(閑話)ジャレット家の侍医ショーター先生によれば(ショーター視点)
下駄を贈るまでの、使用人さんたちのあれこれ。
ある日、朝食の席にて。
私の雇用主であるステラ・ジャレット様のお父上、この屋敷の主人であるゲイリー・ジャレットは、私と執事長に食事後しばし時間をとるようにと言ってきた。
この屋敷は特別で、主も使用人も、共に朝食を取るという変わった決まり事がある。
使用人と一括りにしても、配置は様々で、一般的な屋敷務めの使用人間では、些細な情報の交換は頻繁には行われない。
せいぜいが使用人を纏める執事長が各職場を回って、変わりはないかと聞き回るくらいだ。
だから、小さな違和感は見逃されてしまうこともある。
そこで、朝食の席を共にし、一種の無礼講の状態で過ごすこの習慣は、なかなか理に適っているように思えた。
雑談の中には、当人には些事であっても、他の視点で見ればなかなか重要な情報が埋もれているものだ。
私は、人との馴れ合いから外れて生きてきた。
それが、医学を極めるための最短だと思ったからだ。
そして事実、馴れ合いをやめた私こそが、この国、いや、世界でトップクラスの医師となれたのだから。
そう、思い込んでいた。
このジャレット家にやってきて、私のその考えは大きく揺らいでいる。
例えば、この朝食の雑談もそうだ。
使用人でテーブルを囲めば、合間合間に他愛ない会話がなされる。
そしてその中には、問診では聞き取れなかった身体的不調や、その原因と考えられる生活習慣や出来事が、話の端々から拾えるのだ。
なるほど、たわいない会話は、決して無駄なものではないらしい。
この朝食の席も、設けようと言ったのはステラ・ジャレット様だという。
この家の一人娘。
最近、五歳になられたばかりの、ステラお嬢様こそが、私が主人と認めた唯一のお方だ。
彼女との出会いを語れば長くなる。
フリーの医師として、各国の上層部や上流階級から報酬を提示され、依頼を選んで仕事をしていた私のもとに、不可思議なひとつの依頼が舞い込んだ。
なかなか手に入らない、希少で薬効の高い薬草を煎じた茶を添えて送られてきた手紙には、「三歳の娘の家庭教師を」という内容が、読みやすく整った字で綴られていた。
提示された金額は、正気を疑う額だ。
治療ですらなく、幼児への医学の初歩である体調管理についての基礎や、衛生の基礎を指導してくれという内容でこの金額はない。
差出人のことを調べれば、私でも知っているような大商家だった。
当時、大きな仕事を終えたばかりだった私は、その依頼を受けることが悪くないように思えた。
彼の商会のある国は、紛争もなく、気候も穏やかで過ごしやすい。
たまにはそういった仕事も息抜きになるかと、面白半分で請け負った。
そして、出会ったのだ。
天が遣わしたとしか思えない、幼い聖女に。
たった三歳、まだ言葉もおぼつかない彼女は、私の授業を熱心に聞き、ただちに理解するだけの頭脳を持っていた。
初めの質問で、舌足らずな口調で「おいしゃのせんせーは、ごびょうきってなんだとおもう?」なんて聞かれ、自分の耳を疑った。
まさかこんな幼児に「“病気”の定義」なんて聞かれると思っていなかったのだ。
そして彼女は、言ったのだ。
「ステラねえ、かんじゃさんがふべんにかんじるなら、それはなおしてあげたほうがいい、ごびょうきだとおもうのよぅ」と。
そして、「だから、こころだってびょうきになるねえ」と。
稲妻に、撃ち抜かれたかと思った。
いや、実際に、思い上がった私へ天から叱責が下った瞬間だったのだと思う。
私は、人を、人の病をわかった気になっていた。
症状で疾患の種類を特定するのは、治療の話だ。
彼女はその前段階、その状態が治療すべき病気か否かから考えろと言っているのだ。
医師としての私が、明らかな症状を読み取れたとしても、それを治すべき病か否かは患者の決めることだと言われた気がした。
そして、そう考えるのなら、心の病は、たしかにあり得る。
病気とは認知されていない心の問題も、本人が生きづらく治したいと感じているのなら、それは医師が治療すべき病なのだと。
人との関わりの少ない私でも、これまで患者や患者の家族の中に、「頭のおかしいやつだ」と切って捨てた相手は何人も居た。
感情の起伏が激しく、家族に手を上げ怪我を負わせては、その度に泣いて謝る者。
塞ぎ込み、全てを悲観的に受け止め、そんな己を許せずに自傷する者。
私は彼らの目に見える傷しか治療してこなかったのだ。
