12.大天使ステラちゃん、小悪魔リリーと出会う
「お医者の先生。どうかな、だいじょうぶかな」
「はい。お任せください」
そう言って振り返ってくれたお医者の先生は、私の顔を見た途端に眉を下げた。
不安で、心配で、胸が苦しい。
「ああ、ステラ様。そのように辛そうな顔をなさらないでください。私も門外漢ではありますが、手を尽くします。きっと救ってみせます」
心配で心配で、それでもお医者の先生のお部屋に入れてもらえない私は、チャーリーに何度促されても、お部屋の前から動けなかったの。
隣には、お医者の先生から授業を受けていたダニーが私と同じように部屋から出たところで、私の手を握って付き添ってくれている。
お医者の先生。
虎さん。
神様。
その子を助けてあげて。
私、いい子にするから。
私はダニーの手をぎゅって強く握り返して、汗を拭いながら治療してくれているお医者の先生の横顔を、お部屋の外から見ていることしかできなかった。
+ + +
今朝はとっても寒くて、家庭教師の先生の来ない日だけど、お出かけはできそうになかった。
暖炉のあるお部屋で、私はチャーリーと絵を描いて遊んでいたの。
「ステラお嬢様。雪が降り始めましたよ」
「本当! チャーリー!」
窓辺に行ったチャーリーが、カーテンをちらりと開けて見せてくれる。
最近ずっと寒くなってきたから、雪が降るのはいつかなあって、チャーリーとお話ししていたところだったの。
私も持っていたペンを置いて、窓に近づく。
チャーリーは、腕にかけていたブランケットを私の肩にそっと掛けてくれた。
「チャーリーありがと! ぬくぬくだねぇ」
私はお礼を言いながら、分厚いブランケットに埋もれるみたいに首をうずめて、ぬくぬくとその温かさを満喫する。
窓から見えるお空は冷たそうな色をしていて、チャーリーの言った通り、チラ、チラって、雪が降って来ていた。
雪が降ると、とってもわくわくしちゃう。
お外には出られなくなっちゃうけど、雪が積もったお庭はとっても素敵なの。
庭師のおじいちゃんが手入れしてくれているお庭は、寒い季節でも、緑の木や色とりどりに咲く花が植えられてる。
そこに雪がうっすら積もると、とっても幻想的で、まるで絵の中みたいに素敵な景色になるのよ。
そういえば、この間、家庭教師の先生に、王都から遠い場所ではもっと積もることもあって、おうちのドアまで埋まっちゃうこともあるんだって教えてもらった。
そのお話を聞いたときは、それはとっても大変そうだなって思った。
おうちのドアが開かないくらい積もる雪なんて、想像もつかない。
そこに住んでる人は、雪が好きじゃないかもしれないなあって、ちょっと思っちゃった。
でも、私は雪が好き。
雪がたくさん降る季節になると、パパがたくさんおうちにいてくれる気がするの。
去年も、その前もそうだったから、今年もきっと毎日雪が降る頃になったら、パパとおうちでたくさん遊べると思うんだけど。
どうかな、どうかな。
私は窓から降る雪を見て、おうちのドアはふさいじゃだめだけど、でも毎日たくさん降ってねってお願いするみたいに思ったの。
「チャーリー、少しだけお外に出てもいい?」
「はい。ステラお嬢様。寒くないよう上着をご用意しましょう」
チャーリーが女性の使用人さんに声をかけてくれて、あったかい服の用意を頼んでくれる。
取りに行ってくれる使用人さんが、私の今の服を確認するみたいにこっちを見てくれたから、お礼を伝えたくて、私は両手を口の横に添えて、「あ・り・が・と・う」って声には出さずに、口の動きだけで伝えてみたの。
ちゃんと伝わるように一音ずつ、ゆっくり口を動かして、語尾までしっかり「うぅ〜」ってやったよ。
