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92.宰相家の使用人は坊ちゃまの成長を見守りたい(ルイの世話係視点/前)


「母上は学問が苦手……? ではまさか、まさか父上のあの言葉は、私を母上と近づけるための、ただの嘘、だったのですか………?」



 ─────ああ、せっかくルイ様と奥様の距離が近づいていたのに、これでまた逆戻りか。

 私がルイ様の言葉を聞いてそう思ってしまったのも、仕方のないことであっただろう。




 ◇ ◇ ◇




 代々宰相を輩出されているレッグウィーク家に仕えて十年と少し。

 平民ながらに使用人としての実力を評価され、二十代で上級使用人に取り立てていただいたまでは良かった。


 しかし、任されたのがご長男のルイ様の世話役であったのは、予想外だ。

 現役の宰相であり、知識人として名高いニール様と奥様との間に生まれた第一子ルイ様は、幼くして『神童』と呼ばれるほどに優れた頭脳を持っていることで有名な御方だった。


 私がルイ様の専属世話係の任に就いたのは、ルイ様がまだ五歳の頃であったが、就任早々、ルイ様が学術界の著名人たちと学問の疑問について言葉を交わす姿を見たときには、私にはあまりに荷が重すぎると頭を抱えたくなったものだ。

 世話係としての私に任された仕事は、ルイ様の身の回りの世話と簡単な御用聞きで、もちろん学業や礼儀作法といった教育については専門の教師がいる。


 しかし大人顔負けの、いえ、下手な大人よりも優れた理解を持って学問の問答をするルイ様を目にしてしまっては、使用人としての誇りや自負とは別に、ただの平民である私ごときが才を持って生まれたルイ様へ万が一にもおかしな影響を与えてしまえば大事だと、そんなことばかりが気になった。

 そう感じていたのは、きっと他の使用人たちも同じだったのだろう。


 主従としてもあるが、それ以上に幼い子どもであったルイ様に対して誰もが距離を置きすぎていたと、今の我々なら思う。

 しかし、当時の我々使用人にとって、ルイ様というのはそれほどに触れ難く、己などが干渉してはならないと思わせる遠い存在だったのだ。




 我々使用人がルイ様と一定の距離を保ち、ルイ様もそれを当然として過ごされる日々が、それから数年間続いた。

 それ自体は、よい。


 身分ある高貴な方々は───それは特に旧家であるほど───使用人の仕事ぶりについて一定の理解がある。

 その中には、『存在しないものとして扱うことこそ、使用人に対する最大の称賛』と考える方々がいるのも事実だ。


 だからだろう、幼いルイ様がそうして我々使用人を意識の端にも置かないで過ごされることを、特に指摘したり非難したりするような者はいなかった。

 しかし、ルイ様にとってお忙しい旦那様の他は、身近に接触のある人間というのは使用人を置いて他にはなかったのである。


 徐々に人との関わりを苦手に感じ始められたルイ様に気が付きながらも、我々使用人は、いえ、専属世話係である私こそが何らかの手を打たねばならなかったというのに、ただルイ様の“特別性”に腰が引けるばかりで、情けないことに手を出しあぐねていたのだ。

 上流階級の方々が集うパーティー等へ旦那様と共に赴かれても、同世代の子どもたちとの交流を忌避されるルイ様。


 幼い子どもではルイ様が相手にするにはやはり不足なようで、退屈でくだらないと、そう苦々しげに独り言をこぼされる場面に何度も遭遇した。

 また、それは相手が大人であっても言えることで、ルイ様は知識量に富む学者様方や旦那様の仕事仲間などを除けば、ただ子ども同士を交流させようとする保護者たちからの語りかけをも歯牙にもかけないご様子であった。


 その対象は、悲しいことに家庭内でも同じであるようだった。

 幼いルイ様にとって、学問の話ができない、学に通じていないということは、それだけで相手にするには足りないと判断される材料になっていた。


「父上、どうして母上は学問を学ぶことを好まれないのでしょう? 読書すらされているのを見たことがありませんが……」


 ルイ様が九歳になるかというある日、そう奥様のことを旦那様に問いかけられているのを耳にした。

 ついにこの日が来てしまったのかと、使用人の誰もが暗い顔をしていたのを覚えている。


 成長するにつれ己の優れた頭脳にも自覚の芽生え始めていたルイ様は、日が経つほどに周囲の人間を見る目が厳しくなり、学のない者や平民を下に見る言動が増えていた。

 それは増長というより、幼いルイ様なりの落胆の現れでもあったのだろう。

 

 世の中はルイ様が求めるほどに賢い者ばかりではなく、また、幼いルイ様はまだ知るよしもないことであるが、求めたからといって、必ずしも学びを許される環境にある者ばかりでもなかった。

 優れた頭脳を持ち、学びを求め、愉しむことができるルイ様は、それを正しいことと信じて疑わず、それを持たない我々とルイ様の間に横たわっていた境界線は段々と深い溝へと転じようとしている。


