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十一月・ティーカップの中の嵐

この章に雨屋りりすは登場しません。


  *


深夜のカフェに、時計の音が響いている。

二階の温室から零れ落ちるかのように、螺旋階段に置かれた鉢植え。冬に差し掛かろうという頃なので数は少ないが、鮮やかな葉や花が並んでいた。シクラメンにポインセチア。大輪のダリアにプリムラ、そして秋咲きのアマリリス。道しるべのように辿れば、その先には鞄を提げた青年の姿があった。

「誰って、どういうことなんですか」

深夜なので店の電灯は間引いて点けている。フロアライトのシェードが頬に影を落とし、仮面のような模様を描いていた。彼はおもむろに歩みを進め、客席の方へと戻る。ひと足ごとにぬるりと影絵が身体を通り過ぎた。

カウンタの中にいる浅間の正面。あえて数メートルの距離をとって立つ。

「俺は如月サツキです。忘れちゃったんですか?」

茶化すでもなく。とはいえ、本気で驚いている様子でもなく。小説のモノローグのように落ち着いた、聞き慣れた彼の声で。

聞き慣れた彼の声だと思ってしまうほどに懐かしい声で。

「僕の知っている如月くんは――」

浅間は手元に視線を落とした。彼が使い、回収したばかりの食器を見る。

「右利きで」

壁に飾られた家族の写真と、傍らに置かれたトレイを見る。

「男兄弟がひとりいて」

彼の左手首を見る。使い込まれた雰囲気の、黒い革ベルトの腕時計。

「滅多に腕時計は着けないタイプだった」

浅間が話し終えるのと同時に、青年は左腕を挙げて手首に視線を向けた。白い文字盤を確認し、手のひらを反してベルトを一巡した後、首を傾げながら腕を下ろす。彼の言わんとすることは浅間にも伝わった。腕時計くらい気まぐれで着けても良いじゃないか。特に変哲のない時計なのだから、何かの根拠にするには弱すぎるだろう、と。

浅間はカウンタの中から出た。店の中央にあるソファを示し、座るように勧める。

「どうか話に付き合ってくれないかな。僕の推理が正しければ、君は明日の予定があるわけではない。すぐにまたどこかへ行かなくちゃならないというのは、二色くんと鉢合わせしないための方便のはずなんだ」

青年はしばらく考えるそぶりをしていたが、やがて荷物を下ろした。テーブルとソファの間に身体を滑り込ませる。これで交渉は成立した。彼は今から浅間の話を聞き、それが認められない内容であったなら、反論を重ねて躱していくことになる。まるで探偵と犯人の関係のように。

浅間は座らず彼の周囲を歩きながら話を始めた。

「そろそろアパートに戻るという連絡を二色くんから受けた翌日、如月くんはフィールドワークに旅立った。けれども実際は、そんな用なんてなかったのだと思う」

「どうして俺が二色から逃げるようなことをするんですか?」

「彼は特別だからだよ」

六月。小龍の先輩にあたる大学院生、難波七珠が、自分と彼を指してそう称した。ふたりは共感覚を持っている。七珠は数字に対して、そして小龍は音に対して、色がついて見えるらしい。それがどのくらいの精度なのかは知らないが、絶対音感も持っている彼のことだ、素人には同じに聞こえる音も聞き分けられるのではないだろうか。

「ほとんどの人を騙すことができたとしても、二色くんには君たちの声の区別がついてしまう。同じ小学校に通っていた旧友として、実際にその経験があるのだろうね。だから彼と会うわけにはいかなかった。メッセージのやり取りや、電話越しならまだごまかせるかもしれないが、顔を合わせてしまっては駄目だ」

「待ってください」

青年の腰がソファから浮く。しかし浅間が歩み寄ると、再び静かに腰を下ろした。

「それじゃあまるで、俺がふたりいるみたいじゃないですか」

その言葉に三月の事件を思い返す。まるで同じ人間がふたりいるように感じる、そんな体験をしたはずだ。小龍がここへ連れてきた愛らしい妹たちのことを忘れはしない。

「君たちは双子だ」

やっと確信することができた。テーブルの傍らに立ち、青年を見下ろすような姿勢で浅間は告げる。彼の方はただ静かに続きを待っていた。即座に反駁するでもなく、認めるわけでもなく。如月サツキならそうするだろうな、と思った。如月サツキならそうするだろうということを〈彼〉も知っているのだな、と。

「思えば最初から違和感はあった。この店に二色くんの妹さんたちが来たとき、家族の話題になったよね。サツキくんは『男兄弟がひとりいる』と言っていた」

「男兄弟なら、双子とは限らないですよ」

「例えば兄と弟の両方がいるのなら、まとめて男兄弟と表現するのもおかしくない。でもサツキくんに兄弟はひとりしかいないんだ。たったひとりなら男兄弟なんて言わず、兄か弟と言いきった方が簡潔だろう?」

八月。式見カオルに兄弟の有無を尋ねられた際も、サツキはこの答え方をしている。ひとりだけの兄弟が年上なのか年下なのか、ついぞ明らかになっていない。つまり何かの偶然で男兄弟と言ってしまったわけではなく、彼は必ずこのように答えるのだ。兄か弟かを明かさない。いや、明かさないというよりも。

「自分自身が兄なのか弟なのか、意識せずに生きてきたのだろうね」

兄弟がそのような関係になる理由はいくつか考えられるが、やはり双子という可能性が高いだろう。戸籍上の続柄を意識して生きる双子もいるかもしれないが、同い年として成長し、同じ学年に通っていれば、自然とその感覚は薄れていく。家庭の方針も絡んでいるのかもしれない。如月サツキには双子の兄弟がいるが、自身が兄または弟であるという自覚はほとんどなく、あくまで「ひとりの男兄弟」でしかないのだ。

「実はもうひとつ根拠があるんだ。サツキくんの言い回しだけでなく、他者の発言でも君たちが双子だということが推測できる」

「まさか……」

青年の表情が変わった。ゲーム盤をひっくり返された子供のような顔。フェアじゃない、と考えているのかもしれない。自分の正体を暴いていく人物は、答えを簡単に確認できる方法を知っている。それをとうに使われていたなら、この話は推理ではなく単なる調査報告ということになってしまう。

「二色に聞きました?」

その問い掛けには首を横に振った。二色小龍は如月サツキの旧友だ。小学生同士が家族の話題を避け続けることは難しいだろうし、その「男兄弟」が何者なのか把握していてもおかしくない。しかし浅間は答えそのものを聞き出したわけではなかった。

「彼が明かしたわけではないけれど、彼の言葉から分かることはあった」

小龍の妹たちが店に来た日のことだ。双子という存在について、子供の頃は紛らわしいと思っていた、という意味の発言があった。この「子供の頃」とは、いったい誰の過去を指しているのだろう。まだ五歳である妹たちのことではないはず。ならば彼自身の子供時代という解釈ができるが、双子が生まれたときの彼は高校生だ。子供の頃、と振り返るにはいささか歳をとり過ぎている。ましてや赤ん坊の顔つきがはっきりしてくる頃には、既に立派な大人だろう。

この推理から導き出される答えはひとつ。

二色小龍の身近な双子とは、妹たちだけではないということだ。

「君たち兄弟が同じ小学校に通っていたなら、ふたりともが二色くんの同級生ということになる。クラスは別かもしれないが、学年は同じ。三人で話す機会もあっただろう。だから彼には双子の見分け――いや、声の区別が可能であることを知っていた。それが鉢合わせるわけにはいかない理由だね」

共感覚については六月に知ったばかりだが、音楽のセンスがあることは当時から気付いていた。少なくともサツキはそう話している。小龍は小学生の頃、双子の同級生を紛らわしいと感じていたわけだが、区別がつかないとは言っていない。

「ああ……そっか」

浅間が話し終えると、青年は頷きながら呟いた。

「そこで気付いたのか」

彼の方も、双子であることを隠し通すつもりはないのだろう。すぐ隣のアパートには小龍がいる。翌朝になれば、きっとこの場所にも現れる。彼の口からぽろりと情報が出るのは時間の問題だ。前もって口留めしておけば小龍も話さないだろうが、そこまでして隠すものではない。彼らの秘密の本質はもっと先の場所にある。

「確かに俺には双子の兄弟がいます。顔も体格も声もそっくりな、一卵性の双子です。店長さんの言う通り、自分が兄なのか弟なのかよく分からないまま生きてきました。両親は一度もそのような呼び方をしませんでしたからね」

ここまでの情報は小龍も持っている。探偵小説に例えるならば、登場人物のひとりから得られるヒントに過ぎない。だから〈犯人〉も素直に認めるし、更に話せることがあれば自ら明かしていく。今まで言わなかったのは、訊かれなかったから。

「ただそれだけの話です。高校までは同じ学校に通っていましたが、俺が浪人している間にあいつは都心の大学に進み、今では年に数回しか会いません。店長さん、俺が誰かなんて訊くってことは、まさか入れ替わっているとお考えですか?」

テーブルの上で両手の指が組まれている。ソファの後ろには太い柱があり、それを樹木に見たてるかのようにいくつものプランタが下がっていた。しだれ落ちるシュガーバインの葉がパーカの襟元を掠める。彼が頭を動かす度、眼鏡に絡みそうになっている。

そのグレーのパーカも、黒縁の眼鏡も、非常に見覚えがあった。

だからこそ、同じものを身に着けていたら見分けられる自信がない。

「サツキくんは右利きだったはずだ」

壁際に立て掛けられている黒板を見ながら、浅間は言った。普段は日替わりのメニューなどを記載しているものだ。六月、サツキは小龍と七珠のマジックを暴くため、この黒板にチョークで数字を書いた、らしい。そのとき浅間は厨房にいたので、どちらの手を使ったのかは見ていないが。

彼の利き手を確認する機会は、それ以外にもたくさんある。何せここはカフェなのだ。牛丼も蕎麦も流れる素麺も、箸を使って器用に食べていた。サツキが右利き、あるいは右手も使える両利きであることは間違いない。

だが目の前にいるこの青年は、箸でピクルスを食べなかった。

「さすがに箸と筆記具は難しいと、二色くんも言っていたね」

彼の指先に視線を落とす。爪の切り揃えられた、ペンだこもない綺麗な指だ。小龍の妹たちはそっくりな双子であるが、視力と利き手に違いがあった。食事の際も同じ側の手を使いたがっていたが、箸は難しいのでフォークを渡した記憶がある。

どれほど演技が上手かったとしても、利き手をすぐに変えることは不可能だ。

「店長さん、わざとピクルスを挟まなかったんですね」

あのときは彼も、かまを掛けられたとは気付いていなかったのか。偶然の不運として箸を使わなければならない状況が起こり、苦しまぎれにフォークを要求した。利き手ではない右手でフォークを使い、何とかごまかすことができた。そう思っていたのだろう。

「それで、俺が左利きだと思ったのか……」

まだ認めはしない。自分が左利きだと明かさない。青年は両手を眼前に出し、爪を確かめるかのようにひらひらと揺らした。心なしか右手の動きがぎこちない。彼は手から視線を外すと、射貫くように浅間の方を見て言った。

「フィールドワーク中に利き手を痛めたんです」

どこまでも躱していく。きっと、いざという時にはこう言おうと決めていた言葉だ。

「スプーンやフォークはともかく、箸は持てません。夜食もお断りしようかと思ったのですが、サンドイッチだと言われたので、それなら大丈夫かなと」

夜食をサンドイッチにしたのは計画のうちだった。手で食べる料理なら、誘いに乗ってくれると思ったから。逃がすわけにはいかなかったのだ。今を逃すと、もう彼には会えないだろう。小龍がアパートに戻ってきたので偽物の如月サツキに居場所はない。友人の寝静まった深夜を狙って戻ってきたのは、置手紙でもして再び姿をくらませるつもりだったからだ。周囲の者たちが如月サツキのいない日々に疑問を覚えないように。

それが偶然にも、浅間が店に居残っている日で。

ランプのように漏れる灯りに導かれ、彼がここまで来てくれた。

「九月。鷹志さんがカフェで結婚報告をしてくれた日」

利き手はフィールドワークで痛めたわけではない。もっと以前から違和感はあった。この青年がいつから彼の代わりに現れるようになったのか、浅間は推測できている。

「姉から届いた蕎麦を僕はふるまった。鷹志さんは食べてくれたが、君は遠慮した。どうしても箸を使わなければならない食べ物だったからだ」

「あれは本当にお腹が空いていなかったんですよ」

「他にもある。若葉観光ホテルの館内図を作るとき、紙とペンを貸そうかと言った。でも君は頑なにパソコンしか使わなかったね」

「それは――」

青年の視線が動く。ソファの端に置いたトートバッグの方へちらりと向かった。財布と鍵だけ、といった風の荷物ではない。ノートだとか、筆記具だとか、色々なものが入っていそうな大きさだ。しかし実際に入っているのはおそらくパソコンだろう。

「その方が慣れているからと言ったはずです」

息の音が聞こえる。浅間自身にも、それが誰の溜め息なのか分からなかった。もし自分が無意識に発したものであるならば、あらゆる追及を躱され続けることに対する焦燥。青年が発したものならば、同じ内容の指摘を受け続けることによる食傷が原因だ。そろそろ結論を出さなければならない。彼が如月サツキを名乗る限り、話を切り上げるための口実は握られているのだ。またすぐに出かける用があるから帰ります、と。

「分かった」

試食と称して食事をふるまう時、いつも気持ちいいほどに綺麗に食べてくれた彼が。急にいつものモーニングを頼まなくなり、腹の空かないことが多くなり、しきりに何かを警戒するようになって。そんな変化が、彼が彼のまま――如月サツキのまま、その身に起きているとは考えたくなかったが。

考えたくはなかったが、これほど並べ立てても証拠には至れないのなら。

「君は如月サツキくんなんだね。ここにいるのは、双子の兄弟ではなくて……」

浅間が知りたいことはただひとつ。どうすれば本物の如月サツキが戻ってくるのか、それだけだ。「彼がどこにいるのか」については、薄々と想像がついている。そして「どうしていなくなったのか」についても、今さらながらに理解できた。八月。敬愛する純文学作家が行方をくらませた。そのことが彼の心理に濃い影を落とし、それまでの朗らかな彼を消し去ったのだ。

いや、きっと、最初から。

如月サツキは最初から、今にも崩れそうな何かを抱えて生きてきたのだろう。

「引き留めてしまって悪かった」

浅間の言葉を聞き、青年の表情が和らいだ。傍らに置いた鞄を引き寄せ、肩に掛けて立ち上がる。左肩に掛けられた鞄。左手に着けられた時計。一連の動きを見ている限り、彼は右利きとしか思えない。

「何かご心配を掛けてしまったようで、すみません」

テーブルを離れ、今度こそガラスの扉へ向かう。振り返る彼の横顔が月明かりに照らされていた。

「でも俺は間違いなく如月サツキですから。二色にはよろしくとお伝えください」

「そうだ、二色くんの話で思い出した」

努めて何気なく。世間話でも切り出すかのように。〈彼〉の姿を初めて見たときから違和感を覚えていたことを、ついに言葉にする。

「……君の着けている腕時計。二色くんのものだから、後で返してあげてね」

青年の目が丸く大きく開かれる。左手首にある、黒い革ベルトの腕時計。サツキは普段から時計を着ける習慣がなかったが、この違和感はそれ以前のことなのだ。熱中症で搬送される直前まで二色が着けていた腕時計を、正式にサツキが譲り受ける機会はない。退院後も彼は実家で過ごしていた。謝礼と荷物の回収のために少しだけ姿を見せたが、そのわずかな時間で「使い込んだ腕時計」を譲渡するだけの出来事が、ふたりの間にあったとは思えない。平日の日中のことだったので、顔すら合わせていないだろう。

「これ……俺のものじゃ……」

細い声が聞こえる。ようやく認めてくれた、と思った。二色が熱中症で倒れたとき、浅間もその救助にあたっていた。応急処置として服のボタンやベルトを緩め、念のため腕時計も緩めておいたのは他ならぬ浅間自身だ。それが二色のものであることを確かに知っている。搬送される際に腕から滑り落ち、二色の部屋に戻す時間もなく、サツキがポケットに入れたまま付き添ったことも鮮明に覚えている。

