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三月・ふたごのたまご、ひゃくまで


   *


いつものように喫茶店へ向かうと、二色(にしき)小龍(こりゅう)と店長がテーブルを囲んでいた。

「おはよ。何してんの?」

小龍とは先月、共通の友人であるサツキの紹介を経て知り合った。紅茶と音楽が好きな、明るい性格の大学生だ。隣のアパートで暮らしている。

「人生相談」

彼は片手を軽く上げながら応えた。

「色々あるんだよぉ、俺にも」

時刻はまだ朝と呼べる範囲だろう。この時間に喫茶店へ来る客はおらず、彼らが話し込んでいても問題はなかった。相談の相手として店長を選ぶことは、きっと賢明な判断だ。これから社会へ繰り出す彼にとって、年の功というものは何より役に立つ。

「いやあ、店長さんと知り合いになれてよかった。進路とか、経済的な話とか、あとはまあ……恋愛とか。こればかりは同じ歳の相手じゃ参考になりませんからね」

「いやはや。僕なんてただ、無駄に歳を食ってしまっただけですよ」

そんな会話を耳にしながら、私の居場所へと続く階段に向かう。冗談めかして言っているが、恋愛の相談をしたのは真実だろうな、と考えた。彼は断ち切らねばならない恋慕をひとつ抱えている。アパートの三階に住んでいた親子は、進学を控えて遠くの土地へ越していった。

三月も終わりの今日この頃。それは、別れの季節である。

私が螺旋階段の一段目に足を掛けたとき、ドアベルの軽やかな音が響いた。誰が入って来たのかと視線を向ければ、見慣れた顔が扉を押している。

「サツキ!」

階段を上るのをやめて名前を呼んだ。

彼は相変わらずの垢抜けないパーカ姿で、十秒でセットしたかのような髪型をしている。地毛なのか、髪色だけは少し洒落たブラウンだった。今日は日曜日なので大学の講義も無いはずだ。このところ、彼は食事の予定がなくとも気軽に顔を出すようになった。

「おはよう。桜が綺麗に咲いたね」

窓の外を視線で示して彼は言う。河川敷、公園、民家の庭先。彼がどこから歩いてきたのかは知らないが、百メートルも行けばどこかで桜の木を見るだろう。世間は花見シーズンまっただ中であった。

「あ、二色だ。店長さんと何の話?」

「同い年には話せないようなこと。ねえ?」

「ふふ、そうですかね」

小龍に話を振られた店長は苦笑しつつ、席を立って厨房へと引っ込んだ。まだランチの準備には早い。明らかに調理を始める音に疑問を抱きつつ、私は小龍に話し掛けた。

「本当に店長と話すためだけに来たの?」

それにしては服装に違和感があったのだ。今日の彼は、上下共にきちんと揃えたスーツ姿である。まるで、就職活動にでも向かうような。

「急に就活の予定が入っちゃって」

彼は私が予想した通りのことを言った。

「今日は家族で出かける予定だったんだけど、午後からに変更。でも突然のことだったから、もうこちらに向かっているらしくて」

「そうなの。じゃあ小龍さんは今……」

「四月から大学四年生。まあ、焦らずに頑張るつもりだよ」

今の就活生がどのようなタイムスケジュールで動いているのか、私にはよく分からない。こんな三月の内から忙しいのだと知り、頭が下がる思いだった。そして、もうひとりの大学生へと視線を向ける。

「ということは、サツキも就活生なの?」

本棚を眺めていた彼は、気の抜けた顔をして振り向いた。

「違う違う。俺は、四月から三年生。二色のひとつ下」

「でも、小学校時代の旧友なんでしょう?」

小学生が学年の異なる友人を作るという話はあまり聞かない。彼らの様子を見ていても、かつての同級生のようにしか思えなかった。

「ああ、俺は大学受験で浪人しているからね」

こともなげに彼は言う。

「だから学年もずれてるの」

「そうなんだ」

彼自身がそうすると決めてとった行動なら、それこそが正しい道なのだろう。本を選び終えたサツキはカウンタの椅子に座り、静かにページを繰り始める。払い損ねた桜の花弁がフードの中に落ちていた。階段の中ほどにいる私にはよく見える。このまま上りきってしまおうか、それとも一階に下りて語らうか、しばし迷った。