 ルイ様は、持たざる周囲に疑問を抱き、何故、何故、と問いかけそして、愚かであると断じられようとしていた。

 旦那様への、『何故母は学ばないのか』という問いかけは、ルイ様にとって最も身近な『何故』に対する強い抗議のように思えた。


「ああ、あーたン゛ンッ! 彼女は、そういうのではないからな」

「そういうの……?」


 聡い旦那様であっても、ルイ様のその疑問には答えづらそうにされ、そのようにしか回答されなかった。

 奥様は確かに、厳格で勤勉な方の多いこの宰相家には珍しく、奔放で、じっと座って本を読むなどといったことは好まれない御方だ。


 ルイ様は『そういうのではない』と言った旦那様の返答を訝しんだご様子だった。

 その場では信頼されている旦那様の言葉とあって一応はそれ以上追求されはしなかったが、それでもやはり、ルイ様ご自身が求める勤勉さを持たない奥様への不信感は隠しておられなかった。


 思えば、私が世話係になった頃より、ルイ様と奥様との交流は段々と減ってしまっている。

 この『何故』がルイ様から旦那様へ投げられたとき、私はついにルイ様が実の母である奥様さえもを、我々使用人と同様、意識の外に置いて構わない存在にされようとしているのだと感じ、暗い気持ちに覆われた。






 事態が変化し始めたのは、その疑問の問いかけがあった日の夜からだ。

 あのあとすぐに旦那様と出かけて行かれたルイ様は、帰って来られてからずっとおかしなご様子だった。


 確か有名商家の主人に会いに行かれたはずだったが、帰られてからのルイ様は普段の覇気がなく、ポヤーっと呆けてはハッとするを繰り返していて、心なしかお顔が赤い。

 その日は相変わらず使用人のことなど存在しないものとして過ごされていたルイ様だったが、あまりにおかしなそのご様子が心配で私は普段はなるべく控えているお声がけをした。


「ルイ様、ご体調が思わしくないのでしょうか、医師を呼びましょうか」

「…………お前、結婚はしているか?」

「!? い、いえ、まだです」

「…………ならいい。役に立たなそうだ」


 何度かお伺いをした際、一度だけお答えくださったルイ様からの問いかけに、私は何事かは分からないまま正直に返答をした。

 しかし、すぐにまた物思いに耽り始めてしまったルイ様を見るに、どうやら私の答えはルイ様にご満足いただけるものではなかったようだ。


 それにしても、こうしてルイ様から問いかけをされるなど、いつぶりのことだろうと思う。

 疑問は己で解決してしまわれるルイ様は私のような使用人に質問をされる機会などほとんどなく、些末な者に関心も抱かれなかったというのに、今お聞きになったのは使用人の個人的な事情ですらある。


 本当にどこかご体調が悪いのではと、その時の私はひたすら心配する気持ちが逸った。

 ルイ様はといえば、もうカーテンの引かれ空も見えない窓を眺め、ハァと熱っぽい息をこぼすばかりであった。


 それからそう月日の経たない頃のことだ。

 ルイ様に、さらに大きな変化が現れたのは。


「お前、名前は何という」

「は、はい。ベイクと申します」

「お前は……何だ?」

「何、と申されますと……?」

「ぐぬ……。確かその、そのあたりにいつも立っているだろう。お前は、何をしているやつなのかとただ思っただけだ」

「はい……。恐れながら、ルイ様の専属世話係を務めさせていただいております」

「そ、そうなのか……!」


 ここ最近のルイ様は、明らかに以前までとは様子が違う。

 今こうして私へ話しかけられているルイ様など、以前と比べればまさに別人のようだ。


 あの日、旦那様と共に商家の主人に会いに行ってから、憑き物が落ちたように人が変わられたルイ様。

 ……そうではない。

 今まさに“変わられようとしている”のだ、ルイ様は。


 あれほど出不精であったルイ様が、ここ最近は頻繁に出かけられるようになっていた。

 これまでルイ様が自ら出かける先といえば、新しく興味を惹かれる分野を見つけたときや、旦那様の斡旋した著名人に会い行かれるときくらいのものだったが、ここ最近熱心に通っている先は、あの日の商家、ジャレット商会の主人の家なのだという。


 その際には決まって、折り合いの悪かったはずの騎士団長子息マルクス様と連れ立って出かけられるというのだから、驚きだった。

 いつかのパーティーで、正義漢であっても粗暴な振る舞いの目立っていたマルクス様を、『まるで動物』と言って冷めた目で見ていたルイ様はもういない。


『やっと来たかマルクス! 遅いぞ馬鹿者!』

『おまたせ、ルイ。って、時間より早いじゃねーか』

『っ! 私はずっと待っていたんだ!』

『なんだ、楽しみにしてたんだな。それなら待たせて悪かったよ、ごめんごめん』

『早く行くぞ』

『おう!』


 朝からソワソワ、念入りに身支度を済まされてからも使用人には特段指示を出されず、長いこと玄関でウロウロとされていたものだからどうしたのかとご様子を伺っていれば、どうやら約束があったらしく、時間どおりに現れたマルクス様に怒ってみせるルイ様はまるで年相応の子どもそのものだった。