その記憶までは気のせいだと突っぱねることができないだろう。

「サツキくんの部屋にあったから、使っても良いと思ってしまったかい?」

――これが、如月サツキはここにいないという証拠である。


   *


ポットから湯が注がれ、ティーカップにハーブの香りが立ち込める。

カモミールを使ったお茶だ。夏に冷たいものを七珠にふるまった覚えがある。カモミールには心を落ち着かせる効果があり、あのときの彼女に飲んでもらいたいと思ったのだ。あの場にいた女性が七珠だけだったこともあり、女性向けの新しいメニューを試してもらいたいという口実で差し入れることができた。

メニューに加えられたカモミールティーは、今はホットで提供している。座席へと戻った青年の前に湯気立つカップをそっと置いた。

「ありがとうございます」

素直に手を伸ばす。左手で持ち手を掴み、静かに口へ運んだ。

「君は誰だい、なんて尋ねたけれど」

湯気まじりの息が宙へ吸い込まれるのを待ってから、浅間は言った。

「本当は、君の名前を知っているんだ。僕の推理が間違っていなければだけど。その上で確認したい。これから君のことをどう呼べばいい?」

当人に名乗られたわけではないという意味では「知らない」が。彼とサツキの関係に気付きさえすれば、調べて辿り着ける場所にその名前は公開されていた。ただ、本名ではないはずだ。浅間がその名前で呼んで良いものかも分からない。青年はカップをソーサーに戻すと、物語の一篇を読むかのような声で答えた。

「ツツジと呼んでください」

サツキとツツジ。それが双子の名前だった。如月サツキという響きから旧い月名を連想しがちだが、サツキというのはツツジ科の花の名前でもある。また、サツキとツツジは見分けのつきにくい花の代表でもあった。

「本名かどうかはご想像にお任せします。でも、双子にはぴったりでしょう?」

双子を授かった親がそう命名したのか。それとも、自分たちが双子であることを受け、そう名乗ることを決めた通名なのか。浅間には知る由もないが、とにかく目の前にいる彼はツツジなのだ。双子なので姓も同じく如月――と推測するのは安直だろう。決めつけてはいけない。実際、公表されている彼の名前は「如月ツツジ」ではなかった。

「小説家としては筒路仲春と名乗っています」

それが、検索して知った彼の名前だった。

「蝶菜大学の四年生。同校の文学研究会所属……だったのですが、昨年退会したのでOBです。式見カオルさんの後輩にあたります。それから……」

式見カオルも、その師である浜木綿彰子も、蝶菜大学文学研究会の出身だ。さらに後輩であるツツジもそこの出身なのだから、優秀な小説家を輩出する名門サークルだというサツキの言葉は真実だった。彼は単なる若手作家ではない。

「第三十回浜木綿賞。式見さんと同時受賞したのが、俺です」

八月。式見が「自分は彼の隣に並べるために選ばれたのではないか」と悩むほどに評価した作家が彼だった。今年の受賞者について語るにあたり、高確率で話題にあがると思われるのが、この文学研究会の存在だ。設立者の出身サークルからついに受賞者が出た。それもふたり同時に。自信を喪失していた式見が、この共通点のために自分が選ばれたのだと疑ってしまったのも、やむを得ないのかもしれない。

六月。全国的に有名な文学賞の受賞者の名をラジオが告げていた。

ダイヤルを回して切り替えた後、サツキが溜め息をついたのを覚えている。決して不機嫌な様子ではなかったが、どこかつまらなそうに。もっとも彼はラジオに知らされるまでもなく、受賞者から直接聞いていただろう。

「双子の兄弟がいるから、顔出しもしなかったし本名も出さなかったんです。あいつに迷惑が掛かるので。顔も名前も家族構成も隠しているうちは、俺はどこにでもいる若手の男性作家でしかありません。でもさすがに授賞式には出なくちゃならないかな、と悩んでいるところに、浜木綿先生の訃報が飛び込んできて……」

授賞式は流れてしまい、筒路仲春が世間に顔を出す機会もなくなった。そのため、片田舎のカフェに通っていた青年と浜木綿賞の受賞作家の関係は、誰にも気付かれずに済んでいたのだ。浅間をはじめ、カフェに集う面々はツツジの素顔を知らない。一方、出版関係者はツツジの顔を知っているかもしれないが、遠く離れた地に住まう兄弟のことなど知る由もない。

「式見さん、このカフェに来たときサツキのことを見て、どこかで関わったことがある気がすると言ったそうですね」

式見カオルはかなり惜しい立場にいた。彼女は同業者としてツツジと顔を合わせていてもおかしくなかった。もし一度でも容姿を知る機会があったなら、訪れたカフェにいた青年のことを同時受賞の片割れだと勘違いするに違いない。そうなればサツキも双子の兄弟の存在を明かしただろう。

「作風から浮かんだ作家像が、かなり正確だったのかもしれません。俺とあいつの外見はほとんど同じですから。でも嫌だったでしょうね。尊敬する小説家に、よく似た他人を重ねられてしまうのは……」

ツツジがハーブティーを飲み進める。その手元にあるカップは無地のため、利き手に関係なく使えるものだ。彼がそれを傾ける度、映り込んだ照明が星屑のように揺らめく。浅間はサツキのマグカップについて思い返していた。式見にサインを書いてもらう際、興奮した様子の彼はペン立てごと筆記具を持ってきたが、そのときに使っていたのが「取っ手の折れたマグカップ」だったのだ。

ウサギの顔の模様が描かれ、ウサギの耳のような取っ手が二本あって。

その取っ手が折れてしまったので、ペン立てとして使われていたマグカップ。

「ウサギの顔のマグカップ」

今となっては想像に容易い。右利きの彼が、左利き用のカップを持っていた理由。

「あれ、元々は君のだったんだね」

「わざとじゃないんですよ」

カップをソーサーに戻したツツジは、力なく笑った。

「本当に偶然なんです。著者近影に小さく写っているだけじゃないですか。だから気付かなかったんです。俺が持っているのと同じマグカップだなんて」

「サツキくんもあのときまでは気付いていなかったよ」

「でも、申し訳ないことをしたなと思います。憧れの小説家とお揃いのものを使っておきながら雑に扱って、取っ手が折れたからって何気なく譲って……」

著者近影に写っているマグカップは、絵柄の面を隠されていた。サツキの持っているマグカップは譲られた時点で取っ手が折れていたのだろう。ずっとペン立てとして使っていたので左利き用かなんて意識していない、と発言していた。式見はサツキに対して趣味が合うと言ったが、実際にそのマグカップを所持していたのはツツジの方だ。同じ左利きの者として。サツキが選んで使っていたわけではない。

「そういう積み重ねだったと思うんです」

彼と式見が出会った八月の日から。アパートの部屋を抜け出す、九月のある日まで。

「式見さんが俺を評価してくれたことも。その式見さんが、サツキの制止もむなしく失踪してしまったことも。全部、ページの一葉みたいなもので」

誰の悪意があったわけでもない。皆が必死だった。皆が全力で生きていた。唯一の縁者とも言える存在を亡くした式見も。小説家になることを過去の夢として語り、今は穏やかに大学生活を送っていたはずのサツキも。手掛けた作品が評価され、兄弟の夢を横取るような形になってしまったツツジだって、咎められることは何ひとつないのだ。

ただ積み重なってしまった。本のページが結末へ向かって捲られるように。

「店長さん、俺の正体がよく分かりましたね」

そんなツツジの言葉に、その説明も必要だな、と考える。名前を知っていると言ったのだから疑問に思われても仕方がない。サツキに双子の兄弟がいること、そして彼らが入れ替わっていることまでは、注意深く観察していれば分かるかもしれない。だが、その正体までは。入れ替わった先が浜木綿賞の受賞者で、調べれば名前の分かる立場であることまでは、単純な観察では気付けないはずだ。

ここから先は、彼のことを分かっているつもりだ、という傲慢の上に成り立っている。

「八月。式見さんの著者近影を一緒に見ていたとき」

全ての写真が反転されていると浅間が気付いたときのことだ。デビュー作である『身を尽くしても』には、斜陽に照らされた彼女の立ち姿が写っている。背景はどこにでもあるようなベランダで、それだけでは位置を特定できない。ただ一般的なベランダは南を向いて造られているので、陽の差す方角がおかしいという指摘をした。

「けれど、南向きではないベランダもあるかもしれない、とも僕は言った」

撮影場所がどこか分からない以上、証拠にはならない。浅間は式見カオルという作家についてさほど詳しいわけではなく、海外在住の可能性もある、などと考えていた。あるいは例外的に北向きに造られたベランダかもしれない。その可能性を口にすると即座に否定した人物がいた。

――そのベランダは南向きですよ。

如月サツキがそう言った。推理でも何でもなく、ただ自分が知っている情報として告げたのだ。蝶菜大学、文学研究会。そのサークルルームの近くにあるベランダだ、と。さすがにこの情報は式見のファンとして書籍を集めているだけでは得られないだろう。

「サツキくんは、あの場所を実際に見たことがあるはずなんだ」

彼は大学生だ。つまり数年前までは、まだ高校生だった。受験前の高校生が大学の構内を見る機会はいくつかある。

「オープンキャンパスなどを利用して訪れたんだと思う。憧れの式見さんの後輩になりたくて、同じサークルに入りたくて、そこから同じように作家としてデビューしたかった。だから著者近影にあるベランダのことも覚えていたんじゃないかな」

何の変哲もないベランダであろうと、彼にとっては聖地であったなら。サークルルームに入ることまでは叶わずとも、実際に立って目に焼き付けて帰ったはずだ。しかし彼は蝶菜大学に進学しなかった。浪人を挟み、一年遅れで入ったのは別の大学だ。もちろん、浪人中に何か事情があって諦めざるを得なくなった――そう考えるのが妥当だが。

「そういえば、今回の受賞者は共にそのサークルの出身だったな、と」

顔出しはしていない。名前もおそらくペンネームだ。しかし、性別と生年月日、出身大学とサークルの名が記されていた。蝶菜大学文学研究会OBという単語は、見過ごすことのできない売り文句だろう。サツキと同じ歳の男性作家。サツキの憧れの作家と、その師である重鎮を輩出した文学研究会の出身。そして何より筒路仲春という名前。

サツキの花と、ツツジの花は、見分けがつかないほどによく似ている。

「もしかしてこの人はサツキくんがこうなるはずだった姿なんじゃないかな、って」

カモミールティーの琥珀色の水面が揺れている。ツツジはずっとカップの中を見つめていた。映り込んだ照明の星屑と、ハンギングプランツの森。何かを探すようにその奥を見つめながら、浅間の言葉を待っている。

「蝶菜大学に入学して。文学研究会に所属して。在籍中にいくつかの作品を書いて。式見さんが浜木綿さんに見初められたときのようなシンデレラストーリィまでは期待しないけれど、誰かの目に留まってデビューできたら良いなと考えていて」

「……小説家として活動を続けるうちに、賞を得られるほどの筆力を身につけて」

続きを編むように青年の声が聞こえた。彼の両手の中にはカップがあり、細かに水面が波打っている。

「もしそれが浜木綿賞だったらもっと嬉しくて。憧れの式見先生と同時受賞できたら最高で。同じサークルの出身だし、あり得ない話じゃないかもしれない、なんて」

夢を語る子供の口ぶり。場違いなほどに明るく、無鉄砲で。だがそれに反して両手は震えている。力が込められ、白んだ指の隙間から覗くティーカップを眺めながら、浅間は今にも割れそうな卵を連想した。

「それで、式見先生も俺を意識してくれたりして。読んでくれたらいいな。評価してくれたらいいな。如月サツキのことをただの同業者以上に捉えてくれるようになったなら、あの八月の分岐点で俺が――」

カタン、と音がする。力を込めるあまり宙に浮いていたティーカップが、ついにソーサーへ着地した。

「俺が、式見先生を引き留めることができたかもしれないのにな」

顔を上げる。両の目からぼろぼろと涙をこぼす青年の姿がそこにあった。栗色の癖毛。野暮ったい黒縁眼鏡。グレーのパーカ。当たり前のように何度も見てきた姿でありながら、見たことのない顔をしている。

当然だ。サツキとツツジは、よく似ているが違う花。

「どうしよう。他のことは全部俺が叶えちゃったのに、最後だけできなかった……」


   *


サツキがあまり楽しそうに小説を書くものだから、ツツジも書くようになった。

ほんの子供の頃の話だ。双子のどちらが先に書き始めたのか、両親ですら把握していないかもしれない。鉛筆を持ち、字を書けるようになった途端からふたりの執筆歴は始まる。実際に起きた出来事、つまり日記を書くこともあれば、空想のキャラクタで物語を紡ぐこともあった。不思議だったのは、ふたりして同じ紙やノートを使うことが多かったということだ。理由があるわけではない。ただ、そういうものかと思っていた。片方が何か綴ればその下にもう片方が続きを書く。展開が気に入らなければ無視するのではなく、自分の書いた部分で軌道修正する。やがて手書きからタイピングへと執筆方法は変化したが、同じ場所に書き込むという習慣は部分的に残った。

「同じブログサイトを使って交換日記を書いていたんです」

ツツジは鞄からノートパソコンを取り出した。よくサツキがカフェで使っていたものと全く同じものに思えた。もっとも、電子機器には似通ったデザインのものがいくらでもあるので断言はできないが。

「パソコンやインターネットの使い方を知ったのは、他の子供より早かったんじゃないかと思います。小学生の頃からこのブログサイトを使っていました。サーバが生きているので今も読めますよ」

ロックを解除する様子もなくパソコンを使い始める。そうして見せられたブログは、浅間にとって見覚えのあるものだった。

七月。とある別のサイトを閲覧しようとした際に、アドレスの末尾を弄ってしまった。その際に飛ばされた場所だ。子供の書いた日記であることを察したので、じっくり見ることなく退出したが。

「こうして代わるがわる書く際の協定として、『他人に読まれたくないことは書かない』と決めてあったんです。文章として形にする以上、百年だって残るかもしれない。誰の手に渡るかも分からない。誰になら読まれてもいいだとか、いつなら読んでもいいだとか、細かに決めていてもキリないじゃないか、って」

そんな話をしながら、彼はタッチパッドを触っている。どこか目的のページに向かっているようだった。

「だからこそ小説を書く技術が身についたのかもしれません。日常の些細な出来事を書くだけでも、常に人に読まれることを意識してきました。というわけで、サツキが書いた部分をお見せしても問題はないかと思うのですが、念のため……」

クリックをするとレイアウトが変わった。おそらく、サツキの書いた部分が表示されない設定にしたのだろう。冒頭で書き手が名乗ってから始まる形式の日記がツツジの分だけ連なっている。彼は指を動かしながら話を続けた。

「この交換日記が終わったきっかけ、お教えしましょうか」

サイドバーに表示されたリストを見る限り、彼らは十歳頃から交換日記を始めたようだ。約十二年前。それほど以前から個人で使えるブログサイトがあることに驚いたが、現在の若者の感覚では珍しくもないのだろう。むしろ、SNSではなく個人ブログに日記を綴るという行為自体が懐かしさの象徴なのかもしれない。

「最後の日記は十八歳の二月。俺たちの大学受験の前日です」

「共通テスト……いや、君たちの頃はセンター試験か」

「それではなくて二次試験の方ですね。センターは一月なので」

彼らが日替わりで書いているのなら、最後の日付を担当したのはツツジの方だ。先ほど彼が「俺たちの」と言った通り、ふたりともが翌日に試験本番を控えていることが読み取れた。だが、綴られているのは緊張や意気込みなどではない。

「俺、高熱を出して寝込んじゃったんですよね」

まるで昨日のことのように苦々しい表情でツツジが言った。息をするように文章を書いてきた彼らにとって、熱が出たことは書けない理由にならないのかもしれない。とはいえさすがに試験を受けに行くわけにはいかないのだ。感染性の病気ということもあり、試験会場へ向かうという未来は完全に消え失せた。