「どんな人生も、それぞれが悔いなく生きてゆけるのが一番だよね」

そんなさらりと深いサツキの言葉は――

「おにーちゃあーん!」

弾丸のごとく激しい声と衝撃に、掻き消された。


   *


白いフリルの塊が二弾、彼の背中へと。

カウンタに突っ伏すように打ちつけられた額が、ゴッと鈍い音を立てる。

「あふ」

あっけない断末魔を聞いた気がするが、誰もそちらへ意識を向けない。目の前ではまるで現実味のない、夢みたいな出来事が続行していたからだ。これが人間の衣服であることは理解できる。だが、あまりに非日常な代物だ。そんなフリルからは手足が生え、黒髪の頭部が覗き、やがてそっくりなふたりの童女へと形を変えた。

「間違えた」

見事な響きのユニゾン。あれだけ叫んでも耳障りでないという時点で、彼女たちの美声は予測できた。フランス王妃のようなドレスと真っ赤なバレエシューズ。ぶつかったときの衝撃は、体重よりも装備によるものが大きかったのかもしれない。助けを求めて小龍へ視線を向けると、彼は両手を広げて彼女たちを迎え入れるところであった。

「そうだぞ、お兄ちゃんはこっちだ」

「間違えた」

「間違えちゃった」

「じゃあこっちは誰?」

「ん? まあそいつはどうでもいいんだ」

サツキが不憫だな、と思いつつ、口出しはしない。私も次第に面白くなってきた。少女たちに兄と呼ばれ、まとわりつかれている小龍は、完全に頬が緩みきっている。

「つまり、妹さん?」

確認するまでもないが、尋ねてみる。彼は頷いた。

「かーわいいだろぉ」

ふたりの少女は六歳程度の背格好に見える。小龍が二十歳過ぎならば、随分と歳の離れた妹だ。甘やかしてしまうのも無理ないかもしれない。しかも双子だ。どこからどう見ても一卵性の、瓜ふたつな双子。

「双子なのね」

感じたことをそのまま口にすれば、小龍は異様な食いつきを見せた。

「いやあ、ただでさえ可愛いのに双子だもんなあ。参ったよね。可愛いと可愛いが二倍だもんなあ。子供の頃はなんか紛らわしいなとしか思っていなかったんだけど、こんなの目の当たりにしたらねえ、好きにならないわけがないよな」

まあ、家族仲が良いのはいいことだ。額をぶつけたサツキがようやく身を起こす。双子はそちらに向き直ってぴょこんと頭を下げた。

「ぶつかってしまってごめんなさい」

「ごめんなさい」

「ああ――いいよ、大丈夫」

人形じみた容姿に驚く様が見て取れる。それでも柔和な笑みを崩さず、高椅子を降りて視線を合わせてから尋ねた。

「お名前は?」

再び綺麗な声が紡がれる。

二色真咲(にしきまさき)です」

二色真弓(にしきまゆみ)です」

名乗っただけであるのに「可愛い……」と息を呑む小龍を無視し、

「おいくつですか?」

と尋ねてみる。ふたりは小さな手を目いっぱいに広げて「五」を示した。

「五歳」

「といっても、もうすぐ六歳だ」

横から小龍が補足する。

「四月から小学一年生なんだよな?」

三月は別れの季節だ。そして、四月は始まりの季節。小学校に上がる前の最後の休日を利用して、ひとり暮らしの兄の元を訪れたのか。微笑ましい光景ではあるが、私たちの頭にひとつ浮かぶことがあった。

