37.もう一人のモブ少女/前(レミ視点)
『これは、夢?』
レミは不思議と確信するような気持ちで口にした。
レミは声に出したつもりだったが、しかしその言葉は音として発されることなく、空間に溶けて消えてしまう。
『変な場所』
また、つぶやく。
困ったように言ったレミだったが、その表情に焦りはない。
不思議なことにはもう慣れている。
そんな風に、自嘲するでもなく思った。
どこからどう見ても五歳の少女でしかないはずのレミは、その見た目に反した落ち着きを持っている。
その原因は、彼女の置かれた境遇にある。
物心つく前に両親をなくしたこともそうだし、孤児院という環境もそうだ。
しかし、一番の原因は、そんなことではなかった。
『そういえば、泣き疲れて寝ちゃったんだった』
夢だとわかる空間にたゆたい、浮かびながら、身を預けるようにリラックスした様子のレミは、思考を整理するように言葉を紡ぐ。
先ほどまで、レミは孤児院にいたはずだ。
ステラという少女や、レミの“よく知る”初対面の面々を前に、最終的にはひどく取り乱して意識を手放したことまで思い至り、少しだけ苦笑いが漏れた。
『懐かしいなんて感情、初めて感じたわ』
耳に残るのは、ステラが歌った、舌足らずながらも甘く伸びやかな歌声。
そのメロディーは、ずっと忘れてしまっていたものだった。
『ステラもきっと、私と同じ──』
彼女の言葉は、やはり音にはならなかった。
レミがいるのは、不思議な場所だった。
地面もなければ壁もなく、見渡す限りの白い空間が広がるそこは、レミが思うように彼女の夢の中の世界なのだろう。
空気はぬるく、包まれるような質量があり、まるで水中にいるかのようにレミを浮かばせ運んでいる。
身に着けた衣服すらなく、体の輪郭もなんだか曖昧で、まるで自分がその空間の一部になったような心地がする。
さすが夢ね、なんて笑いながら、やたらと居心地がよくて、レミはゆるゆるとまどろんでしまう。
レミは、そうするのが当然のように、膝を抱えて丸まった。
膝小僧の上に右の頬を乗せ、目を閉じ、宙を漂う。
静かだ。
何もないそこでは音もなく、ただレミ一人が生きているために、自身の鼓動や血液が流れる音が耳の中で聞こえてくるかのようだ。
まるで、お母さんの胎内にいる赤ちゃんみたいな気分、とレミはおかしく思った。
レミにとって、母という存在は1人ではなかった。
レミを生んだ母。
育ててくれたシスター。
そして。
『お母さん』
目をつむったまま笑むようにして紡いだ言葉は、やはり音になることはなく溶けて消えた。
そんなことを考えていたからだろうか。
白かっただけの空間はにわかに明るくなった。
レミが目を開くと、彼女が漂う空間は光を放ってやがて色づき、まるで大きなモニターになったかのようにとある映像を映し始めた。
大きなスクリーンに囲まれているような状態に、明るくなった周囲に、レミの目はすぐには慣れない。
聞こえてくるのは、ピコピコと、聞き覚えのあるBGM。
レミとしては聞いたことがない、けれど、記憶の中の彼女にはとても聞き馴染みのある音楽だった。
レミは周囲のスクリーンを見渡し、その全貌を把握しようと努める。
そして、そこに映し出される光景に、聞こえてきた声に、レミの心は震えた。
「そろそろ降りて来なさいー! ごはんできるわよー!」
「はーい」
映し出された映像から発せられる声は大きくて、前世で行ったことがある、音響が売りだという映画館が思い出された。
瞬きを、ゆっくりと何度か。
驚きから、やがて落ち着いたレミは見開いていた目を細めると、泣き笑いのような表情になって映像を見つめた。
右も左も、上も下も。
レミのいる空間はまるで大きなスクリーンのよう。
それは、誰かの視点をそのまま映しているような映像だった。
そして、その光景は、レミのよく知るもので。
女の子らしく淡い色でまとめられた、けれど少し散らかった部屋。
そこに置かれたベッドに転がりゲームをしているのだろう映像の人物を、レミはよく知っている。
忘れていたはずの光景だった。
レミが“レミ”になってから、ずっとおぼろげにしか思い出せなくなっていた光景だった。
映像を通して見るそれは、もうずっと遠い過去の出来事を思い起こすような、そんな気持ちにさせる。
感じているこの気持ちは、懐かしさだろうか。
湧き上がるような激しい気持ちではない。
