最高の微笑を
ディライラン王国、バゼッド侯爵邸でセントハウンドの仔犬が誕生した。
【ほらボウヤたち。あそこの髭の人間が旦那様、金髪の坊ちゃんがガルディオス、優しそうな女性は奥様よ。きちんとご挨拶なさい】
賢い母犬ラーザはマズルで仔犬たちをつつく。
「ううむ。どれも素晴らしい仔犬たちだ。猟犬としてラーザに負けず劣らず立派に育つだろう」
侯爵は髭を撫でながら嬉しそうに言う。
だがガルディオスだけは心配そうな顔で仔犬を見ていた。
「父上、そこの尻尾が丸まっている子、怯えてませんか? 他の兄弟は物おじせずこっちに来るのにその子だけ震えていますよ」
「あらまあ、本当だわ。生まれつき繊細な子なのかもしれないわね。猟犬に向いていないかもしれないわ」
「ううむ。そうかもしれんなあ」
両親の言葉にガルディオスは思わず叫ぶ。
「父上、それならこの子を僕の友達にして! 僕はこの子をなんだか放っておけないんだ」
独善的だろうが、ガルディオスは震える仔犬から目が離せなかった。
両親は快く承諾し、仔犬を猟犬ではなくガルディオスの友達として屋敷の中で飼うことにした。
名づけはガルディオスが行い、ルンドと呼んだ。
■
【あらあー。ガルディオスったらまた婚約者のデートで失敗したみたいダワ】
フサフサの尻尾をはためかせ、メインクーンのルラが呆れたようにつぶやく。
この屋敷の先住猫でルンドの母ラーザの親友である。
【ルラおばちゃん。ガルディオスは優しいんだよ。失敗じゃなくて婚約者の方が悪いんだよ!】
大好きな親友を貶されてルンドはムっと膨れた。
【まあねえ。婚約者の方も勝気すぎるから、真面目なガルディオスは振り回されるんでしょうけど。猫の集会で聞く限り、ガルディオスのデリカシーのなさも問題ダワ】
ルラは体を揺らして笑う。
猫のボスの顔を持つ彼女は貴族の飼い猫や街の野良猫とも知り合いでガルディオスのデートは野良猫からよく聞いている。
【ガルディオスの婚約者はルディアっていうんだけどねえ。あの子は苦労人なのサ。世間じゃ悪役令嬢で通っているけれど、大好きな父親が何度も騙されるのを見ていたら人間不信にもなるし、態度も冷たくなるってものサ】
ルラは遠い目をして言った。
彼女の昔はあまり知らないが、奥様に拾われたということは知っている。ルンドはルラの青い瞳にたくさんの感情が見えた気がした。
「ルンド! 帰宅が遅くなって済まない。さあ、散歩に行こう!」
扉を開けてガルディオスが入ってきた。
疲れたような顔をしているが、ルンドに見せる顔は笑顔である。
「坊ちゃま。ルンドの世話くらいわたくしどもがしますのに。今日も家庭教師の先生が午後からいらっしゃるんでしょう? お疲れでしょうし、ここはわたくしに任せてください」
侍従が苦笑するとガルディオスはルンドを大事そうに抱きかかえながら首を振った。
「ルンドは僕の大事な友達だからね。それにルンドと遊ぶと疲れが吹っ飛ぶんだ」
ガルディオスにここまで言われ、ルンドは嬉しくなってワンッと吠えた。
【オレも大好きだよガルディオス!!】
ルンドにガルディオスの手助けはできないが、精いっぱい褒めてあげようとペロペロと顔を舐めた。
■
月日は流れ、ルンドが仔犬から若犬になったころ、屋敷にガルディオスの婚約者がやってきた。ルディアと名乗る美しい令嬢は噂に違わぬほど冷たい目をしていたが、ルンドを見ると切れ長の目をやわらげた。
「ようこそルディア。君が見たがっていたルンドがこの子だ。そちらは母の愛猫ルラ」
ガルディオスが紹介するとルディアは氷の表情に戻った。気まずい時間が流れてルンドも居心地が悪くなる。
【ああまったく、世話が焼けるんだワサ】
ルラは軽やかに箪笥の上から絨毯に着地するとニャーオと鳴いてルディアにすり寄った。人形のようだったルディアの表情は見る見るうちに柔らかくなり、白くて細い指がルラの分厚い毛に埋もれる。
「とても……愛らしい子たちですね」
ルディアの声はとても落ち着いて聞き心地が良かった。
ルンドは【この人、悪くないかも。ねえ、ガルディオス】と同意を求めて仰ぎ見たが、ガルディオスは目を丸くしてルディアを見つめていた。
【ガルディオス! どうしたんだよ!】
ワンワンと吠えるとガルディオスはようやく気が付き、照れ笑いをした。