お作法の先生に、レディは大きな声は出しちゃだめって習った私は、考えたの。
少し離れたところにいる使用人さんにも、口パクならお礼を伝えられるんじゃないかって。
そしたら使用人さんは、いつもとちょっと違うへにょってした笑顔になって、笑顔のままで目をつぶってしばらく斜め上を見た。
どうしたのかな。
五文字もあるのは、ちょっと難しかったかな。
でも、そのあと私に目線を戻してくれたときにはもういつもの笑顔で、「どういたしまして」って声に出さずに返してくれた。
ちゃんと伝わったみたいで良かった。
私は嬉しくって、上着を取りに部屋を出ていく使用人さんに小さく手を振りながら、口パクはなかなかいいアイデアかもしれないなって、自分を褒めてあげたくなっちゃった。
そんなことを考えながら、お外に出るためのドアの近くまで来たとき、ドアの向こう側、お外から何か聞こえた気がしたの。
「ィ……、ニィ……」
なんだか、鳴き声みたいな声が聞こえる。
「ニィ、ニィ」
助けてほしいって言ってるみたい。
そう思った瞬間、私はドアに向けて駆け出していた。
だって、とっても弱々しい声。
助けてあげなくちゃ。
「お嬢様!」
チャーリーの慌てたような声が聞こえる。
私がドアに駆けていったって、お外に出るための重たいドアは開けられない。
でも、居ても立っても居られなかったの。
チャーリーはすぐ私に追いついた。
止められちゃうかなって思ったとき。
「私が様子を見ますので、ここで」
チャーリーは何も聞かず、すっと私の前に腕を回すようにして抱き留めると、そのまま私を後ろにやって、入れ替わるように自分が前に出た。
一度、私に視線を向けてくれたチャーリーの目は、「任せてください」って言ってるみたいで、チャーリーなら信じられるって思って、私は一度頷いて、立ち止まった。
チャーリーが出したままの腕は、私を庇うみたいにも、私を押しとどめるみたいにも見える。
チャーリーが玄関のドアを小さく開けて、外の様子をうかがう。
そうしてすぐに、足元に何か見つけたみたいで、「そこでお待ちください」と言って、外へ出て行った。
支えをなくしたドアはゆっくり閉まったけど、一拍と置かずにすぐ開けられた。
戻ってきたチャーリーの腕には、彼が着ていた上着につつまれた、さきほどの鳴き声の主がいるようだった。
服に包まれて、その姿は見えないけど、中からくぐもった鳴き声が聞こえている。
入ってきたチャーリーは、おうちの中へ進む足を緩めないまま教えてくれる。
「まだ小さな子です。鳥にやられたようで、ケガをしています」
「お医者の先生に!」
「はい。すぐに」
私も、チャーリーに置いて行かれないように歩き出す。
チャーリーは、私が言う前からお医者の先生のお部屋があるほうへ向かってくれていた。
小さな鳴き声は、途切れず続いているのに、チャーリーが包むように持っている腕の中の服からは、身じろぎひとつ伝わってこなくて、私はなんだか嫌な予感がしてしまった。
この声が途切れないうちに。
早くお医者の先生にみてもらわなくちゃ。
+ + +
「お嬢様。ステラお嬢様」
お医者の先生の声がする。
お医者の先生が処置を始めてからしばらくして、私はお部屋の外で眠っちゃってたみたい。
気づかないうちに、私とダニーは、廊下を埋め尽くすほどのブランケットや毛布に包まれて、もこもこになっていた。
正面に、しゃがみこんだお医者の先生がいる。
「フットマンの少年や、執事や使用人が、家中からかき集めていましたよ」
お医者の先生は、毛布の端をつまんで苦笑いしている。
どうしてもここを離れなかった私を、みんな心配してくれたんだ。
隣で、同じように毛布に包まれたダニーは、まだ眠っている。
