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八月・胃の中のカヌレ大海を知らず

夏の盛り。

カフェを訪れた小説家と共に、彼女の持つ箱の謎を解きます。


   *


カフェの扉を開けた人物は、夏の暑さに翻弄されていた。

八月の盛りなので無理もない。汗だくになり、息を切らしながら中に入ってくる。ドアベルの音がそれを知らせた。店内の冷房が効いていることに安堵した様子だ。

「けっこう歩いてしまったなあ」

凛とした低い声で彼女は呟いた。お好きな席に、という店長の言葉を受け、カウンタ席のひとつに腰掛ける。真ん中で分けた亜麻色の髪と、左右対称に整った顔立ち。海のように深い青色の男物のシャツに、すっきりとした白いズボンを合わせていた。この女性は私の友人だ。こちらを向いて軽く手を振ってきた。

「相変わらずね」

水を差し出しながら私は言った。二階の園芸店の来客が少ないので、このところはカフェの手伝いばかりをしている。暑さのせいか少しばかり繁盛しているが、現在は彼女の他に常連客がひとり座っているだけだった。

その常連客の青年の、強い視線を先ほどから感じているのだ。

「サツキ、どうしたの」

ついに振り返って尋ねた。隣のアパートに住む如月サツキは、今日も昼下がりの時間をここで過ごしている。先ほどまでTシャツの胸元を仰ぎながら本を読むという、なかなかだらしのない状態だった。それがやにわに姿勢を正してこちらを見ている。

「知り合いですか?」

私と女性へ交互に視線を遣りながら、彼は言った。普段はそんな口調で話したりしないので、彼女の方へ問い掛けたのかもしれない。

「そうだよ。私の友達」

名前を紹介しようとする前に、彼の声が重なる。

「友達、いたんだね……」

「何よ!」

失礼な話だが、おそらく彼の方も馬鹿にしようとして言ったわけではないのだ。自分でも何を言っているのか分からなくなっているのかもしれない。その表情からは動揺が大きく読み取れた。もしかして、と考える。

「サツキ、この人のこと知ってるでしょ」

彼は操り人形のように頷いた。

「だって、小説家の式見カオル先生じゃないですか!」

やはり私ではなく彼女――カオルの方に話し掛けている。読書家ならば作家の名前や素顔にも詳しいだろうが、そうでなければ意識せずに生きていくものだ。だからカオルも変装が必要なほどではないものの、界隈では確かに著名人であると言える。

「ごきげんよう。確かに僕が式見カオルだ」

「ああ、その話し方。エッセイの文体と同じだ」

サツキが立ち上がってこちらに歩み寄る。彼のせいでカオルは注文すらできないが、止められるような空気ではなかった。そのままふらふらと彼女の前に立ち、ぎこちなく握手を求める。

「本に著者近影が載っているのでお顔は存じ上げています。エッセイやコメントの文体が非常に男性的であることと、男女どちらとも取れる名前であるため男性と誤認されることが多く、それで写真を載せるようになったんですよね。あっ、著作はアパートの部屋に全て揃っているので今から取ってきます!」

「まさか全部抱えてくる気かい? 一冊でいいよ、君の気に入っているものを持ってきてくれたらサインのひとつでも書こう」

「えっ、本当ですか――」

「カオル、とりあえず注文したら」

思わず口を挟む。カウンタの奥をちらりと見た。そこには店長が静かに立っているが、それ以上に目を引くものがあった。水出しコーヒーのドリッパーだ。巨大な砂時計のようなガラスの容器。狭いカウンタにみっしりと鎮座しており、本格的なものなので非常に目立つ。案の定、カオルの視線はそちらに吸い寄せられた。

「そうだ、注文をしなければ。メニューにアイスコーヒーとあるが、これを注文すればそちらの装置で作ったものを飲めるのかい?」

「そのことなのですが」

店長が申し訳なさそうな顔をする。

「完成まであと二時間ほど掛かってしまうんです」

「二時間? いや、構わない。そのくらいなら待つよ」

ちらりと壁の時計を見てからカオルは腰を上げる。今の時刻は三時だった。カウンタ席から四人掛けのテーブルに移動するようだ。近くにいたサツキも荷物を運び、同じテーブルについた。もちろん断りを入れていたが、あまりの抜け目のなさに苦笑してしまう。

「サツキは早く本を取ってきなよ」

私がそうけしかけてようやく、彼はカフェを出てアパートへ向かった。すぐ隣なので数分もあれば戻ってくるだろう。カオルの方は、コーヒーが出来上がるまでの飲み物としてアイスココアを注文していた。大きなコーヒードリッパーは店長が思い切って導入したばかりのものだ。金のメッキが夏の日差しに輝いている。抽出に八時間ほど掛かるので仕込みのタイミングが重要となるが、今日はうっかりしていたらしい。

アイスココアがテーブルに差し出された頃、サツキが息を切らして戻ってきた。よほど動揺していたのか、サインペンをペン立てごと持参している。これにはカオルも驚いたようだった。リアルなウサギの正面顔が描かれたマグカップだが、取っ手は折れてしまったのか、湯飲みのような形になっていた。片手に本を積み、もう片方の手に大きなカップを持つ彼の姿は、どこか滑稽だった。

「デビュー作と、浜木綿賞を受賞した作品、そして最新作だな」

カオルの言う通り、手には三冊の本があった。

「本当にファンだということを伝えたくて。あの、サインは……」

その内の一冊をサツキは差し出した。

「こちらの最新刊で」

浜木綿賞とは純文学作家の浜木綿(はまゆう)彰子(あきこ)が設立した文学賞で、選考が近付けばニュースでも取り上げられるほど有名なものだ。日本を代表するといっても過言ではない。直近の発表は二ヶ月前の六月であり、カオルがそれを受賞したこともラジオで耳にしていた。最新作はその後に刊行されたもので、一週間前に書店へ並んだばかりだ。

「式見さんは左利きなんですね」

サインを書くカオルを見ながら店長が言った。そうです、と彼女は顔を上げずに返す。その先を続けたのは当人ではなくサツキだった。

「著者近影にも何枚か、左手でペンを持つ姿が写っていますよね」

彼が本を広げて見せてくるので、私も覗き込む。三冊とも、袖の折り返しに写真が載せられていた。版を重ねた際に付け足したのか、デビュー作の本にも著者近影がある。サツキの話にある通り、ペンを持った姿のものもあった。

デビュー作『身を尽くしても』にある写真が、どこかのベランダで斜陽の中に立っている姿。顔や身体の右半分は影になっているものの、明るい表情をしていることが分かる。

浜木綿賞の受賞作品『みのり』にある写真が、机に向かう様子を背後から撮った写真。振り返っているので胸元まで写っていた。右手側に置かれたマグカップは、白無地のシンプルなデザインながら、上下にふたつ並んだ取っ手が特徴的だ。読者へのプレゼントらしきサイン色紙を書いている最中のようで、左手の傍に完成品が積み上げられている。

そして最新作の『幻』では、ブラウスを着た彼女が立っていた。太いマフラーを巻き、胸の下で腕を重ねている。背後には白い彼岸花に似た植物の鉢植えがあった。細長い花弁が放射線状に開き、白い布が垂れ下がっているようにも見える花だ。

それらの写真には共通点がある。私は本から顔を上げ、カオルの方をじっと見た。よく似合うシャツの胸元に、巻貝のネックレスがぶら下がっている。本物の貝にチェーンを通してアクセサリに仕立てているそうだ。右巻きの渦に小さな突起が生えており、ミルクを落としたコーヒーのような縞模様が表面に浮かぶ。

そのネックレスと思しきものが、三枚の写真全てに写っていた。

「僕の宝物なんだ」

私の視線に気付いたのか、カオルはチェーンを摘まみ上げてそれを示した。

著者近影は小さく画質も不鮮明だ。胸元のアクセサリなど米粒みたいなものだが、それらが近しい模様の巻貝であることは判別できた。彼女はいつもお気に入りのネックレスを身に着けて取材を受けている。

などという話も、サツキはとうに知っているだろう。

「式見先生は蝶菜大学文学研究会の出身なんですよね、あの大手作家を多数輩出している有名サークル! 浜木綿先生もそこの出身で、それが縁で師弟になったとか――」

店長が興味を持ったので本を貸した後、すらすらと話しながら戻ってくる。手元に資料があるわけでもない。友人の私でさえろくに知らない情報が、よどみなく溢れ出てくる。カオルは慣れているのか、余裕のある表情で相槌を打っていた。

「ひと昔前の文豪じゃあるまいし、師弟というほどのものじゃないよ。僕が勝手に慕っているだけだ」

「いえ! 浜木綿先生のインタビューの方では、しっかり愛弟子と発言されていますよ。俺、対談の載っている雑誌も集めているんです。母校を訪れた浜木綿先生がサークルの会報を読み、式見先生の処女作である『桐壺譚歌』に惚れ込んだのが最初ですよね」

「ああ。でもあの日すぐには会えなかったんだ」

「そうでしょう。式見先生は朝が弱くて八時より前には起きられず、大学に着くのは九時以降。一方、浜木綿先生は仕事の都合で――」

「サツキ!」

彼の眼前にマグカップのペン立てを差し出す。大きく描かれたウサギの顔に気圧されたのか、ようやく口を噤んでくれた。やけに目力の強いウサギだ。左九十度に倒してプリントされているので、本当に視線を合わせるには横向きに持つ必要があるが。

「そんなプライベートのことまで話すんじゃないわよ」

彼女ら師弟の馴れ初めから近況まで、年表のごとく話し尽くしそうな勢いだ。そういったことはファン同士でやってもらうとして、今は友人であるカオルの話を聞きたい。彼女は気を悪くした様子もなく、綺麗な笑顔で私たちを見つめていた。

「僕は気にしていないよ」

ゆっくりと口に出し、両手の指を絡める。

「懐かしい話が聞けて良かった。僕の方も、その……」

息を吐く。ストローでグラスの中をかき混ぜる。氷の音と共に聞こえてきた言葉は、私たちも切り出すタイミングを決めあぐねていたことだった。

「故人の話を、したかったし」

浜木綿彰子は亡くなった。六月の初め、自身の名を冠した賞の受賞者が、発表された少し後のことだった。急なことだったので界隈は騒然となり、授賞式も流れてしまった。たしか、関係者のコメントが文書のみで公開されている。

「本当だったらカオルも壇上にいたはずだったのにね」

浜木綿賞の受賞者は、二名ずつ選ばれることが多い。金屏風の前にふたりの作家が並んでいる光景は、報道でよく目にしていた。それが今回、メディアに姿を見せる機会は無く、もうひとりの受賞者の素顔すら分からないままであった。

とはいえ彼女にとっての問題は、そのようなことではないのだ。たとえ、師弟関係にありながらずっと得られなかった賞を、ようやく受けることのできた記念すべき日を、公に祝福されることもなく過ごしたとしても。

大切な人を失った衝撃には代えられない。

「あの時はなかなか大変だった」

カオルの口角が徐々に下がる。真剣な表情で彼女は言った。

「授賞式と訃報が重なったものだから、出版社もどう動いたら良いか混乱していてね。結局、追悼企画もできないまま今に至っている。どちらかを取りやめたのだからどちらかは遂行すべきだって、僕は思うのだけど」