「ガルディオス様。どうかなさいまして?」
再び凍る彼女の声だが、ルンドはもう怖くなかった。
「その、君の表情がとても素敵で見とれていた」
恥ずかしそうにガルディオスが答えるとルディアは目を瞬いた後顔を紅潮させてフンとそっぽを向いた。
【あれれ? 喧嘩?】
ルンドは首をかしげる。
すると首根っこをルラに掴まれて隅の方に追いやられた。
【あの子たちはいい雰囲気なんだから外野は大人しくしとくんだワサ】
ルラに怒られルンドは尻尾を丸めた。
大人しくしていると次第にぽつりぽつりと言葉がルディアから出てくる。それに答えるようにガルディオスも話す。猫のこと、犬のこと、好きな花、好きな音楽……。ルディアは笑わなかったが、ガルディオスは少年らしく快活に笑った。
ルンドは幸せそうなガルディオスを見て胸が温かくなった。
■
ある日、ルディアは飼い犬を連れて屋敷にやってきた。大事そうに抱えられた子はハウンドの女の子だった。クリクリとした目が印象的でルンドは目が合った瞬間胸が痛み、すぐさま部屋に戻った。
【え、なんで? どうして? オレ、どっか病気なのかな!】
あわてふためくルンドに追いかけてきたルラがけらけらと笑う。
【そんなわけないさ。あんたはルディアが連れてきたコに恋をしただけよ。ホラ、もう一度会いに行ってごらん。あたしの言っていたことがわかるから】
ルラに背中を押されてルンドは恐る恐る応接間に顔を出した。
「おいこらルンド。急に逃げるなんて失礼だろう?」
「ガルディオス様。お気になさらずに、急に新しいコが来たから驚いただけでしょう」
冷たいルディアの声がする。
だが彼女の手は優しくハウンドの女の子を撫でていた。
【はじめまして。わたし、ラーファというの。よろしくね】
ルディアに抱かれたままラーファはルンドに話しかけてきた。
目がくりくりとして毛もツヤツヤ、凛とした姿は気品があってルンドはますます胸がドキドキした。
【は、はじめまして。オレはルンド。こちらこそよろしく】
ルンドが答えるとラーファは嬉しそうに尻尾を揺らした。
気を利かせたルディアが「ラーファはルンドと遊びたがっているようですわ。ルンド、ラーファをお願いしますね」とふわりとルンドにほほ笑んだ。
その様子をどこかうらやましげに見ているガルディオスが目に入り、ルンドはなんとなく申し訳ない気持ちになった。ルディアはガルディオスに笑いかけたことがないのをルンドは知っていた。
ウウと詰るように鳴くとルディアは一瞬驚いたような顔をして自嘲するように笑った。ルディアはルンドの唸り声がガルディオスのためだと気が付いたのだ。
「あなたはいい子ね。……あなたの主人ならガルディアス様はいい人なのね」
小さくこぼすルディアにルンドはもちろんだと大きな声でワン!と吠えた。
ルディアとガルディオスを二人きりに残し、ルンドはラーファを連れて屋敷の中を探検した。一緒の散歩はとても楽しくてルンドはまた会いたいと強く思った。
夕暮れになると帰宅のためにルディアがラーファを抱き上げたが、ルンドに気を遣って馬車に乗る前までの追従を許してくれた。
「家まで送るよルディア」
「そこまでしていただかなくても構いませんわ」
「ルンドがもう少しラーファと一緒に過ごしたそうにしている」
ガルディオスがからかうように言うとルディアはまあと声を上げ、苦笑した。
「それなら仕方がありませんわね。お乗りになって。ガルディオス様の馬車は後から続けば二人と二匹で一緒に居れますわ」
ルディアの口調はきついながらも頬は赤くなっており、ガルディオスも同じように赤くなった。
十分広い馬車の中だが、なんとなく二人と二匹は固まって座った。バーハルドズ侯爵の屋敷までは距離があるのだが、すぐについてしまいルンドは尻尾を垂らしてガルディオスは眉を下げた。
そこで初めてルディアは笑い、
「また会いにいきますわ。ですからそんなお顔をなさらないで」
と励ました。
■
不穏な空気にルンドは毛が逆立った。ルラも同じらしく尻尾がぴんと張って警戒している。
玄関が騒がしいので誰かの訪れがあったことは確かだが、香水のにおいがきつすぎて誰が居るのかわからなかった。
「……ということですのよ!! ねえ聞いてらっしゃいます?!」
