世の中、細やかな心配りこそ肝要だ。
世の中、細やかな心配りこそ肝要だ。
僕はこのことを声を大にして言いたいのだが、細やかな心配りの出来ない人ほど「あぁ、俺のことじゃあないな」と右から左にしてしまうもので。結局のところ、PC画面に向かってため息を投げつけてやるしかない。
出社してすぐにデスクに貼り付けられた付箋を読み、その仕事量に絶望すると同時に妻へ『ごめん、遅くなる』とメールした僕を見習ってくれよ教室長。
それでもって、社内スレッドにも僕を名指しした面倒事が新たに上がってきたりするから腹立たしい。
『山崎さん、成績処理のエクセルシートがうまく動かないんだけど、どうしたらいい?』
「し、る、か。どうせまた、変なところに数字打って、数式消したんでしょ……っと」
勿論、その通りに伝えることなんてできないから、中身が見えないくらいにオブラートで包みまくってレスを書いた。ストレス任せにエンターキーを打鍵。しまっていた自分のエクセルシートを引っ張り出すと眩暈がして、一旦ぐぅっと背伸びする。
頭の中で積もった仕事を数えた。先日終わった中間テストの点数入力、それに基づく掲示物作成、アルバイト講師向けの研修資料作成とかうんたらかんたら。
あの教室長、「あとはこっちでやるし、終わらなかったら家持ち帰って明日済ましとくから、山崎くんは先上がっていいよ」とか昨日は言ってたくせに。
ほんと、嫌んなっちゃうよなぁ……
僕の職場、つまりは学習塾『トップ・ワン』の一校舎は、今のところ独壇場だった。デスクが入り口の真ん前にあって、しかも入り口が開放的なガラス張りなもんだから、外から丸見えではあるんだけど。どうせ人通りも少ない。進学実績や講習会の宣伝などが貼られたカラフルな場所に一人でいるのは、なんとなく可笑しかった。
あくび一つ、目の端に浮いた涙をぬぐいつつ、僕は時計を見やる。午後二時半、そろそろだろう。
よっこいせ、と椅子から立ち上がり、たった一本の廊下を歩く。廊下に沿うように並ぶ七つの教室の一番手前、そこが今日のイベントの会場。
「うん、準備は大丈夫だな」
ホウ砂、洗濯のり、色付き風船に目の荒いネット。薄く積まれた解説プリントに、昨日アルバイトの講師がホワイトボードに書いていってくれたオバケやカボチャのイラスト。お菓子は、あのやんちゃ坊主とおてんば嬢さんたちに見つからないように、外の車の中に置いてあったはず。
そう、今日のイベントはハロウィンイベントだ。近所の小学生を集めて、みんなでスライムボールを作る。そして、最後はお菓子を配って終わり。
机はベタベタに汚されるし、お菓子は経費で落ちないし、何よりこのためだけに日曜出勤だし。やってるうちは楽しくても、それ以外の全てにおいて気が重いイベント。
なんだかもう、ハロウィンが僕を苦しめるためにあるとしか思えない。考えてみれば、社会人になってからは勿論、学生時代も今の妻に振り回されてばかりで、ろくな日じゃなかった気がする。
あいつ、一週間前くらいからさりげないアピールを混ぜ始めて、それを読み取ってお菓子をあげないと機嫌悪くなったんだもんな……
過ぎ去った青春に苦笑いをしていた時だった。
「こんちはー!」
「おう、こんにちは」
もはや反射である。
後者のドアを吹き飛ばす勢いで入ってきた小学生たちに、にこやかに挨拶を返す。やつらは既にここの生徒である子供達だし、雑に元気に相手してやればそれでいい。
彼らに続いておずおずと入ってくる子たち、つまりは新規入塾生の卵たちに、気持ち優しげに声をかける。
「あー! 山崎先生、しおりちゃんがいるから色目使ってる!」
「そんなことないだろ。お前らにも最初はこんなだったよ」
生徒の一人からのやっかみをあしらいながら、子供たちを教室に誘導させる。というか、既に入塾してる奴らに初めての子たちを誘導させる。
「先生、今日一人なの? 他の先生は?」
「うん? みんな休みだよ。日曜日は基本、人間は休むんだ」
「え、じゃあ先生は何。うんこ?」
「うんこじゃないけど、ゾンビか何かかもな」
「きたなっ! ねぇ、山崎先生きたないよ!」
最後まで残っていた一人が僕の言葉を受けて教室に駆け込んで行き、すると一層大きく声が弾ける。授業時間の半分くらい遊ばせてやってたら、やつらは塾で静かにするなんてことを忘れてしまったらしい。