「でも、仕方ないですよ。あれは本当に急で」

「そうだね。お歳は召していたが元気な方だった。あと何十年だって書き続けてくださると思っていたのだが」

文壇の巨星は墜ちた。彼女の死は大いなる混乱を引き起こし、そして疑問を残した。いまだに議論が続いているほどだ。つまり、単なる死去ではなかったと。

「一緒に考えて欲しいことがあるんだ」

カオルの視線が私の方を向いた。真夏の暑さの中、ここまで訪れた彼女の胸の内にあったのは、たったこれだけだろう。自らの受賞の報告に来たわけではない。式の中止を嘆くつもりもない。久方ぶりに会う友人と、積もる話をするでもなく。

「先生の死が事故だったのか自殺だったのか、どうか一緒に考えてくれないか」

そう告げて、カオルは静かに目を伏せた。


   *


浜木綿彰子の死を端的に述べるならば、海難事故だ。

岩場から足を滑らせて海に転落した――今のところはそういうことになっている。現場は海水浴場でもない自然のままの海辺だが、景色の美しいことで有名で、作家がひとりで訪れることに疑問はない。まずは砂浜で水浸しのバッグが発見され、そこから数日経ってようやく彼女の遺体が引き上げられた。遺書も揃えられた靴も無かったが、だからといって自殺でないという断言はできない。浜木綿賞の受賞者が発表されたばかりだったこともあり、何かの責任を取ったのではという憶測も飛び交った。

当の受賞者であり弟子でもある式見カオルの胸中は、計り知れない。

「僕は中立だよ」

ココアを少しずつ飲み進めながら彼女は呟いた。

「純粋に死因を知りたいだけさ。別に、僕なんかに賞を与えたことを後悔したが故の自殺だったとしても構わない。ただ知りたいだけ……」

その言葉に反射的な慰めを告げたところで、彼女には響かないだろう。それが分かっているので誰も応えない。サツキが冷静を保とうと努めながら、口を開いた。

「たしか、今回の選考会には浜木綿先生ご本人が参加なさっているんですよね」

私も聞いたことがある。浜木綿賞は彼女の名前を冠した文学賞だが、本人が選考に参加していたのは初期だけであった。時代を牽引する作家たちへと順繰りに引き継がれ、長らく彼女の出番は無かったのだ。それが急に、創設者自身が受賞作を決めた。だからこそカオルは悩んでいるのかもしれない。

「式見先生、この事件についてどこまでご存知なんですか?」

「先生なんて付けなくていいよ」

相談を持ち掛けた相手にそう呼ばれ続けるのは気恥ずかしいのだろう。今の彼女らは作家とファンという関係だけではない。解明したい謎をひとつ挟んで向かい合う、依頼人と探偵のような立場だ。とはいえ、私たちがこのカフェでいくつかの謎に出会ってきたことなど、彼女は知る由もないが。

「では、式見さん」

サツキが仕切り直して言う。

「式見さんは関係者ですから、俺たちより詳しいと思うんです。何か手掛かりになりそうなことはありませんか? 例えば、先生が亡くなった日の行動とか」

「行動か。まず、事件の現場は知っているかい?」

「ええ、距離はありますが隣県だったので驚きました。海の綺麗な所ですよね」

「その海に……ここから、出発した」

彼女の指が窓の外を指している。吸い寄せられるように視線を向けると、そこにはバス停があった。何のことはない、地域の巡回バスの停車場だ。

「厳密にはふたつほど向こうのバス停だが。あるんだよ、ここから二時間以上かけて隣県まで走る市バスが」

知らなかった。そもそも、市バスで隣県まで行こうという発想がない。だが店長は把握していたようで、よく見るとカウンタの中に時刻表も貼ってある。たまに乗り込む客がいるのだそうだ。

「電車の便も良くない地域だからね」

その時刻表を眺めながら店長は言った。

「ゆっくり移動したい人には需要があるんだろうね。もちろん便数は少なくて、朝と夕方の二本だけ。その、浜木綿さんが乗ったバスは……」

「夕方の便です」

「だとしたら、五時半頃にここを通ったのかな」

浜木綿はふたつほど向こうのバス停から乗った。ここを通るのが五時半なら、五時十五分頃に出発したことになる。二時間以上かけて目的地に向かったとして、着く頃には夜の八時台だ。

「……あれ」

思わず声が漏れる。

「それじゃあ真っ暗で何も見えないじゃない」

真夏の今ですら陽は七時までに沈む。当時は六月だったのだから、言わずもがなだ。海を眺めるどころではない。

「ああ、それについては理由が分かっている」

カオルが右手を上げた。その手首に嵌められた腕時計を見て、彼女が左利きであることを改めて思い出す。男物のシャツに合わせたのか、太いベルトのシックな時計だった。

「朝の便は同じバス停から八時に出る。そちらの方に乗らなかったのは、別の予定が入っていたからだ。昼頃、浜木綿先生は近くの時計屋を訪れている」

贔屓の店だそうだ、と付け足した。カオルも浜木綿も生活の拠点は都心だが、信頼を寄せる店があるのならば遠出してもおかしくない。浜木綿彰子ほどの作家ともなれば、安物の時計は嵌められないだろう。

「先生は時計屋にとある依頼をしていた。それが完了したので、引き取りに来たんだ。どういった物であるのかは聞き出せなかったが」

「浜木綿先生が口止めしていたのかしらね」

それとも、客の情報を流さない誠実な商売をしているのか。詳細は分からないが、死の前の彼女の行動は段々と掴めてきた。遠路はるばる来たのだから、時計屋をすぐ後にしたわけではない。店主と何らかの話をした後、バスに乗って五時過ぎにここを発った。そこから先のことは誰も知らないが、きっと途中下車などしていないだろう。

「夜といっても街灯や灯台の光はあるからね」

そう話しながら、サツキがタブレットの画面を見せてきた。例の海辺が観光地として紹介されているサイトに、夜間の写真も載っている。岩場と砂浜の入り混じる海岸で、子供が遊ぶには少々危険かもしれない。だが、街灯や遊歩道は整備されており、散策するには向いているように見えた。

「歩道から外れて海に近づいてしまったのかな。何か見つけたのかもしれませんね。綺麗な貝殻とか、よく拾える場所みたいだから」

「貝殻、ね……」

視界の端で巻貝が揺れている。長い指がそのチェーンを摘まみ上げた。

「これも、本物の貝殻だ」

カオルはそれをどんな時でも身に着けている。服装に合わないときはシャツの内側に仕舞うが、決して手放すことはない。当人は「お気に入り」と表現している。だが、その言葉では表しきれない事情があることを私は知っていた。貝殻という単語が出た途端にネックレスを示したのは、それが事件に関係しているからだろうか。

「別に隠しちゃいないから知っているだろうけれど、僕は孤児だ。赤ん坊の頃、施設の前に置き去りにされるという経緯で家族を失った。その際に一緒に置かれていてね」

赤ん坊のおくるみの中にあったひとつの貝殻。人によってはこれを手掛かりに家族を探すかもしれない。だが、カオルにそのようなつもりは無く、アクセサリにして身に着けているだけだ。

「貝の模様というものは、地域差があったりしますから」

カウンタにいる店長が、ぽつりと呟いた。その隣ではコーヒーが時間をかけて抽出されているところだ。カオルがスマホを取り出して時刻を見る素振りをしたので、私も壁掛け時計を見上げてみた。三時十五分。まだまだコーヒーは出来上がらない。

「もしかすると、式見さんの生まれの土地も割り出せるかもしれませんね」

「それは、確かに」

カオルは頷く。

「今さら家族を探そうなんて気はありませんが、自分はどんな海のそばで生まれたのか、そのくらいは知りたいかもしれない」

そういえば先生ともこのような話をしたな、と続ける。浜木綿の書く小説は、豊かな知識に裏付けられている。貝の模様の地域性についても知っていたかもしれない。

「まあ、とにかく。家族のいない僕にとって、浜木綿先生は母親のような方だった。もちろん本当の家族ではなく、そして彼女が亡くなった今となっては、僕は紛れもなく天涯孤独なわけだが――」

家族という言葉と共に、カオルの視線が揺れた。自らに身内がいないことを強調するのは今に始まったことではない。彼女は施設の職員や同居人とも特に親しくなることはなく、あらゆる縁から外れたままにいる。それを気にしている様子は無く、他人の血縁に興味を抱くこともない。だが、揺らいだ視線がサツキに向かった後、彼女はこう尋ねた。

「ところで、君には兄弟がいるかい」

「俺ですか?」

何かを考えていたサツキが顔を上げる。きょとんとしながらも、正直に返答した。

「兄弟は、います。男兄弟がひとり」

「そうか。いや、大したことじゃないんだ。君とは初対面であるはずなのに、どこかで関わったことがあるような気がしてね」

話はそれだけで終わった。浜木綿の話題に戻ろうとしても、これ以上語れることは誰も持ち合わせていない。彼女が波にのまれた時刻は明確ではないが、きっと夜だろう。明るいうちは人目がある。辿るべき道筋はここで途絶えたのだ。

彼女の死は事故か自殺か。

これだけの手掛かりで本当に分かるのだろうか、という空気が漂ったとき。

「あっ」

それはあまりにも素朴で、心のままに飛び出た声だった。

店長がカウンタの中で本を開いている。そういえばサインを貰った後、サツキが三冊とも貸していた。彼はカオルの名前を知っているが、著作を読んだことはなかったので興味を抱いたらしい。それらの本を順番にめくりながら、再び

「これはおかしいな」

と言葉を漏らした。

何が、と問い返すより先に彼の顔が動く。こちらを向いた。真っ直ぐにカオルの方を見据えている。

「式見さん、そのネックレスってひとつだけですか?」

手元の本と見比べるようにして問い掛けた。この位置からでは詳しく分からないが、本文ではなくカバーの折り返しを見ていることは確かだ。

そこには式見カオルの著者近影が載っている。

「ひとつだけです。家族が僕に残したものは巻貝ひとつだけだった」

「後から増えたりしていませんか?」

まるでなぞなぞだ。カオルは作家になる前からこのネックレスを身に着けており、単なるファッションやコスチュームというわけではない。この貝でなければならないのだ。家族が彼女に残した、どこかの海の記憶を持つ、この巻貝でないと。

急ごしらえの別のものでは意味がない。

「どうしたのよ、店長。何か気になることでもあったの?」

「うん」

思わず私が割り込むと、実にあっさり彼は応えた。本を手にしたままカウンタの中から出てくる。その本がデビュー作の『身を尽くしても』であることが分かった。私たちの前で立ち止まり、人差し指で写真をトン、と示す。

「どうして全ての写真が反転されているのかな、って」

背後でカオルの息をのむ音が聞こえた。


   *


カオルが立ち竦んでいる。

肩まで伸びた髪は真ん中で分けられ、左右対称に整った顔立ち。写真の中の彼女も、目の前にいる彼女も、鏡写しになったところで印象は変わらないだろう。だから、写真が反転されているなどと言われても、即座に判断はできない。

「分かりやすいものから説明しよう」

店長は本をサツキに返した。説明を始めるにはそれが必要だが、彼の大切なものを触り続けるのはまずいと思ったようだ。そのうちの一冊はサイン本なのだから、賢明な判断だろう。代わりにサツキが本を開き、私たちはそっと覗き込む。

まず示されたのは、最新作の『幻』だった。マフラーを巻いたカオルが立っている写真。ネックレスはチェーンが長いので、その下にはみ出ている。背後に白い彼岸花のような植物の鉢植えがあるくらいで、特に目立つものは写り込んでいなかった。

「何も変哲のない写真だと思いますが……」

「マフラーを巻いているし、最近に撮ったわけじゃないってことくらいね」

著者近影とは名ばかりで、そこに本当の近影を使う必要はない。うんと若い頃の写真を載せている作家もいるのだから、季節が異なるくらい誤差のうちだ。さほど着込んではいないので真冬ではないだろうが、マフラーが要るほどの肌寒い時期だということしか分からなかった。