「あれ? 家族で出かける予定だったってことは……」

サツキが小龍の方を見遣ると、彼は視線を繋げるように厨房の方を向いた。

「ああ、そのことも店長と相談していてな」

「大丈夫ですよ」

水音や調理器具の音に混じって店長の声が聞こえる。

「お昼過ぎまでうちで預からせていただきます」

「ありがとうございます。助かりました」

確かに、兄と出かけることを楽しみに来た少女たちを、このまま帰す気にはなれない。子供だけを部屋に置き去ることも不可能だ。程よく人の出入りがあり、時間を潰せる喫茶店で面倒を見るのが一番だろう。

「雨屋くんも、それで良いね?」

「うん、大丈夫。後で温室見せたげる」

どうせ今日も忙しさとは無縁の日だ。この小さなお姫様たちを、ガラスの城に案内するのも悪くないと思った。

小龍が出発する時刻まではまだ少しあるようで、テーブルを囲んで本を読んだり、カードゲームに興じたりして遊んだ。そうしている内に厨房から聞こえる音が止み、店長が二枚の皿を持って現れる。

「どうぞ。お昼には少し早いけれど」

見れば小さなハンバーグだ。上に目玉焼きが載っている。確かに昼食には早い時間だが、双子は大喜びで目を輝かせていた。

「嬉しい。私たち、お腹が空いていたの」

「お兄ちゃんがレストランに行くって言っていたから、朝ごはんを少なくしたの」

そういうことか、と納得する。予定が狂うことに気づいた際、小龍があらかじめ注文しておいたのだろう。目玉焼きは、黄身がふたつあるものを半分ずつにしたように見えた。

「双子の妹さんが来てくれているからか、卵も双子でしたよ」

店長が悪戯ぽく笑う。私はそっと彼らの背後を通り、厨房の屑籠を覗いた。卵の殻がふたつ分入っているのを確認すると、やるじゃん、と呟く。もちろん、誰にも聞こえないように小さな声で。

「良かったなあ。真咲、真弓。じゃあさっそく食べようか。ナイフとフォーク……は危ないから、お箸を借りよう」

私もそれが良いと思った。この店のハンバーグは柔らかいので、箸でも楽に食べられる。しかし少女たちには不評なようだった。

「やだ! 一緒がいい」

「ふたり一緒のやつがいいー!」

渡された箸の色が異なることが気に入らないのだろうか。店長が木製のフォークを持ってきた。それを受け取ると満足し、そっくり同じ動きでハンバーグを食べ始める。

「うわ。乱視のときの景色みたい」

私は思わず素直な感想を述べてしまい、

「ちょっと。言い方……」

とサツキに呆れられた。

もうすぐ出なければ、そろそろ行かなければ、と言いながらも、小龍は妹たちが食べ終わるまで傍で面倒を見ていた。ようやく店を後にしようとする彼を全員で見送る。すると、真弓が何かを持って兄の方へ見せた。

「お兄ちゃん見て見て」

「ああ、これ、お店のカードじゃないか」

レジ横に置いてあった、喫茶店の広告を兼ねた名刺カードだ。電話番号とホームページのアドレスが記されている。蝶の模様が箔押しされたデザインで、子供の興味をひいてもおかしくない。

「駄目だぞ。これは、お前たちには関係ないの」

取り上げようとする小龍に、店長が声を掛ける。

「良いですよ、どうぞ持たせてあげてください。配るために置いているのですから」

「本当ですか? ではありがたく」

真咲と真弓は一枚ずつカードを受け取り、ご満悦だ。今度こそ小龍は店を後にした。駅へと向かって自転車を漕いでゆく。

「良いお仕事が見つかるといいねえ……」

そんな私の呟きに、少女たちは無垢な顔で首を傾げた。


   *


真咲と真弓は瓜ふたつであるが、ひとつだけ明確な違いがあった。

それは、真弓が眼鏡を掛けているということだ。やや視力に難を抱えており、レトロな金縁眼鏡を使っている。彼女たちが絵本を共に読んでいる間、喫茶店に集った私たちの話題は家族へと及んだ。

