十月・ウミガメのスープの冷めない距離
十月。ついにこの場所へ戻ってきた青年がクイズを出します。
どうやら、彼の知人である「彼女」がとあるクイズイベントに参加しているそうで……
*
「男の前にはふたつの物体があり、それらはほぼ同じ大きさ、材質である。それなのに彼は片方を指して『絶対にこちらが欲しい』と言った。何故か?」
明るい髪色の青年が話している。彼はカウンタの前の椅子に座り、しかしカウンタではなく私たちの方を向いていた。観葉植物の並ぶ店内には四人の人物がいる。ひとりは私。ひとりは店長。そして、先月ここで知り合った編集者の男性。
「はい」
その男性――流星社の柏木葉蔵は右手を上げた。ふた回りほど年下の青年に向かって、生徒のように丁寧な言葉遣いをする様子は何とも違和感がある。だが、このやり取りをしているときにはこうするのが決まりなのだ、という共通認識がうっすらと漂っていた。
「それらの物体は、作られた場所も同じでしたか」
青年の質問には答えず、質問で返す。それも当然だ。最初の問い掛けには情報が少なすぎる。何故か、と問われても分からない部分は、質疑応答で埋めていくしかない。
「はい。作られた場所は同じです」
台本を読み上げるように青年は返した。普段の会話とは程遠い声色。だがそれを指摘する者はおらず、淡々と問答は続く。
「その物体には、後から手を加えられた部分がありますか」
「いいえ。作られたときのままの状態です」
「この問題に、芸能人や著名人は関係していますか」
「いいえ。特に関係ありません」
ふたりのやり取りを聞きながら、彼は攻略法を知っていそうだな、と考えた。何かが関係しているか、という質問は非常に効率が良い。はいという答えならその方向で詰めていけば良いわけだし、いいえ、なら自分の思いつきは間違っていたということだ。
「はい」
今度は私が手をあげた。青年の視線がこちらを向く。
「この問題にお金は関係していますか」
彼の口角が上がる。どうやらヒットしたようだ。手の中のスマホをちらと確認しながら、朗とした声が返ってきた。
「はい。お金が関係しています」
その瞬間、柏木がぽんと手を打つ。続けて椅子から軽く身を乗り出した。
「そういうことか。じゃあ、これは――」
「駄目だよ、柏木さん抜け駆け!」
ここまで詰められたのなら私の手柄になるべきだろう。少し悔しそうな顔をする柏木を横目に、思いついた答えを述べる。
「ふたつの物体とは千円札と一万円札のこと。作られた場所は同じで材質も形もほとんど同じだけど、そりゃあ一万円札の方が欲しいよね」
後から手を加えられたのか、著名人は関係しているか、と柏木が気にしていたのは、それがサイン本などである可能性を考えていたからだろう。物体としては同じものでも、誰かが名前を書いた――いや、触れただけでも価値が発生する。出版社に勤める彼らしい発想だ。だがそれらの答えは「いいえ」だったのだから、別の可能性を考える必要がある。究極の付加価値といえば、やはり紙幣だ。一万円札とて元は紙切れなのだから。
「正解!」
またもやスマホを確認しながら青年は言った。その様子から、出題が彼のオリジナルではないことが分かる。確かに、彼がこのようなクイズを出すのは今回が初めてだ。手品に近いものは見せられたことがあるが、クイズを持ち掛けてきたのは意外だった。
「どうして急にウミガメのスープを?」
私は尋ねた。ウミガメのスープというのは、今の会話のように、不可解な状況について問答を重ねることによって真相を探る形式のクイズのことだ。「男の前にあったのは二枚の紙幣である」と出題者は知っているが、回答者には提示されていない。出題者は投げかけられた質問に「はい」か「いいえ」だけで答え、ヒントを与えることができる。
「小龍さん、こういうの好きだっけ」
カウンタの前に座るのは、毎日のようにここへ来ているサツキではない。七月に起きた事故で病院へ運ばれ、そのまましばらく帰省していた青年、二色小龍であった。退院後に一度はこちらへ来たはずだが、こうしてカフェでくつろぐ姿を見るのは久しぶりだ。大学は実家からも通える距離であるらしく、四年生である彼は単位も取得済みなので、ずるずると帰省が長引いてしまったとか。
「如月からこの問題が送られてきてさ。さっき思いついたらしい」
幾度か目を向けていたスマホの画面には、おそらくサツキとのメッセージのやり取りが表示されている。初対面である小龍と柏木がクイズで交流しているのも、サツキの方から紹介があったからだ。だが、そのサツキ自身はここにいない。