だが、私たちの考察を聞いた店長は首を振った。

「これは正しい意味での著者近影だよ」

つまり確かに直近に撮られたものだ、と言う。

「刊行されたのは一週間ほど前だったよね? おそらく写真は数か月前に撮られたから、正真正銘、著者の近影ということになる。後ろにあるのは浜木綿賞の受賞に対するお祝いの花だろう。少なくとも六月の発表日以降だ」

「どうしてそこまで分かるのよ? ここがカオルの家だという確証もないでしょ」

通常、自宅の中でマフラーは巻かない。どこかの施設や会場で、飾られた花を背景に撮ったという可能性もある。私の疑問に彼は

「この花はハマユウという名前だからね」

と答えた。

「見目の良い鉢だから贈り物かと思ったんだ。浜木綿賞の受賞のお祝いとしてハマユウの鉢植えが贈られ、それが式見さんの自宅にあるのは自然なことだろう? 仮に鉢の豪華さは無視して以前から彼女が育てていたものだと考えたとしても……」

つい、と視線が上を向く。螺旋階段の向こうを見ているように思えた。そこに続く園芸店の温室には、ハマユウの鉢植えもあるだろうか。他の様々な植物の印象に埋もれ、どうしても思い出せない。

「だとしても、夏の花だ。マフラーの要る季節には咲かないよ」

サツキが手元のタブレットで調べた情報によると、ハマユウが咲くのは七月から九月頃までらしい。今年の夏は早く訪れた。六月の時点で汗をかくほどだったのだから、花の咲く頃にマフラーが必要になるはずもない。

それでは、何のために巻いていたのか。

「そういえばこの服装も少し妙ね」

そこにいるカオルの姿と見比べる。彼女は感情の浮かばない顔で、静かに立つだけであった。ブラウスの上にカーディガンやベストを着るのではなく、太いマフラーを巻くだけというのは違和感がある。まるで、何かを隠しているような。

「……あ」

分かったかもしれない。隣を見れば、サツキも何かを思いついた顔をしていた。

「ボタンの位置、ね」

今のカオルは男物のシャツを着ている。それが分かるのは、シルエットが大きいからだけではない。男性用と女性用ではボタンとボタンホールの位置が反対になるのだ。もちろんユニセックスな服もあるだろうが、もし本当に写真を反転させているのならば隠したいと思うのが自然だろう。熱心なファンがメーカーを特定する可能性もある。

「そう。マフラーを巻いて、胸の下で腕を組めばボタンはほとんど見えない。きっと急な撮影だったんだろうね。ボタンのない服に着替えるほどの余裕はなく、マフラーを引っ張り出して巻くことでごまかした、と」

「そうなの? カオル」

振り返って尋ねる。無表情だった彼女は、ようやく小さく笑った。

「まだ僕が答えるには早いんじゃないだろうか。全ての写真が反転している、と言われたのだから。そちらに関する根拠も聞きたい」

片手を出して店長の方を示す。続きを、という意味だろう。促された彼はひとつ頷くと、次の本の説明に移った。

「今度はこれについて話そう」

浜木綿賞を受賞した、『みのり』。机に向かう彼女を後ろから撮った写真だ。右側の手元にはマグカップ、反対側には書き上げたサイン色紙。これもまた、変哲のない仕事姿のように見えるが……。

「ちゃんと左手でペンを持っているし、マグカップの取っ手も左側にある。どこもおかしくはないわよ」

カオルが左利きであることは公表されている。彼女について詳しい読者ならば当たり前の光景であるし、知らなかったとしても改めて知るだけの話だ。だが、反転されているという前提で見るならば、感じることが変わってくる。

「ペンに関しては、撮影の時に持ち替えた可能性はあるけどね。手元にある色紙は真っ白だし、ペンは構えているだけだ」

サツキの言うとおり、カオルはペンを構えているだけのようにも見えるのだ。もちろん撮影なのだから、区切りの良いところで手を止めるだろう。それでも、あえてペンを置かずに構えたままでいることが、わざとらしく見えてしまう。

とはいえ、あくまでそう感じるだけだ。本当に写真が反転されているという根拠は、まだ見つからない。

「僕はマグカップに注目した」

店長が写真の端を示す。二つの細長い輪になった取っ手が特徴的な、白無地のマグカップが写り込んでいた。中には八分目までコーヒーらしき黒い液体が注がれている。少し持ち辛そうなカップだが、仕事場に持ち込むほどには気に入っているのだろう。

「可愛いカップね。ウサギみたい」

「それだよ!」

取っ手がウサギの耳のようだと思ったのだ。何気なく呟いたつもりだったが、即座に店長が応じたので驚いてしまった。

「この取っ手の形はウサギの耳だ。アルファベットのBのようにも見えるけれど、それにしては細長いからね。ウサギの耳の取っ手が付いたマグカップ。だとすると、白無地なのは少し変だと思わないかい?」

「どうかなぁ。そういうデザインでも良いと思うけれど……あ、でも何だか、どこかで見たような気が」

「ああっ」

今度はサツキが大声を出した。

テーブルの上に置かれたものを指さしている。

「ウサギのマグカップ……」

ペン立てとして使っている、リアルなウサギの顔が描かれたマグカップがそこにあった。思わず手に取る。取っ手は折れてしまっているが、ふたつの輪が左側に付いていた痕跡がある。ウサギの絵柄もそれに合わせ、左九十度に倒して描かれていた。

「サツキ……」

まさかこんなところに大きなヒントがあったとは。

「これ、左利き用だったの?」

絵柄に対して取っ手が左側にあるということは、つまり左利き用だ。右利きのサツキがなぜ持っているのかは知らないが、彼こそが最初に違和感を抱くべき写真だろう。本も、お揃いのマグカップも手元にありながら、何も気づいていなかった。

「だってペン立てとして使っていたんだもの……」

左利き用かなんて意識していない、と口を尖らせる。左利き用のマグカップが取っ手を左にして置かれている、それなのに絵柄が見えていないということは――というのが店長の推理だった。湯呑のような形になってしまったペン立てだが、ウサギの耳が左側にあったことは絵の向きだけで分かる。

「僕たち、同じカップを使っていたわけだ」

ついにカオルも認めたのか、自白じみた言葉を告げた。サツキの方を見て笑う。

「趣味が合うね」

「いえ、その……」

ファンとして嬉しい言葉を掛けられたにもかかわらず、歯切れが悪い。サツキは口ごもりながら俯いた。カップが同じであると認めることは、写真が反転されていると認めることでもある。同じデザインの右利き用のものがあったとしても、彼女があえてそれを使うとは思えない。

「撮影時にカップを反対向きに回したのね……って、あれ? ちょっと待って」

納得しかけてしまったが、ひとつ大きなことを見逃していた。カオルが書いているのはサインなのだ。ペンを持ち替えても、マグカップを回しても、ごまかしようのない事実が横たわっているではないか。

「色紙に書いた文字はどうなるのよ? それを見れば一発で――」

カバー袖の折り返しを覗き込む。写真は小さいが、文字の形状が分からなくなるほど潰れているわけではない。どうして誰も言わなかったのか。何度も見ているのに、違和感を覚えなかったのか。

「りりすちゃん」

視界が文字を捉える前に、サツキの声で顔を上げた。彼はもう一冊の、サインを貰ったばかりの本を差し出している。表紙を開いた先にある、白い見返しに書き込まれたカオルのサイン。そういえば、友人とはいえ間近で見る機会が無かったな、と考えながら視線を移した。

だから、初めて気付いたのだ。

「式見さんのサイン、左右対称だから」

「…………あ」

そこには、隷書体のように少し間延びした崩し方で〈薫〉と記されていた。


   *


「ここまで言い当てられたら認めるしかありませんが、最後まで聞いても良いですか」

カオルが本を手に取って言った。まだ解説がされていない、三冊目の本。彼女のデビュー作である『身を尽くしても』だ。載せられた著者近影は実にシンプルで、どこかのベランダに立つ彼女が斜陽に照らされているだけ。顔や身体の右側半分は影の中にある。

「これは簡単な話なんですよ」

店長が答える。

「それこそ、ひと言で説明が終わってしまうほどに。でも、反転されていることを断言するには少し不十分かもしれません。だから最後に回していた」

店長の視線が窓の外を向く。つられてそちらを見遣ると、隣に建つアパートが見えた。サツキの暮らすアパートだ。居室の扉が等間隔に並び、それらを廊下が繋いでいる。

「あのアパートは、向こう側にベランダがあります。そちらが南で日当たりが良いからです。どこのベランダも、基本的には日照を考えて作られている」

写真に視線を戻す。カオルの身体の右側が影の中にある、つまり陽は彼女にとって左から差している。これが夕刻の写真なのだとしたら、そちらが西ということになる。

「ベランダが北に向かっていることになりますよね。これは不自然だ」

「……朝陽の写真ってことは?」

服装から季節感は掴めない。もし日が短くなってくる頃であれば、それほど早朝というわけでもない。可能性はあると思った。だが、店長は遠慮がちに視線を揺らしながら否定をした。

「それは無いと思うよ。その……えっと」

「僕は朝が弱いからね」

悪口のようになるので言い辛かったのか。サツキがとうに明かしたことではあるが。当人が苦笑しながら続きを述べる。

「八時より前に起きられないのだから、当然、朝陽は拝めない」

そういうことなのだ。もしこれが朝陽の中で撮られた写真なら、彼女が晴れやかな顔で写れるはずもない。サツキの暴露したプライベートな話が、思わぬ形でヒントとなった。しかしまだ推理は完全とは言えず、引っ掛かる部分がある。それは店長が最初に述べた通りだ。彼は店内を歩き回りながら「反転しなくてもこのような写真が撮れる可能性」について補足した。

「例えば外国で撮った写真だとか。変則的に、北向きに作られたベランダがあるかもしれないし。そう考えると断定はできなくて。背景がどこのベランダなのか分かれば確実なんですけどね――」

「そのベランダは南向きですよ」

ふと、初めて聞くような声がした。突如この場に新しい人物が登場したわけではなく、それはサツキの声であったのだが。

「……蝶菜大学の、文学研究会が使うサークルルーム。その近くにあるベランダです」

彼自身も存外に低い声が出たことに驚いたのか、戸惑いのある口調で続けた。先ほどまでの浮き立った空気は消え、重々しい事実を告げるような声で話す。

「ごめんなさい。俺だけが知っていた情報を使うのは推理として反則かもしれませんね。こんなのは直接答えを聞いているのと変わらない。ここまで知っていて、何も思いつかなかった俺も俺ですけど」

「君は、蝶菜大学の学生だったのかい?」

興味を持ったのか、即座にカオルが尋ねた。しかしその答えは私にも分かる。彼は一年だけ浪人したが、現在この近くの大学に通っている。遠方の蝶菜大学の学生であるはずがなく、そんな過去もない。

「違いますよ。ただ、知っていただけです。まあ……この話はやめましょう」

少し機嫌が悪そうに話を切り上げる。彼がそう言うのなら、誰も深追いはしない。三枚の写真にまつわる解説は終わった。

「特に深い意味は無いんだよ」

テーブルに本を戻し、カオルが告げる。既に穏やかな表情をしていた。

「きっかけは印刷所のミスだった。入稿した写真が反転された状態で載っていたんだ。まだ修正できる段階だったけれど、これも面白いんじゃないかということになって。それからずっと、わざと反転して載せている」