「ええ、聞いておりますわ。でもマダム。憶測でモノを言うのはよくありませんわ。それにルディア嬢は教養もあって知的で素敵なお嬢さんですの。ガルディオスも打ち解けているようですし、婚約を破棄する気などありませんわ」
奥方の困ったような声が響く。
「んまああ!! あなた、すっかりあの女狐に騙されていますのよ!! ルディアは悪役令嬢と巷では評判ですのよ!! いくらあの娘の母親とあなたが友人だったからって肩を持ちすぎるのもよくわりませんわ!! それでねえ、いい話を持ってきましたのよ。アラゴン侯爵ご存じでしょう? 王妃様の弟御!! あの方の遠縁のお嬢さんをガルディオスの婚約者にいかがかしら? 美人で気立てが良いお嬢さんなの。ガルディオスもすぐに気に入るわ!!」
夫人の言葉は芝居がかって大げさだった。びりびりと壁が振動する大声にルンドはたまらず逃げ出す。ルラは一足先に外へ出ていった。
【はあ、びっくりしたわ。なんて下品な女なんだワサ。あんなのの相手をしなきゃいけないなんて奥様も大変だワサ。あんたも災難だったわね。おやどうしたの、しょげた顔してるんだワサ】
【ねえ、ルラおばさん。ガルディオスはルディアさんとの婚約をやめてしまうのかな? ガルディオスはルディアさんのことが好きなのに】
キュウンと鼻を鳴らすとルラは項垂れた。
【こればっかりわねえ。奥様は嫌がっているけど人間の世界は厄介事が多いもの。わたしたちにできることは多くないんだワサ】
その日、ルンドはガルディオスの顔を思いっきりぺろぺろと舐めた。元気が出るようにと応援の意味を込めて。
ガルディオスは始終暗い顔だったが、ルンドがキュンキュンと鳴くと泣きそうな顔で笑った。
「よしよし、励ましてくれてありがとうな。僕はルディアを諦める気は絶対ない。それに、ルディアとわかれたらお前もラーファに会えなくなるものな」
ガルディオスはルンドを抱き上げてぎゅっと抱きしめた。ルンドのふわふわの毛を堪能するように頬ずりする。
ルンドこそばゆいながらもガルディオスの好きなようにさせた。
【オレがいるからそんな顔しないで元気を出して!】
と祈りながら。
■
最近、ひっきりなしに客が来るようになった。どれもこれも縁談の取次ぎとルディアの悪評を吹き込みに来ていた。
侯爵も奥方も慣れた風に対応していたが、ガルディオスはいつも悔しそうにしていた。
ある日、ガルディオスはやってきた友人に顔を真っ赤にして詰った。
「ビード! 僕がルディアを好きなことを知っていながらよくもそんなことが言えるな!? 確かに彼女は冷たく見えるだろうし、態度もきつい。でも、それは周囲がそうせざるを得ないほど彼女を追いこんだからだろう? 人の良いバーハルドズ侯爵を騙して利用して、それをルディアが解決した。とくには荒事も必要だったろうさ!!」
「お、おい。そんなに怒るなよ。俺はお前のためを思っているんだぜ? ルディア嬢の悪評は社交界で有名だ。娶ればぜったいにお前の名を汚すぞ」
ビードと呼ばれた男はガルディオスの剣幕におののきながらも心配そうに言った。彼はガルディオスの学友でルンドもたびたび遊んだこともある。
お調子者だが楽しい男でルンドは嫌いじゃなかった。
「出ていけ! 僕はもうお前を友達とは思わない。僕のためと言いながら、お前は僕の気持ちすら理解しようとしないじゃないか!!」
ガルディオスはビードの肩を掴んで外へと押し出す。ビードは顔をゆがめ、何かを言いたそうにしていたが抗うことをやめて素直に従った。
ビードが居なくなった後、ガルディオスはテーブルを足で蹴たおした。ガッシャーンと大きな音がしてメイドたちが大慌てでやってきた。
「ごめん。むしゃくしゃしてた」
項垂れるガルディオスにメイドたちは心配そうに声をかけ、「ルンド、ガルディオス様をお願いね」と言って片づけをしはじめた。
ルンドがクウンと鳴けばガルディオスは悲しげな表情でルンドを見た。
「ルンド、こっちにおいで」
ひどくかすれた声は今にも消えそうだった。ルンドはガルディオスの足元に寄って仰ぎ見ると彼は静かに泣いていた。
ガルディオスの涙がぽたぽたとこぼれルンドの体を濡らす。
ルンドはどうしたらいいかわからなくて途方に暮れた。
【ごめん。なにもできなくてごめん。ガルディオス、ごめん】
ルンドは謝ることしかできなかった。
■