「妹かあ……」

コーヒーカップを両手で包み込みながら、サツキが言った。

「俺は男兄弟がひとりいるだけなので、新鮮な気持ちですね」

「メロメロだったねえ、小龍さん」

あれほど兄妹仲が良いのなら、さぞや家庭も円満だろう。客観的に見ても、間違いなく彼女らは可愛い。だがそれは、兄がそのように扱い、そのように愛情を注ぎ続けたからでもあると感じた。

「店長さんは、どんな家族なんですか?」

サツキが問い掛ける。グラスを磨いていた店長は意外そうな顔をした。自分に話を振られるとは思っていなかったのかもしれない。

「実は、末っ子長男でね。姉ばかり三人。あとは……ひとり娘が」

「娘……」

私たちにはまだ縁のない単語だ。しかし彼ほどの歳の男性であれば、子供がいる可能性は十分にあるだろう。それでも、彼の口からその言葉が飛び出すのは奇妙な心地であった。カウンタの奥にはフレームに収まった写真が飾られているが、写る人物も古さも統一感はない。

「りりすちゃんは?」

今度は私が尋ねられたので、ひとりっ子だよ、と簡潔に答えた。

「あはは。それっぽい」

「どういう意味よぉ」

そんな話をしていると、絵本を読み終えた真弓が新しいものをせがんできた。しかしこれ以上の本はもうここにない。そろそろ喫茶店の中だけで時間を潰すのも難しくなってきたため、温室へ連れて行こうと考えた。

「真弓ちゃん、真咲ちゃん、二階へ行こうか」

「二階には何があるの?」

「えっとね。天井がガラスになっていて、お花がいっぱいあるの」

サツキと分担してひとりずつ、手を繋いで階段を上る。振り返ると少し後ろを店長がついて来ていた。久しぶりに上の様子が気になったのかもしれない。客が入ればドアベルの音ですぐに分かるため、問題はないだろう。

「ほら。ここが私の居場所」

斜めに走るガラスの天井。中央が煙突のように高くなっている。格子のいくつかは滑り出し窓になっていて、細く開いて外気を取り入れていた。

「すごおい」

壁のみならず、屋根まで透き通る部屋に入る機会は滅多にないはずだ。双子は当然の行為として真上を見た。ちょうど昼時の、陽光が燦々と差し込む方へと視線を向けようとしたのだ。

「駄目だよ」

彼女らの背後に立っていたサツキが、手で庇を作る。

「太陽を直接見ちゃ、駄目」

確かにそうだ。大人になってからは意識することも少ないが、直射日光を目にしてはいけない。彼女らほどの年頃であればなおさら危険だ。

「サツキ、ありがと」

設置されているブラインドを下ろしながら、私は言った。

「この子たちに何かあったら、小龍さんに合わせる顔がないわ」

「まあね。俺も眼鏡ユーザーだし」

彼は真弓の方へ向き直った。

「空を見ることくらいは構わないけれど、太陽は絶対に見ちゃ駄目だよ。特に真弓ちゃんは眼鏡を使っているからね。眼鏡を通して太陽を見たら、大変なことになるよ」

「痛いの?」

「痛いし、目が悪くなっちゃうかも」

それからはなるべく上を見ないようにしつつ、温室を巡って植物の名前を教えたりなぞした。コリウスという名の観葉植物を見せたときは、兄の名前に似ているとはしゃいでくれたりもした。鉢植えの林の中を人形たちが歩く。花のように広がるドレス。赤い靴。眺めている内に、まるでここが不思議の国のように感じてきた。

「ね。面白いでしょ」

そう語り掛けると、ふたり同時に振り返る。

「お姉ちゃん、お姫様みたい」

「そうね。透明なお城のお姫様」

口々に告げられるその言葉に、私は虚を衝かれた。まさか、自分の方が姫の立場になるとは思わなかったのだ。今日の服装はポロシャツにジーンズ。あとは、店のロゴすら入っていない地味なエプロン。