「いま思えば絶望するほどのことでもないんですけどね」

彼の指先が、日記を少しずつスクロールしていく。

「試験前日に熱を出すなんて、よくある話じゃないですか。それで人生が終わるわけでもなし、努力してきたことが消えるわけでもありません。現状を冷静に分析して、それからでも取り返せる範囲で最善の道を選べば良かったんです。でもやっぱり、所詮は高校生ですから。冷静になれなかった。俺も」

翌日はふたりともが試験日だった。サツキは蝶菜大学を志望していたはずだ。一方のツツジは、それと同日に試験のある大学だったのか、あるいは同じ蝶菜大学を目指していたのか。発熱で受けられなくなってしまったのは残念だが、うつらないようにさえ気を付けていればサツキだけでも受験できる。

この日記から想像できるのは、そんな単純な未来。

「俺もサツキも。全く冷静ではなかった」

最後の日記に綴られた、後悔や嘆き、自らへの過剰な叱責。そしてほんの少しの、無事に試験を受けられる兄弟への恨み言。全てを彼の本心として読み取ることはできない。当時のツツジは熱に浮かされていた。心の落ち着きを取り戻していれば、快く兄弟を送り出すこともできただろう。

だが、大学生となった彼らを知る浅間は気付いている。

この日記の内容全てが事実と矛盾していることに。

「受けちゃったんですよ、あいつ。俺の名前で」

実際に蝶菜大学へ進んだのはツツジの方だった。サツキは一年間の浪人を挟み、別の大学へ入学している。もちろん完全なる不正行為だ。彼が既に四年生であるという事実をもってしても、公になれば除籍処分を下されるだろう。とはいえ、遺伝子レベルで似た容姿の受験生の成りすましなど、試験官もとうてい見抜けない。

「当然、合格通知が届いた後に家族会議です」

ノートパソコンを閉じながらツツジは苦笑した。彼にとっては頼んだ覚えのない不正の片棒を担がされた状態だ。とはいえ不正は不正でも、絶対に暴かれないという確信をふたりともが感じていた。双子が同じ大学に願書を出し、片方が発熱のため受験を諦めた。無事だった方の片割れがどちらの受験票を持ってどちらの席に座ったのかなど、当人たち以外に分かるはずもない。

「あとはご覧の通りです。俺はサツキの行為を否定できなかった。ここで俺が入学を辞退したら、あいつはどうなってしまうんだ、って。本当はずっとサツキの真似をして生きてきただけなんだ。俺は小説家になるつもりなんてなかったし、式見さんの本は借りて読んだ程度です。文学研究会に入る気はさらさら無く、ただ、夢に向かって進むサツキを近くで見れたら良いと思って蝶菜大学を選んだ。それなのにいつの間にか俺の方が先を歩くことになってしまって」

「でも、それなら……」

浅間は呟く。彼ら兄弟の過去については、済んだことと流せるものではない。だが浅間に口出しできることでもなかった。ただひとつだけ気になったのだ。兄弟の後をついて来ただけだと主張する彼が、いつしかひとりで歩いている道がある。その道へ先導したものが何だったのか知りたいと思ってしまった。

「君は待っているだけで良かったのでは。翌年になれば、サツキくんはまた受験資格を得る。一年遅れで蝶菜大学に進み、文学研究会に入ることができたはずだ」

しかしサツキは追いかけてこなかった。文学研究会に入ったのはツツジだけで、小説を書いてデビューしたのも彼だけで。その未来を最も望んでいたはずの人を置き去りに、彼だけが今も歩き続けている。

浅間の言葉を聞いたツツジは、虚を衝かれたような顔をした。そうか、そうすれば良かったのか、と。ほんのたったいま気付いたような。過去の自分がその選択をとっていれば、サツキは今も小説を書いていたかもしれない。まだ若い者たちが将来の夢を語り合う場において、ひとりだけ過去形で話すこともなかったのに。

しばらく何もない空間を眺めた後、ツツジは子供のようにあけらかんと告げた。

「でも、書いちゃったんですよねえ」

冷たく暗い海へと足を踏み入れたのは、サツキの意思だった。しかし、背中を突き飛ばしたのはツツジだったのかもしれない。

「サツキが追いかけてくる前に小説を書いて、それを文学研究会に持ち込んで。気付いたら多くの評価が集まっていて。絶対にデビューできる、なんて」

そして、その評価は間違っていなかった。閉じられたパソコンのフレームを撫でながら、物語を紡ぐかのように言葉を続ける。彼にとってはほんの数年前の出来事で、紛れもない事実であるのに、どこか他人事のように虚ろな声だった。

「きっかけは文学研究会のサークルルームを見かけたことでした。オープンキャンパスにも行かずに志望校を決めたので、それは不意打ちで目に留まりました。どこのサークルに入るつもりもなかったんです。でも、覗くくらいなら良いかなって。来年、サツキが入学した際に案内できたらいいなと思って扉を叩きました。いま思えば傲慢ですよね。あいつの方が俺よりもずっと詳しいはずなのに」

近くのベランダの構造までしっかり覚えているサツキと、サークルルームを偶然見かけたツツジ。顔も声もよく似たふたりの青年が、時を違えて同じ場所に立った。本当に、ただ時が違っただけなのだ。もし彼らが同時にそこにいたなら、嬉々として連れ立って扉を叩いただろう。

「俺もサツキも幼い頃から小説を書いてきましたが、お互い見せ合うだけで終わることが多かった。周囲にそんな趣味の友人もいませんでしたし。小学生の頃、二色はたまに読んでくれて、文章を書くのが上手いと褒められたりもしましたが……」

小龍が幼少期から音楽の才能を見せていたように、サツキとツツジにも光るものがあったのだろう。だからきっと、心の奥底では、書かずにはいられない性質だったのだ。自分はサツキの真似をしているだけで、サツキがいなければ書いても意味がないと思っていた。それでも「書く」という行為への衝動は、意味の有無さえ飛び越えてくる。

もちろん、彼の周囲にいたサークルのメンバに悪意はなくて。彼が本来ここにいないはずの人間だということも知りやしない。絶対にデビューできるという評価はいつしか現実となり、それどころかラジオで報道されるほどの栄誉ある賞をとった。既に小説家としての立場を確立していた式見が、自らより優れた存在として彼を引き合いに出した。浜木綿が本当に選びたかったのは彼だけなのかもしれない、と。溶けるように暑い八月のある日。偶然にもカフェで出会った作家とファンという関係でありながら、誰よりも近い場所で共通の人物を思い浮かべていた。

「当然ながら交換日記は高校生でおしまいです。それどころかサツキは何も書かなくなってしまいました。ひとりで日記を綴ることもなく、息するように書いていた小説も、詩の一篇だって。最初は……なんだろう、こう、意地でも張ってるのかなって……思っていた頃もあったのですが」

そっちが勝手にそうしたんじゃないか、と腹が立つこともあったと言う。勝手に他人のふりをして、勝手にかわいそうな立場になっただけじゃないか、と。今までだって息をするように書いてきたのだ。そのうちどうせ、息ができなくなって書かざるを得なくなる日が来る。そう考えて、あえて気に留めずにいた頃があった。

ひと月経って。半年経って。一年近くが過ぎて再び受験校を選ぶ時期が来たとき、サツキは変わらず「書かない」ままであったし、蝶菜大学への進学を決めなかった。

「その時になってようやく気付いたんです。誰が悪いだとか、誰が原因だとか、そんなことを考えるような次元の話じゃないんだ、って」

負い目を感じながらもツツジが書くことをやめられなかったように。サツキの方は、全て自分次第だと分かっていながら書くことができなくなっていた。一年遅れてしまったが、彼の居場所はまだ空いている。ツツジが先に文学研究会に入り、いくつかの作品で評価されていようと、そこへ双子の兄弟が飛び込むことを拒む者はいない。

そんなことはサツキ自身がいちばん分かっていたはずなのに。

「誰のせいでこうなったとか、全く関係ないんです」

確かめるように同じ意味の言葉を繰り返す。

「俺は小説を書いた。書くことができるから。あいつは小説を書かなくなった。書くことができなくなったから。それだけの話なんです。不正に手を出したサツキが悪いとか、それに乗った俺が悪いとか、そんなことを考えたって事態は変わらない。俺だけが書き続けていて、サツキはもう書いていない。その状況が気味悪くてたまらなかった」

月並みな表現を使うなら半身を失ったような心地。元より彼らは一冊のノートにふたりで小説を書くような子供だった。ツツジの書いた作品はサツキの作品でもあったし、サツキの書いた部分を下敷きに、ツツジの望む展開へ繋げることもあった。その環境がふたりの境界を曖昧にし、ついに「成りすまし」という行為によってとどめを刺された。そういうことなのかもしれない。

自分の成りすました相手が、自分の夢を叶えていく。書けない自分を置き去りに、息するように書いている。それなら自分は何をすれば良いのだろう。八月。憧れの作家に会った彼は、確かに心躍っていた。それは後進として、作家の卵として、ではなく。読者のひとりという立場なら、心置きなく熱意を伝えることができた。あの日、あの場にいた作家はひとりだけで、他の作家の話など出ないものだと油断していた。

「けれども箱は開いてしまった、か……」

浅間は呟く。水没したからくり箱から出てきたのは、式見カオルの宝物だった。浜木綿に預けていたネックレスと、浜木綿から贈られるはずだった懐中時計。特別な副賞として用意されたそれにはシキミの花が描かれていた。

「俺も受け取りましたよ。文字盤に花がデザインされた懐中時計」

そう言って、ツツジは自身の胸の辺りに手を添えた。実際に懐中時計を着けているわけではないが、使うならその位置になるだろう。式見にはシキミの花なら、筒路仲春に贈られたものにはツツジの花が描かれていたはずだ。サツキとよく似た、ほとんど見分けのつかない花が。彼は兄弟へ見せびらかすようなことはしなかっただろうが、式見のものを目にした後では容易に想像がつく。緻密に描かれた花がありありと浮かんでしまう。

「逆の立場だったら、俺も考えてしまうかもしれない」

小説を書くことに「もしも」は存在しない。もしもこれを自分が書いていたら、なんてことはあり得ない。それでも、つい考えてしまうほどに彼らはよく似ていた。もしも自分が先に進学していたら。もしも自分の作品を読んでもらえていたら。式見本人の指南は仰げなくとも、それを引き継ぐ環境で執筆を続けていたら。

「もし自分が浜木綿賞に選ばれていたら、ほぼ同じものが手に入っていたんだな、って。サツキの花とツツジの花はとてもよく似ている。でも人間は、外見が似ているだけじゃ同じ存在にはなれない。サツキがサツキの立場で何を言ったって、式見さんは読者の言葉としてしか聞いてくれない……」

傍らのカップに手を伸ばし、ツツジは最後のひと口を呷った。

「式見さんが失踪したかもしれないという話は、風の噂で聞いていました。公にされていませんが、俺も一応は関係者なので。サツキが根っからのファンだったよな、伝えた方が良いのかな、と考えて連絡をとろうとしたのですが。メールは届きましたが返信はなく、スマホも生きているはずなのに、あいつが出ることはありませんでした」

「それで心配になってアパートを訪ねてみたわけだね」

浅間の確認にツツジはこくりと頷いた。兄弟との連絡がとれなくなった際の対応として、至極まっとうだ。よほど疎遠でない限りそうするだろう。サツキが自分から兄弟の話をすることはなかったが、尋ねられた際は素直に答えていた。男兄弟という言い回しに違和感は覚えたものの、触れづらい様子でもない。おおむね良好な関係なのだな、と浅間は認識していた。

閉じたノートパソコンの天板。銀色のロゴを指でなぞりながら、ツツジは話を続ける。

「八月の末頃、俺は合鍵を持ってここへ来ました。もし緊急性を感じたら、それを使って入ろうと思って。でも実際は施錠すらされていませんでした」

手すさびのように動き続けていた指が、ようやく止まる。とん、と爪を立ててパソコンを指し示した。

「これ、サツキのパソコンです。部屋に残されていました」

その言葉に、彼がロックを解除するそぶりなく使っていたことを思い出す。ツツジが無頓着なわけではなく、そもそも他人の持ち物だったのか。彼は鞄を引き寄せると中を探ってさらにいくつかのデバイスを取り出した。

もう一台のノートパソコン。テーブルの上にあるものとは色が異なる。そして大小二台のタブレットが出てきた。

「こっちのノートパソコンだけは俺のです」

そう言って脇に寄せる。つまりそれ以外は全てサツキのものだということだ。パソコンもタブレットも、店内で使っている様子を見たことがある。用途に応じて使い分けているようなので、全て集めればこれだけの数になるのも納得できた。ただ、小型のタブレットはあるものの、スマホは残されていなかったようだ。日付が変わる前、ツツジがスタンプを打ち込むために使うのを見たが、あれはツツジ自身のものだろう。

「ちなみに、どれにもロックは掛かっていませんでした」

「つまりサツキくんはスマホだけを持って失踪し、それ以外のデバイスはロックを解除した上で残していった、と……」

「そうですね。あいつのことだから、普段はちゃんとしているでしょう。わざと解除して置いていったんです。だから届いた電子メールも読み放題ですよ。ウェブ上のアドレスを使っていますから、パソコンやタブレットにも同時に届きます」

「ブラウザに保存されたブックマークなども?」

閉じられたままのサツキのパソコンを眺めながら、浅間は尋ねた。先ほど彼は、そちらのパソコンを使って交換日記のブログを見せてくれた。おそらくそれは検索で辿り着いたのではなく、サツキの使うブラウザに保存されていたのではないだろうか。失踪した縁者のデバイスを手に入れた際、最後に閲覧したサイトやブックマークを確認するのは自然な流れだ。

「そうですね……」

ツツジが手を伸ばし、サツキのノートパソコンを開く。タッチパッドを操作しブラウザを立ち上げた。カーソルが栞を模したアイコンの上に乗る。

「ブックマークには、二件のサイトだけ登録されていました」

あえてロックが解除されていたことも踏まえると、ここまで見られることはサツキの想定内なのだろう。敬愛する人を救えず、全てを捨てて姿を消した彼の挟んだ栞が、これらのページを示していた。片方は先ほど見せてくれた交換日記。

そして、もうひとつは。

「店長さんもそろそろお気づきなんじゃないですか? 今までの俺の説明では、明らかに足りない部分があるってこと」

ツツジの言葉に、浅間は微笑みだけで返す。確かに説明は足りていない。音信不通になった兄弟を探しに来た彼が、そのままサツキとして生活していた理由も分からないが、それより前の疑問として。

「打ち合わせもなしにどうやって成りすましたんだ、って思いませんか?」

人と人とが入れ替わるには、外見が似ているだけでは難しい。それまでの生活について緻密に伝達し、周囲の者を騙せるほどの情報量が必要だ。何も言わずに失踪したサツキと心配して訪れたツツジとでは、打ち合わせのタイミングなどなかったはず。

栞のアイコンがクリックされる。たったふたつの選択肢が現れる。

「俺は、シグナルグリーンの天使に呼ばれてここへ来たんです」

そう言って、ツツジは白いページに指をかけた。


   *


ヘッダーも背景も真っ白な、本のページのようにも見えるブログサイト。レイアウトは先ほど見た双子の交換日記に似ている。サイドバーに日付のリストがあり、月ごとに記事がアーカイヴされているようだった。

「サツキの部屋を訪ねましたが、ここって住人に開けてもらわないとセキュリティを解除できないんですよね。インターホンを鳴らしても応答がなかったので、いけないとは思いつつ他の方について入ってしまいました」

タイトルにあるのは、たった一列の文字。シンプルなフォントがまるで本のようだった。トップページから先へは進まず、そのタイトルを見ながらツツジの話を聞く。

「部屋の前のチャイムを押しても、やっぱり反応はなくて。これは合鍵の出番かと思いましたが、施錠はされていませんでした。中は薄暗く照明は全て消されていましたが、電子機器のランプだけがほのかに点滅していました」