ま、そっちの方が初めての子もすぐリラックスしてくれてやりやすいけど。
僕はその後、例に漏れずガラス戸に張り付いて気づかれるのを待っている生徒を捕まえて、お前変態覗き魔に間違われるぞなんて言いながら教室に入った。
◇◆◇
「んじゃ、始めるぞー」
形だけは椅子についてくれた子供たち十人に声をかけ、ハロウィンイベントは始まった。やることは単純で、紙コップに水と洗濯のりとホウ砂を入れて割り箸で混ぜさせるだけだ。予備実験なんてマジメなことはしちゃいないが、まぁやり方は全部プリントアウトして手元にあるんだし、なんとでもなるだろう。
とりあえず紙コップを配って、トイレの洗面所で水をくませる。こういうところは日本人で、みんな列に並んで待ってくれるのだけど、たまにトイレの便器から水をくもうとする奴がいるから油断は禁物だ。
そして、水をくめた生徒から洗濯のりを注いでやっていると、なぜか玄関のドアが開く音がした。
「山崎せんせー?」
「あぁ、夏葉か」
間延びした間抜けな声。この校舎の生徒の中でも特に懐いてくれている中学生だった。
出るのが億劫なので、教室の中から声だけ張り上げていると、たかたかと足音が近づいてくる。そして、教室の入り口からひょっこり顔を出した。
「うわっ、あやしー液体配ってる」
「バカいうな。洗濯のりだよ」
「みんなでせんせーのくたびれたスーツを洗濯しよーってこと?」
「うるせー」
どうやら、日曜日なのに校舎に明かりがついてるから、ふらっと寄ってみたそうで。なにやら興味があるようだったから、材料を分け与えて手伝いをさせた。
「ほらこれ、うんこ!」
「いやぁ? こっちの方がうんこ色じゃない?」
「あぁっ! たしかに!」
今は男子と仲睦まじくやってくれている。
僕は対岸の火事を見る心地でそれを見つつも、必死で風船にスライムを詰め込んでいた。
「先生、早くしてー」
「そうはっ、言うけどねっ」
指を極彩色のスライムでぐちゃぐちゃにしている僕を傍目に、女子三人がスライムを捏ねたり伸ばしたりして遊んでいる。昨日のドラマの話をする彼女らの手は暇でしょうがないらしかった。
「先生、手伝った方がいーい?」
「いや、だって手伝えないだしょ」
スライムボールというのは、風船にスライムを詰め込んで、ネットを被せて完成する。ネットの上から握り潰すと、行き場を失ったスライムがネットの隙間から出ようとして、風船が焼いた餅みたいにぷっくりとはみ出てくる。らしい。
それが、ストレス解消とかになる。らしい。
ただ、僕としてはこのスライム詰めの作業のが遥かにストレスフルだと思う。
ペットボトルの上だけを切り残したものの飲み口に風船をはめ、漏斗みたいにして押し込むと上手くいく。そうネット上の顔も知らない先人はのたまうのだが。
入れるそばから風船に押し出されて、一向に入る気配がない。
将棋ならば千日手で負けとなりそうになった頃、声が聞こえた。
「おぉ! すげぇ!」
「よぉし。そのまま引っ張っててねぇ」
「山崎先生は全然出来てないのに!」
夏葉と男子たちだった。
「先生、向こうできてるじゃん」
「そんなんだから結婚できないんだよ」
「関係ないだろ?! ていうか、既婚者だよ」
「でもほら、結婚指輪してない」
女子が指差す通り、確かに僕は結婚指輪をしていなかった。
なぜかと言えば、職業柄アホほどボードペンを使うため、付けっ放しにしていればそのカスで黒く汚れてしまうから。チェーンに通して、首から下げている。
「君らは見えないだろうけど、服の下にチェーンで吊り下げたりしてるかもしれないぞ」
「えー、そんなはずないよー」
「先生結婚できなさそうだもーん」
しかし、現実は非情である。上司も敵、生徒も敵。味方は妻しかいないのか。
あまりの物言いにちょっと悲しくなっていた僕の隙をついて、女子たちは詰めかけのスライムと風船をかっさらい夏葉の方に駆け寄っていく。
男子たちは既にスライムボールを完成させたようで、けれどもうまくスライムがネットの隙間からはみ出てこないと悪戦苦闘している。
僕はその中心で揉まれている夏葉に「ここは任せた」と目配せ手振りで伝える。サムズアップされたから多分大丈夫だ。
