8.大天使ステラちゃん、ママのピアノを聴く
ママは今日もにこにこ、優しい笑顔。
おうちにあるピアノのお部屋。
ピアノの椅子に座ったママの横、もう一つ椅子を置いてもらって、私はそこに座ってママの弾くピアノを聴かせてもらってるの。
最近は、この間までとっても暑かったのが嘘みたいに涼しい。
大きく開いたお部屋の窓から、気持ちいい風が吹き込んできてカーテンを揺らしてる。
外から、庭師のおじいちゃんの声や、出入りの業者さんの声が聞こえてきて、部屋の中ではママの弾くピアノが鳴っていて、私はこの時間がすごく好きだなぁって思う。
私はママのピアノがとっても好き。
ママはピアノがとってもお上手で、難しそうな楽譜も弾きこなしちゃうし、ママの考えた曲もたくさん弾いて聴かせてくれるの。
ママがピアノの発表会をするときは、大きなホールでたくさんの人の前で演奏するらしいんだけど、そのホールに入るためのチケットは、いつもすぐ売り切れちゃうぐらい人気なんだって。
ママがやさしく教えてくれるから、私もちょっとだけピアノが弾けるようになったのよ。
ママはいつも私のおうたをたくさん褒めてくれる。
私はおうたを習ったことはないけれど、不思議と色んなおうたを口ずさむことができるの。
今日はお昼ごはんを食べたあとから、ずっとママとピアノを弾きながらおうたを歌っていたから、もうお日さまも沈み始めてる。
「またママにステラのお歌を聴かせてくれるかしら」
「うん、もちろん! ママのピアノに合わせておうた歌うのだいすき!」
しばらく素敵なピアノを弾いて見せてくれていたママにそう言われて、私は嬉しくなっちゃう。
私が思い浮かんだおうたを歌うと、ママがそれに伴奏を付けて曲にしてくれるの。
日が傾きかけたお部屋は、少しずつ夕日色に染まっていっている。
『ゆうやけ♪ こやけの♪ あかとんぼ♪ ~』
私がうたうおうたは、不思議な言葉になって口から出てくるの。
聞いたことのない歌詞のはずなのに、何度も聞いたことがあるような気がする、不思議な言葉。
ママも、パパも、使用人の人たちも、誰に聞いても知らない言葉だって言うの。
でも、私は歌いながらなんとなく「今こんなことを言ってるんだよ」って意味がわかる。
「ありがとう、ステラ。なんだか今の季節にぴったりな曲ね」
おうたを歌い終わると、ママが笑顔で、やさしく手を叩きながら感想を言ってくれる。
「そうなの! ママすごい!」
おうたの説明をする前に、おうたの雰囲気ぴったりのことを言ってもらえて、嬉しくなっちゃう。
「あのね、今のはね、こうやって涼しくなってきた季節に、飛んでいるとんぼさんを見たときのおうたなの。なんだか少しさみしいなあって気持ちの歌詞なのよ」
「そうなのね、じゃあ、伴奏はこんな感じかしら」
ママが少し探るようにしながらピアノを弾く。
ママが弾いてくれる伴奏は、静かで、まるで葉っぱが涼しい風に舞うような優しい音色だった。
ほぅ、と私は少し聞き惚れるようにしたあと、伴奏に合わせてもう一度おうたを歌い始める。
『ゆうやけ♪ こやけの♪ あかとんぼ♪~』
私の歌う不思議な言葉の歌詞と、ママの伴奏とが合わさると、まるで夕日に赤く染まるお庭の落ち葉がこの部屋に敷き詰められていくような想像が膨らむ。
窓から吹き込む、涼しい風とお庭の木の匂い。
夕日が沈んでしまうのがもったいなく思えるような素敵な時間。
ママがピアノの最後の音を弾き終わると、余韻を残すようにしてゆっくりと鍵盤から手を離した。
「ありがとう、ステラ。今日もとても楽しい時間だったわ。もう暗くなり始めてしまったわね。疲れてはいない?」
「ママ、私もとっても楽しかったよ! つかれてないけど、少しだけお腹がすいちゃった」
少し恥ずかしいけど正直にそう言うと、「それはいけないわね」とママは笑って、「夜ごはんを食べましょう」と言ってお部屋を出るよう促してくれる。
使用人さんにピアノの椅子から降ろしてもらった私へ、ママは「ステラのおうたをママは大好きよ」と言って頭を撫でてくれたの。
「ママありがとう~! 私もママのピアノだいすきよ! また一緒にピアノをしようね!」
私たちは日の落ちる直前の、まだ明るいお庭へ一度出て、体を伸ばして、それから連れ立って食堂で夜のごはんを食べたの。
+ + +
今日私ははじめてママのピアノの発表会に連れてきてもらっちゃった。
これまでは、発表会をしていることはママやチャーリー達から聞いて知っていたけど、一度も連れて来てもらえなかった。