彼らのそれが病であるなら、治療の手を差し伸べられなかった私は、医師失格だ。
何がトップクラスの医師だ。
私は自嘲した。
そして、ステラお嬢様は残った授業時間で私のことを聞き、普段は場所も雇い主も転々としていることを知ると、「おいしゃのせんせいは、自分にきびしいせんせいなんだねぇ」と感心したように言ったあと、「でも、自分のこころもいいこいいこって、あったかくしてあげないと、つめたくなっちゃうんだよう」と言って笑った。
聖女の微笑みだった。
その年齢で慈しみの心を身に着けた英明なる聖女は、私にもその慈愛でもって言ったのだ。
「おいしゃのせんせいのこと、ステラがいいこいいこしてあげましょうねえ」
無邪気に笑み、毛足の長い絨毯の上、座る私の頭に背伸びをして腕を伸ばしても届かず、「うんしょ、よいちょ」と一生懸命な彼女に、私は思わず身を屈めて頭を撫でてもらっていた。
「……ありがとう」
訳もわからず、泣いてしまうところだった。
「……あなたのそばにいるには、どうすればいい」
医師でもない、たった三歳の少女に、私自身気づきもしないまま抱えていた傷を、わずか数度手をかざされただけて癒やされてしまったことを実感していた。
こみ上げるものを耐え、問うた私に、彼女は「ステラ、てんちょーさんになるからね、そしたら、おいしゃのせんせーやとってあげるねぇ」と、やはり舌足らずに言ってくれたのだ。
その日から、私はジャレット家で、見習い医師としてお仕えしている。
いずれ完璧な医師となり、ステラお嬢様が主人となったジャレット家の侍医となるために。
+ + +
ダニーに毎朝の定常処理と自習の指示をし、私と老齢の執事長ヘイデンは食堂に残った。
私の主人が彼自身ではなく、彼の娘だとしっかり理解しているこの屋敷の主は、使用人全員へ共有するべき事柄は、今のように朝食後に私と執事長を呼んで伝えてくる。
互いの立場を理解している彼は、私財で医療設備を整えようとした私へ、いずれ娘に譲る商会からの前貸しの形で設備を貸与すると提案して後援者となった、なかなか聡い人物でもある。
「まあ、娘が継ぐ頃には、貸与した設備の減価償却は済んで、返すべき設備など残っていないだろうけどね」
私にそう言った彼は、おどけるように片目を瞑って笑んでみせた。
今では、私はステラお嬢様の次にこのゲイリー・ジャレットという男に信用を置いている。
数人の使用人が片付けをする中、ゲイリー・ジャレットはにこやかに言った。
「もうすぐ鎮花祭だね」
「はい」
何の話だろうかと首を傾げている我々へ、彼が言う。
「ここ数年で、鎮花祭当日に、家族や恋人へ贈り物をするのが流行しているのは知っているだろうか。我が家でも、感謝の気持ちを込めて、君たちへ贈り物を用意したくてね。一人ずつ、希望を出して欲しいんだ」
さすが、ジャレット家。
世間で「ジャレット商会ほどの優良商会はない」と言わせるほどの豪商だ。
この家は、従業員はもちろんのこと、使用人の一人一人でさえも真摯に扱い、いつだって気遣いが行き届いている。
渡された目録は、どれも商会が扱う商品で、庶民が使うには少しだけ贅沢な価格帯の物が、多種多様に揃っている。
それらはどれも、使ってみた感想を返す試行者がいれば商会が喜ぶだろうと思える商品ばかりだ。
我々受け取る使用人側も、使い心地や感想を報告するだけで雇い主へ貢献できるため、施しに萎縮する必要がなく、ただただ有り難く感じられる贈り物だ。
この男のこういう気遣いがなかなかニクいのだと、つい口元が笑んでしまう。
しかし、ゲイリー・ジャレットの本題は、ここからだった。
彼は、衝撃的なことを軽々と言い放った。
「それから、もしも、我が家族に鎮花祭の贈り物をしたいと申し出る者がいれば、事前に申請すれば、数人であれば許可するので、そう伝えてくれ」
「な!」
「旦那様、それは……」
思わず、私も執事長も驚き、身を乗り出す。
それはつまり、そういうことだ。
私のような使用人が、主人であるお嬢様へ、家族や恋人がするような、贈り物をすることを許されるということ。
そのおふれがもたらす結果は、火を見るより明らかだった。
住み込みの使用人全員が、我先にと贈り物の申請に取り組んだのだ。
もちろん、全員がお嬢様宛だ。
自らが受け取る物など、もはや何でもいいと言わん勢いだった。
そして、全員の書いた申請書は、“認めない”という判断を受けて差し戻された。