彼は、眠っていても、私の手をぎゅっと握ってくれたままだった。
みんなにも、ダニーにも、後でたくさんお礼を言おう。
「お医者の先生……」
私の聞きたいことは、言葉にしなくても伝わったみたい。
やさしいお顔のお医者の先生は、しっかりと頷いてくれた。
「良かったぁ」
私は力が抜けちゃって、もごごって毛布に埋まっちゃう。
「さあ、もう部屋へ入っても構いませんよ。彼女はまだしばらく安静が必要で、眠ってしまっていますが」
“彼女”っていうのが、鳴き声の主さんみたい。
お医者の先生は「ダニー、起きなさい」と声をかけて、ダニーを起こしながら、私の手を握っているダニーの手の指をゆっくり外してくれる。
お互い力いっぱい握ったままだった手は、なんだか固まっちゃってたみたい。
ダニーは起きて目をこすりながら自分で歩いて、私はお医者の先生に毛布ごと抱き上げられるみたいに抱えられて、お医者の先生のお部屋の中に入っていった。
「わあ、猫さん……」
そこにいたのは、白い猫さんだった。
私は、お医者の先生に抱き込まれたまま、机の上に置かれたカゴの中を上からのぞきこむ。
木で編まれたカゴの中にはふわふわのタオルが敷かれていて、その上で猫さんは目をつぶって眠っていた。
頭から長いしっぽまで全部真っ白な猫さんは、お腹がゆっくり上下に動いている。
猫さんの毛並みは乾いていて、小さいからだは痩せている。
治療のためにかあちこち毛が剃られ、その体毛と同じ真っ白な包帯が巻かれたり、ガーゼが貼り付けられている。
丁寧に身を清められたのか、包帯などの治療の形跡の他には、汚れも血の跡もない。
猫さんのそばには、チャーリーが付いてくれていた。
猫さんのために上着を脱いだチャーリーは、いつもパリッと着ているシャツも珍しくくたびれて、なんだかいつもの笑顔も弱々しい。
「お嬢様、お体は冷えてらっしゃいませんか?」
「チャーリー……」
猫さんを助けてくれたチャーリーにいっぱいお礼が言いたいのに、また眠気が襲ってきて、うまく言葉にならない。
チャーリーがいなかったら、きっとこの子を助けられなかった。
ありがとうって伝えたい。
そうだ、この毛布も持ってきてくれたって。
「心配かけてごめん、なさい。毛布も……、いっぱい、ありがとお……」
猫さんの無事な姿に安心して、毛布に包まれてあったかくて、どんどん眠たくなる。
「おやすみなさいませ、お嬢様。起きたら食事ができるよう、軽いものを準備させましょうね」
お医者の先生に抱かれて、毛布の海に沈んで、チャーリーが掛けてくれたやさしい声に返事もできないまま、私は眠ってしまったみたいだった。
+ + +
「リリー、そっちに行ってはだめなのよ」
元気になった猫さん、“リリー”は気まぐれで、いつもそっけない気分屋さん。
治療の日から、お医者の先生のお部屋で眠って、ごはんを食べて、リリーは少しずつ少しずつ元気になっていった。
お医者の先生は、「ダニーもいるし、傷の手当もありますから、面倒は任せてください」って言ったけど、私にできることはなるべくさせてってお願いして、世話を焼かせてもらった。
数日もしないうちに艶々の毛並みになったリリーは、大人しくて、お医者の先生は「大人の猫だよ。女の子だ」って教えてくれた。
もうすっかりケガの跡も目立たなくなって、一度は剃られちゃった毛も少しずつ生えそろってきてる。
リリーの名前は私が考えたの。
子どもの猫さんなら、ケガが治ったら親猫さんのところに返してあげたほうがいいけど、大人の猫さんで、一度外で怖い目に合っているから、飼ってやるのもいいんじゃないかってお医者の先生は言ってくれた。