部屋は綺麗に片付いていた。まるで、誰かが来るのを待っていたかのように。本来は物置として使うであろう小部屋にはベッドが置かれ、シーツがぴんと掛けられていた。冷蔵庫のコンセントが抜かれていたので、これが計画的な失踪であると認識する。当然、中身は空っぽ。ガスの元栓は閉められている。いくつかのタブレットやノートパソコンが、充電器を挿された状態で共にテーブルに置かれていた。

「スマホはありませんでした。部屋の中でサツキの番号に掛けてみても、着信音が聞こえることはなかったです。呼び出し音は鳴るので捨てたり壊したりしたわけでもない。定期的に充電されて、誰かの手元にはあるんです。きっとサツキが持ったままなのだと思いました。俺からの着信には気付いていて、あえて出ないでいるのだと」

警察に届ければどこまで調べられるだろうか、と考えたとき。

二台のタブレットが同時に光った。スリープ状態だが電源は落とされていないらしく、新着メールを伝えるバナーが見える。ツツジは思わず手を伸ばした。画面に触れたところでセキュリティに阻まれるものだと覚悟はしていたが、サツキの行方を知るためなら藁にもすがる思いだった。

ツツジの指先に応じて、タブレットは素直にメールを開いて見せた。

「双子だからって指紋まで同じわけではありません。もしかすると顔認証なら突破できるかもしれませんが、そういった様子でもなかった。最初からロックされていなかったんです。読んでくれと言わんばかりに、届いたばかりのメールが表示されていました」

その内容は大学からの事務的な連絡であったが、手がかりが増えたことを彼は喜んだ。もちろん、平時であれば兄弟のタブレットを勝手に覗くことなど気が引ける。しかし今は緊急事態だ。届いたメールやブラウザの履歴を調べれば、彼がどこにいるのか分かるかもしれない。隣にあったノートパソコンにもロックは掛かっておらず、ホーム画面にアイコンが整然と並んでいる。サツキが連絡手段として大学に登録しているのはウェブメールのようだ。タブレットにはアプリがインストールされており、パソコンではショートカットですぐに閲覧できるようになっていた。つまり彼のアドレスに届いたメールは所有する全てのデバイスで確認ができる。

悪いと思いつつもメールボックスを見た。大学からの連絡をはじめ、会員制のサービスや通販サイトからのメールが貯まっている。学友らしき相手とのやり取りもあったが、失踪の手掛かりになりそうな内容ではなかった。以前から家族間の連絡に使っていたアプリはアンインストールされていた。ツツジが兄弟を案じて送り続けたメッセージは、未読のまま放置されている。届いてはいるので退会したわけではないのだろうが、タブレットにもパソコンにもそのアプリのアイコンは見当たらなかった。

「サツキは定期的に実家へ近況を報告していましたし、たまに俺にも連絡を寄越していました。でも振り返ってみれば、交友関係についてはあまり話したことがなかった。だからまだ知らなかったんです。同じ小学校に通っていた二色と再会していたなんて」

八月の末といえば小龍は既に帰省している。もし鉢合わせする機会があれば、互いのことに気付けたかもしれないが。エントランスの郵便受けには「二色」という表札があったはずだが、それだけでは卒業以来会っていない旧友のことを思い出せなかった。隣人は留守にしており、部屋の中にはロックの解除されたデバイスだけがある。聞き込みより先にその中身から調べようと考えるのは自然な流れだった。

「最初にメールを調べました。送信メールはほとんど無く、受信メールばかり貯まっています。よくあるダイレクトメールや大学からの事務連絡が続いており、サツキの個人的な出来事に関する情報はありませんでした。そういったものはメッセージアプリの方にあるのかもしれませんが、タブレットからもパソコンからもアンインストールされています。再インストールするにもパスワードが必要なので、調べるには時間が掛かりそうだと思いました」

だからツツジは、次にブラウザを調べた。そのくらいしか手掛かりになりそうなものはなかったのだ。デスクトップに並ぶアイコンは少なく、テキストエディタやビューア、講義で課されたレポートをまとめたフォルダくらいだった。意味深に置かれたファイルなどもない。履歴は消されているだろうと思いつつ、彼はブラウザを立ち上げた。

「そこで見つけたのが……」

つらつらと当時の状況を話していたツツジが、ふと言葉を切った。手元のパソコンへ顔を向ける。栞を引いて開いたばかりのページを眺めていた。まだトップページの位置にいるので、そこにはタイトルの情報しかない。彼はこの本を最後まで読んだのだろうな、と浅間は考えた。

「……場所を、移しても良いですか?」

左手が天井を指さしている。いや、そこにあるのは二階の温室だ。緑の螺旋階段を上った先にある、ガラスと植物に囲まれた空間。

「温室に行くのかい? 構わないけれど」

どうせここにはふたりしかいない。来客があるような時刻でもなく、上から下までふたりきりだ。浅間が了承するとツツジはパソコンをぱたんと閉じた。荷物は置き去りに、小脇にパソコンだけを抱えて立ち上がる。そのまま案内を待たずに螺旋階段へ向かうので、慌てて追いかけて電灯を点けた。カフェのフロアライトの光が僅かに届くだけで、階段も温室も真っ暗なのだから。急に口数が減り、ぼんやり歩いていくツツジの姿を見て、呼び寄せられているようだと感じた。何に? という問いには答えられないが。

アマリリス、プリムラ、ダリア。

ポインセチアに、シクラメン。

カフェで眺めていたときとは逆向きに視界を流れていく鉢植えたち。階段を上るにつれて大きな植物が増えていく。アナナス、ドラセナ、ポトス、カラジューム。とん、という靴音が最上段に響いたとき、ふたりは星空の下の森にいた。

全ての照明を点けることは手間なので、フットライトだけが点々と足元を照らす。広いフロアに雑然と草木が置かれているが、中央のひとすじが動線として空けられていた。そのまっすぐな道をツツジは歩み続けた。ガラスの天井に引っ掛かるようにして輝く丸い月。真下を歩くひとりの青年。その先には店番をするためのデスクセットがある。

「店長さん」

無垢の木のデスクに到達する直前。青年が振り返って呼び掛けた。数メートル離れた場所に浅間は立っている。月が高い。何度も見た光景だ。白いタイルが月明かりを砕き、パズルのように散りばめていた。

「りりすちゃん、明日になったらここに来ますか?」

答えなければ、と思った。ほんの数メートル先。彼女が店番をする姿は鮮明に浮かぶ。立派なデスクの割には簡素な椅子に座り、傍らのラジオに耳を傾ける。今日も今日とて客は来ない。窓を開け、温室を一巡し、やることのなくなった彼女は靴音を響かせて階段を降りてくる。

「雨屋くんはここに来るよ」

今日はいた。明日もきっと来る。一階はカフェ、二階は広い温室。隣には一棟のアパートが建っている。これらが彼女の居場所だった。ここから離れたところにいる姿を、浅間は見たことがない。

「雨屋りりすはここにいる。この場所の他に彼女はいない」

その言葉を聞いたツツジは笑顔を見せた。いや、暗いのでよく分からない。月明かりは彼の頭頂を照らし、天使の輪のように輝くだけだった。顔は暗がりにあるまま、こちらに背中を向ける。あと少しだったデスクまでの距離を数歩で詰め切った。

「ここ、座っても良いですか」

木箱のような椅子を指して言うので、浅間は了承した。ツツジは椅子を引いて腰を掛け、デスクの上にパソコンを置く。そして、あたかも最初からそこにいた店員のように、退屈そうにこちらを見た。背後には滑り出し窓。頭上に垂れさがるヘデラの葉。装飾のためのリボンやカードが小箱に入っているが、長らく使っていないので埃をかぶっていた。ここのラジオはまだ聞けるだろうか。こちらには滅多に客が来ないので、全てが過去に置き去られたような姿になっている。それでも彼が座るとしっくり来た。ツツジがこの椅子に座ることなど初めてのはずなのに、今にもラジオを点けて物思いにふけりそうな。

「ここで見つけたのが、シグナルグリーンの天使だったんですよ」

手招きして呼び寄せられ、浅間も近くの椅子に座る。ツツジはパソコンを開いた。同じ画面を覗けるように互いに身体を近づける。まるで一冊の絵本をふたりで読んでいるみたいだと考えながら、彼の話に耳を傾けた。


   *


〈シグナルグリーンの天使〉と題されたブログサイトの内容は、一見すると日記のように思えた。ある女性の一人称で話が進んでいく。毎日つけているわけではないが、月に何度か特別なことがあった際に綴っているようだ。時には事件とも呼べるような、大変であったり不思議に感じたりするような出来事も起きる。その場合はひとつの記事に何日分もの情報が詰め込まれることもあり、特に長く読み応えのある日記になっていた。

――というのが、まっさらな状態でブログを読んだ者の感想になるだろう。

「ブックマークからこのブログを見つけたとき、すぐさま目を通しました」

順を追って記事を見せながらツツジが説明する。白い背景にシンプルな書体で綴られた文章が連なり、どこまでも本のようだった。最も古い記事は今年の一月のもの。最後に投稿があったのは十月。現在の状態では、そうなっている。

「一月の話を読んだ時点で、ここが舞台なのだと気付きました。一階はカフェ。二階は園芸店。隣には一棟のアパート。こんな場所があちこちにあるとは思えません。描写の視点は園芸店のスタッフのものだったので、彼女が自分のブログをサツキに紹介したのかな、などと考えながら読み進めました」

浅間は最初の記事に目を通す。一月十二日。客の少ない片田舎のカフェに、ひとりの青年が現れるところから話は始まる。普段は二階の園芸店を任されている店員が応対し、ピアスを巡ってひと悶着あった。そうしているうちに、店長が手にしたばかりの鍵を失くすという事件が起きる。彼は話を聞いただけで失くした鍵の在処を言い当て、お気に入りの人形のために小さな観葉植物を買った。帰り際に店長の紹介を受けてアパートへの入居を決める――そんなささやかな一日から〈シグナルグリーンの天使〉は始まった。

「どこか懐かしい文体だとは感じました。サツキが小説や日記を書くことをやめていなければこんな雰囲気の文章を書くのかな、と。ですが心情描写も含めて視点は女性店員のものでしたし、彼女の日記であることを疑いはしなかった。二月、三月とそのまま読み進めていきました。そして知ったんです」

小学生時代のクラスメイト、二色小龍が隣人であることを。卒業後に全く交流がなかったのはツツジにとっても同じなので、懐かしさも驚きも大きかった。彼に尋ねればサツキの行方が分かるかもしれないと思ったが、今は留守のようだ。仕方がないので続きを読むことにする。

音楽の道に進むと思っていた小龍が今は家庭教師をしており、生徒に対して並みならぬ感情を抱いてしまったこと。彼に双子の妹が生まれ、猫かわいがりしていること。アパートの隣のカフェでミステリイベントが開催され、サツキもスタッフとして参加したこと。手術をひかえた少年と数学者の養父、そして大学院生の〝友人〟によって紡がれる、ひりつくような初夏の一幕。気付けば息つく間もなく読みふけり、サツキの生活を追体験していた。視点はずっと女性店員のものだったが、彼女のいるところには必ずサツキもいる。日記のはじめでは登場していなくとも、店長や客と歓談していればふらりと現れる。旧友と再会し、少しずつ知人が増え、事件が起きては誰かが解決へ導く日々を追いかけて、ツツジはついに最後の記事へ辿り着いた。

「それまではどこか夢心地だったんです」

ツツジは顔を上げて浅間の方を見た。そしてパソコンの画面へ指を向ける。式見カオルの姿を確認できた最後の日、その日記が表示されていた。彼女の失踪は関係者の間で噂されているが、まだ公にはなっていない。だからこそサツキに伝えるために連絡をとろうとした。それが彼の部屋まで来たきっかけだ。しかし本当は、わざわざ伝える必要などなかったのだ。他ならぬサツキ自身が彼女の最後を誰より近くで見ていたのだと、画面の向こうから教えられてしまった。

「実在する場所が舞台になっていて、知っている人物が登場する。だから日記であると分かってはいましたが、まるで小説を読んでいるような心地でした。驚くようなことや、慌てるようなことや、心配になるようなことが起きたりもしましたが、最後には必ず解決される。そんな日々の繰り返しで。だから油断をしていたんでしょうね。今にも消えそうな状態で彼女が登場しても、きっと〈物語〉の最後には踏みとどまってくれると信じきっていました」

結末なんて、分かっていたはずなのに。

最後まで読み終えたとき、これは日記であると確信した。もっとも最初から日記と思って読んでいたのだが。仮に〈シグナルグリーンの天使〉が実録風のフィクションだったとしても、ここだけは絶対に本当のことだ。式見の失踪の経緯については想像で書けるものではない。特に、浜木綿賞の副賞として贈られた時計のことなど、実際に目にしていなければ知る由もないのだから。

「浜木綿先生が持ち歩いていたのは、直接渡す予定だった式見さんの分だけでしたから。俺の分は流星社の方へ配送され、担当編集者を通じて無事に受け取っていました。でも俺は言いふらしたりしていませんし、誰かに見せたこともありません。文字盤に花が描かれた懐中時計の描写は実物を見ない限りできないはずです」

つまり式見は確かにここにいた。そして、彼女を間近で見ていた人物がこの日記を書いている。その確信を得ると同時に、サツキが失踪した理由も分かってしまった。式見が浜木綿の後を追ったように、彼もまた愛する人を追いかけたのだ。八月の日記の中、死にたくなったことがあるかと問われた彼が「今かな」と答えている。手に取るようにそのときの気持ちが分かるのに、文章の外からでは寄り添うこともできない。

大切な人が死んでしまったら、自分も死にたいと思う。

単純だがことごとく反対されやすいその発想を、浅間は否定できないでいた。

「もっと早くに行動していれば良かった」

窓の外を眺めるような心地で浅間は言った。日記の中ではあの日のサツキが生きていて、自らの首に指を添えている。その描写に胸が締めつけられるものの、今となっては浅間にできることなど何もなかった。まるで透明なガラスに阻まれているようだ。

「当たり前だと思ってしまった。ここでどんなことが起きたとしても、明日になれば元気な彼に会えるものだと……。もう精一杯だと、今にも消えてしまいそうだと、こんなにも分かりやすく伝えてくれていたのに」

画面の中には活字で構成されたサツキがいる。そして目の前には、彼と同じ顔の小説家がいる。多重露光のように半分ずつ重なりながら、彼らはこの二ヶ月間を生きていた。施錠されていない部屋。自由に閲覧できるデバイス。普段の振る舞いや交友関係が記録されたブログサイト。全て揃っていたから。このまま〈彼〉になってしまえ、と。待ち構えるかのように揃っていたから。

ツツジは、左手に巻いた腕時計にそっと触れた。

「あいつだって俺に成りすましたんだ。だから」

知りたかった。ただそれだけだ。同じノートへ交互に小説を書き連ねる、溶け合うように曖昧な境界が引き剥がされたとき、彼の内側に残ったものは何だったのか。書くという存在証明の手段を封じられ、それでも夏までは生きようとした彼は何に支えられていたのだろう。他者の視点で書かれた日記だけでは分からない。分かるはずがない。

「だから、俺があいつになっても許されるんじゃないか、って。サツキが連絡を絶って部屋を空けている――つまり失踪していると知っているのは俺だけです。お隣さんの二色はちょうど帰省しているし、カフェの店員さんだって、きっとまだ気付いていない。八月の末といえばどの大学も夏休みの最中ですし……。でも、これが最後のチャンスだという考えは過りました。これ以上長く姿を見せないでいると、ただの常連客とはいえ心配されるだろうな、と」

ツツジは腕時計を外した。サツキを演じるために着けていたものの、むしろ自身が偽物であると明かしてしまった証拠の品。本当は小龍の愛用品だ。パーカのポケットに仕舞った後、小さく息をついて言葉を続けた。

「この日記を書いた雨屋りりすという人と、関わってみたかったんです」

サツキが店を訪れたときには必ず現れて、最も近くで彼を見ている。信頼しているものの誉めそやすことはなく、軽口を叩き合う年齢不詳の女。サツキの兄弟として会うのでは意味がない。彼が失踪したことを知れば、血縁者へ向ける言葉も変わってくるだろう。あくまで本当の言葉を聞きたかった。彼女の前でサツキとして過ごしてみれば、彼の生きた世界を知れるかもしれないと思ったから。