「えへへ、照れるなあ。いくら私の素材が良いからって……」

サツキが溜め息をついたように見えたが、気のせいだろう。少女たちは私を挟み、

「お花に囲まれているから眠り姫ね」

「違うわ。氷のお城にいるから雪の女王なの」

などと小競り合いを始めた。こうなるともう、こちらの話は耳に届いていない。飛び交う言葉に困惑しながらも、歌手になる素質のある声だなんて考えた。

「いたたた。お姫様の髪を引っ張らないの」

ついに私の頭部に痛みが走ったため、少女たちを引き剥がす。確かに引っ張りやすい長さかもしれないが、自慢の黒髪を守らねばならなかった。まだほんの五歳の女の子だ。いたずら盛りなのは仕方がない。

「お兄ちゃんが戻ってきたら、どこに行くの?」

そんな私の問いかけには、

「お花見!」

という元気なユニゾンが返ってきた。


   *


約束通り昼過ぎに小龍が戻り、三人は花見へと向かった。

ここからバスでふた駅ほど走った先にある、大規模な花見スポットで楽しむらしい。三月最後の日曜日ということもあり、さぞや混み合うものと思われた。

「大丈夫かなあ、小龍さん」

幼い子供をふたり連れての外出だ。しかし離れた場所で気を揉んでいても仕方がない。私は一階の窓辺でまどろみ、サツキはタブレット端末で作業を始め、店長は厨房に篭りつつそれぞれの午後を過ごしていた。

そして、おやつの時刻を過ぎた頃だろうか。

ひとつのテーブルの上から音楽が聞こえた。喫茶店の客席だ。馴染みある初期設定の着信音が、その所在を示している。視線をやれば一台のスマートフォンが置かれており、振動しながら天板を滑っていた。

「忘れ物……?」

鳴り続けているので取り上げる。手帳型のケースを開くと、通話着信を示すアイコンが映されていた。

「非通知だ。公衆電話からかな」

「二色の忘れ物かもしれない」

そう言いながらサツキが近寄ってくる。確かに、鞄に見当たらない電話を別の電話から呼び出すことは、自然な流れだ。だが勝手に出て良いものか迷っている内に、コールは止んでしまった。

「あ、今度はこっち」

サツキがポケットから自身のスマホを取り出す。迷わず通話ボタンを押した。

「ああ、やっぱり二色だ」

彼はスピーカー機能をオンにした。

――俺のスマホ、そっちにあるよな?

少し焦った小龍の声が私にも聞こえる。喫茶店にスマホを置き去りにしてしまい、出先で気付いた。とりあえず公衆電話から自分自身を呼び出してみたが、誰も出なかったのでサツキの番号に掛けた、という旨のことが伝えられる。

――まあ、そこにあるんならいいや。

そう告げる小龍に、

「本当に大丈夫……? 人混みの中、連絡手段もなくて」

と心配そうにサツキが返した。

――もう着いちまったし、引き返すわけにもいかないしなあ。妹たちはケータイを持っていないから、元から連絡は取り合えないし。

「それもそうか。じゃあ、気をつけて。スマホは預かっておくから」

その言葉に小龍は何か返したのだろう。しかし女の子たちの黄色い声に掻き消され、ろくに聞こえなかった。ふざけて受話器を奪われたか。楽しそうで何よりだ。

――よろしくな……

そんな声が遠退きつつ通話が切れる。サツキは自分のスマホを置き、こちらを見て苦笑した。彼らのことは気がかりだが、私たちにはどうすることもできない。たとえ届けに行ったところで、大勢の花見客の中から見つけ出すことは不可能だろう。