性別を間違えられることが多く、著者近影を載せることに決めた矢先のことだった。そのまま世に出したので、彼女の本には反転された写真しか載っていない。担当の編集者も協力している、ちょっとしたユーモアだった。

「読者の中に気付いた人がいるかは分からないけれど、面と向かって指摘されたのは初めてだ。楽しいものだね、こういうのも」

下を向いて控えめに笑う。だが、その表情もすぐに曇った。やはり感じているのだ。店長が写真の不自然さを指摘したのはネタばらしのつもりではなく、更に踏み込んで伝えたいことがあったからだ、と。

その本題こそが、彼女の表情を曇らせた。

「式見さん」

店長が呼び掛ける。カオルは、まるで叱られている子供のように上目遣いになった。

「浜木綿さんが自殺だったのかどうか、本当は分かってらっしゃるのではないですか」

彼女は否定も肯定もしない。ただ静かにテーブル席に戻り、腰を下ろした。店長も手近な椅子を引く。

「続きを聞かせていただいても? 店長さん」

「分かりました。改めて理由を述べましょう」

それは私たちに説明するためでもあるだろう。写真が反転されているという事実には納得できたが、その先のことについては分からなかった。なぜ、ここで浜木綿の話が出てくるのか。彼女の死と、いったい何の関係があるのか。

「写真の中の式見さんが着けている、巻貝のネックレス」

店長が指をさす。著者近影には、いつも彼女が首から下げているそれもしっかりと写っていた。米粒ほどの大きさではあるが、模様や突起の形まで読み取れる。伸ばした指がついと動き、今度はカオルの方が示された。

「式見さんがいま着けているものと、巻きの方向が逆です」

「えっ」

声を漏らしたのは私だったのか、それともサツキか。どちらでも同じことだろう。私たちは共に驚き、それぞれのネックレスへと視線を往復させた。著者近影の中の巻貝……全て右巻き。目の前のカオルが着けている巻貝……右巻き。

「同じ……じゃない、写真は反転されているから逆になってる!」

写真が反転されていると店長が言い出したとき。ネックレスの巻貝も同じように反転していたならば、これほど長々と説明する必要もなかった。家族の残した巻貝がひとつしかないことは、彼女の口から聞き出したばかりだ。マフラーでボタンを隠したり、ペンを右手に持ち替えたりするのは簡単だが、同じ巻貝が左巻きから右巻きに変わることはあり得ない。つまり今までの話には嘘が混じっている。

「巻貝は右巻きが多いと言われています。左巻きの種類もありますが、模様や突起の形が同じで巻き方だけ違うというのは、やはり突然変異的なものでしょうね。珍しいと思いますよ。まるで、人間における左利きのように」

「カオル、ネックレス失くしたの?」

恐るおそる問い掛ける。そんなはずがない、と信じてはいたが。彼女は家族を探しているわけではないが、その家族との唯一の繋がりを大切にしていた。それこそ生まれた瞬間から身に着けていたのだ。手放してしまうはずがない。

私の言葉に応えたのは店長だった。

「ただ失くしたのなら何も着けて来なければ良いだけだよ。家に置いてきてしまった、とでも言えば確かめようもない。今まで肌身離さず持ち歩いていたようだから、妙には思うかもしれないけれど……」

「じゃあ、どうして」

「手に入れてしまったから、だろうね」

カオルが口を挟まないので、彼は話を続ける。

「模様も形もよく似た、同じくらいの大きさの巻貝。それがネックレスと引き換えに手に入ってしまった。異なる部分といえば、巻きの方向だけ。そして、今まで自分が世に出してきた写真は全て、反転されている――」

写真の反転を指摘されたことは無かった。つまり、あれらの細工を明かしさえしなければ彼女は最初から右巻きの巻貝を身に着けていたことになる。自分自身は騙せなくとも、世間の目を欺くことはできるのだ。どこで失くしたのか、なぜ手放したのか、などと追及されるおそれもなく。

「式見さん、その巻貝はどこから手に入れたのですか?」

店長が優しく問う。その温かい声色へと温度が吸い取られたかのように、カオルの返答は細く冷えきっていた。

「浜木綿先生の……」

綺麗な顔が歪み、泣き出しそうになる。

「先生の、ご遺体の手の中です」


   *


衝撃的な告白に、私たちは言葉を失った。だが、その代わりに返事をしたものがある。厨房の奥で稼働していたオーブンが、軽快な電子音を発したのだ。場違いな音色に空気が和らいだことは否定できない。

甘い匂いが漂った。焼き上がったものを知る人物が立ち上がる。

「おやつにしましょうか。少し遅いけれど」

カオルがスマホを取り出して画面を見る。時刻は四時前だった。まだコーヒーは完成しないし、ココアも飲み干した頃だったので、店長が紅茶を淹れてくれた。飲み物と共に運ばれてきた皿には、こんがりと焼けたカヌレが載っている。

「カオルも食べてね。サービスだから」

店長が言うべきことを先回りして勝手に伝える。私たちはいつもこうして、色々なものを食べさせてもらっているのだ。カオルにも食べて欲しいに決まっている。美味しいものを皆で囲めば、つらい話も少しは楽になるかもしれない。

「浜木綿先生も僕と同じく身寄りのない方だったから」

紅茶を飲んでひと息ついた後、カオルは言った。

「遺品はほとんどが僕のところにやって来た。水浸しになったバッグとか、その中身も。それと一緒に渡されたんだ。浜木綿先生がしっかりと握りしめていた、って」

「本物のネックレスは……?」

私が尋ねると、彼女はゆるりと首を振った。

「先生に貸していた。頼まれたんだよ。写真だけでも良いって言われたけれど、先生になら渡しても大丈夫だと思ったから」

浜木綿の死は自殺か事故か。カオルは最初から分かっていた、と店長が踏んだのはこういうことだったのか。身に着けているネックレスが写真のものと異なり、当人はそれを隠している。どうやら単純に失くしたわけではなさそうだ。もし誰かに貸したのだとすれば、彼女の信用に値し、それでいてその信用を裏切らざるを得なかった人物――

浜木綿彰子が愛弟子の宝物を預かったまま、海に身投げするはずもない。

「あなたの言う通り」

カオルの視線が店長へと向かう。

「先生が身を投げるつもりで海に向かったわけではないと、僕は最初から分かっていた。それでも可能性はあると思っている。そんなつもりで海辺に立っていなくとも、ふと魔が差すこともあるかもしれないから」

「でも、それじゃあ私たちも推理のしようがないじゃない?」

思わず口を挟む。彼女はまるで探偵に依頼をする客のように、浜木綿の死の真相について考えてくれと言ったのだ。いくらヒントを組み立てて答えに近づいたとしても、直前の心情の変化まで持ち出されては、永遠に解けるはずがない。

そもそも、最も重要な情報をカオル自身が隠していたのだから、絶対に解けないのだ。

「それについては本当に申し訳ないことをしたと思っている」

カオルは頭を下げた。

「正直に言えば、僕は皆さんを試すようなことをした。というのも、本当に助言を貰いたかったことは別にあるんだ」

そう言いながら傍らの鞄を探る。なめし革の小さなショルダーバッグだった。そこから出てきたのは、両の手のひらに収まるくらいの箱で。

「浜木綿先生の個人的なことに関わるから、誰彼なしに見せるわけにはいかなかった。でも、あなた方なら大丈夫だ。振り回すようなことをして申し訳ないが、あと少しだけ話を聞いてはくれないだろうか」

「もちろん、俺は式見さんのお力になれることなら何でも」

真っ先にサツキが応える。私も同感だ。親友の大切な人が亡くなった事件について、相談や依頼を拒む理由はない。たとえ回りくどいやり方になってしまったとしても、話してくれるだけで私は嬉しいのだ。そういった思いを込めて頷くと、カオルは心の底から安堵の表情を浮かべた。

「これを見て欲しかったんだ」

箱がテーブルの上に置かれる。木製の、工芸品のように光沢のある小箱だった。全体の色は白く、蓋には短冊状の黒い模様がある。

「何ですか、これは」

視線を巡らせながらサツキが言った。黒い短冊は全部で六本ある。同じ長さの五本がずらりと並び、上部に長い一本が横たわっていた。大まかな形は漢字の「冊」に似ているかもしれない。この字の縦棒を五本、横棒を一本にして全ての間隔を空ければ、ちょうどこれのようになる。カオルは箱をくるりと回して私たちに見せた。

「浜木綿先生が大切になさっていた箱だ。家に代々伝わるものだと聞いたが、自分は子供もいないのでいつか美術館にでも寄贈しようかとおっしゃっていた」

「とても貴重なものなのね」

「ああ。だが道具は使ってやらないと寂しがる、というのが先生の持論で、大切なものを仕舞ったり、何かを出し入れしたりする様子はよく見かけた。先生のお宅には、何度もお邪魔していたものだから」

家で見た、ということは、普段から持ち歩いているわけではないのだ。私は改めて木箱の全体を観察した。黒い模様も、他の白い部分も、小さなパーツを組み合わせて作ってあることが分かる。いわゆる寄せ木細工。もっと素朴なものなら、どこかの土産物として売られていそうだ。

「これ、どうやって開けるの?」

カオルに問い掛けると、彼女は小さく首を振った。そうだろうな、と納得する。

「開けることができないから、こうして持ってきたんだ」

「つまり開け方を見つけてほしい、ってことね」

「お願いだ。きっとその中には、僕のネックレスが入っている」

全員の視線が彼女に集まる。今の言葉は予想外だった。他のふたりもそう思って視線を寄せたのだろうか。浜木綿は何らかの事情があって彼女からネックレスを借りた。その状態で唐突に海へ向かったのだ。ならばそこへ持参したものだと、てっきり。自宅に置いてある箱の中には無いだろう、と。

「まさか……」

手を伸ばして触れそうになり、慌てて引っ込める。木箱の表面が濡れているような気がした。もうあれから二ヶ月も経っており、そんなはずがないと分かっていても。

「水浸しのバッグの中から出てきたんだ」

力なく笑ってカオルが言う。遺留品としてこの箱を受け取った彼女は、何を思ったことだろう。遺体より先にバッグが発見されたのは、浜木綿自身が全力で浜へ放ったからかもしれない。溺れゆく中でもその判断ができるほど大切なものだった。

箱も、その中身も。きっと。

触って構わないと彼女が言うので、手に取ってじっくりと眺めてみた。全体が澄んだ白色に塗られた美しい箱だ。いったいどうやって開けるのだろうか、などと考えているとき、あることに気付く。

「からくり箱だ」

私とカオルの声が重なった。言わんとすることは同じだろう。彼女の方へ発言を譲る。カオルは私の手から箱を引き取り、説明を始めた。

「気付いたかもしれないが、蓋部分の寄せ木細工が動くようになっている」

複数の木片を組んで作られた蓋。留め具の役割だと思われるパーツをずらしてから、黒い模様の部分に指を掛けた。そのまま力を籠めると、すい、とスライドする。

「この部分が動く。ここだけだ」

横並びになっている五本の短冊。それらが上へスライドし、上部に横たわる短冊へと到達する。上にずれた分だけ下から黒い部分が現れる仕組みになっており、短冊は移動するというより伸びるといった状態だった。五本それぞれが独立して動く。横になっている方の短冊は動かない。

「五本のうちどれを伸ばすか、が鍵になっているんですかね」

身を乗り出して覗き込み、サツキが言った。動く部分は短冊の伸び縮みだけなのだから、そう考えるのが自然だろう。話しながら彼は明るい顔になり、興奮気味に続ける。

「だとしたら総当たりでも三十二通りですよ、いけるじゃないですか!」

私も頭の中で計算する。確かに、せいぜいそのくらいのパターンになった。短冊は伸ばすか伸ばさないかの二通りしかないのだから、鍵としては単純だ。これなら答えを知らずとも箱を開けることができる。