時計を見ると、もう三十分は経っている。三時はおやつの時間だと、どこぞの誰かが決めていた。
僕は頃合いと、車にお菓子を取りに向かう。
取りに向かったのだけれど。
「あれ、ない……!」
トランクに入れっぱなしにしておいた、お菓子の袋がない。
あらら、おかしいなぁ……なんて言っちゃいられない。あのやんちゃでおてんばな子供たちは必ずや不平不満を募らすだろうし、でも悪いのは確実に僕だ。そうして弱り切った僕の姿が、夏葉によって拡散されるのは疑うべくもない。
「今から買いに行くか……」
しかし、それはそれでもっとまずい。後者のすぐ隣にある駐車場ならまだしも、そこそこ離れたコンビニやスーパーに責任者である僕が出て行ってしまえば、「生徒だけを校舎に残して、どう言うつもりですか?」ってクレームがついた時にぐうの音も出ない。
はっきり言えば、今だってグレーゾーンだ。
「一体どうして……」
昨日の仕事帰りに深夜営業のスーパーで安く買い込んで、万が一にもと思って車に放置したはずである。ちゃんと、溶けたりしないようにクラッカーとかクッキーとか乾いたものを選んで。
「そのあと、ここに来るまで車使ってないよな」
僕が夢遊病者で、深夜に車に徘徊するレベルの近代的ゾンビならいざ知らず。朝九時過ぎに起きて、今日はハロウィンイベントに間に合えば文句言われないからと、十二時くらいに出勤するまで。車に乗った覚えなんぞ--
いや、待てよ。
「ねぇ、山崎くん」
「なんだよ山崎さん」
僕のことを『山崎くん』なんて呼ぶのは、憎っくき上司か妻くらいだ。僕は寝ぼけ眼でトーストをかじりながら交わした会話を思い出す。
「今日お仕事って言ってたけど、車使うの?」
「そりゃあ、駅から離れたところだし使うけど」
「午前中って使っちゃまずい? 今日休日出勤で大変だろうし、ご馳走作ってあげたいんだけど」
「んー、別にいいよ。十三時までに出れれば問題ないから」
「そう? じゃあ、パッと行ってきちゃうね」
「どうぞー」
「あれか!」
天啓を得て、思わず頭を振り上げた。車に頭をぶつけた。痛い。
いやしかし。あれしか考えられない。きっと妻は、自分で買ってきた買い物袋と一緒に家へと引き上げてしまったのだ。あの有名お菓子専門店の袋を間違えるなよと言いたいが、あいつは結構買い貯めるタイプだから、そんなこと気にしてられないくらい大荷物だったんだろう。事実、そうだった。
「今から持ってきてって言ってもなぁ」
そんなお手軽な距離なら車通勤なんてしない。
もう、諦めるしかないか……
妻がたくさんの袋を持って帰ってきた時、あの有名お菓子専門店の袋を見落とした僕だって悪いし。だるいなぁなんて思いながら、ろくすっぽ確認もせずに車を出したのも僕だ。仕方あるまい。
トボトボと後者の入り口まで歩いて行くと、ガラス戸の奥に生徒が待ち構えているのが見えた。
「うわぁ」
中心には夏葉がいて、「今からせんせーがお菓子持ってくるよー」なんて言って集めたのだろうことが想像に難くない。だってみんな、目ぇキラキラさせてるもん。
澄み渡る秋の空にお祈りを捧げてから、ガラス戸に手をかけ、開く。
「いやぁ、ごめん。実は」
と言いかけて、僕は違和感を覚えた。何か、みんなの視線に違和感がある。まるで、僕の後ろにいる誰かを見ているみたいな。
「トリックオアトリート!!!」
「うわぁ!!!」
突然後ろから聞こえた大声に僕は跳び退った。
すると、黒いビニール袋を裂いて作ったローブに、ジャックオランタンの仮面を付けた不審者がいた。
「すげー、カボチャのお化けだー!」
「トリックオアトリート! トリックオアトリート!」
「ねぇ、山崎先生。あの先生だれ?」
どうしたものかと迷う間も無く、生徒たちのテンションは爆発した。ちなみに、一番はしゃいで「トリックオアトリート」なんて言ってるのは夏葉だ。年長者らしく、いち早くオバケが手に持つお菓子のバスケットに目を止めたらしい。
「えっ? いやほんと、なに……?」
数少ない冷静な生徒に、オバケの中身を問われても全く心当たりがなかった。教室長はあんな遊び心のある人ではないし、アルバイト講師は金をもらいにきてるような人間ばかり。