「店長さん、どう思います?」

サツキが尋ねる。店長はいつの間にか厨房から出て、一連の騒動に耳を傾けていた。

「お子さんが迷子になること、よくありました?」

「そりゃあ、茶飯事だったね」

険しい顔をしている。ナプキンが何度も手の中で折りたたまれていた。

「だから僕は嫌な予感がするんだ」

机の上のスマホ。今さらそれを見詰めても、向こうの様子が分かるわけでもない。それでも彼は、食い入るように視線を落とした。

「こういうときに限って、子供は必ず迷子になる」

「なるのですか」

「なるんだよ……」

思案に暮れる彼の横顔を、西へと傾き始めた陽が照らしていた。


   *


「それで、見失ってしまった、と……」

テーブルの中央。スピーカー状態のサツキのスマホ。三人で取り囲んで聞いている。

――ああ。迂闊だった。お前が心配してくれていたってのに、俺は……。

電話口の小龍の声は憔悴していた。店長がああ言ったので、私も気になっていたのだ。まさか、本当にこうなってしまうとは。

「でも、今は自分を責めてもどうしようもないよ」

サツキが声色を和らげて励ます。小龍は近くの交番からこの電話を掛けているらしい。混雑の中、保護された迷子が次々と預けられていくが、妹たちの姿は見当たらなかったそうだ。彼は溜め息まじりに言葉を続けた。

――とにかく、お巡りさんと一緒にもう一度探してみる。そこにいる皆に伝えても仕方がないかもしれないが……もしかすると、歩いてそちらに戻ってくることもあるかもしれないからな。

「確かに歩けなくもないか」

バスでふた駅ほど。彼女らは兄の自宅がここにあることを知っている。子供特有の勘違いで「置いて帰られた」と思ってしまえば、記憶を頼りにここまで来てしまうこともあるだろう。

――その時は、どうか頼む。俺への連絡手段がないことが悔やまれるが、まあ、公園の迷子センターにでも掛けてくれ。

そう言って一連の数字を述べた後、彼は電話を切った。

何とも言えない空気が漂う。店長が頭を抱え、サツキは天井を仰いだ。

「大丈夫よ。きっと見つかるわ」

人形のようなドレスに赤い靴。あんな恰好をした双子が歩いていれば、目立って仕方がないだろう。夕刻になり、人が捌ければ自然と見つかるはずだ。

「僕もそう思うよ。できることだけに努めよう」

コーヒーでも飲むかい、と店長が尋ねたので頷いた。まずは落ち着くことが必要だ。戻ってきた双子が喫茶店へ入らず、アパートの方へ向かうこともあり得る。店の前を通る姿を見逃してはならない。

だが、結局コーヒーにはありつけなかった。

店長が厨房へと向かったタイミングで、レジに置かれた固定電話が鳴り出したのだ。その時は単なる問い合わせだと思い、気にしていなかった。代わりに出ようかと視線を向ければ大丈夫だと返される。店長は行先を変えて受話器を取った。

その表情が強張る。

何か言葉を返しているが、声を潜めているので分からない。ただならぬ雰囲気であるため近寄ろうとした。彼の方もこちらを見て、手招きする。

「僕より如月くんの方が話しやすいかもしれない」

店長はサツキに受話器を渡した。スピーカーの機能はないので、私は貼りつくようにして聞くしかない。いったい相手が誰であるのかも分からないままに耳を澄ました。

「もしもし」

穏やかに告げられたサツキの声に返ってきたのは、

――そちらはガラスのお城ですかあ?

という、少女たちの無邪気な声であった。

「真咲ちゃん、真弓ちゃん!」

思わず隣で叫んだ私の声は届いただろうか。存外に元気な笑い声が聞こえる。

「大丈夫? お兄ちゃんと合流できた?」

サツキがそう尋ねると、

――お兄ちゃん、まだ見つからなーい。

とのこと。つまり現在も迷子中なのだ。もっとも、彼女らからすれば、迷子になっているのは兄の方なのかもしれないが。

「待って、今どこにいるの?」

「いや、そもそもどうやってここの番号が――」

狼狽えて口々に話そうとする私たちを制し、店長が顔を寄せる。

「蝶々のカードに書かれた番号を見て、掛けてきてくれたんだね?」

ゆっくりと、受話器に向かってそう告げた。なるほど、と納得する。彼女たちはこの店のカードを持っているのだ。蝶の箔押しがされた、綺麗で小さなカード。兄が公衆電話を使う様子を見て、電話の掛け方を覚えたのだろう。記された数字と同じボタンを押すだけなら子供にでもできる。お小遣いの小銭でも使ったか。