ある日、一人の男が血相を変えてバゼッド侯爵邸にやってきた。一通の手紙を大事そうに抱き、悲しげな顔でバゼッド侯爵に渡した。
侯爵の顔色は変わり、奥方は気を失って倒れた。
ガルディオスは不穏な予感に顔を暗くして父親の言葉を待った。
侯爵は重い口を開いて絞り出すように言った。
「……バーハルドズ侯爵が脱税と収賄の疑いでルディア嬢もろとも収監された」
「な、なんですって? そんなバカなことがあるわけないでしょう!! バーハドルズ侯爵は気が弱いが真面目で誠実な方です。収賄だなんてそんなことするわけがない!!」
「私も同じ気持ちだ。侯爵は嵌められたのだろう」
「だったらすぐにバーハドルズ侯爵の無実を晴らして助けなければ!! 早くしましょう父上」
ガルディオスは父の腕を掴んで急かした。
「無駄だ。無実を晴らすにも本物の帳簿が必要になる。誰かが嵌めたとしたらそんなものを簡単に見つかるようにはしないだろう」
「……ならどうすればいいんです!! こうしている間にもルディアは冷たい檻の中にいるんですよ!!」
「わかっている。刑務府に昔の友人がいる。待遇を考えてもらうよう進言しておこう」
バゼッド侯爵は苦しい顔で言った。彼もまたバーハルドズ侯爵を助けられない自分を呪っていた。誠実で真面目な彼をバゼッドは好ましく思っており、友人として尊敬していた。しかし、バゼッドは仕事柄外国にいることが多く、その昔、彼の危機を助けられなかったことを悔やんでいた。仕事を優秀な縁戚に任し、今度こそ彼の力になろうと思ったのに、バゼッド侯爵はまたも失敗してしまったのだ。
父の苦悶の顔を見てガルディオスは黙った。
騒ぐことをやめたガルディオスの目は強い意志の光が灯っていた。
「僕は嘆願書を集めてきます!! 侯爵とルディアの事よろしくお願いします!!」
ガルディオスはすぐに書斎へ行き紳士名鑑を開いた。力になってくれそうな人を書き記し、すぐに屋敷を出た。
ルンドは主人を窓の外から見送った。
それしかできない自分が歯がゆくてルンドはたまらず外を走った。行き場のない怒りと悲しさを発散するように駆けた。
庭の抜けて通りに出てさらに駆ける。夕暮れの陽光に染まった街はルンドの影を大きく見せた。
【しょせんオレは何もできない。大きくったって小さくったって犬だもの】
それでもほとばしる感情を抑えきれず、見知らぬ通りをルンドは走った。いつしか太陽は沈みきって夜のとばりが下りていた。
ぼんやりとテラス街灯の明かりはまるでオバケのようでルンドは尻尾がピンと立ち、そこでようやく足を止めた。
【オレ、何してるんだろう……】
悲しくなってピスピスとルンドは鼻を鳴らす。
足が泥だらけになり、ガルディオスが整えてくれた毛もあちこちがボサボサだった。
そのとき、黒い影がいくつも飛び交い、その一つがルンドの前に舞い降りた。驚いて後ずさるルンドに黒い影は大きく吠えた。
【ようやく見つけたぞ! ルラの姐さんがお前を探してる。早く屋敷に戻れ!!】
その鳴き声にルンドはようやく彼がルラの仲間の猫レイオだと気づいた。大型猫のミックスの彼は野良猫のリーダーでルラの古なじみの彼は散歩中のルンドによく挨拶をしてくれる。お調子者のいい雄猫だ。
【ラーファって犬はお前の友達だろう? 通りで倒れているところを俺たちの仲間が見つけたんだ。人間を呼んでバゼッド侯爵邸に運ばせている。早くいけ!!】
レイオの部下、ダルグもルンドをせっつく。シャム猫特有の長いしっぽで帰る方向を示した。
【ありがとう!! すぐ帰る!!】
ルンドが礼を言うと彼らは尻尾をあげるだけで何も言わなかった。ルンドが走ると彼らは音もなく姿を消した。
■
屋敷に付くとメイドたちが走り回っていた。
「まあ、ルンド。どこに行っていたの? あなたのお友達が運び込まれて大変だったのよ? はやく行って元気づけてあげて」
ルンドはメイドにワンと答えてからラーファの匂いを辿って部屋に入った。ルンドが入れるように扉を開けたままにしてくれたらしい。
部屋の中にはベッドに伏したラーファがいた。ところどころに包帯が巻かれ、美しかった毛並みは乱れている。
【ラーファ!! 大丈夫? 何があったの!?】
【ルン……ド?】
か細いラーファの声にルンドの胸は痛んだ。
【オレだよ。ルンドだよ……しっかりして】