発表会をするホールは広くて、たくさんの人がいて、「そこでじっとピアノを聴いていては、ステラはきっと疲れちゃうわ」とママは言って、いつもはお留守番だったの。
でもこの間ママとピアノを弾いたあと、私がどれだけママのピアノが好きか、半日聴いてたって疲れたりしないと力説したら、ママも「そうね、ステラは良い子にできるし、一度来てもいいかもしれないわ」と言ってくれたの。
今朝は楽しみでどうしてもベッドで寝ていられなくて、ヘイデンやチャーリーが起こしに来てくれるより先に起きて、お部屋でおうたを歌ってた。
起こしに来てくれた二人には「お嬢様のおうたは、朝の小鳥のさえずりよりも美しい音色ですね」ってニコニコ笑顔でからかわれちゃった。
今日は特別な日だから、お洋服を選んでくれるチャーリーと、髪飾りを選んでくれる使用人さんには「とっても可愛くしてぇ!」ってお願いしちゃった。
今日は、お庭の落ち葉の色に似たボルドー色のドレスと靴に、編み込んで結い上げてもらった髪には、薄ピンクの大きなお花の髪飾りを付けてもらってるの。
どれも前にパパに買ってもらってから可愛くてとっておきにしていたお洋服たちなの。
チャーリーが今日着るドレスにこのドレスを出してくれたときは、「絶対これ!」って即決しちゃった。
本当にチャーリーは私の気持ちがわかってるんじゃないかと思っちゃう。
そのくらい、その日にぴったりのお洋服を上手に選んでくれるのよ。
ボルドー色のドレスは、腰のところが明るめの茶色のリボンできゅっと絞られていて、とっても可愛いシルエット。
お花の髪飾りは細い糸と太い糸で編まれたレースでできていて、ボリュームがあって本物のお花みたいですごく素敵。
私は何度も姿見の前で、左へ右へスカートを揺らすようにする。
その様子を見てたチャーリーが「お嬢様によくお似合いですよ。一面に広がる紅葉にもし妖精がいたら、きっと今のお嬢様のような姿ですね」と大げさに褒めてくれた。
それからチャーリーに手を引かれて、とっても満足した気持ちでホールに向かったの。
「ねえチャーリー、ホールってとっても広いのね!」
私は初めて見る会場の中の様子にびっくりしちゃった。
ホールの中はとにかく広い。
まだ人はまばらで、たくさんのイスが並んでる。
天井はとっても高くて、こんなに天井が高い建物には入ったことがなかったから、ずっと遠くにある天井を見上げて、思わず口が開いちゃってた。
「はい、ステラお嬢様。あちらの舞台に置かれたピアノを奥方様が弾かれるのですよ。イスはその様子を見やすいよう、舞台を囲むように置かれているんです」
チャーリーが、手の平で指すようにしながら説明してくれる。
それを聞いて、ここにたくさん人が集まって、ママがその前で演奏してる様子を想像して、「とっても素敵ね!」って興奮しちゃう。
チャーリーの話では、今日はママの前に何人か、小さな子のピアノ演奏があるんだって。
みんなピアノのコンクールで入賞するような上手な子で、私が今日来ることになったから、ママが「一緒に演奏しましょう」って年の近い子を誘ってくれたんだって教えてもらった。
開演が待ちきれなくて、私は関係者用に誂えられた席にチャーリーと並んで座って、あれこれとお話ししながら時間になるのを待ってたの。
+ + +
「私とっても感動しちゃった! ママのピアノって本当に素敵!」
発表会が全て終わって、私は声を抑えようって努力しながらも、興奮しきりでチャーリーに感想を伝えてた。
発表会は、私が期待していたよりもずっとずっと素敵だった。
席へ座ってしばらくした頃、ホールの中の照明がゆっくりと落とされていった。
ホールの中は満員。
それまでざわめくように手元の資料を見ながらお話ししていた人たちも、暗くなったのを合図にするようにシンと静まり返る。
ややあって、ホール中央の舞台にパッと明かりが点いた。
ただ一台ぽつんと置かれたピアノが照らされる。
そこに置かれているだけのはずなのに、この静寂の中、ぽっかりと光で浮かんだピアノがなにか語り掛けてくるんじゃないかって思っちゃうような光景だった。
少しの沈黙の後、現れたのは、一人の老紳士さん。
おうちの執事さんのヘイデンに雰囲気の似た老紳士さんは、訥々と開会の挨拶をした。
彼の声は厳かで、ああこれから始まる演奏会はきっと素敵なものになるんだろうなあって期待させられちゃう。