「君の言う雨屋りりすとは、この園芸店に勤めている女性のことだね?」

浅間が問うと、ツツジはうっすらと笑った。何を今さら、分かっているくせにとでも言いたげに。それでも改めて確かめなければならない。園芸店にはほとんど客が訪れず、稀に来たとしても必ず一階のカフェを通ることになる。浅間が全ての客を出迎え、目的に応じて案内している。実際はひとりきりでも上から下まで店番くらいはできるのだ。彼女は存在せずとも話が成立するような、曖昧な登場人物なのだから。

「……そうですよ」

外の寒さから切り離された温室、青々とした草木の中で。机に肘をついて、音の出ないラジオを傍らに。この光景だけを切り取れば、誰もが彼を店員だと思うだろう。そんな仕草でツツジは言った。

「二月。アパートの屋上で二色と話をした彼女のことです」

冬の深夜。爪痕のように細い月の下、彼らは許されない恋について語った。小龍にとっては既に結論の出ていたことだろうが、誰かに話すことによって救われる部分もあったはずだ。その役目を彼女は担った。

「三月には、温室で双子の少女にお姫さまと呼ばれていた彼女です」

花に囲まれているから眠り姫。はたまた、氷の城にいるから雪の女王だ、なんて。黒髪にエプロン、ジーンズというありふれた格好でありながら、幼子の空想しがちなキャラクタになぞらえられていた。

「五月には、壁掛け時計を操作した人物を突き止めていましたね。結果的には沖名さんの自首によって解決しましたが、それよりも先に彼女は気付いたようでした」

淀みなくツツジの話が続く。最初の浅間の問いかけには――雨屋りりすとは誰のことだという確認には十分答えているというのに、一方的に補足を続けていた。日記に書かれていた大きな事件、その中での彼女の活躍を片端から追っていくつもりなのだろう。彼女の行動は全て日記の中にある。日記に書かれていないことは、誰にも分らない。

「六月には、七珠さんの指輪が示す数字を導き出して難波先生との関係を証明しました。もし誰も指輪について言及していなければ、彼女は胸のうちを明かさないまま身を引いていたかもしれない。推理によってふたりの関係に気付き、その視点をもって話し合えたからこそ、背中を押すことができたのでしょうね」

確かにそうだ。そう読み取れることが日記には綴られている。実際にその場にいたわけではないツツジでも、日記を読めば彼女の関わった出来事を知ることができた。彼の指先はブログをスクロールし続けているが、もはや何を読む様子でもなかった。ただ静かに、走馬灯のように活字が流れていく。

「八月。彼女はサツキと共に、からくり箱の開け方を解明しました。実物がないので確かめることはできませんが、源氏香の図をもとにした仕掛けで間違いないでしょう。それと同時に、式見さんの著書のタイトルの法則性も判明した。全てを知ってしまったサツキのそばにいて、その最後の姿を見ていたのが彼女でした」

指が止まる。サイドバーには九月以降の日付もあったが、まるで見えていないかのように触れようとはしない。ツツジは顔を上げると椅子を軋ませながら立ち上がった。

「そんな彼女に会えることを期待して、俺はカフェの扉を開けたんです」

来たときと同じように靴音を響かせて温室を歩く。しかしパソコンは置いたままなので、このまま立ち去るつもりではないようだ。浅間は机の脇から動かなかった。遠ざかっていく背中を目で追いながら、ぽつりと言葉を投げかける。

「それじゃあ、さぞかし驚いただろうね」

音信不通の兄弟を案じて来たはずの彼が、いつの間にかその生活を引き継ぐことを決めていた。そうさせるほどの引力を持つ女性が〈シグナルグリーンの天使〉の中にいる。緑の螺旋階段を上った先にある、広い温室が居場所だと自ら何度も宣言している。しかしそれだけのことだ。ただ文章として描写され、彼が読んだというだけのこと。現実でも確かに存在していることの証明にはならない。


「雨屋りりすが、本当はどこにもいないってことに」


そう言いながら浅間はパソコンの画面へ視線を向けた。机に置き去られたそれには、変わらず彼女の日記が表示されている。いや、よく見るとこれは管理者画面だ。アドレスを教えられた者が読者として辿り着くページではなく、執筆者が出力を確認しつつ記事を書くための画面。もし雨屋りりすという人物が実在し、日記の書き手であったなら、管理も彼女が行っているはずだ。サツキと出会った日から始まったブログがサツキ自身の管理下にある理由とは。

「日記を読み込んで、服装もサツキに寄せて。初めてカフェに入ったとき、りりすちゃんの姿はありませんでした。二階の温室も確認しましたが、どこにも見当たらない。自分から触れるのもボロを出しそうで怖かったのですが、数日経っても彼女は現れないままだったので、ついに店長さんへ尋ねました」

――りりすちゃん、今日は来ていますか。

そう尋ねられた記憶は浅間にもある。あの時はサツキからの言葉として受け取ったが、実際にはツツジが困惑の中で発した言葉だった。日記は雨屋りりすの視点で綴られており、頻繁に休みをとっている様子もない。交代で出勤しているわけでもない店員が数日続けて姿を見せないのは異常だろう。

「あの子はいつでもここにいるよ」

しかし浅間は、そう答えた。

「会いに行くかい?」

温室の中央に立つツツジに向かって、傍らの椅子を指し示す。先ほどまで彼が座っていた椅子だ。今は斜めにずれたまま空いている。いつもなら園芸店の店員が座っているはずだが、今は深夜でいないのだ。ここでつまらなさそうに腰掛けながら、壊れかけたラジオに耳を傾け、階下に来客の気配がないか気にしている。退屈凌ぎに自ら降りてくるくせに、こちらが手伝いを頼むと仕事を押し付けられたとぼやく。しかし嫌味は感じられない。螺旋階段に置かれた鉢のアマリリスのように、明るく奔放な性格の店員がいた。

いたはずなのだ、彼の世界には。

「僕は〈シグナルグリーンの天使〉の登場人物でもあるけれど、元になった出来事を実際に見ているからね。基本的には起きたことをそのまま綴った日記だけど、雨屋りりすに関わる部分だけが辻褄の合うように改変されていることが分かる」

一月。サツキの元へ牛丼を運んだのは浅間だった。机の上のメモ帳が目に入り、会計の小銭が多かったことからも、彼がミニチュア家具を集めているのだと推測ができた。だから退店する前に温室へ案内したのだ。浅間はサツキの趣味の買い物を。サツキは浅間の失くした鍵の在処を。互いの問題を解決したふたりの関係は、単なる客と店長という枠から外れて転がり始めた。

二月。小龍の見る夢について興味を持ち、そこで流れる音楽の原因を調べていたのはサツキだけだった。階段を踏む音が旋律を奏でることに気付いたのも彼ひとりの力だろう。旧友が罪悪感によって夢に囚われていると知り、アパートの屋上で彼と話をした。あの建物のセキュリティは住民にしか解除できない。隣の店のスタッフなどがこっそり屋上へ侵入することは不可能だ。

三月。小龍が出掛けている間、サツキと浅間のふたりで妹たちを見守っていた。退屈しないようにと二階の温室を案内したが、そこで出迎える人物などいない。少女たちが架空のプリンセスを見出したのは、日ごろ触れているアニメなどの影響だろう。電話口でサツキが話を繋げ、浅間が双子の居場所を推理するというタッグによって、無事に兄と合流させることができた。

「推理をしてそれを事態の解決に繋げるという意味では、僕たちは代わるがわる探偵を務めていたと言っても良いだろう。でも本物の探偵ではない。どんなに考えても分からないときや、証拠までは掴めないときもある。犯人の方から名乗り出てくれたり、他の要素によって解決に導かれたりした場合は、展開を壊さない程度に雨屋くんの手柄として扱われているようだね」

五月。サツキと浅間は主催側としてイベントに参加したが、給仕を演じたのは小面ひとりだった。さして広くない店なのでそれで十分だ。時計の針を動かした人物について三人で推理したものの、ついぞ誰も結論にはたどり着けなかった。沖名が店に戻ってきてくれたからこそ、あの日に何が起きていたのか判明したのだ。

六月。サツキは七珠と難波の指輪が示す日付について勘づいたが、七珠に認めさせるだけの証拠は掴み切れずにいた。あなたと難波先生はただの知人ではない、家族として結ばれるべき関係だと訴えてみても、彼女は身を引くことを決めてしまっている。だがまさにその時、結婚指輪を携えた難波が店に入ってきたのだ。結果、ふたりはハジメの両親として彼の手術に向き合うことができた。

そして八月。雨屋りりすの大きく関わる事件が起きた。この店には様々な客や関係者が現れるが、彼女が個人的な縁を持つ相手はいないはずだ。例えばサツキの隣人であったり、浅間と旧知の仲であったり。しかし唯一、彼女が最初から自分の友人として紹介した人物がいる。他の誰かを経た関係ではなく、ただ自分とだけ繋がる存在として。

「ここには式見カオルの友人なんていない」

黙って浅間の話を聞いていたツツジが、ようやく言葉を返した。

「雨屋りりすは存在しない。ならば、式見カオルの友人だってここにはいない。サツキはただのファンだ。店長さんだって彼女のことはよく知らなかった」

「そうだね。式見さんは友人を訪ねてここへ来たわけじゃない。ほんの偶然だ」

あの暑さでは喫茶店に入りたくなるのも当然だが、近くにはレストランのチェーン店などもある。ここを選び、ファンと出会ったのは偶然によるものだった。サツキがサインを求めたので著作がカフェへ持ち込まれ、それを見た浅間が著者近影の違和感に気付いた。秘密を言い当てられた式見は彼らの推理力を認め、からくり箱の開け方について相談した。そういった話の流れにおいて、雨屋りりすが式見カオルの友人であるという〈設定〉は全く必要ない。

「サツキが何故そういうことにしたのか、分かります?」

ツツジにそう問われ、浅間は頷いた。もちろん本人ではないので断定はできないが。彼があの日の日記を書いたのは式見と別れた後だろう。コーヒーを待つ時間を憧れの作家と過ごし、彼女の相談を解決し、しかし根底から彼女を助けることは叶わなかった。去り際にアマリリスの鉢を渡したのは雨屋りりすだ。架空の存在である彼女が、最後に友人を笑顔にした、と――

そういうことに、なっている。

「天涯孤独になった式見さんに、ひとりのお友達を贈りたかったのだろうね」

孤児として育ったが、施設の仲間や職員とは深い関係を築けなかった。親のように慕う相手も亡くしてしまい、ついぞひとりきりだ。そんな彼女が死をほのめかしながら姿を消した日、その出来事を振り返りながら彼は日記を書いた。アマリリスの鉢はいまだ螺旋階段にある。そもそも、秋咲きの品種なのであの夏の日に花は咲かない。サツキは式見を引き留めることができなかった。大輪の花で埋まった鉢を渡し、自らの名前になぞらえて、友人である自分だと思って大切にして、なんて言えたなら。もしかすると彼女の心は幾分か晴れて、思い留まってくれたかもしれないのに。

大事なことは何もかも、架空の存在に託すしかなくて。

「当然ながら、日記の中で何を書こうが式見さんには伝わらない。彼女はこのブログの存在を知らないだろうしね。それでも、どうしても書かずにはいられなかったんだ。ひとりのファンが必死になっても溶かせなかった心を、こうなるまで静かに積み重なり続けた何かを、彼女ひとりに背負わせるわけにはいかないから、と」

本を開くとき、そこにはひとつの世界が生まれる。インターネットに漂う活字の群れも、万年筆で綴られた日々の記録も、形は異なるが本と同じだ。サツキの書いた日記の中では式見カオルに友人がいた。天涯孤独の作家にも、笑い合える相手のいる世界だった。ひとつくらいそんな世界があっても良いだろう。誰に迷惑をかけるわけでもない。この小さな世界は、たったふたり――否、増えたとしても三人しか知らないのだから。

「……そうなんですね」

浅間の答えを聞いたツツジは、薄く笑みを浮かべて言った。曇っていたガラスの向こうがようやく見えたかのような、深く納得した声色だった。

「俺、このことがずっと不思議だったんです。りりすちゃんが式見さんの友人だという設定を足しても、事実は何も変わらないじゃないか、って。アマリリスの鉢はここにある。県境を走る路線バスの中に、大輪の花を抱えた女性なんていない。世間に公開されている日記でもないのだから、罪滅ぼしにもならない。俺だったら、こんなどうしようもないことはありのまま書くしかできないから。でもサツキは違ったんだ」

かつては同じノートに小説を書いていた少年たちも、いつかそれぞれの道を歩み出す。真似をしているだけのつもりでも、彼には書けて自分には書けない描写がある。それが彼らの存在証明だ。書けないということは悪ではなく、きっと自分だけの表現方法があるということ。それに気付ける日が来れば、彼は本当の意味で前に進める。

「こんな話ができるってことは、店長さんも〈シグナルグリーンの天使〉を読み込んでいますよね。どこで知ったのですか?」

「そうだった。そのことも説明しないといけないね」

ツツジの問い掛けに、はたと思い返す。彼がサツキのふりをして店を訪れるようになった頃、最初に驚いたのは「雨屋りりすがいない」ということについてだろう。そして次に疑問に思うのは、全てをひとりで切り盛りする店長が「あの子はここにいる」と発言したことだ。誰のことだと首を傾げることもなく、何日経っても姿を見せない店員の名を知っている。とはいえ、あからさまに〝居るもの〟として扱っている様子でもなかった。そのような演技をしているわけではなく、常連客の話題に上ることもない。ただ「いますか」と尋ねたときだけ「いるよ」という答えが返ってくる、木漏れ日のように曖昧な存在として雨屋りりすはここにいた。

ツツジと同じように浅間もブログを読み込んでいないと、こんな状況は起こり得ない。ではどのようにして読んだのかというと、それは浅間自身から説明しないと分からないことだろう。

「僕がこのブログの存在を知ったのは、三月のことだった」

半年以上前のことを振り返りながら順を追って説明する。最初に気付いたのは、レジ台の横のデスクに置かれた一枚の紙片。そこには一行のアドレスと二次元コード、そしてパスワードと思われる文字列が印刷されていた。差出人の名前はない。だがこのような奥まった場所にこっそり紙を置く人物について、ひとりだけ心当たりがあった。浅間がここで事務作業やパソコンの操作をしていることを知っている人物。一度きりの客ではなく、遠方から訪れた知人でもなく、毎日のように顔を合わせている大学生。脳裏に如月サツキの姿が浮かんだ途端、きっと彼だという確信に満たされた。

「どうして直接渡してこなかったのか、疑問には思ったけどね。でも彼の教えてくれたものなら大丈夫だろうと考えて、そのアドレスを入力したんだ」

いま思えば不用心だ。しかし後悔していないし、間違っていなかった。その紙は確かにサツキが置いたもので、アドレスは〈シグナルグリーンの天使〉へと繋がっていた。明らかにサツキが書き綴った、彼しか知らない情報の含まれた日記。しかし視点はカフェを訪れる大学生のものではない。私、という一人称の視点が別に存在しており、それは架空の女性店員へと紐づけられていた。あえて別の視点を設けた意図は分からなかったが、同時にひとつ気付いたことがあった。彼女はどこから生まれてきたのか。架空とはいえ、ひとりの人間を作り上げるためには発想の拠り所が要るはず。それが何なのか、日記を読み始めてすぐに把握した。

その女性店員が着けているピアスに見覚えがあったから。

「僕のことは〝実際の歳より幾分老けて〟いると書かれていたね」

浅間が冗談めかして言うと、ツツジは小さく笑った。

「それは許してやってください。最初の日記を書いた頃は、当人に見せるつもりなんて無かったでしょうから。壁に貼られた雑誌の切り抜きを読めば、店長さんが取材にいらした先生と同い年であることは分かります。あいつ、そういうところから相手の情報を探すのが得意なんですよね」