【ルンド……お願。ルディアを助けて……証拠があるの。 旦那様の無実の証拠が】
ラーファは泣きながらルンドに訴えた。
彼女の慟哭は悲しく響いた。
【ルディアたちが捕えられたのはオレも聞いたよ。バーハルドズ侯爵が嵌められて投獄されたんだってね。ガルディオスが嘆願書を集めて助けようとしているからきっと大丈夫だよ】
ルンドはそう言いながらも、確実ではないことを感じていた。それでも、ラーファの気が休まるならと思った。
しかし、ラーファは力なく首を振る。
【嘆願書はきっと意味をなさないわ。だってアラゴン侯爵の目的はルディアを断罪することなんだもの。きっと様々な手段で妨害するわ】
【ルディアを断罪だって? なぜそんなことを……!】
【アラゴン侯爵の縁者がガルディオスを見初めたから、邪魔なルディアを排除するためよ。私を追い立てた兵たちがそう話をしていたわ】
ラーファは悲しげな顔をした。
【そんな……それならどうすれば!】
【帳簿がアラゴンの屋敷にあるはずなの。財産を奪うにしても正しい書類がないと彼も困るから処分はしていないはずよ。それを手に入れれば旦那様の無実の証拠になるわ!! 告発に使われた帳簿が偽物だって証明できるもの!! 本当なら私が行きたい。でも行けないの……】
ラーファは力の入らない足でもがく。
だが、彼女の奮闘はむなしくベッドから這い出ることもできない。
【わかった……僕が行くよ】
ルンドの声は裏返っていた。
足は震えて耳はぺたんこ。尻尾は力をなくして垂れてしまう。
だが、ルンドは自分を奮い立たせた。
【僕にやらせて】
ルンドの言葉にラーファは目を潤ませた。
感謝と期待、そして罪悪感にラーファの心が揺れていた。
悲し気な彼女を元気づけようとルンドはわざと明るい声を出した。
【ラーファはここでゆっくり体を休めてよ。それじゃあね!!】
ルンドは走り出した。
徐々に速さを増して飛ぶような勢いだった。
湧き上がる恐怖心をルンドは必死で抑え、自らを鼓舞するように大きく吠える。
【待っていて皆! 僕が絶対に助けて見せるから!!】
■
刑務府の貴賓牢は街中のホテルのような部屋だった。貴族が収監する場所だから当然だが、ガルディオスはそれほどひどいことをされていない様子に安心した。
「本当に良かった。待っていてルディア。なんとかして助けるから」
ガルディオスはルディアの好物の果実水を渡した。
ルディアは受け取らず冷たい声で言った。
「ガルディオス様。お気持ちはありがたいですがもうここへは来ないで下さい。咎人に関わっていてはバゼッド侯爵家の名が汚れます」
「君は咎人じゃないだろう。だから別に問題はないさ」
ガルディオスが明るく言うとルディアは俯いた。
「父は……父は体が強くありません。父だけは助けたいと思っています」
彼女の言葉は震えていた。
「もちろん助けるさ。君もね」
「アラゴン侯爵から、わたくしが罪を被れば父の罪を帳消しにすると言われています」
彼女の言葉にガルディオスは呆然とした。
「何を馬鹿なことを。そんなことは父君も望んでいないだろう!! 逆に君を苦しませたと悲しむぞ!!」
「……わかっています。ですが、罪を被れば牢から出してもらえるそうです。身分は剥奪されますが、生涯にわたって生活の面倒を見ると言っていました」
「……人を疑う君がそれを信じるのか!?」
ガルディオスが詰め寄るとルディアは小さく首を振る。
「ですが、わたくしたちはもはや死んでいるのと同じなのです。一度捕縛されたわたくしはもはや社交界に居場所はありません。貴族の社会がどれほど冷たくて恐ろしいか、ガルディオス様はまだご存じない」
ルディアはガルディオスをまっすぐ見た。
「……ガルディオス様。わたくしはあなたのことを好いていました。はじめて家族以外で人を愛した方です。だからこそ、婚約を破棄させてください」
「それを僕が承知するとでも?」
「承知してください、わたくしのために。アラゴン侯爵の縁者があなたを見初めたそうです。邪魔な私がいなくなるのが彼の目的ですわ」
はっきりと言い放つルディアの声は張りがあった。迷いがない声にガルディオスはルディアの心を推し量れないでいた。
「僕は君が好きだ。しかし、それが君の不幸にしかならないのなら身を引こう。だが、君が僕と同じく、別れるのが死ぬよりつらいなら、その言葉を受け入れられない」
