鳥海山大物忌神社
鳥海山大物忌神社は山形県飽海郡遊佐町の吹浦と上蕨岡に鎮座する口之宮と、鳥海山の山頂に鎮座する本社の三社を総称した、出羽国一宮で国幣中社です。
祭神は大物忌神です。
神徳は火難除、災難除のようですが、公式では詳らかでありません。
祭神の大物忌神は鳥海山を神格化した存在で、記紀には登場しません。
鳥海山は朝廷が遠征軍を出羽に派遣していた頃、噴火活動を繰り返していた為、山の怒りを鎮める目的で大物忌神社が創建されたようです。
創建を巡っては地元の伝承が錯綜していて判然としませんが、往古から江戸時代にかけては修験道が行われ、その中心的存在は蕨岡にあった鳥海山龍頭寺でした。
江戸時代には何度となく主導権争いが起こり、結果的には蕨岡の勢力拡大に繋がっています。
山頂の本社を管理するのは蕨岡の役目で、吹浦は末社扱いされていました。
この状況を一変させたのが明治政府による「神仏分離令」で、吹浦では命令に応じて神社の体裁を整え、政府より出羽国一宮、国幣中社に列せられました。更に山頂の本社を管理する権限も得ます。
蕨岡は出遅れてしまった為、訴訟を行って権利の奪回を目指しましたが失敗に終わります。
この問題に解決策を示したのが左大臣の有栖川宮熾仁親王でした。
山頂の社殿を大物忌神社の本殿とし、吹浦と蕨岡の大物忌神社をそれぞれ里宮とする旨の通達が出されて両者の争いは収束します。
吹浦と蕨岡のそれぞれに国幣中社大物忌神社の社務所を置き、宮司は吹浦に駐在しますが、本殿への奉幣は両社務所が1年交替で行うというものでした。
現在もこの体制が受け継がれているようで、御朱印は吹浦の社務所で頂きました。
私が参拝した時は、こうした経緯を全く知らず、蕨岡から参拝して、吹浦に向かいました。
神仏分離のための七か条で即刻実施するようにとの内容は以下の通り
1)神社の白木の鳥居はそのままでよいが、塗ってあるものは白木にしかえること、その場合の鳥居の形は下の貫手の両端を出さぬようにすること
2)神社にある仏像は、村役人立ち会いの上故障のないよう寺院へ渡すこと
3)寺院にある神体も同様にして神社へ渡すこと
4)これらが終われば、寺院または社人より受取書を提出すること
5)このたび改めて仏号を付けた寺院は仏号を書いた掛け札をすぐに用意すること
6)もし神殿造りの場合は堂塔に造りなおすこと
7)神社の狗犬はそのままでよいが、唐獅子はすぐに取り除くこと