おまけのように出された、主人や奥方宛の贈り物は簡単に許可されたが、お嬢様宛の申請書は全て却下された。
それぞれ、「高価すぎて娘が萎縮する」「子どもに与えるには不適切」「手が込みすぎている」など。
私達はみな、彼女への愛情を形にして贈れる機会に舞い上がっていた。
各々、競い合うように、彼女への想いの強さを持てる全てで示そうとしたのだ。
ただ一人、料理長だけは勝ち誇ったように余裕の構えだったが。
彼だけは、己の愛情込めて作った弁当を、いつもお嬢様に渡せているという、完全な役得の立ち位置にいた。
また、ダニーやポーギーは贈り物など用意した経験がないという。
何を贈ったらいいか分からないと私を頼り、泣きついてきてくれた二人だったが、そんなこと私だって知りたい。
「あったかい毛布はどうだ」「それよりご飯が買えるお金は?」と迷走する二人とともに並んで、「島、はでかいか……?」と、私も申請書を書き直し続けていた。
完全に浮かれ、舞い上がりながらも、誰も認可が降りないという悲惨な事態に陥っていた使用人一同の元へ、ある日、若い執事がひとつの情報を持ってきた。
そして、状況が一変する。
「全員が申請したせいで許可が下りないらしい。旦那様は“数人”とおっしゃった」
後に分かるが、この情報は誤りだった。
単純に私達が出す申請を見て、ゲイリー・ジャレットは一件ずつ却下していたらしいが、この時混乱のさなかにあった私達は、若い執事の言うことを鵜呑みにしてしまった。
この屋敷では滅多に起きない、情報の誤認と錯綜だった。
「分かりました。ならば戦争です」
冷静に見えた老齢の執事長も、おかしくなっていたのだろうと、今なら分かる。
ジャレット家使用人による、天下一を決める武道会が行われようとしていた。
執事長が一対一の勝ち抜けを提案すれば、普段の穏やかさをどこにやったのかと思えるほど荒々しくなった庭師の翁が、ルール無用の死力戦を提案する。
場は、自らの有利な土俵に上げようという熟練の老獪たちの独壇場となりかけていた。
その存在感と威圧感に誰も彼らに意見できず、彼ら二人、それに門番たちが釣られるように戦闘態勢に入り、どこから出しているのかと思うような覇気を滾らせ始めたその時、思わぬ人物が声を上げた。
「もし」
彼女は、ステラお嬢様の元乳母であった女性で、奥方付きの使用人である。
ふくよかな体つきで、普段から物腰も柔らかい彼女は、笑顔で、すっとたおやかな手を挙げて見せていた。
その姿には、なぜか有無を言わさない迫力があり、昂ぶりに任せて、今にも闘いを始めようとしていた執事長や庭師も黙って、彼女の言葉を待った。
「あんた達、腕に覚えがあるからって有利に事が運ぶなんて思ってないかい」
普段は仕える女性の見本のような淑女然とした、決して乱れた言葉は使わないはずの彼女の話す、下町訛りの声はよく通った。
「あんた達の力なんて関係ない。私達、使用人の掌握範囲は、この屋敷中の全てさ。私達は、いつでもどこでも仕掛けられる。あんた達がぐっすり眠ってる時、用を足してる時でもね。何でもアリになったら、結局得するのは、私達さね」
そう、狂気を孕んだ笑みを浮かべて言った彼女の視線は凍てつくようで、まるでどこぞの殺し屋のように見えた。
彼女に付き従うように並んだ彼女の妹、そして無垢だったはずのポーギーまでもが、抜け落ちたような表情で、じっと我々を見つめていた。
「…………」
場を、静寂が包んだ。
ダラダラと、恐怖による汗を流していたのは、彼女たち以外の全員だろう。
力比べで雌雄を決しようとした我々、男連中は、揃っておしっこちびりそうになっていた。
私達は、全員でひとつの贈り物を用意することにした。
牧歌的で、平和な、普段どおりのジャレット家使用人たちの姿が、そこには戻ってきていた。
「手作りの物を贈るのは如何でしょうか」
規律正しく優秀な執事長が言えば、
「わしは、木材の加工に自信がありますじゃ」
穏やかな庭師の老人が笑む。
「細工物なら、服飾や裁縫は得意です!」
若い女性の使用人が元気よく告げれば、
「身に付けるものなら、お嬢様が使いやすくなるよう、造形の指導はできる」
私も、この屋敷に来るまでは丸めて捨てていた社交性を奮い立たせて、発言した。
そうして、執事と門番たちがあれこれ話し合って「祭りの日に履く下駄はどうか」と素晴らしい案を出したことで、贈り物の内容が決まった。
庭師が履物の木型に良いという木材を挙げ、女性の使用人が布や糸や紐に細かく希望を出せば、料理人は「元は国仕えだったんですよ」と胸を叩いて請け負い、彼の人脈を伝って必ず近日中に手に入れると豪語した。