ガルディオスの力強い言葉にルディアは言葉を失った。なんと答えればいいかわからなかった。
「答えは急がない。僕は僕のできることを最後までやるだけだ。愛しているよ僕の婚約者!」
ガルディオスはそう言って貴賓牢を後にした。
残されたルディアは両手で顔を覆い、体を小さく震わせた。
■
ルンドはアラゴンの屋敷に行った。御用馬車に紛れ中に入り込み、バーハルドズ家の匂いを辿った。
【おいボウズ! そこで何をしている!】
吠えられてルンドが振り向くと立派な体格のドーベルマンが立っていた。険しい顔でルンドを見下ろす彼の顔は恐ろしく、ルンドは体が震える。
【オ、オレは……別に】
【怪しい奴、名を名乗れ!! 俺はこの屋敷の番犬アウグス。 今すぐ帰るなら見逃してやるがどうする!?】
アウグスの声は体の芯まで響き、ルンドの体は縮みあがる。だがそのとき、ガルデイオスを思い出した。彼もルディアたちのために必死になっている。ルンドは体が熱くなるのを感じた。
【オレはバゼッド侯爵家の飼い犬ルンドだ!! お前の主人がバーハルドズから奪った帳簿を返してもらいに来た!!】
ルンドが唸るとアウグスは舌をぺろりとなめた。
【ふははは。威勢がいいな坊主。だが俺は番犬としてお前の狼藉を許すわけにはいかん!! 捻りつぶしてやる!!】
アウグスが飛び掛かってきたのをルンドは間一髪で避けた。しかしアウグスの攻撃はさらに続き、ルンドは防戦一方だった。噛みつこうとしても訓練されたアウグスの俊敏さには適わず、逆に彼の間合いに入ってしまう。
アウグスは余裕の笑みでルンドを眺め、大してルンドは息が上がってきていた。家庭内で飼われていたルンドは体力の消耗が激しく、次第に体が重くなっていった。
【どうした小僧。モタモタしていると俺に噛みつかれるぞ!! さあ、逃げるだけじゃなくてかかってこい!!】
アウグスが挑発するが、ルンドはもはや体が限界だった。しかし気力を振り絞ってルンドはアウグスに飛び掛かった。迎え撃とうとアウグスは大きく口を開ける。研ぎ澄まされたアウグスの牙がルンドの首筋にかかった。
「あー!! ワンワンいじめちゃだめー!!!」
女の子の叫び声にアウグスは急にオスワリの体制になり、ルンドは失速して床に倒れた。
「もーアウグスったらワンワンいじめちゃだめでしょー!!」
やってきたのは六歳くらいの黒髪の女の子だった。ぷりぷりと怒る彼女はアウグスにメっと指先を鼻に押し当てる。
クゥーンと鳴くアウグスは先ほどまでの王様気質は鳴りを潜め、忠実な家臣そのものだった。
【アウグス、この子は?】
【ご主人様の親戚筋の子だ。ご主人様が溺愛している。もちろんオレもな】
言葉通り、アウグスの眼差しはとても優しかった。女の子もアウグスを信頼しているようで怒った後は「うふふ。アウグスいい子ね。大好きよ!」と抱きしめた。
「このワンワンはおともだち? よろしくね。わたくしはユーラよ!」
女の子は嬉しそうに顔をほころばせてルンドを抱き上げた。ぱっちりとした目、子供らしく丸い頬、力加減の下手な彼女にルンドは苦しくなったが、そこはアウグスが間に入って助けてくれた。
そのあとはユーラの私室に連れて行かれ、彼女のベッドの中に引き込まれた。犬の毛が気持ちいいらしく、彼女はすぐに寝入った。
ユーラの寝顔を見るアウグスの目は優しい。ルンドは彼に対して警戒心はもうなくなっていた。
【ねえ、アウグス。アラゴン侯爵の親戚筋の娘さんは他にどんな人がいるの?】
【ご主人様は領地に起きた山火事のせいで親族をほとんど亡くされている。存命なのは王妃様とこの子だけだぞ】
【え! それじゃあ侯爵はこんな小さい子をガルディオスと結婚させようとしているの?】
驚くルンドにアウグスは合点がいったように【なるほど】と言った。
【たしかにユーラがガルディオスと結婚したいと言ったことはある。ご主人様はユーラを溺愛しているから暴走したんだろう。それに年の差なんて貴族からしたらどうってことないのはお前も知っているだろう?】
なんでもないことのようにアウグスは言う。
ルンドは耳を垂れた。
【知っているけど……ガルディオスはルディアのことが大好きなんだ。愛し合っている二人の仲を裂いてまでユーラはガルディオスと結婚したいの!?】