自分がきちんと“それ”を覚えていたのだと安心するような、やさしい気持ちだった。
映像の中の人物、少女だろう彼女がいる部屋は、彼女が家族で暮らす家の二階。
広くはない一人部屋は彼女の自室だ。
ふわふわのラグは一年を通して敷きっぱなしで、その上には雑誌や漫画が積むように置かれている。
視界の隅に見える勉強机の上には教科書が数冊、祖父母からプレゼントされ小学生のころから使っている机は父親に高さを調整してもらいながらずっと使っているものだとレミは知っている。
その光景は、レミも知っている日常だった。
“レミ”になって以来、ずっとおぼろげにしか思い出せなくなっていたというのに、映像に映るすべては鮮明で。
置いてある家具、壁に引っ掛けられた制服、枕元には気に入っていたぬいぐるみ。
それぞれに感じていた愛着すら、思い出すことができる。
映像を見ながら、“レミ”の心はずっと、映像の中の“少女”のものに近づいているようだった。
少女の視界を映し出している映像には、ゲームをしているテレビの画面ばかりが映っている。
少女はいつもどおり、学校から帰ってくるなり、制服を脱いで肌着と靴下だけを身に着けた姿でベッドに寝転がったのだろう。
その手にはゲームのコントローラーが握られ、その視線はテレビの画面と手元とを行ったり来たりして、たまに傍らの菓子の袋に手を伸ばす。
家族しかいないからと一層だらしないその姿に、ちょっと見ていられないなと、レミは羞恥を感じて苦笑いした。
そうしていると、再び焦れたように聞き慣れた声が階下から響く。
「聞いてるのー? 晩ごはん食べるなら降りて来なさいー!」
「わかったってばー」
かけられた声に気のない返事をした彼女が体を起こす様子はなく、返事をするため一瞬ドアのほうへ向けられた視線もすぐにゲーム画面に戻された。
画面の中では、アニメ風の絵柄で描かれた男女が向き合っており、画面の下半分にはいくつかのコマンドと、会話の内容が流れていく。
相変わらず軽快で単調なBGMが聞こえていた。
「もうちょっと、もうちょっとだけ~……」
レミには、映像の中の少女のことが嫌というほどわかる。
おそらく、いやきっと、放っておけば少女はこのまま三十分でも一時間でもこの体勢のままだろう。
階下から呼んでいる人物は少女の母で、彼女に甘いことも知っている。
だからこそ、直接部屋まで突入でもされない限り、少女は手にしたゲームを続けるのだ。
レミは居心地が悪いような思いでその怠惰な少女の姿を見ていた。
『……お母さんを大事にしなさいよ』
不貞腐れるようにこぼした言葉は、少女を責める意図で発したものではなく、レミの後悔から出たものだ。
なぜなら、この映像に映る視界の主、その少女は、昔のレミ自身なのだから。
今、映像として映っているそれは、レミがレミになる前の記憶。
レミの、前世の、日本で暮らした記憶だった。
再び、映像の中では、階下のキッチンで困ったように声を上げる母の声がした。
「もー、どうしたのー?」
そして。
「 ねぇお兄ちゃん、悪いんだけどあの子見てきてくれる?」
「ったく、しょーがねえなぁ」
聞こえた会話に、母が呼んだ存在に、返したその声に、レミは固まった。
頭を殴られたかのような衝撃が走る。
続いて、頭に流れ込んできたのは、これまでおぼろげにでも覚えていた父と母だけではない、もう一人の大切な家族の存在だった。
『おにいちゃん……』
レミが口にした幼子のような声は、やはり音にはならない。
しかし、そう口をついて出た言葉が、あまりにも自身に馴染んだものであることは分かった。
思わず自身の唇に触れ、今度は口の動きだけでもう一度、呼んだ。
なぜ忘れていたんだろう。
自分を可愛がってくれた、大切な存在を。
誰よりも大好きだった、兄のことを。
トン トン トン トン
映像の中では、階段を上がってくる足音がしている。
少し速いテンポ、自分より重さを感じるその足音だけで、年の離れた兄が迎えに来てくれるのだと高揚する気持ちが蘇った。
兄に構ってもらいたくて、兄の帰りが早かった日はいつもこうして呼びに来てもらえるよう画策していたのを思い出す。
歳が離れているせいか、兄妹仲は良く、ぶっきらぼうながらも妹に甘い兄が大好きだった。
服飾のデザインの仕事をしている兄はまるでモデルのようにオシャレで、とにかく自慢の兄だった。
どうして忘れていたんだろう。
どうして忘れていられたんだろう。