しかし、そんなことはカオルもとうに気付いているだろう。

「確かにそうなのだが……」

おもむろに箱をテーブルへ戻した。

「一度は海に沈んだ箱だ。入れ物としてはどこも問題ないのだが、蓋の機構が壊れかけているかもしれない。だから無闇に試すわけにはいかないんだ。せめて……そうだな、十回以内で開かなければ、そこで止めにしたい」

「十回、か」

サツキが軽く指を曲げて数えている。十回以内で成功する可能性はあるが、しくじれば永遠にネックレスは戻ってこない。少しでも試行回数を絞る方法は無いだろうか。私はもう一度カオルに断りを入れ、箱を手に取った。

本当にネックレスが入っているのか、気になったのだ。

持ち上げた感触としては確かに何か入っている。さほど重いものではない。チェーンが擦れるような音は聞こえなかったが、丁寧に梱包された上で仕舞われているのなら不思議はない。ただ、ひとつ気になることがある。

「ちょっとだけ揺らしていい?」

カオルが頷いたのを見てから、私は箱をゆっくりと揺らした。中のものが動く音がする。更に小さな箱のようなものが、ふたつあるように感じた。ネックレスだけではないかもしれない。そのことを彼女に伝える。

「他に入っているものに心当たりはないの?」

「中を覗いたことはないからなあ。大事なものしか入れないとは思うが」

「そうなの……あ、」

ふと頭を過ることがあった。それを今、ここで言うべきなのかは分からない。全く関係のないことかもしれない。それでも一度頭に浮かんだ考えは、消えなかった。

「唐突なんだけど、カオルって浜木綿賞の副賞、ちゃんと受け取った?」

「本当に唐突だな」

「授賞式が流れちゃったじゃない? だから受け取ってないのかもしれないと思って」

浜木綿賞は他の文学賞の多くと同じく、正賞として賞金が出る。だがそれとは別に、何か形に残るものがあったはずだ。

「メダルのことかい? 担当の編集者から受け取ったよ」

カオルがそう答えた瞬間、俯きながら思案に暮れていたサツキが顔を上げた。え、という声が漏れ聞こえたように思えたが、言葉を続けないので気のせいだと思うことにする。カオルの耳には届いていないようであった。

「授賞式は流れてしまったが、編集さんとは会っているからね。滞りないよ」

「そうかな?」

私の言葉に、カオルの表情が固まる。どういった意味で返された言葉なのか、判断を決めあぐねている様子でもあった。誤解が生まれる前に急いで付け足す。

「浜木綿先生、自分で渡すつもりだったんじゃないかな、って。だから、副賞のメダルが一緒に入っているかもしれないと思って訊いたのだけど……」

「でも箱の中にはないよ。僕はもう受け取ったのだから」

「そうだよね。うーん、何が入っているんだろう」

その編集者に話を聞いてみたい、と考えた。副賞のメダルについて、最初から浜木綿は関与しないつもりだったのか、それとも彼女の死によって予定が狂い、編集者から渡すことになったのか。電話が繋がればすぐにでも判明する。しかしカオルがスマホを取り出そうともしないので、この件については流すことにした。

「もうひとりの受賞者の本を、読んだよ」

浜木綿賞の話題になったせいか、思い出したかのようにカオルは言った。

「素晴らしかった。確かに先生が自ら選びたくなるような作品だったよ」

「カオルのもそうでしょ」

今は選考に関わっていない浜木綿が、今回ばかりは自ら受賞作を決めたのだ。同時に二作品。両方が彼女の選出だ。それを疑う余地はないというのに。

「不安になるんだ。あちらの作品は、確かに先生が選んだのだろう。だけど僕は、僕の方は、その隣に立たせるために選ばれたんじゃないか、って」

「カオル!」

私は強い口調で彼女を呼んだ。今回の受賞作家のプロフィールには、共通点がある。作品のテーマにも似通った部分があった。また、穿った見方をすれば「そろそろ弟子を受賞させないと」という考えで彼女を選んだと解釈することも可能だ。間が悪いことに当人は亡くなってしまい、真相を語る者は存在しない。

だから、強く言い聞かせることしかできないのだ。

「浜木綿先生がそんなことする人だと思う?」

「……いや」

カオルは顔を上げると、僅かに口角を上げた。すかさず私は続ける。副賞の話を持ち出したせいで余計なことを考えさせてしまったのだ。軌道修正しなければならない。

「ほら、カヌレ食べよう。ジャムを塗るともっと美味しいんだよ」

振り返って店長に声を掛ける。彼は苺ジャムの瓶を出してくれた。だが、私が蓋を捻っても、店長に捻ってもらっても、全く開けることができない。冷蔵庫の中で冷やされているうちに、すっかり固まってしまったようだ。

「貸して」

サツキに手渡してみたが、やはり駄目。これは道具か別の方法を使わなければ、と考えたとき。横からスッと手を出してきたカオルによって、瓶はたやすく開けられた。

「おお」

サツキが嬉しそうな声をあげる。瓶を開けた当人は至ってクールだが。

「確かに美味しいね」

開けた手柄とばかりに、真っ先に塗って食べる。あえて積極的な姿を見せてくれているのだろうな、と思った。それでも、上辺だけでも、彼女の元気が戻ってきてくれて嬉しい。それぞれにカヌレを摘まみ、何か思いつくのを待つことにする。

そして、ただ美味しいという感情だけで空気が満たされてきた頃。

「……あ、そうだ」

店長がポンと手を打った。

「内側から開けてみる、というのはどうかな」

そう言ってジャムの瓶を小箱の隣に置く。こうして見ると、高さは同じくらいだ。

「どういうこと?」

「この箱、蓋に摘まむ部分が無いんだよ。そもそもの構造が妙だ」

改めて観察してみる。確かに蓋には凹凸が無く、本体に埋まる形でその機能を果たしているので、指を引っ掛けることすらできない。いわゆる落し蓋が、持ち手もない上にぴったりと嵌まっているような状態だ。

「寄せ木細工の蓋が鍵だったとして、開錠に成功したとしても蓋は開けられない。ノブのついていない内開きのドアみたいなものだ。ひっくり返せば重力で開くかもしれないけれど、綺麗に嵌まっているからそのくらいでは外れそうにないし……」

「やってみましょうか」

カオルが箱を両手で持ち、ゆっくりと一回転させる。カタン、と中身の動く音がしたが、蓋が開く気配はなかった。そっと元に戻してから彼女は言う。

「確かにびくともしませんね。よほど重いものを入れない限りは開かないでしょう」

開かない箱といっても、箱自体が小さいのだから防犯上の意味合いはない。あくまで意匠としての寄せ木細工とそれを利用したギミック、ということか。重いものを入れると簡単に開いてしまう、くらいの粗はあっても良い。だが、蓋の開かない理由が鍵ではなく強力な摩擦力であるならば、表面に施された細工は何を目的としたものなのか。

そのことを尋ねてみると、店長は答えてくれた。

「何かをロックしているわけではなくて。おそらく、正解の形に寄せ木細工を動かしたとき、どこかに窪み、あるいは摘まみが現れる仕掛けなんじゃないかな」

だから内側から開ける、という提案になったのか。あの鍵が単なる持ち手の出現装置であるならば、力を与える向きを変えるだけでも突破できる。まるで、固く封されたジャムの瓶を、中の空気を温めることで開けるみたいに。

「吸盤や磁石のつくような素材ではないですし、そうするしかないかも」

話しながらサツキが箱を観察している。真剣な表情だった。しかし内側から開けるといっても、ジャムの瓶のように温めて良いものだろうか。ガラスの瓶と木製の箱では勝手が違う。箱が傷んでしまうことも心配だ。

いや、それ以前に。

「温めるのは無理みたいです、これ」

私が気付いたのと、サツキが振り返るのは同時だった。

「箱の側面に通気口のような穴があります。これじゃあ中の空気を温めても漏れてしまいます」

彼の言う通り、側面には細い溝が彫り込まれていた。最初は装飾かと思ったが、どうやら中まで貫通しているらしい。穴があるのは片側だけであり、かなり細いスリットなので、覗き込んでも何も見えない。それでも空気は出入りできるはずだ。

「テープで塞ぐのは塗装のことを考えると不安ですし。空気が膨張するほど温めること自体も、まずいかもしれませんね……」

残念そうに彼は呟く。だが、中にまで貫通する穴があると分かったのは収穫だ。私は思いつく限りの方法を述べてみた。

「この穴から鉤状のものを差し込んで、蓋を押し上げられないかな」

「ピンセットも通らない幅だよ。難しいと思う」

「重りをどんどん入れていって、逆さまにすれば……」

「ここから入るほど薄くて重いものってあるかなぁ」

蓋はしっかりと嵌まり、密閉されている。この細い穴は湿気対策なのかもしれない。ひとつだけなので紐を通すこともできず、中も見えないのだ。私は他にもいくつかの案を出したが、全てサツキに否定された。

「空気が駄目なら、水は……?」

今度はサツキの方からアイデアが告げられる。

「空気は穴から漏れてしまうけれど、水なら零れないよ。穴の部分を上にすれば良い」

「その水を温めてどうするのよ?」

「逆だよ。冷やすんだ」

彼の視線が厨房の方へと向いた。私も同じ所を見て、そこに何があるかを想像する。冷やすということは冷蔵庫か。いや、もっと強力な業務用の冷凍庫があったはずだ。

「まさか、凍らせるの?」

「水が氷になる際、体積は一割増になる。圧力は細い穴よりも蓋に向かうだろうし、そうすれば開くんじゃないかって。ここの冷凍庫を使えば、一時間半ほどで凍らせることができると思う」

「……それは間に合わない」

すかさず投げられた声に、私は時計を見る。四時を少し回ったばかりだった。声の主であるカオルもスマホで時間を確認していたが、慌てたように言葉を続けた。

「いや、時間の問題だけじゃないな。凍らせるのはちょっと……」

「そうよサツキ。中に入っているものはどうなるの。箱も傷むでしょ」

ふたりから拒否され、彼は素直に引き下がった。思いつきとしては悪くないが、今回はさすがに論外の案だ。それに、たった一時間半で凍るというのも正確ではない。実際はもう少し掛かるのではないだろうか。

「水を入れるところまでなら、構わないのだけど」

気を遣ったのか、カオルが丁寧に付け足す。

「一度は海に浸かった箱だ。中身は分からないが、水に沈めることで壊れてしまうなら、とっくにそうなっているはずだから」

そうはいっても、水に沈めて蓋が自然に浮くわけではないのだ。本体が水に沈み、蓋だけが浮くような素材で作られているのでもない限り。ならば最初の考えを応用して空気圧で開けるしかないのか、とも考えたが、きっとそれも根本的に無理だ。ガラスの瓶と寄せ木細工の箱ではわけが違う。スリット以外にも空気の通り道は無数にあるだろう。仮に箱ごと水槽に押し沈めたら、全体からぶくぶくと気泡が上がってくるに違いない。

この細い穴に入る大きさで、漏れることなく中で巨大化するものがあれば良いのだが。

――と、そこまで考えたとき。

「風船……?」

私の口から、零れるように呟かれた言葉があった。


   *


赤い小さなゴム風船がひとつ。めいっぱい膨らませても、手のひらに乗るくらいのサイズらしい。

「何でもあるのね、ここは」

店長が二階の園芸店から探してきたものだ。花束の装飾として用意してあったと思われるが、私は初めて見た。手動の空気ポンプも一緒に見つけてある。少し古いが、劣化が見られるほどではないので大丈夫だろう。