彼はとにかく社交的だ。
医務室をわざわざ訪れて、家人に必要な栄養について、私に教えを請いたいと何度も頭を下げてきた熱心な人物でもある。
今では、食事が健康に及ぼす影響について、有意義な意見交換ができる、なかなか話していて楽しい人物だ。
私も肩書だけでいえば、国の上流階級に名を知られる者のはずだったが、人脈や伝手などの面では役に立てる気もせず、素材の入手について話し合う中では、黙す他なかった。
人付き合いの大切さについては、彼ら使用人からも日々学び、思い知っていたところだ。
数日後、料理人が一級品を間違いなく手に入れてくると、業務を終えてからの私達は食堂でわずかの時間集まり、数日に分けて下駄の制作にあたった。
庭師が慣れた手付きで木型を削りだしていく。
私は、彼に逐一、造形についての指示を出した。
庭師である彼は、優れた薬を作る腕利きの薬師でもあることを、私は知っている。
あまりの酷さに、処置が間に合わないかと思われた子猫の傷を塞ぎ、失血から守ったのは、彼が密かに医務室へ持ち込み私へ握らせた調合薬だった。
美しい毛並みを取り戻したお嬢様の愛猫に、あの美しい姿を取り戻させたのも、執事長がジャレット家の秘伝だと持ってきた塗り薬だったが、十中八九、庭師の彼が用意したものだろう。
話の端々から人体についての造詣の深さが窺える彼もまた、人付き合いがまだ得意でない私にとって、話しやすい者の一人であった。
私は、お嬢様の足のサイズはもちろん、体重や重心、歩き方の癖までもを考慮して、彼に形の補正を伝えていく。
今の彼女がもっとも履き心地よく、歩きやすい一足を作るために。
そして出来た完璧な型に、女性使用人たちが、大胆ながらも繊細で美しい刺繍を施した布を纏わせ、仕上げていく。
鼻緒を付ける際など、会話したこともほとんどないはずの若い女性使用人のほうから、私へ意見を聞いてきてくれて、使用人みなが一丸となって取り組む雰囲気に、私は感動すら覚えていた。
そうして完成した下駄は、我々の持ち得る知識と技術の粋を集めた、至高の逸品へと成ったのだ。
途中、フットマンの少年が我々の動きに気づき参戦してこようとしたが、相手は、使用人の中で間違いなく最高の果報者である彼だ。
こと今回に限っては、誰も彼を仲間に引き入れる気がなかった。
私達は知っている。
お嬢様を上手く誘導して二人で出かけては、街歩きを楽しみ、時には、両親から預かった小遣いと称して自費で小さな贈り物をしていることを。
そしてそれがすぐバレて、お嬢様からたくさんの「ありがとう」と「だぁいすき」をもらっていることを。
私達は知っている。
お嬢様から直々にハーネスをプレゼントされたことを。
そして私達は覚えている。
今よりも青かった彼が浮かれて、だらしない顔のまま、ハーネスを私達へ自慢して回ったことを──。
+ + +
完成した下駄を持って出した申請は、簡単に許可が下りた。
「うん。とても良いプレゼントだね、合わせて髪飾りを用意させよう」
そう言ったゲイリー・ジャレットは、ポーギーを呼び寄せいくつか相談すると、下駄に合う白百合の髪飾りを職人に急ぎ造らせたらしい。
私の目の前に現れた祭り装束のステラお嬢様に、私は内心で感涙し、割れんばかりの拍手を打ち鳴らしていた。
「とても、とても良く似合っているよ」
ダニーも隣で「ステラお嬢様……。大人っぽくてとっても良い……」と、惚けたようになりながら彼女を褒めている。
薄化粧をほどこした彼女は、天女かと見まごう愛らしさと清廉さを併せ持っていた。
カラン、と鳴る下駄の音は、彼女の喜ぶ物を贈れた我々への、天からの祝福だろう。
我々の苦労も努力も、全てが実を結んだのだという、達成感と充足感が体中を支配していた。
どんなに難しい手術を終えたあとにも感じたことのないほどの、心から満たされる感覚だ。
彼女は嬉しそうにお礼の言葉を繰り返し、使用人みなへの愛情を口にしてくれる。
ステラお嬢様が部屋を去った後、私はダニーと感じ入るように頷きあい、固く握手を交わした。
そして私は高揚した気分のまま、「今度、使用人で集まって祝杯をあげよう」と老齢の執事長に提案してみようなどと、ここに来る前の私ではありえなかったことを考えていた。
もちろんその時は、あのフットマンの少年も交えて、お嬢様の素晴らしさを語り合うのだ。
お医者の先生の、努力・友情・勝利。