「ここに戻ってきてからあいつと会えていなくて」
つまらなさそうに小龍は言った。そう、彼はアパートに戻ってきてから、隣人である如月サツキと顔を合わせていないのだ。そろそろ実家を出ます、という連絡が大家代理である店長へ届いた翌日、フィールドワークだとかで旅立ってしまった。いつもこの時刻にはカフェで朝食を摂っている彼が、ここ数日は姿を見せていない。代わりに、出張のついでに訪れた柏木がソファに座っている。
「今のクイズを応用すれば、こういう出題もできそうだな」
コーヒーをひと口すすり、柏木は言った。
「五百円と一万円のどちらかを貰う権利を得た男は、五百円の方を選んだ。何故か?」
「ああ……」
小龍は首をかしげ、考えている様子だ。先ほどの問題とは逆に、最初から金銭に関わる話であることは明らかになっている。同等の価値とは思えないものが並び、そして価値の低い方を選んだ男。彼が何者なのかを考えれば、多くの質問を重ねることなく答えが見えてくるだろう。
「男と表現していますけど、子供ですよね。おそらく未就学児くらいの」
「イエス、だな」
「幼い子供にとっては硬貨だけがお金だったんだ。紙のお金を知らなかった。彼の中では五百円玉が最も価値があるから選んだ。違いますか?」
「当たりだ。まあ、さっきの話の逆パターンだな」
この手のクイズには、大きく分けて二通りの作問方法がある。まず、実際にその光景を見ていたとしても不可解に思うような状況を作り、その理由付けを考えていく方法。もうひとつは、実際に見ていれば何の不思議でもない光景を、言葉の綾によって不可解であるかのように見せかける方法だ。例えば紙幣を「ふたつの物体」と表現したり、年端もいかない子供を「男」と言い換えてみたり。嘘にならない範囲で、真相を眩ませる言い回しを使うのがコツだ。
――なんていうのは、ある人の受け売りなのだけど。
「アラクネ、っていうクイズ作家のグループ、知ってる?」
窓の外をぼんやりと眺めながら、私は呟いた。ちょうどそこに巣を張っている蜘蛛が見えたので思い出したことだ。店の外側、窓枠の隅に小指の爪ほどの蜘蛛が。そのグループのロゴに使われているマークが、蜘蛛を模したものだったから。
「メンバでクイズに興じる動画を投稿したりしているのだけど、ウミガメのスープが出題されることも多くて。それでちょっと流行ってるみたい」
競技クイズというジャンルがあるということは、そのグループを通じて知った。クイズといえばテレビで芸能人が競っている印象があるが、当然、その問題を作るクイズ作家がいる。プロのクイズ作家がいるということは、解く側も素人ばかりではないということだ。早押し形式にしろ、選択肢形式にしろ、効率的に解くための技術が日々磨かれている。そういった技術を見せる動画チャンネルはいくつかあった。その中でも、面白いウミガメのスープを出題することで有名になったのが〈アラクネ〉だったわけで。
「アラクネか。先日、うちの若いやつが取材してたっけな」
柏木が言った。彼は純文学系の文学誌〈天ノ川〉の編集長である。動画投稿を中心に活動するグループとはあまり縁がないだろう。しかし存在は知っているようで、仕事の内容や幹部メンバの名前をすらすら挙げていく。
「あいつら、単なる趣味の集まりじゃなくて企業として独立してるんだよな。クイズ番組の作問だとか、イベントの監修だとかを請け負っている。元はといえばオンライン予備校みたいな活動をしていて、主要五科目――英数国理社の解説動画なんかを投稿していた。CEOが数学担当だっけか。蜂須瑠璃子っていう女社長。そんで英語担当が花房だろ、国語が蝶野、理科が風見、社会が月長。他にもメンバはいるらしいが、表立って動画に出ているのはこの五人か」
教鞭をとれるほど知識があるのなら、それを生かしてクイズ作家に転向することもあるのかもしれない。普段ならここで即座に公式サイトを見せてくれる青年がいるのだが、今日はタイピングの音が聞こえることもなかった。サツキはスマホだけでなくノートパソコンやタブレットも使いこなしている。ここにいたなら、すぐに大きな画面でメンバの写真を見せてくれただろう。
とはいえ、私も彼女らの容姿は知っているのだ。人気の動画をいくつか観たことがある。メンバのほとんどが二十代という若い組織だが、企業としての運営には安定していた。近頃は監修だけに留まらず、自社のイベントもいくつか企画していたはずだ。