「まさか風船が鍵になるとは」

感心したようにカオルが言った。確かに、これを思いつくには発想の転換が必要だった。細い穴を通る薄さと、十分な体積を両立させる物体は滅多にないが、それならば中に入れた大きくすれば良い。風船に外から空気を送り込むのだ。

「完全に膨らませてしまっても良いですか」

サツキが確認する。小さな箱の中で風船を膨らまし続ければ、いつか蓋が浮くはずだ。ただ、中身が壊れやすいものであった場合の保証はできない。彼はそのことについて尋ねたのだった。

「蓋の構造に関しては推測でしかありません。強引に膨らませることによって、中身だけでなく蓋まで壊れてしまうかも……」

「僕は覚悟を決めたよ」

幾分か明るい声色で返事があった。

「もちろん、何か異常があれば止めて欲しいが、可能な限り膨らませてくれ。きっと上手くいくよ。そんな気がする」

「分かりました。では……」

ポンプを握る。風船へと空気が送り込まれる。中の様子は全く見えないが、静かにその容量を増やしているところだろう。尖ったものが入っていれば割れてしまう。脆いものがあれば壊してしまう。ふと、本当に良かったのだろうかと心配になった。提案した立場で言えることではないが、よくぞカオルは許可してくれたものだ。

完全に膨らませることが許されなければ、ほどほどの大きさで止め、箱の中を水で満たしてから水槽に沈めるという手も考えていた。風船が水に浮こうとする力を利用して、蓋を押し上げられないかと考えたのだ。しかし空気にも弾性があるため、実際に成功するかどうかは分からない。

風船は割れることなく、何かが壊れるような音がすることもなく、やがてひっそりと蓋が動き始めた。徐々にせり上がり、爪を引っ掛けられるほどの段差ができる。

「動いた!」

ポンプを押す手を止め、サツキが叫んだ。蓋は確かに浮いている。ポンプには弁があるため勝手にしぼむことはなく、そのまま手を離すことができた。店長の推理した通り、何かでロックされているわけではなかったのだ。寄せ木細工のからくりは解けていないが、ひとまず開けばそれで良い。

「式見さんが開けてください」

「ああ……」

サツキと場所を交代し、カオルが箱の前に立つ。綺麗に切り揃えた爪が差し込まれた。慎重に蓋を開けた先にあったのは、更に小さな箱がふたつ。彼女は片方を手に取った。その動きに全くためらいがないということは、見覚えがあるものだったのか。

「僕がネックレスを渡す際に使ったケースだ」

開けると共に金色のチェーンがこぼれ出た。追いかけるように巻貝のペンダントトップが現れる。彼女が首から下げているものと似ているが決定的に異なる、左巻きの貝殻。私は店長の話していたことを思い出した。

――貝の模様というものは、地域差があったりしますから。

腑に落ちた。浜木綿がカオルの宝物を借りたのは、こういうわけだったのか。写真でも良いと言っていたそうだが、できれば本物が良い。本物を持って、海辺に落ちている貝殻と見比べた方が確実だから。

確実に、彼女の生まれ故郷の海を特定できるから。

「浜木綿先生は……」

ネックレスを手に載せたまま、微動だにしない彼女へと語りかける。横髪が顔を覆っていて表情が分からない。泣いているのかもしれないな、と思った。

「大切な人に、ふるさとをプレゼントしたかったのかもね」

たとえそこに家族がいなくとも。戻るつもりが無かったとしても。自分はどんな海のそばで生まれたのか、そのくらいは知りたい――なんて話していた愛弟子のために。ふと思い出すことのできる拠り所を贈りたかった。

「先生の握っていたそっくりな貝殻、それが答えじゃない?」

私が言葉を続けると、彼女は声も出さずにこくりと頷いた。

数ヶ月ぶりに、彼女の胸元に本来の巻貝が戻る。赤ん坊を置き去りにした人物は、その子供が左利きであることなど知る由もない。左巻きの貝殻が残されていたのは偶然の一致だろうが、式見カオルという人を表す美しい形だと思った。

「もうひとつの箱は何だろう」

カオルが手を伸ばす。先ほどの箱よりは少し大きい。見栄えの良いデザインで、単なる私物という印象を受けない。誰かから貰った、あるいは誰かへの贈り物か。こちらも簡単に開けることができた。

「時計?」

取り出しながら呟く。箱の中には懐中時計があった。鎖は丁寧に巻かれ、底に固定されているので中身が荒れた気配はない。売り物のような状態で、敷き布の中央に時計が収まっていた。

否、実際に新品なのだ。

よく見ると箱の表面に金箔で何か記されている。それはブランドのロゴではなく「第三十回浜木綿賞副賞」という文字列であった。浜木綿賞の副賞を、浜木綿自身が持ち歩いていたということだ。

「時計、なのか」

カオルが再度、言った。その気持ちは分かる。

「浜木綿賞の副賞はメダルだったはずでは」

「今までは、ということでしょう」

サツキが口を挟む。懐中時計に蓋はついておらず、その文字盤をすぐ目にすることができた。カオルの手に馴染む大きさで、針は動いていないように見える。海に落ちてしまったのだから無理もないだろう。

彼が気に留めたのは、文字盤に描かれた絵であった。

「シキミの花です」

滅多に見かけない花なので、サツキが説明しなければ分からなかった。細長い葉の中に、黄色の小さな花が咲いている。言うまでもなく受賞者の名前にちなんだ絵柄だろう。つまりカオルのためにデザインされた文字盤だ。

「受賞者ごとにデザインを変えているんですね。そうか、事故の前に浜木綿先生が時計屋に立ち寄ったのは……」

今回の選考には浜木綿自身が関わっている。そして副賞についても意見したのだろう。今までは無かった懐中時計が追加され、文字盤は贔屓の時計屋に仕立てさせた。あの日はそれを引き取りに行き、大切に箱の中へ仕舞い、そのまま海へ――

「好きじゃなかったわけがない」

静まり返った空間に、サツキの声が転がり落ちた。

「浜木綿先生が、義理や建前であなたを受賞させたのなら、こんなことまでするわけがないじゃないですか。慰めじゃないです。推測でもない。先生が式見さんに自分の賞を与えたのは、あなたの作品が好きだからです」

急に選考に復帰したことも。副賞を増やしたことも。巻貝のネックレスを借りて、似た模様の貝殻を確かめに行こうと考えたことも。

突き詰めて言えば、その貝を拾おうとして彼女が命を落としたことも。

何もかも、式見カオルという存在と、その作品が好きだったから。

「それだけなんですよ」

「先生……」

カオルは時計を首から下げた。今の服装では上着に留められないため、身に着けるにはそうするしかない。深い海のような色のシャツに、黄色の花が映えている。胸元でチェーンの擦れる音がした。

「せっかくだから写真を撮りましょう」

珍しいことをサツキが言った。彼はいつもスマホを手にしているくせに、写真を撮ることなど滅多にない。時計を下げたカオルのことを撮るのかと思ったが、彼はスマホをテーブルの上に立ててから、彼女の隣に立った。

「しれっとツーショットにするんじゃないわよ」

思わず笑ってしまう。サインのみならず写真撮影まで要求するのか、という図々しさが愉快だった。しかし彼とて理由があってのことだろう。彼女が嫌がるのならば強要しない。ただ、この図々しさで少しでも笑ってくれるのならば、嬉しい。

「いいよ。一緒に写ろう」

店長と私も呼び寄せ、開いた箱の前で写真を撮った。カオルは綺麗な笑顔で写っている。撮れた画像を皆で確認しているとき、店長が声をあげた。

「あっ」

今日の彼は様々なことを思い出してばかりだ。少しばかり緊張が走ったが、それも一瞬のことだった。カウンタにあるコーヒードリッパーに視線を向けて、

「もう完成しているね。忘れるところだった」

と言う。確かに、水出しコーヒーの抽出は終わっているようだ。

カオルの手首が目の前にあったので、時計を覗かせてもらう。針は五時を示していた。彼女がカフェに入ったのが三時で、二時間かかると言われていたので予告通りだ。せっかくなのでご相伴にあずかることにして、店長がグラスを出してくれるのを待った。サツキは緊張した様子でカオルに話しかけている。

「式見さん、さっきの写真を送らせてください」

そういってスマホを見せる。私はからかうように肘でつついた。

「どさくさに紛れて連絡先をゲットしようとしてない?」

「違うよ!」

サツキも小さく笑いながら応える。

「そういうのじゃなくて……近くにいるのなら、連絡先なんて知らなくても写真くらいは送れるからね」

「あ、そういう機能もあったっけ」

「そう、これなら式見さんが受け入れを許可してくれるだけで大丈夫だから」

カオルの手元にもスマホがあるはずだ。時刻を確認する様子を何度か見ている。しかし、彼女はそれを取り出すことなく、静かに首を振った。

「申し訳ないけれど、僕は遠慮しておくよ」

「あれ? そうですか」

「自分の写真をじっくり見るのが、ちょっとね。その写真は君が大切にしてくれ」

撮影には応じたが写真は要らない、ということか。そういうこともあるだろう。サツキは素直にスマホを引っ込め、ちょうど店長がコーヒーを持ってきてくれた。

「そういえば式見さん」

グラスを置きながら彼は言う。

「時計の修理はよろしいのですか? 確か、近くに時計屋があるはずですが」

「時計?」

彼女は自分の右手首に目を向けたが、その時計は正常に動いている。店長が言っているのは懐中時計のことだろう。海に落ちてしまったせいで壊れているのだ。そして、この近くには時計屋があるはず。浜木綿が最後に立ち寄った贔屓の時計屋が。

「ああ」

自分の胸元に視線を移し、納得したように呟く。

「確かに修理屋に見せる必要はありますね。でも、針は動かないままでいい」

そっと銀色の時計に手を添えて。

「先生が生きた最後の時刻だ」

そう、愛おしそうに呟いた。


   *


コーヒーはとても澄んだ味がした。長い時間をかけて作っただけのことがある。頭を悩ます問題も解決したので、私たちは他愛もない話をして楽しんだ。店長はカウンタの中へ戻り、遠くから見守っている。ふと、サツキがカオルに問い掛けた。

「式見さんは、この後なにかご用事でも?」

テーブルにあった箱は片付けられ、今は彼女の鞄の中だ。あまり遠出をするような荷物に見えないが、普段過ごしている土地からは離れている。カオルは少し詰まりながら言葉を返した。

「あ、いや……特に用があるわけではないのだが。そろそろお暇しなければならないとは思っている」

「もっと居てくださっても全く構いませんよ」

「もう、それは店長が決めることでしょ」

閉店にはまだ時間があるが、既に二時間経っていることは事実だ。次の場所に移りたい頃だろう。彼女はゆっくりと瞬きした後、言い出しにくそうに告げた。

「そうだな、あと十五分ほどだけ」

確かに私も別れるのは惜しいが、そんなに気を遣うこともないのに、と思う。片田舎の大学生やアルバイトとは違って、彼女は多忙な小説家なのだ。こうしてカフェで過ごす間にも、仕事の連絡が届いているかもしれない。

そんなことを考えながら、サツキもカオルのスマホに視線を向けていたのだろうか。黒いシンプルなカバーを着けた端末が、指先で掴まれている。彼がじっと見ていることに彼女は気付いていない。注意した方が良いだろうか、と思ったとき。