以前からカフェの壁に貼られているタウン誌のような内容の記事。そこから浅間の歳を推測し、雨屋りりすの視点から彼を描くための材料にした。かつて同級生だった作家と同じ歳であるはずの店長は、実際より幾分老けて――否、渋く見える。そう感じたのはサツキ自身だが、彼の視点は彼女の視点でもある。そのような情報収集と再構築を繰り返しながら、実体のない女性は少しずつ肉付けされていった。

最初はピアスの描写くらいしかなかったが、三月の日記では黒髪であることが明かされている。ポロシャツにジーンズ、ロゴすら入っていないエプロン。ひとりっ子。将来の夢は司書になること。それもただの図書館ではなくて、本をたくさん積み込んだ車で日本中を巡り、ひとりでも多くの人に読書の機会を作りたい。

「読み進むにつれて、雨屋くんのことが分かっていく。同じ場所で働くスタッフでありながら、実際には会うことのできない透明な存在が色づいていく。日記は毎日綴られるわけではないし、書く度にサツキくんから報告があったわけでもない。だからブログを定期的にチェックしていたよ。何よりも僕自身が彼女のことを知りたかったからだ。僕が平穏な時間を過ごした日、あるいはここで特別なことが起きた日、すぐそばにいるはずの彼女は何をしていたのかな、って。何を思い、どのように行動して、そしてどんな夢を持っているのだろうか、って」

六月、七珠がカフェに集う人々に将来の夢を語らせたとき。目的はハジメの言葉を引き出すことだったが、あの流れなら雨屋りりすにも順番が回ってくるはずだ。カウンタでグラスを磨いていた浅間は話の輪に入っていなかったが、誰の目にも映らない店員のことを思いながら耳を傾けていた。サツキはきっとこの時のことを綴るだろう。後で日記を覗いてみれば、彼女がどんな夢を語ったのか知ることができる。

「……それで良いのですか」

温室の中央にいるツツジが、遊ぶようにゆらゆらと歩きながら呟いた。やがて観葉植物に囲まれた一角にベンチを見つけ、静かに腰を下ろす。

「店長さんは、この日記を読んで納得できたのですか」

苛立っているようにも感じられる声色だった。その言葉を聞いて、自分と彼では日記に対する認識が異なるのだと気付く。納得できたのか、と浅間に対して問い掛けてはいるが、実際に納得できていないのはツツジの方なのだろう。

「だってそんなの偽物じゃないですか。雨屋りりすは存在しない。存在しないのに、その情報だけは他人から借りている。容姿も、着けているピアスも、将来の夢も家族構成も、全部本当は別人のものだって店長さんは知っているんでしょう」

必要に駆られて兄弟の部屋を訪れた。残されていたパソコンを覗き、彼の生活を綴った日記を見つけた。それを書いた人物に会いたいと思ってカフェへ潜入したというのに、待っていたのは「彼女は存在しない」という現実。存在しないのに設定はある。どんな見た目で、何を身に着け、何を夢見ているのか。ツツジは目当ての女性にこそ会えなかったが、日記の中で積み重なっていく情報が本当は誰のものであるのか知ってしまった。

「全部本当は、大切な娘さんのものじゃないですか」

分かっている。浅間だって、そんなことくらい分かっている。カウンタの内側に飾られた写真。傍らのトレイにはひと揃いのピアス。細いチェーンが輪になった先に小さな石がぶら下がる、人形の首飾りのような。彼女はひとりっ子。確かにそうだ。二色の妹たちが来て家族の話題になったとき、娘がひとりいると話した覚えがある。黒髪にシンプルなポロシャツとエプロン。いつかの夏休み、縁日でアルバイトをしていた際の恰好だ。写真にもその姿で収まっている。将来の夢は司書。言った。確かに言った。

「そうだね。その通りだ」

思い返しているのは娘のことか、それとも〈彼女〉のことなのか。頭に浮かぶ顔を見据えてみても、重ね合わせたように同じで判別がつかない。サツキはあの写真をもとに彼女を作りあげた。だから双子よりもそっくりだ。それでも性格や言葉遣い、生きた軌跡は全く異なることを浅間は知っている。知っているはずなのに、今はただ見分けのつかない笑顔が脳裏に貼りついていた。

「君の言う通り、雨屋くんに関する描写には僕の娘を元にした部分が多い。カウンタの席からも見える場所に写真を飾っているけれど、例えば服装などは偶然の一致には思えないだろう。だから心配してくれているんだね。大切な家族が別人として日記に登場していること、書き手の都合の良いように操られていることに納得できるのか、って」

一月。サツキは初めてこのカフェを訪れた。カウンタに近寄ったときに彼女の写真を目にしたはずだが、それ以外の接点はない。だからこそモデルにしやすかったのだろう。話したこともない相手の特徴を取り込み、名付け、自らの生活を代わりに語る存在とした。それを「操っている」と捉えるならば、確かに父親としては見過ごせない行為だ。

「でも僕は大丈夫だ。サツキくんは全て話してくれたから」

浅間がその言葉を告げたとき、ベンチの人影がハッと顔を上げた気がした。実際のところは分からない。アイアンのベンチが蜘蛛の巣にも似た影を落とす中、獲物のように引っ掛かる塊があるだけだ。影の中では顔の向きなど判別できず、ツツジ自身の姿も取り囲む枝葉に隠れて窺えなかった。

「サツキくんは自分の視点で日記を書けない。たしか二月のことだったかな。夢の記録を見せてくれたことがあったけれど、全て自分ではなく架空の存在を主人公とした物語として書かれていた。小説も日記も書けなくなってしまった彼にとって、そのどちらでもない〈自分の経験を他人の視点で語る〉という形が精いっぱいだったんだ。抜け道を使って自分のトラウマを躱しながら、リハビリを始めたと言い換えてもいい」

世の中の人間のほとんどは、日常的に文章を綴る習慣などない。何も書けずとも人生はひとりでに過ぎていく。それでも彼はもがいていた。書けないなら書かないままでもいいと分かってはいたが、何かをきっかけに元の自分へ戻れやしないか、と。

「買い物の帰りに初めて入ったカフェで食事をして、慌て者の店長が失くした鍵を見つけて、その場で部屋を紹介されてこれからの生活が決まった。一階は喫茶店。二階は大きな温室の園芸店。ここで起こる出来事を書いていきたい――サツキくんがそう思ってくれたから〈シグナルグリーンの天使〉は始まった」

それは、その生活を構成する登場人物としても喜ばしいことではないか。事実と大きく異なる部分もあるが、彼が日記を書くためにはそうするしかなかった。そこまでして書きたいと思ってくれたことがまずは嬉しい。

「僕とサツキくんは日記だけを介して雨屋くんの情報を共有していたわけじゃない。確かに最初に見かけたメモはこっそり置かれたものだったけれど、彼は以降も変わらずカフェへ来ている。ふたりきりになる機会もあった。そのときに直接、僕たちはブログについて話し合ったんだよ。自分自身の視点では日記を書けそうにないということ。飾ってある写真を元に架空の店員を作ったこと。子供の頃は息をするように執筆できていたのに、あるときから何も浮かばなくなってしまったこと。でも、今なら。この生活のことならいつまでも綴っていきたいと感じた、と」

だから納得はしているのだ。ツツジが案じるまでもなく。浅間がアドレスを渡されてブログを読み始める前から、雨屋りりすは既に二ヶ月を生きている。そんな彼女を見た上で、これからも生き続けて欲しいと思った。

「……でも悪趣味じゃないですか」

蜘蛛の巣の中央から声だけが返ってくる。高い位置にあった月は夜明けが近付くにつれて角度を変え、もはや多くを照らさなくなっていた。木々やベンチの影が長く伸びて絡み合う中に、溶けるように崩れた形の青年がひとつ。

「日記なんだから、本当は自分の視点で書かなくちゃいけないんです。それができなくて別の視点を作ったのなら、モデルは隠し通すべきだった。わざわざ親御さんに見せて何になるんですか。都合の良いところだけ掠め取って、他は何もかも違うのに。娘さんを思い出す時やこれから会う時、あいつの書いたことはノイズになってしまう。しかも、万一にもご本人に知れたら大変ですよ。気味が悪い。なんてことをしたんだ、って俺なら思います。当事者がいないんで説教することもできないですが……」

ツツジが立ち上がる。ベンチや木々の影絵から、ひとつの人影がぬるりと分離する。そのままこちらへ歩いてくる最中、着くのも待たずに浅間は言葉を投げかけた。

「それは、事実とは異なるね」

今の言葉で確信した。彼は大きな勘違いをしている。娘さんを思い出す時やこれから会う時。万一にもご本人に知れたら。そんな話をするのは、いつかピアスを取りに来る人物がいると信じきっているからだ。説明しなければならない。口を開こうとした瞬間に襲う記憶を跳ねのけながら、できれば二度も告げたくなかった言葉を絞り出す。もうひとりの彼に対して話したときの感情が、そっくり蘇ってくる。

「娘はもういないんだ。どこにもいない。ピアスは一月の時点であのトレイに置かれていたし、サツキくんはそれを見て雨屋くんの描写をした。今も同じ場所にある。誰も取りに来ていない。そういうことなんだよ」

足音が消える。あと数マスのタイルを残し、歩みを止めたツツジが硬直していた。観葉植物をかき分けながら歩いたせいか、その左手が半端な位置に浮いている。何かに縋るために手を伸ばしているようにも思えた。

「それで……許したんですか?」

腕が下ろされる。身体の脇に落ち着いた後、強く握り込む様子が伺えた。

「もう本人はいないから、偽物を作られても構わないって? 初対面の人間が写真だけ見て書いた存在なんて、似ているはずがないのに」

「もちろん全く違う。似ても似つかない。それでもいいじゃないか。彼女は亡くなってしまったのだから、そのまま戻ってきてくれと願うのは虫が良すぎるだろう。僕のことは父親だなんて思っていなくても、口調や性格が似ていなくても、ただそこにいてくれるだけで十分だ。本当は消えていくだけのはずだった。毎日写真を眺めていても、少しずつ記憶から薄れていくだけの運命だった。それなのに戻ってきてくれたのだから」

それはあたかも天使のように。

一度は天に還ってしまった大切な人が、いつの間にか隣に立っていた。

「サツキくんも悩んだと思うよ。日記を書き始めた時点では、君と同じく彼女は存命だと思っていた。けれども三月、家族の話題になった際に僕は娘のことを話したんだ。四年前に亡くなったことをきちんと説明した。日記というものが真実だけを綴るものなら、彼はこの話も書き記すべきだ。そうすれば〈店長の娘〉の死は確定する。雨屋くんがどんなに彼女の要素を取り入れていようと、同一視することはできない」

けれども彼は書かなかった。浅間の娘が亡くなっているという事実は胸に留め、日記の中では触れずにいた。娘がひとりいるという情報だけが浅間の口から紡がれ、それに前後して〈彼女〉が自分はひとりっ子だと話す。ふたりの登場人物は同じことについて話しているのだが、読者にはそれが悟られないような表現で切り抜けた。

「雨屋りりすがここにいる限り、彼女を依り代として亡くなったはずの娘さんを重ねることができる……」

確かめるようにゆっくりと呟いてからツツジは息をついた。デスクまでの残りの距離を歩み寄る。そして再び浅間の隣の椅子に収まった。斜めに置かれたパソコンへ手を伸ばし、ブログの管理画面から何かを確認しようとしている。しばらくして表示されたのは、サツキが失踪した後に投稿された数件の日記だった。

「そうやって天から降ろそうとしたんですね」

彼は目を伏せる。表情の読めない顔をしていた。

「そんなこともつゆ知らず、俺は九月以降の日記を書いていました。ピアスのことにも触れた気がします。写真の隣にあったピアスが彼女のものだろうという推測は合っていましたが、ただ置き忘れていったのかと思って……。それほど深くは触れていませんが、店長さんは読んでいるときに違和感を覚えたでしょう」

さすがにあれを浅間の私物だとは思うまい。客の忘れ物なら、プライベートな写真の隣には置かない。白いトレイに並べられた、きらきらと輝く可愛らしいピアス。いつか当人が取りに来る予定があるからこそ、郵送することもなくそこにあり続けているのだと。そう思ってしまうのも仕方がないのかもしれない。

「三月に、僕が〈シグナルグリーンの天使〉のアドレスを受け取って」

サイドバーに並ぶ九月以降の日付を見ながら浅間は話す。週に一度か二度、滞りなく日記は投稿されていた。サツキが書いていたペースを崩さずに、彼のいない間の記録をツツジが残している。浅間自身は日記をつけることが得意ではないため、これは立派な才能だと羨ましく感じた。

「しばらくして月が替わってから、初めてサツキくんが彼女の名前を口にした。それまでは日記の中にだけ存在していて、僕も読むようになったとはいえ、本当にいるかのように扱ったことはなかった。カフェも園芸店もひとりで切り盛りして大変でしょうと言われたら、忙しくとも充実した日々だと答える。それが紛れもない現実だ。他のお客さんの前では彼女のことを話題に出せない。でも四月のある日……朝一番に彼が来てくれた日。ふと思い出したかのようにこう言われたんだ」

――りりすちゃん、今日は来ていますか?

「それはつまり、雨屋りりすは存在し続けてもいいのか、という確認だった。彼は日記を書くために架空の店員を作ったけれど、容姿を借りた人物が故人であると後から知った。その瞬間に〈シグナルグリーンの天使〉は彼だけの日記ではなくなってしまったんだ。もちろん隠し通せば済むことだ。律儀にアドレスやパスワードを教えて僕に見せる必要はない。こっそり書き続けていても誰も気付きやしないだろう。それでも彼は僕に教えてくれたし確かめてくれた。僕が許したんだ。雨屋りりすはここにいても良い。いや、いつまでだっていて欲しい、と――」

「そうして一年が経とうとしています」

浅間の言葉は、本を読み上げるかのように滔とした声に遮られた。パソコンを操作していたツツジの指が止まっている。九月以降の日記をスクロールし続けていたが、それも最後まで到達したのだ。サツキが書き残した八月の日記ではなく、ツツジが引き継いだ部分まで含めた本当の最後。そこに綴られていたのは、イベントに参加した智恵子が巻き込まれた事件の一部始終だった。つい昨日に起きたばかりの出来事を彼はその日のうちに書き上げたということだ。それを投稿してから、光の漏れるカフェを覗きに来た。

ウミガメのスープに興じるシーンから始まっているが、実際はツツジの出題に誰も解答できなかった。柏木が惜しいところまでヒントを引き出したが、詰めきることができずに降参していた。そのため日記の中では雨屋りりすが答えたことになっている。元よりツツジはこの場にいなかったのだから、ほとんどが小龍からの報告に想像を混ぜて繋ぎ合わせた苦しまぎれの内容だ。それでも彼は書いた。サツキならこんな事件の起きた日を記録に残さないわけがないと考え、書かずにはいられなかった。きっとそういうことだろうと浅間は解釈している。

ツツジは日記が終わった後の何もない空間を見据えながら、言葉を続けた。

「この一年で、サツキは何か変わりましたか? 小説を書き、誰かに見せ、以前のように息ができるようになりましたか? もちろん、彼が秘密裏にやっていることは知りようがない。リハビリのように書ける範囲で書き続け、いつか復帰してやるという気概があるのならば喜ばしいことです。でもそれは楽観視が過ぎるというものでしょう」

突き放すような語気が胸に刺さる。そうだ、彼はずっとそれだけを案じて行動していたのだ。原因や過程、ここで起きた出来事などは捨て置いて、書けなくなった兄弟のことだけが気がかりだった。彼が泥沼のような息苦しさから脱しているのならそれで良い。自分の視点の日常を、あるいは自分の創造した物語を書けているのなら。だが抜け殻となった部屋から見つけ出したのは、そのどちらとも称しがたい奇妙な形式の日記だけで。