 それから日々、ジャレット家へと遊びに行ってくると二人連れ立って出かけて行かれるのを、私を含めた屋敷の使用人たちが、どれほどの驚きと喜ばしさを胸に見送っていることか。


 しばらくぶりに見るマルクス様もかつての粗暴さは無くなり、面倒見のいい利発そうな少年に成長しているようだった。

 今日など、ルイ様は帰ってくるなり「使用人……そうか、使用人に手紙か……」と物思いにされていて、かと思えば、突然こうして私の名など問うてくださる。


 ルイ様のおそばで侍ること四年、まさかこのようにルイ様と気さくな問答をさせていただく機会が来るなど、想像だにしていなかった。

 常時おそばに控えてきてなお、世話係として認知されていなかったのは多少なりともショックではあったが、『そのあたりにいつも立っている、何をしているかは分からない人間』としては覚えていただけていたので充分だと、その時は思ったのだった。


 その頃から、宰相家では月に一回程度、使用人と主人家族が朝食の席を同じにする、通称“朝餉の席”が設けられるようになった。

 何度か開催されるうち、料理人の試しの場や、食事担当の研鑽の場として活用されるようになったそれは、珍しい食材や異国の食事が、主人と同じメニューで使用人全員にも供される特別な食事の席だ。


 私のような平民も混じる使用人たちにとって、まさに非日常を体験できる朝餉の席は、旦那様いわく何とルイ様からの提案で始めたものらしい。

 何でも、ジャレット家のお嬢様と仲良くなったルイ様は、ジャレット家の使用人とジャレット家のお嬢様ステラ様が仲良くしてらっしゃるのを見て、自分もと感化されたのだとか。


 つまり、ルイ様は我々使用人とも距離を縮めたいと考えてくださっており、こうして私と問答をしてくださったり、朝餉の席をご用意してくださったりしたということだ。

 これには、使用人一同感激で、私などルイ様のご成長とそのお心遣いに、夜一人きりになった部屋で感極まり涙してしまったほどだった。


「……お前、ベイクは、何が好きだ」

「は、はい。その、食べ物などでしょうか」

「そ、そうだ食べ物だ」

「先日朝餉の席で供された、パイやケーキのごとく卵で綴じ焼き上げられたベーコンの焼き物など、大変美味しゅうございました」

「ベーコンのキッシュか。お前はあれが好きか」

「はい」


 ルイ様は、変わろうとされている。

 我々のことを、知ろうとしてくださっている。


 それはきっと我々を思いやってという側面の他に、そうして他者を知って、さらにルイ様ご自身の知見を広げようという、貴人としての器すらをも身につけられ始めた証拠だと、私は思う。

 私はルイ様の問いかけに、先日の朝餉の席で供された平民には手の届かない高級食材を使い作り上げられた焼き物を挙げた。


 それから、ルイ様が納得するように「なるほど」と頷かれるのを見てふと、もう一つ付け加えてみようと思う。

 それは、以前であれば私の中に無かった考えで、思いつきで、きっとルイ様が変化しよう成長しようと努力されているお姿に、私自身も感化されたから口にしてみようと思ったことだったのだろう。


「───それから、故郷の母の作るベーコンサンドが、私にとっての御馳走でございます」

「ほお、美味いのか」

「ルイ様のお口には合わないかと」


 私の言葉に、いじわるを言われたと感じられたのか顔をしかめたルイ様に、私は誤解ですと言うように苦笑して見せた。

 そんな私を見て不思議そうにされるルイ様に、詳細をお伝えする。

 なぜだか今のルイ様には、知っていただきたかった。


「私の実家は田舎でして、こじんまりとした酪農をやっております。年老いた牛をその、処分をする際に、母が手製のベーコンをこれでもかと仕込むのです。それはもう、一家族で食べるには何年という量で御座います。そのベーコンを、玉ねぎと酢で作った調味液に漬け込みまして、やはり母の焼いた固い黒パンで挟んで食べる母の得意料理があるのですが……」

「美味そうだな」

「これが、信じられないほどマズイのです。塩辛くて、筋張っていて、パンも固くてボソボソして……。しかしどうしてか、食べたくなる。こうして宰相様のお屋敷で働いていると、時々無性に恋しくなるのです」

「…………そうか」


 私などの長い話に耳を傾けてくださったルイ様は、苦笑の浮かぶ私の顔をじっと見て、想像をするようにいくらか視線を泳がせたあと、味の想像には至らなかったのか首を傾げて難しい顔をされた。

 しばし唸り、やがて結論が出たように一つ頷かれると、ポツリとこうおっしゃった。


「ふむ。いつか私にも供してくれ。ベイクの母の料理を、私も食べてみたいと思う」

「……はい、いつかぜひ」


 私は、思わずこみ上げたものを、笑顔に隠して堪えた。

 何を気負うでもなく、平民の家庭で食べる料理にそうおっしゃってくださるようになったルイ様に、一使用人にこうして心を傾けてくださるルイ様に、私は笑顔で頭を下げ応える。


 ────これからも、誠心誠意この方に尽くそうと、そう固く心に誓った瞬間だった。

宰相さま「ああ、あーたン゛ンッ!」

あーたん「何で誤魔化したん?」

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