「どうしよう、りりすちゃん」

サツキが振り返って言った。

「公衆電話のある場所にいるってことくらいしか、分からない」

彼は片手でタブレット端末を操作し、周辺の公衆電話の位置を検索していた。この頃、随分と数は減りつつあるが、それでも広範囲に何カ所か設置されている。あてずっぽうで全て回るのは現実的ではなかった。

「周りに何があるか訊いても判然としないし。初めて行く場所だから、上手く説明できないのは当たり前だけど……」

「迷子センターの番号を教えて、一旦切ってから掛け直させるとか」

そう話しつつ、どだい無理だなと思い直す。店の電話に掛けられただけでも偶然に近い。別の番号へ掛け直させるなんて無謀だ。

「うーん、警察なら逆探知が……でも、さすがに……」

「近くの人に助けてもらって、と言うのも怖いわね。良い人ばかりとも限らないし」

「電話は切らせない方が良い」

通話先には聞こえないような声で、店長が割り込んでくる。

「いつもと違う環境で、子供が指示通りに動けると思わない方が良い」

「そうなんですか」

「切ったが最後、だよ」

重い。さすが年の功、経験者の言葉の重みは段違いであった。サツキは双子が飽きないように話を続けつつ、電話を切ってはいけないと念を押した。だがそれも時間の問題だ。残金がどれほどもつのかも分からない。

「交番の方へは連絡を入れた……」

自身の携帯電話を取り出し、店長が呟く。

「二色くんも周辺の公衆電話を調べるそうだ。運が良ければすぐに会えるだろう」

「もし、見当違いの方向を探していたら?」

意地悪なことを言ってしまったと思う。焦らせるようなことを、不安になるようなことを言ってしまった。かつて幼い娘を持った身として、心配する気持ちはこの場の誰よりもあるはずなのに。店長は何も応えず、私の肩に一度だけ手を置いてから離れていく。

「少し考えさせてほしい――」

カウンタの席に座り、視線を伏せた。肘を突いて足を組む姿を始めて見たかもしれない。指はリズムを刻むように天板を鳴らし、彼なりに気を落ちつけようとしていることが感じ取れた。

こうなれば、私たちも最後まで諦めるわけにいかない。

店の絵本は全て読んだ。だから、即興で話をする。彼女たちがうっかり受話器を下ろしてしまわないよう、残金が切れてしまわないように祈りながら。ひとつの受話器をふたりで抱えて聞いているようで、時おり取り落しそうになる音が聞こえる。その度にひやりとしつつ、小龍が到着するまでの時間を稼いだ。

「ちょっと、サツキ」

主体となって喋っている彼をつつく。

「もっと目が覚めるような話をできないの」

「ええ……」

通話口の向こうから欠伸が聞こえてきたのだ。ここで飽きられては元も子もない。

「もっとこう、バァーンと。ドカーンっと。血湧き肉躍るような話を、さ」

「俺、そういう作風じゃないんだけど……」

平生ならば彼の話を楽しむこともできただろうが、今は余裕がない。睡眠導入剤のごとく穏やかな物語に危機感を抱いてしまった。こういう時に強く言ってしまうのが私の悪いところで、律儀に応じてしまうのが彼の悪いところだ。つい応酬が始まりそうになった時、カウンタの方から物音がした。

店長が立ち上がり、黙ってこちらへと近づいてくる。

「あの……」

怒らせたかと思った。その顔が、あまりにも無表情だったから。

「借りても良いかい」

彼はサツキの手から受話器を受け取ると、ひと息ついてから口を開いた。

「ひとつだけ、おじちゃんに教えてくれないかな――」

その声を、ふたりの女の子はどんな顔で聞いているのだろう。電話ボックスにぎゅっと詰め込まれた純白のドレス。ガラスの天井には桜の花が降り積もっていく。大勢の人が行き交う雑踏の中、佇んでいるのは人形たちのショーケース。