僕が目を白黒させてる間にもオバケは僕の横をすり抜け、子供達の輪の中に入って行く。
「はっはっは。君たちいい子にしてたかね? 悪い子はいねえか? 笛吹いて連れてっちゃうぞ?」
頑張って低い声を出しているけれど、多分中身は女性なんだろう。どうにも文化圏のよくわからない言葉を口にしながら、お菓子を配って行く。
ただ不思議なことに、その意味不明さには見覚えがあった。ついでに、彼女がお菓子入れにしているバスケットにも見覚えがあった。
昔行った、某ネズミのテーマパークのポップコーン容器である。
「いや、まさかな」
だが、そう考えると辻褄があう。
にやけそうになる口の端を手で押さえつけてから、僕は小学生たちの中に割って入る。
「ほら、順番に並べぇ。お菓子の時間だぞぅ」
身体を壁がわりにして列を作って行くと、カボチャのお化けと一度目があった。笑いかけてくれた気がした。
そうして僕は、僕の買った覚えしかないお菓子を配るオバケを、最後まで手伝ってやった。
◇◆◇
「さて、何か言うことがあるでしょう、山崎くん。私はあります」
「よくもお菓子の袋を引き上げてくれたな、山崎さん」
「そんなこと言うなら、今日の夜ご飯は抜きです」
小学生と、小学生同然の中学生を追い出して、真昼間の校舎に二人。カボチャのオバケに、何故か僕は責められているらしかった。デスクに座った僕の後ろに立つ黒ずくめは、いかんせん圧力がある。
「だって、君が袋引き上げなけりゃあ、こんなことにならなかったろ。ていうか、冷蔵庫に中身しまう時に気付けよ」
「いやだってそれは、山崎くんがお菓子やけ食いしたいのかなぁって」
「ほらみ--むぐぐ」
今だとばかりに矛先を変えようとしたら、いつの間にか外していたらしいカボチャのお面で顔を潰された。べこっていきそうで怖い。
呪われた装備を外そうとする勇者の心地で仮面と格闘していると、不意にぱっと外された。
「でもちゃんと気づいたもの。だから、届けてあげようかなって思った頃に、あんなメール寄越すから」
「あんなメール?」
「……帰りが遅くなるってやつ」
大人にしては子供っぽい、拗ねた口調。視線を上げると、彼女はバツが悪そうに視線をそらしていた。
「いや、それは……」
「ご馳走作るって言ったでしょ」
「え?」
「……は?」
……言われたっけ。
言われてみれば言われたような気もするし、言われなければ言われた気なんてしてなかったけど。多分、急に真正面から僕を見下し始めた彼女を見るに、本当のことなんだろう。
「信じらんない。本当にデリカシーないよね、山崎くん」
「ごめん、本当に悪かった」
「わざわざハロウィンイベントだろうからって、仮装してきてあげたのに」
「それは絶対に僕の反応を見て楽しむためだ」
「何か言った?」
「ぼべんばはい」
ばちん、といい音を立てて頰を挟まれる。ひょっとこみたいな顔のまま、頭をぐるぐるとされた。
けれどまぁ、彼女があんな仮装をして歩いてきて、あるいは仮装を持って歩いてきて、さぞ変な目で見られたろう。だって、ハロウィンイベントこそしていても今日はまだ十月十九日だ。
たしかに、ちょっと口が滑ったかも。
「それじゃあ、罰ゲームです」
「ゑ」
デスクに放り投げるように解放された途端、残酷に言い渡される。せっかく、反省を口にしようとしたのに。
「今日の仕事、十九時までに終わりにしてね。それまで、ここで掃除しててあげるから」
「えっ?! いや、掃除は助かるけど十九時まではちょっと……」
「何か言った?」
有無を言わさぬ絶対零度の声。
「いえ、あの、なんでもないです……」
情けなくも僕は、白旗を上げることしかできない。
助けを求めるようにデスクに残された上司の付箋を見ても、変わらぬ仕事量が鎮座しているだけだった。
項垂れる。ご馳走を作ってくれるという妻の言葉をちゃんと聞いて喜んでおけば。メールも素っ気ないものでなく、ちゃんと心を込めて送っていれば。
後悔ばかりを重ねていると、僕の背中に妻がもたれかかってきた。そして、耳元に口を寄せて囁く。
「トリックオアトリート。私をちゃんともてなさないから、イタズラされるんだよ」
「はい、肝に銘じておきます……」
今こそ、声を大にして言わねばなるまい。
世の中、細やかな心配りこそ肝要だ。