「そういえば、イベントがあるんだよ」
心を読んだかのようなタイミングで、小龍が指を立てながら言った。私と柏木の両方に向けた話題のようだった。
「今日、アラクネのイベントがあるんです。俺も人から聞いただけなんですが、メンバと一緒にバスで会場へ行って、クイズ大会みたいなことをする企画だそうです」
そこで言葉を切り、彼は再びスマホに視線を向ける。先ほどの問題だけでなく、イベントの情報も友人から送られてきたのだろうか。サツキの口からアラクネや競技クイズの話題が出たことはないので、少し意外な繋がりに思えた。
こちらへ視線を戻し、小龍は話を続ける。
「行先は告知されていないミステリツアー形式なんですけど、それでも数百名のファンがチケットを得たらしいです。そんな大勢でのクイズ大会だなんて、いったいどんな形になるのだろう、って話を如月としていて……」
それで、ウミガメのスープの話題に繋がったというわけか。イベントで実際に出題されるかどうかは分からないが、アラクネといえばやはりウミガメのスープだ。
「ちょっと意外ね」
私は、先ほど感じたことを正直に述べてみることにした。
「サツキからアラクネの話なんて聞いたことがなかったから。そんなに興味があるとは思わなかったわ。本当はイベントにも参加したかったけれど、フィールドワークと重なって諦めたのかもね」
人から聞いただけ、という小龍の情報源がサツキであるならば、きっとそういうことになる。彼もまた人伝に聞いたとするにはやけに詳しい。イベントの形式や、参加者の数、そしてまさに今日がその日だということ。興味のないグループのイベントならば、どこかで情報を得ていたとしても、ちょうど当日に思い出すことはできないだろう。再生数の多い動画などは私も観たことがあるので、今度話を振ってみようか、などと考えた。
しかし、私の言葉は小龍に否定される。
「違うんだよ。りりすさん」
彼の視線は揺れ、いくつかの場所をさまよい、そして最後はスマホの画面へ着地した。先ほどから何度も見ているメッセージの向こうにいるのは、フィールドワーク中のサツキだけだとばかり思っていたが。
「俺にアラクネのことを教えてくれたのって、如月じゃなくて……」
言い淀む。学生たちの勉学の手助けをしていたこともある、いたって真っ当な組織だ。その存在を誰から聞いたかなど、隠すようなことでもない。それでも彼はためらっていた。まるで、その人といまだ繋がりがあることを、恐れているかのように。
「智恵子ちゃんのこと、覚えてる?」
そう言って彼は、困ったように微笑んだ。
*
私たちの会話が途切れたことにより、厨房からの物音が耳に届くようになった。ポットからお茶を注ぐ音。カップがソーサーに触れる音。やがて革靴の足音が数回だけ響き、壮年の男がカウンタの中に姿を現した。
「智恵子さんって、隣のアパートに住んでいらした方ですよね。二色くんが家庭教師をしていた……」
作業をこなしながらも、私たちの話は聞こえていたようだ。カウンタ越しにティーカップが差し出される。私が咄嗟に返せず途切れてしまった会話を、店長がレモンの香りと共に繋げてくれた。
「そうです。お母さんとふたり暮らしだった、あの子です。大学生になって、春から都心の方へ引っ越しましたけれど」
カフェ、そして二階の園芸店の隣には一棟のアパートがある。ここと同じく緑をアクセントとした、爽やかなデザインの建物だ。屋上のすぐ下、三階に住んでいるのはあの親子だけであったが、進学を期に上京した。今も空き部屋のままだ。
十七、八の少女にとって、大学生活は初めてのことばかりだ。既に大学生として日々を過ごしている家庭教師に対し、まだ教わりたいことがあるのでパイプを切らないで欲しいと頼むことは珍しくもないが。
だが小龍には、一刻も早く関係を断ちたい事情があった。
「まあ、受験が終わったらすぐにサヨナラというのも難しくて」
苦笑を混ぜながら彼は言った。これ以上深くは話したくない様子であったし、こちらとしても追及するつもりはない。これは彼の問題としてどこまでも抱えていくことだろう。とにかく、アラクネに関する情報は彼女から得たのだということが分かった。隣のアパートに住んでいたとはいえ、私は彼女とほとんど関わったことがない。このカフェで開いた合格祝いのパーティにて顔を合わせたくらいだ。アラクネのファンだと聞いても驚きはしなかった。
「大学でクイズ研究会に入ったそうです、彼女。きっかけは友人に誘われただけで、競技クイズについても詳しくなかったのですが、そこでアラクネについて知ったそうで」