「太陽は、どっち側にある?」

首を傾げた。確かに陽は傾き始めている。しかしそんなことを尋ねても、公衆電話がどちらを向いて設置されているのか、ということしか分からない。サツキは場所を調べたが、あくまで場所だけだ。ボックスの向きまでは航空写真でも判別できない。

だが、店長は私たちの疑問をよそに畳みかける。

「お箸を持つ方かな? それとも、お茶碗を持つ方?」

少し間が空いた。小さな手を広げ、食事の光景を思い出しているのだろうか。

やがて、花の咲くごとき可憐な声が同時に響く。


「お箸を持つ方よ!」


   *


「ふたりの答えが一致するかが重要だったのです」

あれから約一時間後。双子は喫茶店のソファに座り、画用紙にクレヨンを走らせている。彼女たちにとって迷子になったのは兄の方であり、その思い込みのおかげでパニックにもならずに済んだ。小龍にとっては大変な一日であったろうが、こうして無事に再会できた今となっては思い出のひとつだ。

「同じ場所に立ち、同じ公衆電話に向かっている人間にとって、太陽が違う方向に見えることはあり得ない。ですが、彼女たちの返答は一致していませんでした」

「ああ、なるほど」

小龍が唸る。視線の先にはお絵描きをするふたりの妹。

真咲は右手でクレヨンを持ち、真弓は左手を使っていた。

「何でも一緒が良いって駄々こねるんですけど、さすがに箸と筆記具は難しくて」

「でしょうね。フォークやスプーンを使うのとはわけが違う」

たとえ顔がそっくりな双子でも、利き手が異なることはあり得る話だ。真咲と真弓もそうだった。箸を渡した際に「一緒が良い」と主張したのは、同じ側の手を使いたいという意味だったのだ。

「真咲ちゃんにとっては右側。真弓ちゃんにとっては左側。違う方向に太陽があるように感じ、なおかつ公衆電話が置かれている場所は、ここしかなかった」

店長は画面に映された地図を指さす。公園から少し外れた場所。オフィスビルの立ち並ぶ一角に、ひとつだけ記された公衆電話のマーク。その左側は複数の高層建築物に取り囲まれていた。

「ハーフミラー効果って言うそうだね」

サツキが航空写真を拡大して小龍に見せる。

「こんなに大きな鏡があったら、そちらに太陽があるように感じても仕方ない」

真咲は空を見たが、真弓は見上げなかった。眼鏡で太陽を見てはいけないという、サツキの忠告を覚えていたからだ。意見の分かれた双子はボックスの中で揉め始めたが、居所を掴んだ店長が小龍をすぐに向かわせた。こんなに左側が光っているのに、という真弓の反論からも、直接空を見上げたわけではないことは明らかだ。

「俺の言ったこと、ちゃんと覚えていてくれたんだ」

クレヨンで塗られていく画用紙を眺めながら、サツキは呟く。いくら彼女らが双子でも、お揃いであることを望んでいても、この世に全く同じ人間はふたりといない。誰に合わせる必要もないのだ。自分の望む道を進めば良いと、いつか気付く日が来るだろう。

画用紙には、異なる色の桜の木が描かれていた。

「この度は本当に、ご心配をお掛けして……」

縮こまる小龍に対し、店長は穏やかに首を振る。

「いいえ。困ったときはお互い様ですよ。それに――」

三月。新しい日々が始まる前の、小休止のような時間。妹たちは兄と会うためにここへ来たのだ。そんな兄が落ち込んでいては、つまらない。まるで割り開けた卵が双子だったときのように、ささやかな幸せを壊さないでおきたかった。

クリームソーダの泡を拭いてやりながら、店長が尋ねる。

「お花見、楽しかったかい?」

うん、と鈴のような声が重なった。


〈三月・ふたごのたまご、ひゃくまで 終〉



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