「式見さん、ひとつお願いがあります」

サツキが言った。

いくつもお願いしてばかりじゃないの、という軽口は叩けない。がばりと上がった彼の顔が、とても辛そうだったからだ。どうしたの、と案ずる前に次の言葉が紡がれる。

「ここを出たらまっすぐ家に帰ってください。隣県へ向かうバスになんて乗らず、新幹線でも何でも、ここへ来たときと同じように」

グラスに残ったひと口を飲み干し、カオルが言う。

「家には帰るつもりさ。泊まりの用意もないからね」

「本当ですか」

「そうだよ。これで満足かい?」

「じゃあ、バスか電車に乗るところまでお見送りしても良いですよね?」

息をのむ音が聞こえるようだった。カオルが目を見開いてサツキを注視している。まさかそんなことを言われるとは、という心の声が届きそうだ。一方のサツキは表情を全く変えず、辛そうな顔のまま続ける。

「問題ないはずですよね。帰るだけなんですから。新幹線の駅までとは言いません。そこへ向かうためのバスか、電車に乗るところまでで良いんです。それを見届けるまで、俺は式見さんと別れることができない」

「どうしてそんなことを」

「でないとあなたは、浜木綿先生と同じように海へ行ってしまうからです」

彼の指が店長の方を示す――いや、正確にはカウンタ内に貼られた時刻表だ。ここから二時間以上かけて隣県まで走る市バス。意外と観光客に需要があり、出発時刻を尋ねられることがあるので用意していた。そう、バス停はカフェのすぐそこだ。

「僕が先生と同じように今から海に行く、と」

「はい」

「それを止めるということは……」

「後を追うつもりなんだと考えています」

サツキは席を立った。テーブルに手を着き、半身を固定させてカオルを見据える。彼は憧れの人を前にしているはずだった。みっともなく舞い上がる姿も見せていた。それなのに今は、犯人を問い詰める探偵の顔をしている。

「例のバスがここを通るのは五時半」

カオルも立ち上がりながら話す。だが、ここを去ろうとする素振りではなく、しっかりとサツキへ視線を返し、凛とした声で言った。

「あと十五分だ。僕が君の想像する通りの行動をとるのなら、あと十五分以内にここを出なければならない。その時が来れば必然的に真相が知れるということだ。だから先に、君の考えを聞かせてくれないか」

「分かりました」

全て解決したはずだった。開かなかった箱は開き、浜木綿の真意はカオルに伝わり、失くしたものはあれども前向きな日常に戻るはずだった。けれどもそんなことは全て幻想で、最初から彼女は何も救われておらず、そして――

あと十五分という状態になって、ようやく細い命綱の端を掴んだ。

何時間もかけて作ったコーヒーも、飲み干すのは数分だ。様々なことを考えて言葉を交わしたって、本当のことが分かるのは最後の最後なのかもしれない。

「まず俺がおかしいと思ったのは、腕時計を嵌めているにもかかわらず、時刻をスマホで確認していることでした」

サツキが自身の右手首を指す。そこには何も存在しないが、カオルの右手首には腕時計が嵌められていた。安物のようには見えない、それなりに立派な時計だ。受賞作家としての彼女の立場を考えると妥当だろう。

「もちろん、式見さんにスマホで時刻を見る習慣があってもおかしくありません。でも、それならば腕時計は必要ない。壊れているのかとも考えましたが、時刻は正確に示しています。正しい時刻を指す時計を嵌めているのに見ない。これは、よほど普段から腕時計を着ける習慣がないのだと見受けました」

「腕時計を着ける習慣がないのに、今は着けている……」

呟きながら、私は考えを巡らせる。浜木綿と同じように海で死ぬつもりだろう、とサツキは言った。ならば直前の行動も同じようにするのではないだろうか。浜木綿はここからふたつ向こうのバス停からバスに乗り、海へと発った。その前は時計屋に寄っている。

「そっか、時計屋に行くための口実ね」

その言葉にサツキは頷く。

「浜木綿先生の贔屓の時計屋だ。さぞや格式あるところだと思う。そんなところへ手ぶらで行くわけにもいかず、手頃な腕時計を探して嵌めていったんだろうね」

「新しい時計を探す客として行くこともできるけれど、これから死ぬつもりなのに立派な時計を迎えるわけにはいかない……」

「式見さんには家族がいないから、なおさらだよね。人から借りていくのはもっと駄目だし。手持ちの中から妥当なものを探して、修理などの口実で行くしかなかった。でも、都合よく時計の調子が悪くなるはずもない。せいぜいベルトを替えるくらいしか頼みようがなかったんじゃないかな。手首に合うように調整してもらって、そうして嵌めたまま店を後にしたのだろう――というのは、後から考えたことなんだけど」

まずは、少し違和感を覚えた程度だったらしい。

しかし気になり始めると止まらない。目の前の彼女が浜木綿の死を深く悼み、不安定な様子を見せていたのだから余計に。そもそも何のためにここまで来たのだろう。友人に会うだけならば、生活拠点からの距離があり過ぎる。ただ、二時間もかかる水出しコーヒーを待てると言うのだから、時間に余裕はあるようだ。

そのとき、浜木綿の乗ったバスのことを思い出した。

ここからふたつ向こうのバス停。目的地へ向かうバスは一日二便しかなく、あの日の彼女は五時十五分に乗り込んだ。カフェの辺りを通るのは五時半。もし、そのバスに乗るつもりがあるのなら、時間通りに行動するはず。

「だから俺は、箱に満たした水が凍るまでの時間を、一時間半と言いました」

絞り出すような声で、彼は言った。あれが仕掛けた瞬間だったのだ。いくら業務用の強力な冷凍庫とはいえ、たった一時間半で凍るはずがない。しかし正直に話すわけにはいかなかった。あのときの時刻は四時を少し回ったあたり。

一時間半後なら、五時半を過ぎている。

コーヒーが完成するのは五時。それは待てると言った。だが五時半を過ぎてはいけない。五時なら待てるが、五時半は待てない。その言質が欲しかった。更に時刻が遅くなれば別の理由が顔を出してくる。あくまでバスに乗ることを想定して「それは間に合わない」という言葉を引き出したかったのだ。

結果、サツキは賭けに勝った。

カオルはすぐに「それ以前の問題」として箱を凍らせることを拒否したが、一度は「間に合わない」と言った。それで十分だ。むしろ、咄嗟に出た素の言葉だからこそ。

「普段は使っていないであろう腕時計、そして五時半には出なければならない理由。これらが揃い、俺は気付いてしまいました。式見さんは、浜木綿先生が亡くなった日の行動をなぞっている、と」

両手を広げて彼は話す。身振りが大きくなるのは、必死になっている証拠だ。

「誤算は、時計屋で思ったほどの時間を過ごせなかったことですね。浜木綿先生は職人と知り合いでしょうから話も弾んだと思いますが、式見さんは想定以上に短い時間で店を出なければならなかった。そのせいで、汗だくになってカフェまで歩くことに……」

「サツキ」

思わず声を掛ける。その先の言葉が、私にとって非常に辛いものである予感がした。

だから、自分で言ってしまう。

「つまりカオルは、私に会いに来たのじゃなくて……」

否定も肯定も返ってこない。それで良い、と思った。ここで何を言われても手放しに信じられるような心情ではない。そもそも、彼らが話していることに私の悲しみは関係がないのだから。

誰よりも悲しいのはカオル自身で。

ここでカオルを引き留めることができるか、それだけだ。

「君の言いたいことは分かった」

話を聞き終えた彼女は、静かに告げる。

「僕のことをそんなに観察していたのなら、浜木綿先生と同じ道を辿ろうとしているように見えても仕方がない」

だが、と間髪入れずに。

「それがどうして後追いに繋がるんだい? 僕は先生の死を悼みたかっただけさ。あの日の行動と同じことをして、同じ場所に行って」

「その後はどうするんですか? 交通の便が悪い場所なのに」

「さっきは咄嗟に嘘をついたが、宿をとって翌日に帰るつもりだったんだよ」

「そんな小さな荷物で……」

「必要なものは現地で揃えるタイプでね」

追及を全て躱していく。さすが小説家、というのは場違いな感想だろうか。彼女は自分で自分自身を作り上げているのだ。式見カオルという人物を、自らの書く小説の登場人物のように。もちろん全て本当なのかもしれない。間違っているのはサツキの方で、彼女は真実を語っているだけなのかも。彼の話にはあまりに推測が多く、彼女の話には筋が通っている。でも、それでも。

失ってからでは、遅いのだ。

「それじゃあ……」

サツキがポケットから何かを取り出した。唐突だったので身構えたが、よく見れば単なる彼自身のスマホだ。

「式見さん、写真を送らせてください」

「さっき言っただろう? 僕は写真なんて――」

「全ての本に著者近影を載せている人が、自分の写真を見れないはずがない!」

叫ぶ。泣き出しそうな顔をしていた。スマホを武器のように振りかざしながら、カオルに向かって声を投げ続ける。

「あれは苦しい言い訳でしたね! メールで送ると言われたのなら、個人情報を理由に断ることができた。けれど連絡先も必要としない方法では、写真自体を拒絶するしか逃げ道はない。そうでしょう? 電波さえ通じていれば誰でも受け取れるのだから!」

確かにその通りだ。あの時のカオルには、写真の受け取りを拒否する理由がなかった。快く一緒に写ったのだから、ファンを喜ばせるためにも貰っておけば良い。彼女は写真など平気なはずだし、どうしても無理なら後で削除すれば良いだけだ。

彼女は写真を受け取りたくなかったわけではない。

受け取れなかったのだ。

「カオル!」

私は親友に駆け寄る。その手を握り、そっと持ち上げた。長い指に彼女自身のスマホが握られている。

「これ、見せて」

決定的だ。このスマホの画面さえ見ることができれば。

「圏外なのね? だから写真を受け取れなかったんでしょ? もう誰とも連絡を取るつもりがないから、解約しているから、電波なんて届かない……」

保存した地図と時計。そのくらいしか、機能していない。全国的に有名な賞を受賞し、新刊も出したばかりである作家が連絡手段を断つということは、理由がほぼひとつに絞られてしまうではないか。

「……ああ」

カオルは小さな声を漏らし、私の肩を支えて引き離した。手にしたスマホをテーブルの上に置く。手帳型のカバーをそっと開く。

「そうだよ、僕のスマホは圏外だ」

それだけを簡潔に告げ、再び手に取って鞄に仕舞った。流れるような動きで肩に掛ける。足早にテーブルから離れると、レジの前に立って店長を呼んだ。

「色々とありがとうございました。お勘定をお願いします」

「式見さん!」

サツキの声に、彼女は笑顔で振り返る。この瞬間に店へ入った者がいれば、今までの経緯など想像もつかないほどの晴れやかな表情だった。

「すまない。もう時間なんだ」

「でも! 圏外の理由は……」

「実は二台持ちでね。自宅用のものを間違って持ってきてしまった」

これまで完璧に躱してきた彼女が、ここでボロを出すわけがない。そんなことくらい、分かっていたはずなのに。確信はしている。もう、サツキの方が間違っているなどとは思わない。性格、経歴、生い立ち。当人の語る限りは知り尽くしているつもりだ。荷物はつい増えてしまうタイプだし、遠出の際に大事な連絡手段を忘れるような人ではない。

あとたったの数分で、私にできることは無いのか。

サツキはカオルのことが好きだ。その心は、彼女が浜木綿に対して抱いているものと近いかもしれない。圧倒的な憧れ。人生に差す光。それでも彼の言葉は命綱になれなかった。もしこのまま引き留め続けてバスに乗り遅れさせたとしても、この世を去る方法はいくらでもある。