小龍が説明する。つまりウミガメのスープに関する話題は、智恵子から小龍、そしてサツキへと流れたのだ。彼は話を続ける。
「それで、まさに今日がイベントの日だということも教えてもらったんですよ」
その言葉を聞いたとき、私の脳裏に引っ掛かるものがあった。
「……ん?」
彼女とメッセージのやり取りをしている折、アラクネの開催するイベントがあることを教えられた。やがて当日になり、小龍は今日がイベントの日であることを思い出し、友人との話題に上げた――という風には解釈しづらい口ぶりだ。まるで智恵子当人から、つい先ほど「今日がイベントの日」だと知らされたように聞こえた。私は壁の時計を見る。まだ開店からさほど経っておらず、朝の九時半を示していた。
こんな朝のうちから、まるで友達同士のようなメッセージを交わす関係になってしまっているのだ。
「実は智恵子ちゃん、そのイベントに参加するらしくて」
私の方を向き直り、申し訳なさそうな顔で彼は話を続けた。私に対して義理立てすることなんて何もないのに。彼が負い目を感じるならば、身を退くと決意した二月の自分に対してだ。とはいえ、無邪気にメッセージを送ってきたのは彼女の方なのだろう。
「これからアラクネのイベントに参加するって。集合場所のバスターミナルに向かっているところだって連絡が来たんだよ」
深い事情を知らない柏木は相槌を打ちながら聞いているが、相談を受けたこともある店長の表情が僅かに曇った。まるで実況のように集合場所へ向かう段階から連絡するなど、よほど親しいと感じている相手にしかできない。家庭教師時代の小龍が、必死で築いた信頼の裏返しでもあるだろう。きっと母親も、娘が彼とやり取りをしていることは把握している。彼がこのまま自分の心を封じておく限り、何が起きるわけでもない。
「それでさっき、ちょっとしたトラブルがあって集合時刻に遅れそうだというメッセージが届いて、気になっていたんだけど……」
小龍がスマホに目を遣る。もしバスターミナルへ公共の交通機関で向かっているのなら、どんなに急いでいても何もできない時間が発生する。その手持無沙汰にメッセージを送ったのかもしれない。もちろん、イベントのスタッフへは先に連絡を入れているはずだ。行き先の分からないミステリツアー形式ということで、遅れた者は自力で向かうというわけにもいかない。多少の遅刻であれば待ってもらえるのではないだろうか。
「智恵子ちゃん、間に合ったかしら」
間に合わないかもしれないというメッセージを送ったのなら、その結果についても報告するはずだ。私は小龍の横顔に問い掛けた。彼はスマホの画面を指でなぞりながら、彼女からの返信を読んでいる様子だった。
その眉根があからさまに寄せられる。
「バスには乗れた……らしい、けど」
ならば良かったじゃないかと思ったが、彼の態度は曖昧だ。素直に安堵しているようでもなかった。訝しむ私たちの視線を感じたのか、慌てて言葉を付け足す。
「やり取りの内容を皆に話しても良いか確認してみる」
そう言って指を動かし、メッセージを送る。やがて彼女から返事が来たのか、こちらを向いて頷いた。
「話しても大丈夫らしいから説明するね。智恵子ちゃん、今はバスの中らしい。でも周りの様子が変みたいで……」
数分ほどの遅刻はあったものの、彼女は置いて行かれることなく集合場所へ到着できたらしい。遅れることはあらかじめ伝えていたため、スタッフが駆け寄ってくる。抽選によって獲得したチケットを見せると、カードのようなものを渡され、そこに描かれたマークと同じものを掲げたバスに乗ってくれと指示されたそうだ。
「つまりバスは複数あったんだな」
柏木が言った。考えてみれば、一台の大型バスに乗れるのはせいぜい四、五十名ほど。数百名の参加者を乗せるには五台は要るのではないだろうか。カードのマークは参加者を振り分けるために記されたものか。バスの数だけ種類があり、均等な人数に割り当てられているはずだ。
「智恵子ちゃんは何のマークだったの?」
私がそう問い掛けると、小龍はスマホの画面をこちらに向けた。
「写真を送ってくれた」
バスの中、膝の上で撮ったと思われるカードの写真が表示されている。移動中なので通話は難しいが、写真を撮ることはできるようだ。特におかしなところは見当たらない、ごく普通のトランプほどのサイズのカードに思えた。
「花のマークだな」