「店長さんは雨屋りりすの存在を許しましたが、彼女がここにいる限り、サツキが自身の視点で日記を書くことはありません。このブログは彼の手によって管理されているというのに、彼の存在がすっかり消えてしまうんです。自分の見た光景、考えたこと、関わりのある人々。全て彼女に吸い取られていく。架空の存在を生きながらえさせるためには、書き手が得たものを分け与えるしかありませんから」

ツツジが初めてこのブログを読んだとき、文体が似ているとは思いつつも、兄弟が書いたものだとは気付けなかった。雨屋りりすの存在が強固に出来上がっている証拠だ。実際はサツキの見聞きしたことしか綴られていないはずなのに、彼が彼女より前面に現れることはできなくて。

「これでは他人に成りすましてしまったあの日と変わらない。一日だけではなく、ずっとこの状態であるのならなおさらだ。こんな日記を書き続けたところで、いつか彼自身の存在証明ができるようになるとは思えないんです。後からサツキの視点に変えるわけにもいかないから。天から降りてきた彼女をあなたが認知した以上、そう簡単に無かったことにはできません。彼はこれからも存在を貸し続けることになる」

ひと息に言い終えた後、ツツジの視線があからさまに揺れた。おろおろと浅間の様子を窺うように往復する。これからどうするのかはとっくに決まっていて、自身を奮い立たせるために強い言葉を使っているが、目の前の人間を無下にすることもできない。何か反論を受ければ折れてしまうだろう。そんな優しさと危うさが伝わってきた。

「君は、どうしたい?」

聞くまでもなく続きの言葉は薄々と予知できた。それでも彼の口から引き出すため、浅間はたたみ掛ける。

「確かに僕は日記を読ませてもらった。その中で、亡くなったはずの娘と再会することができた。でもそれは運が良かっただけなんだ。自分自身では何をすることもなく、偶然にも娘を書き綴ってくれる青年に出会えただけだ。その奇跡に甘えていた。今さら取り上げないでくれと縋るつもりもない」

嘘だ。本当はずっと一緒にいたい。日々の何気ない出来事の傍らに、彼女ならどんな話をするだろうかと考えながら生きていたい。パソコンの発する白い光が滲むのを感じ、慌てて視線を逸らす。

「大丈夫。僕のことは気にしないでいい。これは君たちの問題だ。君自身と、サツキくんのことだけを考えて決めて欲しい。どんな結論を出しても僕は止めたりしないから」

心にもないことを言っている、と話しながら思った。祈るような気持ちでツツジの横顔を眺める。早く、何か答えて欲しかった。そうでないと次の言葉を発してしまう。宣言したばかりのことを、みっともなく撤回してしまうかもしれない。ひとつ、ふたつと過ぎる時間を数えているうちに、その唇がようやく動き始める。

そうして彼は、浅間の覚悟していた言葉を告げた。

「店長さん。俺は……雨屋りりすを殺そうと思います」

日記の中でしか生きられない者の居場所を奪うこと。それは紛れもなく死であり殺人でもあった。ブログを消す。内容を書き換える。誰も読めない状態にする。それだけで簡単に死んでしまう。そして、ツツジが九月以降の日記を書けたということは、その全てを行う凶器が手の中にあることを意味していた。

「俺は日記の続きを書きました。サツキのパソコンを使えば、管理画面で執筆することができたから。あいつはそれをスマホから確認できるはずなんです。何者かが部屋に入り、残されていたデバイスを使い、自分の代わりに嘘を交えた日記を書いている、って。勝手なことをする犯人なんて、パスワードを変えれば簡単に締め出せる。けれどもあいつはそうしなかった」

ツツジの視線がまっすぐ浅間の方を向いている。何を決めても止めはしないと伝えたはずだが、それでも許しを請うように訴えてきた。

「だったら俺も介入して良いですよね? 雨屋りりすを生かすも殺すも、俺次第だってことですよね? 守りたいものがあるのなら、黙って見ていちゃ駄目なんだ。俺はあいつの存在を守りたい。答案用紙に他人の名前を書いた日の二の舞には、したくない」

もはや画面の中は見ていない。そこにいるはずの彼女から目を逸らし、彼女を殺すことの正当性を積み上げている。しかしいくら訴えられても浅間には答えられないのだ。浅間には彼らのことが分からない。書ける者や、書けなくなった者たちがどうすれば正しい道を歩めるのかなど、その世界を知らない人間にとっては雲の上のような話で。

返す言葉が思いつかず、また管理画面へと視線を戻す。

そして、あることに気が付いた。

「ツツジくん」

思わず彼を呼んだ。ノートを模した形のアイコンに、数字がひとつ重なっていて。

「記事が……増えている」

新着記事を表すバッジだ。しかし先ほどまでは無かったはずで、この瞬間に何かが投稿されたことになる。日記のページを最後まで繰った後、ツツジが決意を固めるまで。目を離していたのはこの間だ。当然、ここにいる彼には細工などする素振りもなく。

「ツツジくん。これは明日の日記だ」

いったい誰が書いたのか、そんなことは明らかで。もはやどんな出来事を元にするでもなく、完全にでたらめの日記が投稿されていた。日付は明日。登場するのは浅間とサツキ、そして雨屋りりす。まだほんの冒頭しか綴られていないが、馴染みの光景が当たり前のように描写されていた。

「サツキくんが十一月の日記を書き始めたんだ」

如月サツキは雨屋りりすを生かそうとしている。まずは明日の日記を書いて、来週もまた日常を綴って。彼自身はここにいない。これより先は、何から何までありもしない話だ。小龍をはじめとする客人たちを巻き込むわけにもいかず、今までとは比べものにならないほど書きづらい日記となるだろう。何事も壊すより繕う方が難しい。それでも彼は、未来へと繋ごうとしていた。

悲鳴のような声が聞こえる。

「何だよあいつ! よりによってこのタイミングで!」

〈彼〉が彼女を殺そうと決めた瞬間に〈彼〉が動き始めたのは、さすが双子の共鳴とでも呼ぶべきか。浅間が伝えたわけではない。守りたいものがあるのなら、黙って見ていちゃ駄目。それはサツキにとっても同じだったということだ。

「今さら何だ! あんたは一度手放したじゃないか! 自分がいない間も日記が書かれていることを知っていて、それでも連絡は寄越さなかった。悔しかったら戻って来いよ。今ここにいるのは俺なんだ。このカフェや温室を舞台にした日記なら、俺の方が有利に書けるはずなのに……」

声を荒げる青年の隣で、浅間は心が揺らぐのを感じた。状況に動きがあったことを受け、自身の立ち位置を改めようと考えた――などという具体的な話ではない。ただただ抽象的に、胸の辺りがぐらりと動いたような気がしたのだ。このままサツキに任せていれば彼女はきっと生き延びる。明日も、来週も、その先も。温室の奥でつまらなさそうにラジオを聞きながら、ビー玉を弾くように一日ずつが過ぎてゆく。本当は駄目なのに。本当はもうこの世のどこにもいないから、存在していることにするのは〝ずる〟なのに。その甘美なずるさに溺れてしまいそうになる。

たった数行の新しい日記には、それだけの引力があった。

「続きを書くんだ!」

蜜の海から這い上がるような心地で叫んだ。呆然と画面を見つめていた彼の背が震える。こちらに向けられた顔が、縋るような表情を浮かべている。これではいけない。このままでは流されてしまう。

「見ているだけじゃ駄目だ。彼は待ってくれている。君の開いているページからも日記の編集はできるだろう? 今までだってそうしてきたじゃないか。もう懐かしい話なのかもしれないけれど……」

その日に見た夢を、起きてすぐさま小説のように書き綴る。そんな芸当ができるほどの技術をサツキは持っている。浅間自身の目でもしかと見た。だからあえて待っているはずなのだ。この日記が、冒頭で途切れているということは。

書いてほしい、続きを。それを読んで自分はまた次の展開を書く。

相手の書いた部分は無視しない。消さない。否定しない。内容を汲み取った上で、それを生かしながら自身の望む展開に繋げる。そうやって今までも書いてきた。もはやどちらがどの部分を担ったのか分からないほどに混ざり合った頃、雨屋りりすが向かっている場所こそが彼女の運命だと。

「……そうだ」

ツツジはパソコンへ向き直り、両手をキーボードに乗せた。

「書かないと。このままじゃ彼女は生きてしまう」

ぱらぱらとタイピングの音が響く。深夜の温室に雨が降り始めたかのようだった。ふたりで覗いていたパソコンはあっけなく引き寄せられ、浅間の位置からは何も見えなくなる。こうなっては隣にいる意味もないだろう。立ち上がり、椅子を引きずって数メートルほど離れてからまた座った。

(こんなことになるとは思わなかったな)

それは、あまりにも多くの意味で。サツキではなく彼の兄弟の近くで、その執筆を眺めることになるとは。大切な人が生きるためではなく、殺されるための儀式を見届けることになるとは。いや、本当はもっと初めから。それこそ日記の一行目から、こんなはずではない世界へと足を踏み入れていた。

(でも、全部自分で決めたことだ)

本を開くとき、そこにはひとつの世界が生まれる。その世界に浸らなければ文字は単なる記号でしかない。はっきりと誰のことか分かる描写があったとしても、それだけでは姿を目にすることはできないのだ。離れがたいと縋ってしまうのは、自分の足でそちら側へ飛び込んだから。書き手に騙されたわけではない。

頭上を月が通り過ぎていく。当然、目に見えて動いているわけではないが、ふと気づいた頃には随分と傾いていた。夜明けが近い。青年はパソコンにかぶりついたまま執筆を続けており、こちらを振り返る素振りもなかった。

だが、声だけ飛んできたことが一度。

「店長さん」

タイピングの音は止んでいる。おそらく今は、サツキが書いている時間だ。

「りりすちゃん、クリスマスは好きですか」

それはあまりにも唐突な言葉だった。クリスマスといえば二ヶ月近く先だ。彼が目的を達成すれば、その頃にはもう彼女は消えているかもしれないのに。ただ、質問のきっかけとなった物には心当たりがある。ツツジの顔の向く先を見れば、そこには一本の観葉植物があった。大人の背丈ほどもあるモミの木。売り物ではなく、浅間が自宅から持ち込んだものだ。冬が訪れる度に飾り付けをしようと思い立つものの、ついぞ一度もそうすることなく今に至る。宝石のような輝きに惹かれて入手したオーナメントは、箱に仕舞われたまま曇っていることだろう。

これを見て彼は何かを思いつき、クリスマスの話を書こうとしている。そこまでは理解できたものの、どう答えるべきか浅間には分からなかった。もしここで「好きだ」と言ったなら、彼女の最後の日はクリスマスになるのだろうか。彼女が楽しみにしている大切な日に再び命を落とすのだろうか。

「……大丈夫です」

沈黙を続ける浅間に対し、振り返らないままツツジは言った。

「俺たちがこんな書き方をするのはこれが最後です。子供の頃から色々なものを書いてきて、それは確かに楽しかったですが、俺たちには向いていなかったみたいですから。そのせいでサツキはああなってしまった。自分を捨てて兄弟の代わりになってもいい、なんて考えてしまった。もうやめようと思います。あいつだって二度と付き合ってはくれないでしょうし、これが本当の最後なんです。だからこそ」

浜木綿賞。長らく選考から離れていた創設者が、あえて自ら選んだ小説家。彼はその立場にあることに負い目を感じていたが、見合わないとは一度も言わなかった。自分の作品はあくまで自分が書いたものだ。背を向けて執筆している様子を眺めているだけでも、受賞作家としての矜持が伝わってくる。

そして、自分が追いかけ続けた相手にも、きっとそれ以上の力があると。

「だからこそ、俺たちには自信があります。大丈夫です」

ふたりで交互に書くことをひとつの作風として捉えるならば、これが最後にして絶筆だ。雨屋りりすが消えると同時にひとりの書き手も消える。サツキも、ツツジも、それぞれはこれからも書き続ける――ことを彼は望んでいるが、ふたりで作り上げたひとりの作家は息絶えるのだ。

覚悟を決めたのは浅間だけではなかった。

「必ず納得できる結末にしますから。だから俺たちに、娘さんを――」

「何だか告白みたいだね」

笑いながら言った。ツツジが話し掛けたのは、どちらの〈父親〉に対してだろうか。背中の向こう、数メートルの位置にいる男か。それとも日記の中にいる男か。ついぞ彼は振り返らなかった。パソコンに向かい、サツキが書き足した文面を食べ尽くすように読んでいる。それで良い。そうして欲しかった。この温室のどこにも彼女はいないのだから、こちらを見ても意味はないのだ。

「今年のクリスマスには、ひとつ予定があってね」

ゆっくりと、言葉を選びながら返答する。問われたこととは噛み合わない内容だが、これが正しいのだと思う。

「夜が更けた頃、地域の子供たちが賛美歌を歌いながら町を歩くんだ。池の向こうの教会から出発すると、ちょうどここが中間地点になる。だから夜までお店を開けて、休憩させてあげたり、キャンドルの火を足してあげたりする役目を頼まれたのだけど……」

考える。聖夜のイベントについては、数日前に役場から連絡があったばかりだ。時間帯や場所に間違いはないはず。しかし、全てそのまま伝えるわけにはいかない事情があった。どこまでが事実で、どこからは架空の話にしなければならないのか。それを考えながら話している。

「僕自身は教会の手伝いに向かいたくて。あちらの方でも催し物があるのだけど、人手が足りないようだから。そこで君たちに留守番を頼みたいと思っていたところだった。子供たちが来たときだけ対応してくれたら助かるよ。他の時間は自由に過ごしてもらって構わないから」

彼が本当に求めている情報はこれに違いない。クリスマスの当日、ここはふたりだけの場所になるということ。夜まで店は開けているが、客が入るわけではない。浅間もいない。聖歌隊の子供たちが来ると言ったが、実際はここへ立ち寄る予定などなかった。留守番を頼みたいという話は嘘だ。だが、店が開いていなければサツキは彼女に会えない。ふたりで過ごす時間がなければ、お別れするための儀式を行えない。彼らが納得のできる結末を綴るため、浅間から贈れるものは〝舞台〟だけだった。

そして、その贈り物を彼らは受け取った。

「……任せてくださるんですね」

今年からここに住み始めたサツキも、サツキの日記から情報を得ているツツジも、実際に行われているクリスマスの行事を知らない。今の話がどこまで真実か、きっと判断がつかないだろう。しかしそれは当日が近付いた頃に話せば良いことだ。今はただ自分も協力する気があるのだということを伝えたかった。先ほど彼は「娘さんを」と言いかけたが、その続きは何だったのだろう。殺させてください。託してください。あるいは本当の告白のように「ください」とだけ言うつもりだったのか。

どれでも構わない。どれであろうと、自分は見守るだけだから。

「俺たちふたりに店番をさせてくれるんですね」

衣擦れの音がする。温室に入ったときは煌々と月に照らされていたデスクも、今は暗闇の中にあった。だからすぐには気付かなかったが、彼の顔がこちらを向いている。執筆を止め、キーボードから手を離し、椅子を回して身体ごと振り返っていた。

姿勢を正し、膝に手を乗せ、真っ直ぐにこちらを見る男のシルエットが浮かぶ。

ありがとうございます、と聞こえた気がした。


   *


夢を見ていた。

鉄製の扉の内側、小さな玄関に立っている。タイルの敷かれた土間には一足の革靴が並んでおり、他には何も見当たらない。下駄箱の上には鍵の載ったトレイとフォトフレーム。視線を上げればリビングまで真っ直ぐ見通すことができた。この間取りには覚えがある。姉が大家を務めるアパートがこのような構造になっており、直近に見たのは七月、二色小龍の身を案じて飛び込んだ際の記憶が新しい。しかしここは夢の中なので、彼の部屋に彼が住んでいるとは限らない。おそらく自分が訪ねているのは別の人物で、ただ覚えのある間取りを重ねてしまっているだけだ。飾られた写真は明らかに彼の関わるものではなく、玄関の革靴も女性用だった。

部屋へ上がるには靴を脱がなければならないが、なぜか脱ぐことができなかった。あの日もそのまま入ってしまったせいだろうか。不思議と心は落ち着いており、動きもゆっくりと感じる。しかし声も出せずに土足のまま進む姿は、慌てふためき転がり込む様子と大差ないだろう。時間の感じ方が異なるだけで、実際はあの日の再現をしているだけなのかもしれない。