私は辺りを見渡した。

ガラス張りの店内。奥には螺旋階段があり、二階の温室へと繋がっている。園芸店の下にあるカフェということで、こちらにも多数の観葉植物が置かれていた。階段にも零れ落ちるように点々と。さすがにシキミの鉢は無かった、が。

赤い花が目に留まった。

まっすぐに立ち上がる茎に、長い葉。存在感のある大きな花。花弁の先は尖っていて、星の形にも似ている。私は階段に駆け寄った。下から数段目の位置にある鉢植えを、力を込めて持ち上げる。

「ちょっと待って」

カオルの元へ向かった。彼女が後ずさるより先に、鉢植えを押し付ける。花が大きければ鉢も大きい。両手が塞がることは承知の上だ。当然ながら、困った顔をされた。

「あげる」

「……邪魔だよ」

カオルの困惑をさらりと受け流し、私は続けた。

「それ、アマリリスの花。私と似た名前。私だと思って大事にして」

「急にどうしたんだい」

「枯らしたら許さないから。海に飛び込めるものならやってみれば良いわ。それを持ったままバスに乗って、二時間以上揺られて、崖っぷちに赤い花を置くの。さぞかし目立つでしょうね。作家の式見カオルだってバレちゃうかも」

「だから僕は死ぬつもりなんて」

「いいから! 私が勝手にそう思ってて、それが本当になったら嫌だからこんなことをしたの! よく考えたら推理も理由も必要ないわ。私はあなたのことが好きで、あなたがいなくなったら嫌。急に花をあげたくなったからあげる。それで良かったのよ」

声へ水音が混ざる。馬鹿みたいだと思った。こんな鮮やかな花を前にして、泣いてしまうなんて似合わない。目の前にいるのは浜木綿賞の受賞作家。あの文壇の巨匠に認められた人。大きな鉢を抱えて、お気楽な花が咲いて、夏休み前の小学生みたいだけど。

「ふふっ」

泣きながら笑う。カオルの表情が、一層の困惑を重ねた。

「どうしたんだい、今度は」

「ううん……なんだか夏休み前の小学生みたいだな、って」

「君が持たせたんじゃないか!」

ふたりで笑った。ひどく久しぶりに、笑い合ったような気がした。


   *


テーブルに一冊の本がある。

カオルが置いて行ったものだ。彼女や浜木綿の著作ではなく、美しい装丁の植物図鑑だった。小さな鞄の底からこれが出てきたので、案外と入るものだなと思った。私は本を手に取り、カフェの棚に置く。

「りりすちゃんに、って貰ったのに」

サツキの声が背中に当たる。確かにこれは、カオルから私に贈られたものだ。花と交換のつもりなのだろう。その花も、本当は店のものであるのだが。

「だって、私の居場所はここだから」

ソファに座るサツキはタブレットを操作していた。何か図面のようなものが表示され、それを熱心に眺めている。興味が湧いたので隣に並んだ。

「それ、箱の表面にあった模様みたいね」

黒い短冊のような縦棒が五本、横並び。浜木綿の家に伝わる箱では、この五本の上部に横棒が一本ある状態だった。画面の中の模様は数十種類ほどあるが、縦棒の長さや横棒の数などがそれぞれ違う。どうやら、五本の短冊をどのように繋ぐか、によってパターンが増えているようだった。

「源氏香の図というんだ」

香りを鑑賞する香道において使われるもので、五本の棒は順に聞いた香のそれぞれを表している。同じ香りだと思ったものを横棒で繋ぎ、何種類の香があったのか、どれが同一のものであったのか、を示すというわけだ。組み合わせは全部で五十二通りあり、源氏物語の巻にちなんで名付けているので源氏香と呼ばれる。

――などということを、サツキは説明してくれた。

「箱を見たときから、何かに似ているなと考えていたんだけど。この図柄を参考にしていると考えて間違いないようだね」

「ほんとそっくりね。たしかあの時は、全部で三十二通りだって言っていたけど」

縦の短冊を伸ばすか縮めるか。それだけの操作なのだから、総当たりでも蓋を開けられると考えたのだ。試すのは十回以内にしてほしいとカオルが言ったので、別の方法を探すことになったのだが。

「凍らせるのはともかく、水に沈める案は本気だったものね。あれの方が、寄せ木細工を触るよりずっと怖いと思うのだけど。カオルもよく許してくれたなあ」

「うん、そうなんだよね」

サツキは何かを考え込んでいる。箱は開いたし、実物はカオルが持って帰った。今さら考えることなんて無い、と言いたいところだが。

「何だか私も気になってきた」

ぞわりと違和感のようなものを覚える。振り返って思い出すことしかできないが、あの時のカオルの言動は不自然だった。三十二回の総当たりを拒否し、十回という具体的な数を示す。かと思えば、箱ごと水に沈めるような荒っぽい方法を許すのだ。

「まるで、最初から十回以内で開くと知っていたみたいね」

蓋が壊れてしまう可能性もあった。中から押し上げれば開くというのは推測であり、無理に力を加えることは総当たりで鍵開けを試すより危うい。

「まるで、最初から蓋の構造を知っていたみたいだ……」

どちらからともなく顔を見合わせた。互いの言いたいことは伝わっている、と思った。この状況を整理すると、ひとつの結論にしか達しないのだ。

「あの箱は、既に開けられていた……?」

途端、サツキが鋭い表情をする。タブレットで眺めていた源氏香の図の一覧に、ツールを使って書き込みを始めた。組み合わせは全部で五十二通り。片端から何かを調べている様子で、マルやバツの印を入れてゆく。眺めている内に、私にもその法則が分かった。確認も兼ねて隣で呟いてみる。

「まず、上の横棒が端から端まで通っていること」

伸び縮みするのは縦の短冊だけで、横向きのものは動かないのだから。これを香の図に当てはめると、一番目と五番目が同一であることが条件となる。

「この時点で半分以上が脱落する。次の条件は、横棒が二本以上にならないこと」

横向きの短冊は一本しかなく、増えるような仕掛けもない。香の図では同一の香を横棒で繋ぐ。つまり、ふたつが同じ香りであるならば他の三つはそれぞれ異なる香り。三つが同じであるならば、残りのふたつは単独。この条件のときだけ、横棒が一本だけになる。ここでまた大きく絞られた。

「そうなると残るのは……」

宿木、横笛、と巻名を呼びながら数えていく。これらの紋の形であれば、寄せ木細工の位置で完全に再現することが可能なのだ。源氏香の図は家紋として使われていることもあるらしい。浜木綿の家に伝わる、という話にも説得力が増した。

やがて、サツキの指が止まる。

「……八種類」

あまりにも綺麗に収まった。

既に開け方を知っていることを悟られず、総当たりという方法も回避するならば、十回以内という条件は的確だ。私たちは無闇に試すことができなくなり、模様の意味を真剣に考えることになる――はずだった。もしカヌレに塗るジャムの瓶が簡単に開いていれば、内側から開けるという発想も浮かばなかっただろう。

「どうしてこんなことを……」

声が震える。全部嘘だったのだ。彼女が私たちに持ち掛けた相談は全て、彼女の中で解決されているものばかりだった。もちろん、問題を解けないでいる私たちを嗤うつもりなどないだろう。決してそんな人ではない。だからこそ、彼女が何をしようとしたのか全く分からなかった。

「箱の中身も知っていたってことね」

そういえば、ネックレスがこの中にあると言ったのも妙に断定的だった。本物の巻貝を取り出して身に着けることも可能だったのだ。写真が反転していることを言い当てられ、逃げ場のない状態まで問い詰められてから白状しなくとも。

「でも、懐中時計を見たときの反応だけは、嘘じゃないと思う」

サツキが言った。それには私も同感だ。おそらくあの小箱だけは開けていなかったのだろう。浜木綿賞の副賞であることは箔押しを見れば分かる。だが中身が針も動かない懐中時計であることは、開けてみなければ知りようもない。

「どうして、こんな……」

もう一度呟いて立ち上がる。いてもたってもいられなかった。私は本棚へと歩み寄り、先ほど置いた植物図鑑を手に取る。

この中にヒントがないか、縋るような気持ちだった。

ページを繰る。写真と絵が入り混じり、美しい植物の姿が次々と現れる。特に折り目や書き込みのある様子はない。それどころか読み込んだ形跡もない。不思議な心地になりながら繰り続けていると、不意に何かが舞い落ちていった。

「宝くじ?」

一枚の宝くじだ。何の変哲もない、どこの売り場にもあるような。有効期限もちょうど現在のもので、まだ結果は発表されていない。私は振り返ってサツキに声を掛けた。

「これ、挟まってたんだけど」

「貰っちゃって良いんじゃない?」

顔を上げて彼は応える。

「渡すとき、この本は全部きみのものだ、って念を押していたじゃないか。一冊なのに全部って言うの何か変だなとは思っていたけど」

「つまりわざと挟んであったのね」

当たれば相当な賞金となる。車だって買えてしまうだろう。だが一枚きりなのだから期待するほどでもなく、今はただ栞のような存在だ。

「ねえ、サツキ」

宝くじを挟みなおし、本棚に戻しながら私は言った。

「これから死のうとする人が、宝くじなんて買うと思う……?」

「分からない」

即答だった。今度はこちらに顔も向けず、静かな声でぽつぽつと返される。

「死にゆく人の気持ちなんて、俺には分からないよ。きっと誰にも分からない。宝くじを買った後に死ぬかもしれないし、当たった後に死のうとするかもしれない。大切なものを預かったまま海に飛び込むかもしれないし、もう大丈夫だと明るく笑った後で、何食わぬ顔で消えてしまうこともあるかも」

「……そっか」

カオルがカフェを出た後、どこに向かったのかを私は知らない。後を追いかけて見張ったところで、最後に決めるのは彼女自身なのだ。それなら知らない方が良い。もしかすると今頃、県境を走るバスに赤い花を抱えた女性が乗っているかもしれないけれど。

「巡り合ってしまったのかな」

そう言って、サツキは傍らの本を手に取った。彼が持参したカオルの著作だ。その三冊を並べて置く。

デビュー作の『身を尽くしても』。

浜木綿賞を受賞した『みのり』。

そして最新作の『幻』。

彼女が源氏物語を知らないはずがない。きっと源氏香も知っていて、箱を開けることなど造作なかっただろう。それでも私たちに解かせようとしたのは、総当たりの数を絞っても残り続ける単語に気付いてほしかったからなのか。

何もかも、今に始まったことではないのだ、と。

「本当はずっと前から、それこそ最初に小説を書いたときから死のうと考えていて。少しずつその時が近づいてきて……巡り合わせのように、大切な人が亡くなった」

タブレットには香の図の一覧が表示されている。サツキの書き込む赤い記号が、絞り込んだ後の候補を示していた。残ったのは八種類。順を追って数えてみれば、あるところで指が止まる。あとひとつを残し、七つ目の巻名であることを連想してしまうのだ。

「サツキ」

名前を呼ぶ。初めて、彼に話しかけるのを怖いと感じた。

「サツキは死にたいと思ったこと……ある?」

彼の両手が首元に添えられる。私ではない。彼自身の首だ。苦しそうに少し俯いた後、再びゆっくりと指を外していった。

「今かな」

その指が伸びて本を掴んだ。サインを書いてもらった本だ。あの時はあんなにはしゃいでいたのに、今は墓標を見るかのような目でページをめくっている。

左右対称に整った〈薫〉のサイン。

隣には、流れるような筆跡で言葉が添えられていた。


また、会おう。


〈八月・胃の中のカヌレ、大海を知らず 終〉


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