先端に切れ込みの入った、五枚の花弁。いわゆる「よくできました」の判子に描かれているような、正面からの花の絵だ。
「これと同じマークを掲示したバスに乗ったんでしょ? 何が変なの?」
今のところ、大きなトラブルが発生したようには思えない。少し遅刻したものの、目的のバスに乗れたという流れのはずだが。私の質問に、小龍は何度もメッセージを読み返しながら応える。
「それが、智恵子ちゃんにもはっきりとした確証がないんだけど、周りの乗客がアラクネのファンとは思えない雰囲気らしいんだよ」
「どういうこと?」
「チケットの競争率も高いイベントだからね。全員がアラクネのファン――そうでなくともクイズが好きだとか、共通の話題があるはずだろう。それなのに誰もお喋りをしていない。不気味なほどに静まり返っている」
「でも、カードのマークで振り分けられたのなら、友達と参加しても別のバスに乗せられるかもしれないし。初対面の人とは話しづらいものよね」
「それにしても、だよ。カーテンすら開けず車窓を見ない人もいる。ずっと手帳に視線を落として何かを暗記しているように見える人もいる。まるでこれから仕事に向かう人々のようだって」
「あれ? それじゃあ、スタッフさんのバスに乗っちゃったってこと?」
「でも服装は普通のお客さんに見えるらしい。ちょっと着飾って、遠方から来た感じの。それに、数十名のスタッフがまだ会場に向かっている最中だっていうのも妙だよな。これだとお客さんと同時に着いてしまう……」
やはり全く関係のない別のバスに乗ってしまったのだろうか。それとも、偶然にも静かな乗客だけが乗り合わせたのか。何とも判断のつきにくいところである。だが、考え込んでいるうちに、私はあることに気が付いた。
「あれ? そういえばこのイベントって……」
先ほど聞いた話では、メンバは参加者と共に乗車するのではなかったか。
「アラクネのメンバもバスに乗っているはずよね?」
アラクネを構成する主要メンバは五名。彼女らと共に旅をするという触れ込みのイベントならば、全てのバスに誰かが乗っているはずだ。つまり、スタッフもメンバも姿を見せず、静まり返っている時点でおかしい。
「やっぱり乗り間違えていたか、智恵子ちゃん」
レモンティーで喉を潤し、小龍は悔しそうな顔をする。何とか間に合ったかと思いきや、別のバスに乗ってしまったのは確かに残念だ。偶然にも行先の方向が同じなら取り返しがつくかもしれないが、そう上手くはいかないだろう。
「まあ、残念だけど、降ろしてもらうしかないわね。まずは近くの人に声を掛けて、これが何のバスなのか教えてもらわなきゃ……」
着飾った人たちが話もせずに乗っている。そんなバスがどこへ向かうものなのか、少し気になった。彼女とて路線バスや高速バスに乗り間違えることはないはずだ。おそらく同じような貸し切りバスで、紛らわしい花のマークを掲げる「何か」の団体だろう。
「とりあえず今の話を伝えるよ」
小龍の指が返信を入力している。そういえば彼はフリック入力を使わないのだな、と気付いた。同じ場所を連続でタップしているところを見るに、トグル打ちで入力している。リズミカルなタップ音を耳にしながら、私は柏木の方へ視線を向けた。まじまじと見られているような気がしたのだが、どうやら彼が気にしているのは小龍の方のようだ。
何か言いたげにしていた柏木が、意を決した様子で口を開く。
「待ってくれ、青年」
彼の言葉に小龍は動きを止めた。顔を上げ、怪訝な表情で視線を返す。
「その女の子は怪しいバスに乗っちまったんだろ? 周りの乗客に迂闊に声を掛けてもいいものなのか、と思ってな」
「怪しいといっても、ジャックされたわけでもないですよ?」
「ちょっと、な……。少し前に起きた、嫌な事件を思い出したんだよ」
いつも悠然と構えている彼にしては珍しく、動揺しているように見えた。落ち着くためかコーヒーカップを呷ったが、それはとうに空だ。何も飲み込むことができないまま、彼は次の言葉を吐き出した。
「自殺志願者の集団がバスを貸し切って山奥へ向かったことがあってな。運転手も含め、全員がネットで募った自殺サークルのメンバだった。普通の観光バスみたいにバスターミナルで集合して、互いの顔も知らない若者たちが乗り合って……」
周囲からはありきたりな貸し切りバスに見えていても、実は死に向かうための集まりだったというわけか。私も店長も、自殺という言葉には敏感になっている。そして柏木も私たちと同じ気持ちであるからこそ、わざわざ口を挟んできたのだ。二ヶ月前、このカフェで会ったのを最後に行方をくらませた純文学作家は、彼にとっても縁のある存在だったはずだから。