ルンドの言葉にアウグスは何かを考えこんだ。
【ひとつ聞きたい。お前は何のためにここまで来たんだ?】
【侯爵に奪われた帳簿を返してもらいに来た。あれがあればルディアは牢から出れるんだ!! アラゴン侯爵の暴走でバーハルドズ侯爵とルディアは今も牢の中にいる。本来ならもうすぐ結婚する二人だったのに、今後どうなるかわからない状態なんだ!】
ルンドが必死に訴えるとアウグスはゆっくりと動いた。
【ついてこい。場所を教えてやる】
アウグスはそれだけ言うとベッドからおりて扉をそっと開けた。
ルンドは驚きつつも、アウグスの後に続く。
もちろんユーラを起こさないように最小限の動きで。
■
アウグスの後に続きながらルンドは疑問をぶつけた。
【なんで案内してくれるの? オレは……敵だよ?】
【ああ、そうだろうな。だが、お前さんのご主人とルディアとやらは愛し合っているんだろう? それを俺のご主人が邪魔している……。俺にも愛する妻がいるから、お前のご主人の苦しみを想うと居てもたってもいられなかった】
アウグスは振り返ってルンドを見た。
耳が垂れ、眉が下がった顔は悲しさと後悔に塗れていた。
アウグスは突き当りの部屋に入ると奥の引き出しを器用に前足で開け、中から分厚い冊子を出してルンドの前に放り出した。
【さあ、持っていけ】
【あ、ありがとう……。本当に】
ルンドが言うとアウグスは首を振った。
【礼はいらんさ。俺がしたいことをしただけだ。昔のご主人様はそりゃあ優しい方だったんだ。でも今は……人相も変わって食事すらとらずに悪事に没頭している。俺は何とかして止めたかった。昔のご主人様に戻って欲しいんだ。帳簿があればご主人様は裁かれるんだろう? そうしたらきっと過ちに気づいてくれるはずさ】
アウグスは自嘲するように言った。
ルンドは何度もアウグスにお礼を言いって帳簿を咥えて走り出した。
その直後、アウグスは別方向に声を上げながら走った。警備兵は「お、アウグスが侵入者を見つけたらしいぞ!」と大慌てでアウグスの後を追った。
逆方向に走りだすアウグスにルンドは心の中でもう一度礼を言った。
後ろ髪をひかれながらも、ルンドは大きくジャンプして力の限り走った。
■
ルンドが屋敷に帰った時、中は騒がしかった。
嗅いだことのある匂いに驚いているとそこにはビードがいた。
彼の手には束の紙があり、それを見るなりガルディオスは涙を流した。
「ビード、これ……」
「学友たちの嘆願書だ。正直、ルディア嬢の評判は良くないが、『ガルディオスが惚れた女なら噂とは違うかもしれない』と書いてくれた。王太子殿下のサインもある。感謝しろよ側近候補!」
明るい声でビードは言い、ガルディオスの背中を叩いた。
「ありがとう……本当にありがとう。酷いことをいってごめん」
涙をこぼすガルディオスにビードは眉を下げた。
「俺の方こそ悪かった。ろくに知りもしないでお前の思い人を貶したんだ。お前が怒るのも無理はない。……あれからいろいろと調べたよ。何度も人に陥れられていたんじゃルディア嬢が人嫌いになるのも無理ないな」
ビードは苦笑した。
人間関係に恵まれた彼にルディアの苦労を推し量ることはできない。だが、ガルディオスの最愛の人ならば、できるかぎり理解しようと思った。
「ん? ルンドどこかいっていたのか? とても汚れて……おい! これは帳簿じゃないか!? ガルディオス。こいつすごいぞ!! アラゴン侯爵から帳簿を奪い返してきたんだ!!」
ビードの言葉にガルディオスは顔を上げた。そしてルンドに近寄るとその体を高く抱き上げた。
「ありがとう! ルンド!! 俺の最高の友達!!!」
ガルディオスは泣きながら喜んだ。
「おいおい、最高の友達は俺だろう? でもまあ、帳簿なんて成果をあげられりゃ、格下にされるのも無理はないな」
ビードは不満を言いながらも顔は笑っていた。
ルンドはガルディオスの笑顔に胸がすっと軽くなる。そこでふと気づく。ガルディオスは一度もルンドのことを『飼い犬』として扱ったことはない。いつでも彼はルンドのことを『友達』と呼んでくれた。
【ガルディオス。いつもありがとう。大好きだよ。オレの最高の……友達!】
■
ルンドの手柄で無事にバーハルドズ侯爵とルディアは釈放され、アラゴン侯爵は捕縛された。