老紳士さんが一礼して、舞台から去ると、入れ替わるようにして、小さな影が舞台袖から現れた。
私より年上の少年、七歳のマルクスよりも年上に見えるから八歳くらいかな。
折り目正しく着られた式典服のようなシャツに、仕立てのよさそうなスラックスを履いた落ち着いた雰囲気の男の子。
照明に当たって彼の金の髪が透ける。
背筋は無理に伸ばされるわけではなく自然で、整った姿勢で理知的な碧い瞳をまっすぐ正面に向けて、迷いのない足取りで、彼はピアノへ向かっていく。
ピアノ椅子の手前まで来た彼は、観客に向き直った。
力の抜けた、だけど、まるで一本線の通っているような正された姿勢のまま、静かにスッとこちらに向き直ったその動きに緊張は感じられない。
それが、彼自身の清廉さとか、これからする演奏への自信なんかが表れてるように見えて、すごく期待しちゃう。
彼はその印象のまま、お手本通りの滑らかなお辞儀をした。
一拍置いてすっと身を起こした彼は、ピアノ椅子へ音もなく座ったの。
私とそう身長も変わらないのに、飛び乗るわけじゃなく、美しい所作で椅子に座って見せた彼を私は内心で羨ましく思っちゃう。
いつも使用人さんに持ち上げてもらって椅子の乗り降りをしている私は、もし機会があったら椅子への格好いい座り方を教えてほしいな、なんて思ってた。
彼のピアノは、さすがコンクールで入賞するほどだなって思えるくらい上手で、ママに聴かせてもらったこともある難しそうな曲を、間違えないで、つまずかないで弾き切ってた。
私には、たくさんたくさん練習したって弾けないんじゃないかなって思えるくらい難しい曲。
彼の演奏が終わって、会場中から大きな拍手が起きた。
それを受けて知性の光る瞳で観客を見た彼は、その拍手に笑顔を作るでもなく応じて、一礼した後に舞台袖へと下がっていった。
私も力いっぱい拍手しちゃった。
彼の演奏は、夜の空気のように濁りなく澄んでいて、曲調に合わせた正しい抑揚がついているはずなのに、どこか静かで安心するような落ち着いた雰囲気だった。
私には真似できない完成された演奏に、私と年も変わらないのにすごいって驚いて、称賛する気持ちがいっぱい湧いてくる。
彼の後にも三人の子がそれぞれ演奏したけど、大勢の観衆に緊張しちゃったのか、最初の彼ほど上手に弾ける子はいなかった。
その後、少しの休憩時間をはさんで、いよいよママの演奏の時間になったの。
開会の挨拶をした老紳士さんが改めて舞台へ上がって、ママの簡単な紹介と、登場のアナウンスをしてくれる。
現れたママは、まるで大輪のバラのように綺麗だったの。
私が着てるドレスのボルドーよりもずっと濃くて、幾重にも布が重ねられた華やかな赤いドレス。
その迫力あるドレスもばっちり着こなして、普段よりも艶やかにお化粧して髪を結い上げたママは、いつにも増して美しくって、ご本で見た女王様が連想させられるような豪奢さだった。
「みなさま。本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
舞台中央で立ち止まって、聴衆へ向き直ったママは、真っ赤に塗られた唇で柔らかく微笑むと、まるで歌うように声を響かせる。
続けて、この場に足を運んでくれたらしいお貴族様の名前をいくつか挙げて、ひとりひとりへ謝辞を述べていく。
「本日はハービーの十番を中心に、今この実りの季節に相応しい数曲と、郷愁をテーマにした新作のメドレーをお送り致します」
ママが“新作”って言った途端、静まり返っていた聴衆から、わずかに喜色を浮かべた声が漏れた。
今日はママの作った新しい曲も弾くみたい。
ここへ向かう最中、チャーリーに教えてもらったことを思い出す。
“奥方様のオリジナルの楽曲には貴族の方のファンも多いんですよ。ステラお嬢様は、お聞きになれば驚いてしまうかもしれません”
そう言ったチャーリーは、なんだか意味深な笑顔で、どういう意味だったのかなぁって思いつつも、これから聴けるのがとっても楽しみ。
ママはおうちでよく即興で伴奏してくれるし、ママの作った曲も聴かせてくれる。
私も聴いたことのある曲かな、ってどんどんワクワクしてきちゃう。
ママが一礼して、拍手と共にピアノ椅子へ腰掛けた。
拍手が止んで、ピアノに両手を置いたママは、数拍の後、すっと短く息を吸う。
ママの呼吸に釣られるように、見ている私も思わず息を止める。
──ポーン
時が止まったような静けさの中、長く、触れるように鳴らされた一音から、その曲は始まった。