もちろん、小龍は私たちの気掛かりの種など知らないが、彼の言わんとすることは理解したようだ。強固な目的を持つ集団が、部外者を素直に逃がしてくれるとは限らない。彼の指が止まり、打ち込んだ文字列を消し、別の文面を入力する様子が伺えた。
「とりあえず、他の乗客には声を掛けないように伝えますね」
「こちらからイベントの運営に問い合わせてみるのはどうだい?」
カウンタから身を乗り出しつつ、店長が言った。確かに、智恵子が間違ったバスに乗ってしまった可能性は高いが、まだ確定したわけではない。運営の方から本当の「花のマークのバス」へ連絡をとってもらえれば、彼女がそこにいるかどうかが分かる。少なくともひとりはスタッフが同乗しているはずだ。
「分かりました。運営へ連絡してみます」
小龍は頷く。連絡先は、スマホで調べればすぐに見つかるだろう。その検索をする仕草の合間に、
「如月にも伝えておこうかな……」
という呟きが小さく聞こえた。
「俺にとっての探偵って、やっぱり如月なんだよな」
小学校にて同級生であったふたりが再会してから、ここでは様々な事件が起きた。解けるわけがないと思える謎もたくさんあった。それらを推理して真相を明らかにしたのは、店長のときもあったし、たまに私が気付くときもあったが、小龍にとってはサツキの印象が強いのも当然だ。彼が〈犯人〉として私たちの前に立ったとき、正面から対峙したのはいつもサツキだった。
でも、そんな彼は、今ここにいない。
やがて小龍はイベントの問い合わせ先を見つけ、電話を掛けた。結局、このことをサツキに伝えたのかは分からない。電話の前にメッセージを送ったのかもしれないが、フィールドワーク中の彼が読む保証はなく、リアルタイムの返信も期待できなかった。
「花のマークのバスに乗っているはずなんです。ええ、本人に写真を送ってもらって確認しました……はい、彼女がそれに乗っているか確認していただきたくて」
説明を受けたスタッフが調べてくれているようだ。数分間の保留の後、例のバスに乗ったスタッフからの連絡が伝えられる。
「乗っていない? そうですか……」
相手の声は聞こえないが、小龍の落胆した返事で全て把握できた。やはりバスは間違っていたのだ。電話を切った彼が振り向く。
「参加者が乗っているはずのバスにはいないそうです。花のマークにも、それ以外のバスにも。そもそも、花のマークのバスにはアラクネメンバの花房さんが乗っていて、出発と共に企画が始まっているはず、とのことで……」
だとすれば智恵子が知らせてきたように、車内が静まり返っていることなどあり得ない。イベントと無関係のバスに乗ってしまったことは確実だが、それはつまり、調査の糸口を失ってしまったことを意味する。これ以上、運営から情報を得ることはできず、まっさらな状態から彼女の行方を探さなければならないのだ。
「花房さんって、英語担当の先生だったわよね」
それが手がかりになるとは思わないが、何とはなしに尋ねてみた。柏木の話によるとアラクネは元々、オンライン予備校のような活動をしていたはずだ。
「花房さんが乗るから花のマークだったのかな。他のマークって分かるかしら」
私たちは智恵子から送られてきた写真しか見ておらず、智恵子自身も自分に割り当てられたマークしか知らないだろう。だが、先ほどスタッフと話していた小龍なら、他のマークについて聞いているかもしれない。その期待を込めて、私は彼に尋ねた。
「通話だから実際に見たわけじゃないけど、説明はされたな」
指折り数えながら、小龍が話す。
「花のマークの他には、月、蝶、鶏、蜂……だったかな。バスは全部で五台あるって言っていた」
「柏木さん、アラクネのメンバの名前って」
私が問い掛けると、柏木は何の資料を見ることもなく即座に答えた。
「英語担当、花房。社会担当、月長。国語担当、蝶野。理科担当、風見。そして数学担当が、CEOの蜂須だ」
やっぱり、と思った。バスのマークはスタッフが適当に選んだものではなく、ある由来に基づいたものだ。そう確信しかけたが、ひとつ引っ掛かる部分がある。
「あれ? 鶏って……」
「そりゃ風見鶏だろ」
喉の奥だけで柏木が笑う。私の独り言から疑問を察し、間を空けることなく答えを告げたということは、彼もすぐに気付いていたのだ。カードに描かれ、バスに掲示されたのは、彼らの名前にちなんだマークだ。メンバの名前に含まれない「鶏」という言葉に惑わされてしまったが、「風」そのものをイラストで表現することは難しいのだから、風見鶏という形に落ち着くのは不思議ではない。