「侯爵が逮捕されて良かったけれどまさか王妃様が廃妃を望むとは思わなかったな」
ガルディオスが言うとビードが首を振る。
「知らなかったとはいえ実の弟の不始末だからさ。責任感の強い所は王太子殿下によく似ているよ。なにしろ殿下も廃嫡を望んでいたし」
「殿下は真面目で融通が利かないからなあ。親子そろってそうなんだろうな。まあ、殿下の苦手分野は俺たちでカバーしようじゃないか」
ビードとガルディオスは二人揃って正式に王太子付きとなった。今までは候補だったが、「愛する人のために奔走する姿に騎士道を見た」と王太子が高く評価したのだ。
二人で笑いあっていると影が差す。
顔をむくれさせたルディアが二人を睨んでいた。
「ビード! あまり主役を独り占めしないで下さる? 今日は婚約披露パーティですのにあなたがいなくちゃ始まりませんわ!」
「ご、ごめんごめん。あらかた挨拶も終わったし、フリータイムだと思って……」
しどろもどろに言い訳をするガルディオスの腕を掴んでルディアは引っ張る。
「フリータイムはそうですけど、あなたがいないと寂しいんですの」
少し恥ずかしそうにルディアが顔を赤らめるとガルディオスの顔も同じように赤くなる。
最近のルディアは明るくなって表情がよく変わるようになった。それがとてもきれいで可愛くてガルディオスはもっともっと好きになった。
「ビード。そういうわけだから……」
ガルディオスが照れながら言うとビードは苦笑しつつ手を振って見送った。
一人バルコニーに残されたビードは何をするわけでもなくぼうっと空を見上げた。
「お兄ちゃん。一人なの?」
振り返ると黒い髪の美少女が立っていた。
「ああ、一人さ。レディは?」
「一人よ。お姉さまはわたくしにかまってくださるけど邪魔するのは悪いもの」
そう言いながらも寂しそうにする彼女にビードはその頭を良し良しと撫でた。面識はなかったが、彼女の話からハーバルドズ侯爵が新しく迎えた養女だと悟った。
アラゴン侯爵が捕えられて一人残されたユーラはお人好しのバーハルドズ侯爵が引き取ったのだ。ルディアは反対せず、むしろ孤独になったユーラにルディアは昔の自分を重ね合わせていた。
何よりもユーラはとてもいい子だったのだ。
「ユーラのせいでルディア様とガルディオス様を困らせてごめんなさい」
広場でこけたところを助けてもらい、ユーラはガルディオスに恋をした。だが、それは兄に近い憧れに過ぎず、まさか自分の不用意な発言で侯爵が暴走するなんて思ってもみなかったのだ。
「アウグスたちも来れればよかったのに……」
ぷうと頬を膨らませるユーラにビードは笑った。
アウグスは妻と共にハーバルドズの番犬に就任し、いつもならユーラの側にいるが、ルディアたちの婚約披露パーティに犬は参加できない。
「まあ、こればっかりは仕方ないさ。アウグスには及ばないが、俺がレディの番犬を買って出るよ。まずは一曲いかがかな?」
ビードが出した手をユーラは掴み、ようやく笑顔が戻った。ビードはユーラの歩幅に合わせてゆっくりとダンスルームに戻る。
バルコニーからは綺麗な月が見えるだけだが、その実、庭ではたくさんの犬や猫が集まっていた。
ここではルンドとラーファの婚約披露パーティが始まっていた。
ルンドの兄弟は頼りない末っ子の成長を何よりも喜んだ。
【俺たちは優秀な猟犬だと言われて育ったが、一番いい獲物をとったのはお前だなルンド!!】
【すごいぞルンド!!】
兄弟から褒められてルンドは照れ笑いをする。
もちろんアウグスも招待されており、
【こいつは体格差のある俺にも恐れず勇猛果敢に飛び掛かってきた勇気ある雄犬だ!】と褒めたたえた。
仲間たちに祝福され、ルンドはお礼を言って回る。
これ以上ない幸せだった。
ただ一つ残念なのは大親友のガルディオスを招待できないことだが、これはお互い様なのでしょうがない。
後日、一人と一匹きりのときにルンドはガルディオスにたくさんおめでとうを言った。キュンキュンと高い声が出るだけだが、ガルディオスは何を言いたいのか分かったらしく「ありがとう」と笑った。幸せそうな最高の微笑だった。
そしてガルディオスを抱き上げると昔みたいに頬ずりをする。
「お前もおめでとう! 一緒に幸せになろうな!」
ルンドもたまらず嬉しくなる。
頷く代わりにルンドは大きく吠えた。
大好きな友に祝福を込めて。