パパもママも、この子をおうちで飼うのに賛成してくれて、「お名前をつけてあげたらどう?」って言ってくれたの。
どんな名前が良いかな、元々呼ばれていた名前はないのかなって、色んな言葉をかけてみたけど、リリーはずっとそっぽを向いてるか、聞こえてないみたいに去っていくだけだった。
そんなある日、私は窓辺に座って毛づくろいをしている彼女の姿を見て、思ったの。
真っ白な体に、金色のお目々は、なんだか窓辺に百合のお花が飾られているみたいだなって。
そう思った途端、不思議と“リリー”って言葉が連想されたのよ。
私は、頭に浮かんだその言葉の響きが気に入って、「”リリー”はどうかな」って彼女に話しかけたの。
そしたら、初めてリリーはお耳をこっちに向けてくれて、少し後にしっぽを一度だけブンと振ってくれた。
リリーは、前に私がしつこく話しかけてしまった時に、しっぽをびったんびったん机に叩きつけて抗議したことがあったけど、今回のしっぽは、「悪くないじゃない」って言ってるみたいに思えた。
もう一度「リリー」って呼んでみたら、彼女はチラッと一度目線を寄越してから、長くてしなやかなしっぽをピンと立てて、トットットッと珍しく足音を鳴らしながら歩いていったの。
それを見ていたお医者の先生も、「きっと気に入ったんだね。不思議な響きだけど、あの子にぴったりな素敵な名前だ」って賛成してくれて、私は彼女を「リリー」って呼ぶことにしたのよ。
もうお外はすっかり雪化粧する季節になっていた。
毎朝、起きて外を見ようとすれば、窓は白く曇って氷みたいに冷たくて、お庭にはうっすらと雪が積もって白んでいた。
私はすっかりリリーに夢中。
あんなにパパがおうちにいてくれるのが楽しみだったのに、私は朝ごはんを食べた後も、お勉強の合間も、寝る前だって、いつでもリリーのそばをついて回った。
リリーは気まぐれで気分屋さん。
私になんか興味なさそうにしてるのに、私がお勉強でリリーのそばにいないと、わざとお勉強している部屋にやってきて誘惑するのよ。
そんな時だけ、「撫でてもいいのよ」とでも言いたげに、見えるところに寝転んでしっぽをゆらゆら、無防備にしているの。
+ + +
「あら、リリー様。今日もステラ様のベッドで眠るんですか?」
女性の使用人は、お嬢様の部屋の前でドアを開けてもらうのを待っていた白猫に話しかける。
白猫はツンとすましたまま、「早く開けなさいよ」とでも言わんばかりだ。
女性の使用人は手慣れた様子で彼女をお嬢様の部屋へ通す。
ベッド横のサイドテーブル、水差しやコップを入れ替えている間にも、高貴な白猫はストンと柔らかなベッドの上へ飛びあがり、もみもみと布団を踏んで寝床を整える。
お嬢様はそんなことには気が付かず、スヤスヤと、健やかな寝息を立てて眠られている。
「おやすみなさいませ。ステラ様。リリー様」
女性の使用人は音を立てないよう、静かに扉を閉めながら、布団の上からぴったりと、お嬢様に寄り添うように眠る白猫を見やる。
お嬢様が寝てしまってからしばらく、毎日彼女のベッドで眠る高貴な白猫。
白猫は、いつもお嬢様が起きる前にベッドから降り、部屋から出て行ってしまうことを女性の使用人は知っていた。
お嬢様はまだ白猫が添い寝していることに気付いていない様子で、白猫が素っ気ないのだと言いながら付いて回ってらっしゃる。
「お嬢様を虜にするなんて、小悪魔な猫ちゃんね」
扉が閉まる。
お嬢様を魅了している白百合のような白猫の姿を思い、女性の使用人は小さく苦笑いをこぼした。
そして、最近ずっと執務室にこもって拗ねている屋敷の主人のことも思い出した彼女は、お嬢様が早く父親のことを思い出してくれることを願うばかりだった。