元禄赤穂事件
元禄十五年十二月十四日、播州赤穂藩の浪士が吉良邸に討ち入りしました。
討ち入りの原因は前年の三月に赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城、松の廊下で吉良上野介を斬り付けたことに端を発します。
内匠頭の動機は不明ですが、遺恨説が有力視されています。
吉良家は足利将軍家の分家で、将軍家に嫡子がいない時には将軍家を継ぐ名門ですが、室町時代を通じて不遇であり、戦国時代には没落していました。
その吉良家を徳川家康が厚遇し、吉良家は高家という名門となります。
高家とは将軍の代わりに神宮や東照宮、寛永寺などの参詣をしたり、朝廷に赴く使者の任務を帯びたり、朝廷からの勅使の接待を行い、また饗応役の大名へ接待の作法などを指導する役職です。
この大名への作法指南の時に賄賂を受け取るのが半ば黙認され、上野介はすこぶる評判が悪かったようです。
内匠頭も年齢が近い他の大名から「上野介は横柄で欲深いから、勤めの時は堪忍せよ」と忠告を受けており、上野介が斬られた時も公家の間では喜ぶ者がいたり、「欲深いから天罰だ」ぐらいに言われていたようです。
さて、元禄十四年三月十四日に松の廊下で刃傷事件が起き、幕府は内匠頭を当日の内に切腹させ、赤穂藩を取り潰してしまいました。
一方で上野介は不問とされ、高家の任を解かれたのみで家は存続を認められます。
この不公平な仕打ちに赤穂藩の浪士たちは義憤に燃えて、一年以上の雌伏の時を経て、吉良邸討ち入りを決行しました。
吉良邸の近傍には吉良家の家臣百名に加えて、米沢藩上杉家からも二百名を超える応援部隊が来て、浪士の襲撃に備えていたと伝わります。
後世の舞台や講談などでは雪の降る中とされますが、当日は晴れた月夜と言われます。
赤穂浪士たちは応援部隊が寝泊まりしていた部屋の戸に鎹を打って出入りできなくして、その他の抵抗する侍と刃を交えました。
上野介は寝所から抜け出して、台所横の薪小屋に隠れます。邸内を捜索していた浪士たちが小屋の戸を開けると、中に潜んでいた吉良の家来が斬り付けて来たので返り討ちにし、奥で隠れていた老人を討ち取りました。
吉良家の足軽に遺体が上野介本人であると確認を取り、首級を掲げて泉岳寺に向かいます。
泉岳寺には内匠頭の菩提があり、その墓前に上野介の首級を供えて、仇討ちの成功を報告しました。
浪士たちは旧暦の二月四日に切腹を命じられて果て、菩提を泉岳寺において弔われます。
泉岳寺では昭和二十五年より義士祭が開催されています。




