が、まだ痛む。
どうしよう。逃げられない。
――怖い。
いっそ、もう、すべて諦めてしまおうか?
そんな考えが脳裏をよぎって、ぎゅっと目をつぶった。
その、瞬間だった。
――ガシャン!
大きな音を立てたのは、倉庫の扉。
どういうわけか、扉が外れて吹き飛んできた。
外はどしゃ降りだけど、あんな重そうな扉が吹き飛ぶほどの風なんて吹いてなかったはず。
……何が起きたの?
状況を理解できないのは私だけじゃないようで、ヴァンパイア男も動揺している様子だ。
「おいおい、なんだってんだよ……」
扉が元々あったところに、人影。
逆光のせいで顔はよく見えないが、背が高い男の人ということだけはわかる。
あの人が扉を蹴り飛ばしたとでもいうのだろうか。
「よう、悪ぃな。今から食事ってときに」
その人の嘲笑まじりの声色は、悪いなんてちっとも思ってなさそうに聞こえる。
「あぁ? 誰だ!」
「俺が誰かって? てめーらのトップだよ」
威圧するヴァンパイア男をものともせず言い放った。
……トップ、ってどういう意味だろう。
そんな私の疑問は、ヴァンパイア男の怒号にかき消されてしまう。
「訳わかんねーこと言ってんじゃねぇぞ!」
「わかれよ、バーカ」
ヴァンパイア男が、男の人に向かって走り出す。
今にも殴りかかろうと、拳を振り上げ、叫んだ。
「邪魔すんじゃねぇ!」
そのとき、男の人はパチンと指を鳴らした。
それと同時に、指先から小さななにかが弾かれてヴァンパイア男の口に入る。
「っ、な、何を――」
「飲んだな?」
ヴァンパイア男は自分の口を押さえて沈黙する。
沈黙すれば、それは肯定と変わらない。
「てめーは二度と、血を飲みたいなんて思うなよ。さっさとどっか遠くに行け」
男の人が言うと、ヴァンパイア男はふらふらとした足取りで倉庫を出ていく。
どうして突然おとなしくなって男の人の言うことを聞くんだろう……?
さっきまでの様子が嘘みたいだ。
一連の流れを呆然と眺めていただけの私に、男の人が近づいてくる。
――どうしよう。
助けてくれた(?)けど、絶対怖い人に決まってる。
逃げたくても、力が入らない。
腰が抜けてしまったみたいだ。
男の人は私の前まで来ると、しゃがんで顔を覗き込んできた。
「お前」
「はっ、はい……」
いつの間にか雨はやんでいて、二人だけの空間に静寂が訪れる。
小窓からはやさしいオレンジ色の夕陽がさしこんで、男の人を照らした。
「迷子?」
よく見れば、男の人というほど歳上じゃなかった。
私と同じ、高校生くらいかもしれない。
きらめく銀の髪に、金の瞳。
整った顔立ちも相まって、同じ世界のものとは思えない。
夏なのに羽織っている黒いロングコートのせいで、よけいに現実離れしているように感じる。
「おい」
頬をつつかれた。
思わず見とれてしまって、返事するのを忘れてた。
「あっ、えっと、そう! 迷子です!」
「へぇ……?」
彼はおもむろに私の胸ポケットに手を伸ばす。
何をするのかと身構えたが、彼の指先はポケットの中の生徒手帳を引き抜いた。
「暁、陽奈――……ふ、っ……」
「な、なに?」
私の名前のどこに笑う要素があったのだろう。
「いや、なんでもねぇよ。迷子のヒヨコちゃん」
「ひよっ……!?」
「迷子ってことは、帰りてぇのか?」
問われて、すぐ答えられなかった。
そんな自分に嫌気がさす。
帰りたくない。帰らない。
そう思って、家を出たはずだ。
それなのに少しだけ、帰りたくなってしまった。
ボロボロで、襲われて、もう嫌だって思ってしまった。
そんなにすぐ揺らぐなんて、私の決意はなんだったの?
もう、帰りたいなんて思いたくない。
だから、逃げ道なんてなくしたい。
「……帰るところなんて、ない」
「じゃ、迷子ってより、捨て子か」
「違う! 自分で家を出たの!」
「ふーん、あっそ」
ぶっきらぼうに言いながら、彼は私に手を差し伸べる。
「……えっと……?」
言ってることとやってることが合ってない。
その手がどういう意味を持っているのか理解できない。
「拾ってやろうか? 俺の言うこと聞くなら、だけど」