「まあ、でも、マークの由来が分かったとしてもね……」
私は溜め息をつく。こうなってしまっては、意を決して周りの乗客に尋ねてみるしかないのかもしれない。走るバスの中という逃げ場のない状況で、安全な場所にいる私たちが指示を出すのは非常に心苦しいが――
そう考えたとき、店内に軽やかな通知音が響いた。
「智恵子ちゃんからだ」
小龍がスマホの画面を私たちから見える位置に置く。やり取りの内容を伝える許可は得ているので、遠慮なく覗き込むことにした。
「何、この写真」
新たな写真が一枚、送られている。カーテンの隙間から車窓の向こうを撮影したもののようだ。渋滞ぎみの高速道路を行き交う車が見える中、隣の車線のやや後方に大型バスが写り込んでいる。
「こっちが本物の花のマークのバスだ……」
呆然と告げる小龍の言葉の通り、フロントガラスの内側にはしっかりと花のマークが掲示されていた。最初に送られた写真で見たものと、全く同じ図案である。つまりすぐ後ろを走っているバスこそが、まさに智恵子の乗るべきバスだったのだ。
これはいったいどういうことを示しているのか。偶然にも、同じ方角を目指してこれほどの距離を並走していたと、そう片付けて良いのだろうか。
「続きのメッセージがある」
スクロールをすると、智恵子からの補足が続けて現れた。
「もともとカーテンを閉めている乗客が多かったんですけど、急に他の人も閉め始めたんです。私は窓側の席に座っていて、同じように閉めなきゃ怪しいかなと思って真似しました。そのときにこっそり撮った写真です。後ろにイベントのバスが見えます。カードに描かれた桜のマークと同じなので、間違いないですよね……」
読み上げる小龍の声が次第に弱まっていく。不可解な状況に思考が追い付いていない様子だ。急に大勢がカーテンを閉めたということは、このバスには後ろめたいことがあるに違いない。その要因が後方を走るイベントのバスなのか、それとも他の車に関係があるのか、はたまた、写真の外部に何かが隠されているのか。
「桜のマーク、か」
そのメッセージに視線を何度か巡らせた後、ふと小龍は呟いた。
「そういえば桜でもあるな」
いわゆる「よくできました」の判子に使われているような、五枚の花弁の花。これを「花のマーク」と呼ぶ者もいれば、「桜のマーク」と呼ぶ者もいるだろう。先ほどの文面を見る限り、智恵子は後者のようだ。一方、私たちはずっと「花のマーク」と呼んでいたが、最初に写真を見せてくれた小龍がそう言ったので、その影響は受けている。全くの主観で話すなら、「花」派と「桜」派で等分されるのではないだろうか。そう思えるほど、どちらとも呼べる印象のマークだった。
「でも、これを用意したスタッフしては、花のつもりだったんだろうね」
店長が言った。
「花房さんのマークだからね。これは桜ではなく、花のつもりなんだ」
正式なパンフレットなどに載せるわけでもない、単にバスを識別するためのマークだ。おそらく新規では描いておらず、どこかから探してきた素材を使っている。花にも色々な種類があるが、やはり日本人にとっては桜がなじみ深い。「花」というワードで「桜」の絵がヒットする可能性は十分にある。
もっとも、このマークの呼び方が問題の解決に繋がるとは思えないのだが。
「……って、ごめん。話が逸れたね」
店長も同じことを思ったのか、すぐに話題を戻そうとする。そう、私たちが考えるべきはマークではなくバスの正体だ。渋滞ぎみの高速道路で急にカーテンを閉め始めたバスは、何を目的としているのか。それが分からない限り、智恵子は下手に動けない。
だが、戻りかけた話を打ち返す言葉があった。
「いや、話は逸れていないのかもしれません」
小龍がスマホから顔を上げ、こちらを見渡している。この姿をどこかで見た気がするな、と私は考えた。おそらく小龍本人ではなく、別の人物で――
そう、サツキの推理がまとまり、真相を語り出すときのような。
「花か桜かという話、バスを間違えた理由に関係があるかもしれないんです。俺の思いつきが正しければ、確認しなければならないことはあとひとつだけ」
彼の視線が再びスマホへ落ちる。口は動かず、指だけが何かを打ち込み始めたので、その内容を知るためには画面を覗き込む必要があった。
――花のマークのバスに乗り込むとき、自分でマークを確認してから乗った?