いや、これは夢の中なのだから。

「実際」も何もないのだけれど。

正面の部屋に入る。ベランダは奥。ベッドはその前。左手側に白いデスクと椅子が並んでおり、モスグリーンのラグが敷かれている。半分ほどは小龍の部屋の特徴だ。まだ記憶が混線している。小龍を探しに来たときはすぐに上を見た。彼は物置に倒れていたのでそこには何もなかったが。今はどうだろう。そう考えて顔を上げるより先に、壁際に置かれた姿見が目に入る。ああ、これは覚えている。これは彼ではなく、彼女の持ち物だ。

五年前。まだ会社勤めをしていた頃の自分の横顔が映っていた。


「そんなに眠いなら店を閉めたらどうだ?」

頭上から落ちてきた声に起こされる。一瞬、ここがどこだか分からないような気がした。何のことはない、馴染みあるカウンタに突っ伏しているだけなのだが。

「ひとりでやっている店なんだから、臨時休業にしたって良いだろ」

「……店は開けるよ」

目の前に立っていたのは柏木葉蔵だった。出張でこちらに来ている彼が、帰路につく前に立ち寄ることは予想していた。顔を背けてあくびを噛み殺した後、

「君のために開けている」

と告げる。席に座ろうとしていた彼が虚を衝かれた顔をした。

「参ったな。随分と熱烈じゃねえか」

「うん」

注文するものは分かっていた。先日、朝は必ずそれだと話していたから。立ち上がって椅子を折り畳む。彼の好むブレンドコーヒーを淹れ、半分ほど飲み進めるのを待ってから本題を切り出した。

「さて。隠していることを全て話してもらおうか」

咳き込む音が聞こえる。柏木はカップを置いて両手を上げた。

「違う。無実だ」

「全部ツツジくんから聞いた。言い逃れはできないよ。最初から双子の見分けがついていたくせに、気付かないふりをしていたね?」

壁に立てかけていた椅子を引き寄せ、広げてから座る。柏木の正面に浅間も腰を据えた。来客のあるときは立って作業することが多いが、今は彼と話すためにここにいるようなものだ。お互いに落ち着いた状態で対話するべきだろう。

「浜木綿先生の遺品整理の仕事。その辺をうろついていた若手作家を捕まえて手伝わせているんだっけ? 式見さんと同時受賞の――筒路仲春という作家だったね」

昨日、去り際に話していたことだ。名前までは告げなかったが、式見と同時受賞だという情報さえあればすぐに分かる。ここから遠く離れた都心の出版社で、柏木と組んで作業を進めていたのはツツジだった。しかし彼は九月からサツキの代わりを務めており、頻繁に往復している様子もない。これは一体どういうことなのか。

「まあ、仮に表向きの情報を採用するとしよう。出版社に通っているのがツツジくん、このカフェに通っているのがサツキくんだということだね。君とツツジくんは何度も顔を合わせている。出張でこちらへ来て店に立ち寄ってくれたとき、サツキくんの姿を見て何か思うことがあるはずだ」

例えば、どうしてここにいるんだ、とか。あるいは小龍のように兄弟の見分けがついたとしても、双子であることに言及くらいはするだろう。彼らの容姿は非常に似通っており、赤の他人だと思うのは不可能だ。

「でも君は何も言わなかった。まるで初対面のように接し、大学生の彼を少年と呼び続けていた。何度も見た顔が目の前にあるにもかかわらず、ね」

「俺の見た顔はアレじゃねえしなぁ」

頭を掻きながら柏木は返す。取り繕うわけでもなく、純粋な意見のようだった。

「実際、出版社にいた男とカフェにいた少年は別人だ。確かに似てはいるが、同じ顔だとは思わねえよ。だってあいつの方がよっぽど童顔だろ」

九月。成人していることを当人にアピールされてもなお、執拗に少年と呼んでいた。それは半人前として扱っているからではなく、純粋にそう見えたからだ。柏木には双子の区別がついている。ほとんどの人間が騙されるほど似ていても、彼の観察眼の前では明らかに別人なのだ。それが天性のものなのか、編集者という立場を長年務めた成果なのかは分からないが。

「俺は業界の人間だから、浜木綿賞の受賞者の顔くらいは知っている。筒路仲春は覆面作家としてやっていくつもりのようだったが、さすがに隠し通すにはでか過ぎる賞を獲っちまった。浜木綿彰子の訃報さえなければ、写真の載った特集記事も出るかもしれなかったわけよ。会社の門でうろついているあいつを見たとき、筒路に成りすまそうとしている血縁者だとすぐに分かった。何とか顔パスで突破できないかと企んでいたようだが、筒路自身の面が割れていないせいで誰からも声を掛けてもらえずにいたみたいだな」

失踪した彼が流星社に行きついたのは、浜木綿が執筆部屋として使っていた蔵が目当てだろう。そこに行けば式見に会えるかもしれないと思ったのか、それとも自分にとっても思い入れのある場所だったのか。もし彼が死を意識していたのなら、最後に覗いてみたいと考えてもおかしくない。

「本気で突破できるとは思っていなかったのかもしれんが、この際だから使ってやろう、と騙されたふりをしてやった。蔵に入れて、遺品の整理を手伝わせて、実際なかなか役に立ってくれたぞ。式見カオルに関する知識は本物だったし、その師である浜木綿との関係についても詳しかった。記事のひとつでも任せたいくらいだったが、惜しむらくは身元を詐称していることだな。まあとにかく役には立ってくれたんで、連絡先を聞いて俺からも丁寧な進捗報告書を送っていた」

「……それだね」

ぽんと手を打つ。柏木のために店を開けてまで聞き出したかったことはそれだ。もちろんツツジ当人も知っているはずなのだが、あの状況では話題に上げることができなかった。未明に聞いた彼の話には明らかに不自然な部分があると気付いていたものの。

「ツツジくんは音信不通になったサツキくんを心配して部屋まで来た。残されていたパソコンやタブレットを使い、メールなどの確認までしたけれど、最終的には探すことをやめている。そして彼はサツキくんに成りすまして生活することにした。その理由は聞かせてもらったけれど、兄弟の安否を蔑ろにするには不十分で違和感があったんだ」

ブックマークに保存されていたブログを読み、彼の生活を知った。そして日々を共にする女性店員に会おうと思い、成りすましを決行した――という流れは理解できるが、根本的な問題は解決していない。サツキの行方が分からない以上、悠長に彼の代わりを務めている場合ではないのだ。ツツジがそれほど短絡的な人間だとは思えないため、まだ語られていない理由があると考えていた。

そして、ようやく判明した。柏木からの進捗メールだ。

「ツツジくんに成りすましたサツキくんは、自分のウェブメールのアドレスを連絡先として伝えた。そうして君からのメールはパソコンやタブレットから閲覧できる状態になる。同じ頃、ツツジくんはサツキくんの部屋で手がかりを探し始め、そうこうしているうちに最初の進捗メールが届いた」

メールに綴られていたのは、他ならぬ自分が流星社で働いているという事実。まるで幽体離脱したかのように、ここにいるはずの自分があちらにもいる。そんな怪現象を起こせる人物はひとりしか思い当たらない。

「少なくとも今日、生きている如月サツキが観測された。ツツジくんはその確信を得ることになる。そしておそらく明日も彼は生きている。浜木綿彰子の遺品整理という重大な仕事を、途中で投げ出すとは思えない。彼がどのように役に立ち、どのような作業を進め、そして終わりはいつになるのか。事細かな進捗報告が定期的に届く。ツツジくんはそれを読んで、強引に連れ戻すことはやめようと考えたんだ」

受賞作家の兄弟が当人に成りすまし、出版社へ潜入している。その事実が明るみに出れば各方面へ迷惑が掛かる、とも考えたはずだ。自分さえ黙っていれば波風は立たない。コップの中がどんなに荒れていようと、外へ溢れることはないのだ。

「……と、まあ。ツツジくんは君の送った進捗メールを頼りに、兄弟の安否を確認していたわけだね。急に姿を見なくなったがどうした、などという連絡があればすっ飛んでいくつもりで。しかしそんなことは一度も無く、彼らは綺麗に入れ替わり続けた」

柏木はコーヒーを飲みながら話を聞いている。カップを傾ける度に映り込む日差しが揺らぎ、宝石でも握っているかのように輝いていた。彼の背中の向こうには大きな窓がある。眩しくないのだろうか、などと考えながら浅間は話を続けた。

「ただ、ここで疑問に思うのは、君の姿を見たツツジくんが平然としていたことだ。双子の兄弟と共に作業をしている人物が急に現れたのだからね。顔を見るなり取り違えられるか、双子であることをバラされてしまうと慌てるはず。彼は君が名乗るまでもなく編集者の柏木葉蔵を知っていたし、随分と長く観察してから声を掛けていた。当時は不思議でもない光景だったけど、こうして振り返ってみると変な話だね」

「まあ、それはアレだ」

柏木がカップをソーサーに戻した。音ひとつ聞こえず、案外に丁寧な所作をするのだなと感心する。彼は何かを思い出すように視線を上げながら言った。

「俺の名前で出してねえからな、進捗メール」

視線が戻り、浅間の方を向く。そして呼吸でもするかのようにするりと自身の所属を告げた。名刺を差し出す度に何千回と唱え続けてきたであろう言葉を。

「流星社文芸図書第三出版部。文三の名義とアドレスで送った。柏木葉蔵の名前は一切出していない。そりゃあ俺の姿を見たって何とも思わんだろ。できる限り新人っぽい、律儀な文体で書いたしな」

「……どうしてそんな手の込んだことを」

「本物が読んでいるだろうと思ったからだよ。天下の〈天ノ川〉の編集長まで巻き込んじまったと知れたら、飛んできて連れ戻されるかもしれんだろ。やだねそんなの。俺は作業の邪魔をされるのが嫌いなんでな」

新人の編集者が騙されただけ。部署のアドレスを使いながらも、他の編集者がやり取りに割り込んでくることもない。完全に一対一のやり取り。つまりそれほど大掛かりな作業でもないのだから、このまま見守っていれば良い。そんなメッセージを暗に伝えるため、柏木は自分の名前を出さなかったのか。自分が邪魔をされたくないという私欲の元に。

「本当にそれだけ?」

肘をつき、身を乗り出しながら問い掛ける。普段は立った状態でカウンタの内側にいるため、天板の木目がやけに目新しく感じた。

「メールはサツキくんのアドレスに届いていた。それを〈本物〉も読んでいると思ったのはどうしてだい? 通常、サツキくん宛のメールはサツキくんしか読まないはずだろう。何故その向こう側にツツジくんの姿を想像した?」

受賞作家の兄弟が、当人のふりをして出版社を訪ねてきた。そしてあわよくば中に入れてもらおうとしている。柏木はその事実しか知らないはずだ。彼が式見や浜木綿のことを心から慕っていることも、その情に絡めとられて死を選ぼうとしていることも、初対面の編集者には分かりやしない。この若者はただの無鉄砲な部外者で、彼のパソコンは当然ながら彼自身の手元にある。そう考えることしかできないはずなのに。

「消えようとしている奴のことは空気で分かる」

深夜から考え続けていた疑問の答え。その最後のピースは、推理のしようがないほど曖昧なものだった。探偵でも犯人でもない立場の男が、アンフェアな仮説ばかりを積み上げて行動を説明する。

「奴が流星社に来たのは失踪への過程の一環でしかない。家族には連絡を入れていないだろうし、心配した片割れがそのうち部屋を漁るだろう。そのときにデバイスが残されているかどうかは賭けになるが、運が良ければ伝えることができる。大丈夫だ、こいつはまだ消えない。この作業が終わるまでは邪魔しないでくれないか、ってな」

「それって、全部憶測だよね……」

「でも合ってたろ。そんで、思惑通りに進んだだろ」

柏木の送ったメールは、よくある「探さないでください」という置手紙の上位互換として機能した。彼に連絡先を教えたサツキ自身もメールがツツジの目に留まることは承知の上だっただろう。自分で置手紙を残すより他人に安否を証明してもらう方がずっと説得力がある。柏木はサツキを利用したが、サツキの方も柏木を利用していた。

「そういうことだ。俺の無実は証明できたか?」

コーヒーを飲み終えた彼は空のカップを差し出す。時間のあるときは二杯目を要求するのだが、今日はそうしなかった。出発の時間が近付いているのだろう。ならば手短に済ませなければならない。もっとも、浅間が知りたかったことは全て聞き出せたのだが。

「無実どころか完全に共犯者じゃないか」

苦笑まじりにそう言うと、柏木もつられるように歯を見せた。そして身体をほぐしながら視線を巡らせ、階段に置かれた鉢植えの花を指し示す。

「綺麗に咲いたな」

秋咲きのアマリリスは今日も真っ赤な花を見せている。いや、彼が褒めたのはそれだけではなく、辺りの鉢の全てだったのかもしれないが。プリムラもダリアもシクラメンも満開だ。そんなことを考えているうちに、柏木の指先は次の場所に移っていた。

「この取材を受けたとき、店を開いた理由についても話していただろ。若者たちが心置きなく喋ったり悩みを打ち明けたりできる場にしたいって」

壁に貼られた記事を指の背で示す。かつての同級生がカフェの取材をしてくれたとき、確かにそんな話もした。会社員を辞め、様々な縁を経て喫茶店を開くことになり、姉の所有するテナントに行きついた。二階の園芸店ごと任されることになったこの場所へ、初めて来た日のことを思い出す。

光と緑に溢れた綺麗な場所だな。

そんな月並みな感想しか出てこないほど、浅間は圧倒されていた。

「今でも目的は変わっていないか?」

水へ飛び込むようにあの日の記憶へ浸る中、波紋越しに柏木の声が聞こえる。こちらからの声は届かない気がして頷くことしかできなかった。滲んでしまって顔は見えない。ただ穏やかな声だけが降り注いでくる。

「変わっていないか。なら、それでいい」

天板にいくつも水滴が落ちている。

そこでようやく、自分が泣いていることに気付いた。


人生において若者と呼ばれる期間は非常に短いが、同時に不安定な頃でもある。体力と行動力を持ち合わせ、最も有利に動ける立場にあると思われがちだが、周囲からは見抜けない軋轢や不安があるのだろう。浅間は最後まで娘のことを完全に理解することはできずにいた。不穏な連絡を受け取って住処に駆け付けたとき、心情のほとんどを占めていたのは「どうして」という言葉だ。

仕事帰り。スーツ姿のまま部屋に入る。

靴も脱がず、みっともなく慌てふためいて、親のくせに理由すら思い至らず。

さして広くもない部屋の中央、少し視線を上げた先に彼女はいた。彼女が最後にいたのはあの場所だった。両足は床から浮いているのに、天使みたいに飛んでいるのに、もう二度とあそこからは移動できない状態で。

「りりすちゃん、今日も来ていますか」

柏木が職場へ帰った次の日。店内でひとり、パソコンを立ち上げてブログを読んでいた。あの夜にサツキとツツジが綴っていたのは翌日の日記――つまり今日の出来事だ。文面を読み進めながら、ふと登場人物の台詞を読み上げてみた。

「来ているよ。ほら、そこで本を読んでいる」

浅間自身の台詞。ぽつりと音読した後、顔を上げて実際の場所へ目を向けてみる。店の片隅には一台の本棚があり、待ち時間に客が読めるよう本が並べられていた。

ひとりで切り盛りしているのだから、待たせてしまうこともある。

そう思って置いた本棚の前に、エプロン姿の女性が立っているような気がした。日記の中では彼女が声を発して動いている。こちらを振り返り、常連客の名前を呼び、小さく手を振って。クリスマスに向けて自分がどのような運命を辿るのか、知った上で笑っているのだろうか。浅間にはまだ分からない。

椅子から立ち上がる。背後の引き出しのひとつを開ける。

ツリーに飾るためのオーナメントを磨いておこうか、などと考えた。


〈十一月・ティーカップの中の嵐 終〉


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