駅伝の解説に感動してから、憂鬱で動けない人の事を考えた話
駅伝やらマラソンやらの解説の「ここで休みすぎても疲れてしまう」という話には毎度教えられる様な気分になる。
自分なんかは生き方に休み過ぎて疲れる失敗の癖がある。しかしそれにしても、毎度教えられているという事は、学習してないという事でもある訳だが。
スポーツでは練習でその方法論を学ぶ。最大限に頑張るという事がずっと均一に頑張るという事でないという事実に、結果から直面するから。尤も「頑張る」という言葉の意味は、走ったり泳いだりでは、より明確で具体的な動作を意味する。人生一般はその限りではない。休む、の意味も不明瞭かもしれない。
鬱への「頑張れは禁句」という紋切り型の常識が以前はあって…まあ今も通じる話なのかはわからないが、それは部分的には今でも尊重されるべき見識だと思う。
しかし「頑張れは禁句」が興味深いのは、その「頑張れ」の言葉が通じている側面と、通じていない側面が合わさって悪影響を為すという点だ。元々は「頑張れ」という言葉の使われ方が、慣習が苦しみを表示するスイッチとなった為にそれは禁句になった。「頑張れ」の定義は各々違って不明瞭な意味しかないのだが、しかし何か社会的に有意義な行動に駆り立てる意味である事は、不能者にも伝わる。そこに憂鬱が生まれる。慣習、という事が大きい。元来言葉は慣習の権化でしか有り得ない。その言葉は、その内側に意図するものだけでなく、運用の乱雑さが電荷の様に働いてその表面にも雑多な意味を引き連れ、聞く者の耳に、或いは目に入り込んで来る。
慣用句や流行の観念は、往々にして迎合の強要だ。何重の意味でも、そして当人が意識せずとも。
「頑張れ」が、雑な命令であり心の機微を封殺する傾向を持った道具であったから、「頑張れは禁句」が生まれた。実際それは、救済の力を持った使われ方をしたかもしれないし、今でもその観念による救済はあるのかもしれない。
しかし「頑張れは禁句」も、今や定型文になった。すると、定型の言葉であるという点では、元々の「頑張れ」の似てくるところもある。運用が、取り回しの性格が似てくる、という事がある。それが、言葉の意味を超えて、言葉の印象を支配してしまうという事は、有り得るのではないか。それを言っておけば、少なくとも一つの問題はクリア出来ている、という安心感。ここに到っては、「その昔『頑張れ』と言われて苦しみを感じた人」とは、もはや関係が無い。
制約のクリアに杖突いて、今現実に弱っている人の本当に心の悲鳴を上げている部分には、当の批判対象であった筈の旧時代と変わらず無視の態度が決め込める。そう言った事が、絶えず更新が続けられている心理の最前線では、平気で起こっているのではないか。そんなことを考えてしまう。我々の倫理的、或いは体裁的な努力とは何の関係も無く、苦悩の複雑化、深化は継続する。
「頑張れ」と言われる立場に陥った人の目に、「頑張れ」という言葉に頼る昔の人と、「頑張れは禁句」に頼る今の人、図らずも同じ様な軽薄さを示してしまう、という局面はある様に思う。その見方自体が我が儘で底意地の悪い事だ、という謗りも、また成り立っても良い事ではあるかも知れないが。
しかしともかく、人間は我が儘な所に自由の新天地を見つける生き物でもあり、かつて新天地だった筈の所に集落を作って、そして新たな慣習が束縛する力を強めていく中で、公序良俗と個人の自由のズレとを痛感し、時として筋力さえ奪う病にまで憂鬱を高めてしまう…それが人間という生き物であるとも思う。癒しはいつも、秩序を離れてでも「あんたが大事だ」と言う所にしか無いのかも知れない。