転生して以降、不思議と一枚薄膜がかかったようだった前世への執心が、郷愁が、ここに来て一気に押し寄せた。
レミの目元に、熱が集まる。
にわかにぼやけ始めた視界を、レミは強引に腕でぬぐって目を開けた。
映像の主である少女は、じっとドアを注視してその時を待っている。
コンコン
そうだ、兄はいつも律儀にドアをノックしてくれていた。
些細な行動一つですら、忘れていたくはなかった。
「は~い!」
かつてのレミである少女が返事をする。
明らかに喜色を浮かべたその声からも、少女の内心は兄にさぞ筒抜けだったことだろう。
本当に、大好きな兄だった。
その顔も姿も、今はまだ思い出せない。
それでも。
少女の視界、ドアがゆっくりと開かれる。
「お前、さっさと降りて来いよな。母さん無駄に心配すんだから」
いつものやり取りだ。
泣きそうなほど聞きたかった声だ。
兄の言葉は辛らつなのに、苦笑しながら言うその声は優しい。
そんな兄の言い回しや言葉の雰囲気に、一瞬レミの中を、懐かしさとはまた別の感覚が通り過ぎた気がした。
ドアが開かれるにつれ、スタイルの良い兄の体躯がゆっくりと姿を見せる。
映像の中の少女の視線どおりに、足元の低い視界から順に、脚、腰、胸と兄の姿が映っていき、そして。
ふいに映像が途切れた。
『あ』
レミは思わず声を漏らした。
兄の顔を見ることができると思ったその直前、映像はぷつりと切れてしまった。
『そ、そんなぁ』
前のめりになって、突然光を失った周囲を見まわす。
しかし、レミの気持ちとは裏腹に、再び日本の光景が映し出されることはない。
余韻もなく、突然映像が終わってしまった後には、再び何もない空間が広がっていた。
日本の光景が消えてしまったことに、兄の顔が見られなかったことに、がっくりと肩を落とす。
直前まで見せてくれていたのにと、名残惜しさに諦めきれず、しつこく周囲を見ていた。
目元に溜まっていた涙も、未だ目を潤ませたままだ。
『えー、お兄ちゃん……。そうだ、お兄ちゃん。なんで忘れてたんだろう』
映像の中、先ほどまで目の前にいるようだった大切な存在を、反芻するように、呼びかけるように何度も呟く。
思い出した兄の存在に、寂しさが埋まるような、胸が満ちるような温かさを感じた。
『あ゛ー……』
そして、ずっと切なくなる。
『忘れてたから、平気だったんだなぁー……』
言葉にすると、再びこみ上げるものがあった。
+ + +
『スン。』
最後にひとつ鼻を啜り上げ、レミはやっと落ち着きを取り戻す。
どうやら、再び日本の光景を見せてくれる気はないらしい。
自分の夢だというのにままならないものだ。
『ずっと平気だったのに。みんながいて、シスターがいて……』
レミの言葉は相変わらず音にはならず、空間に吸い込まれるように消えてしまう。
映像が消えた今、レミのいる夢の中の空間は、再びゆるゆるとした、何もない場所へと戻っていた。
レミが何を言おうとも、もちろん返事など返ってこない。
今のレミにはそれが面白くなかった。
『前世の記憶といい、乙女ゲームそっくりな世界といい、私が主人公なのかなって、思ったんだもん……』
拗ねたような、甘えたような言い方になってしまうのは、つい先ほど兄のことを思い出したせいかもしれない。
ふわふわ浮かぶ空中で、再び自身の膝を引き寄せ抱き込む。
上げていた顔を膝に埋めるようにして、レミはもう一度目を伏せた。
孤児院に引き取られるまでのことを、レミは何も覚えていない。
ただ、孤児院で同年のシドと引き合わされ、シスターに付けられたレミという名前をシドの口から聞いたとき、「違う」と思ったのだ。
そうして、自分の中に前世の記憶があることに気づいたレミは、前世でプレイしていた大好きな乙女ゲームとこの世界の近似性に気が付いた。
牧歌的な文化水準、国の名前、攻略対象だった第二王子の名前、学園の存在。
そうして、自分がどうやら前世の物語にあったような“異世界転生”をしたようだと気づいたレミは、もしかしたら、と思ったのだ。
自分が、乙女ゲームによく似たこの世界の主人公なのではないかと。
『でも』
口を尖らせそう言った彼女が思い浮かべるのは、今日、愛くるしいお嬢様と共に現れた“攻略対象”、の姿だ。
彼女が知っているゲームの姿より幼い彼は、驚くほど美しい少年で、レミは思わず息をのんだ。
チャーリー。
彼を見た瞬間浮かんだ名前は、幸い声になって出ることはなかった。