彼は智恵子に対し、そう質問を投げかけている。
数十秒経った後、彼女からの返信が現れた。
――いえ、自分では見ていません。急いでいたので、イベントの腕章を着けたスタッフに「桜のバスはどれですか」と尋ねて案内してもらいました。
これは初めての情報だったので、少し驚いた。だが、不自然な状況でもない。既に彼女は遅刻をしている。何台あるかも知らないバスを覗き込んで回る代わりに、スタッフに訊けば早いと思うのは当然だ。イベントの腕章まで確認しているのだから、まさか無関係のバスに案内されるとは思わないだろう。
問題は、なぜスタッフがバスを間違えてしまったのか、なのだが。
小龍はきっと、その答えにも辿り着いている。
――真相が分かった。そのままバスに乗っていても大丈夫だよ。イベントにも参加できるから安心して。でも、周りの乗客の顔は、あまりまじまじと見ない方が良いかも。
私たちには何も説明せず、彼の指先が文章を打ち込んでいく。てっきり、これからの対処法を伝えるものかと思っていたので、私は面食らった。これほどおかしな状況に巻き込まれているというのに、バスに乗ったままでも大丈夫とは。しかも、何もせずともイベントの会場へ着き、合流ができるとは何事か。
とはいえ、これが本当なら、智恵子にとって最高の真相だ。
このメッセージを受け取った彼女は、どう感じるだろう。身の安全どころか、諦めていたイベントへの参加まで保証されるなんて。全てを解決へ導いてくれた元家庭教師に対し、一層の信頼を寄せるのかもしれない。
それが、ふたりにとって正しいことなのかは分からないが。
指が画面から離れる。スマホをテーブルに置く。
「良かったぁ……」
送信を終え、深く息をついた小龍は、崩れるように突っ伏しながら声を漏らした。
*
とっぷりと日が暮れている。
とうに閉店時刻は過ぎ、店にいるのは店長の浅間だけであった。カウンタの上には小さな燭台が置かれており、一本の蝋燭が立っている。彼はマッチを擦って火を灯した。
本来なら、浅間自身もとっくに帰っている時間だ。だが今日は特別だった。蝋燭の炎が壁に飾られた写真を照らしている。カウンタの外側から内側へと、グラデーションのように私的な内容になる絵画や写真。彼の目の前にあるのは、長い黒髪が印象的な女性のポートレイトで。壁にあるカレンダを見上げ、浅間は今日のことを思い返した。
(最後の最後で、今月も妙なことが起きたな)
真相に気付いた小龍がそれを運営に伝えたことにより、今朝の事件は解決へ向かった。具体的な内容は聞きそびれたが、智恵子はイベントの会場へ着けたようだ。彼女の無事を確認した後、小龍は部屋に帰っていった。やがて柏木も自分の仕事をこなすため、店を後にした。出張でこちらに来たのは、近くの時計屋を訪ねるためだそうだ。
――先月頃から、浜木綿彰子の追悼企画がようやく動き始めてな。
去り際に、彼はそう話していた。
――近くに贔屓の時計屋があるだろう。そこへ取材に行く予定なんだよ。浜木綿賞の副賞として、懐中時計もオーダーしていたくらいだから、彼女を語るには外せねえ。
まずは文芸誌の追悼号。続けて、偲ぶ会の運営。それらの裏で計画しているのが、浜木綿の生涯を保存・紹介するための記念館の開設だ。流星社には彼女が執筆部屋として使っていた蔵があり、そこに彼女の遺品や原稿を集める作業が進んでいるらしい。
――ほとんど俺がひとりでやってるようなものだから、牛の歩みではあるがな。まあ、若手の作家がその辺をうろついていたんで、捕まえて手伝わせている。浜木綿賞を貰った奴だしちょうどいいだろ。ほら、式見の奴と同時受賞の少年だ。
(式見さんも、ちゃんと亡くなっていたのなら、追悼してもらえたのだろうか)
今にも消えそうな炎が揺れている。八月に会ったきりの小説家のことを思い出しながら、浅間は考えた。ちゃんと亡くなる、というのも奇妙な表現だ。だが、今の彼女を表すにはその言葉しかない。もちろん死んでほしくない。生きている可能性があるうちは、それを諦めるつもりはない。それでも、ちゃんと亡くならない限り、浜木綿のように追悼が始まることは永遠にないのだ。
ついに炎が消える。ひと息ついて顔を上げたとき、ガラス扉の向こうに人影があることに気付いた。
「入ってもいいよ」
声を掛ける。ややあって、ドアベルが鳴らないほどにゆっくりと扉が開けられた。深夜とはいえそこまで気を遣うこともないのに、と笑みが漏れる。
「どうしたんだい、こんな時間に」
「フィールドワークから帰ってきまして……」
店内へ身を滑り込ませた青年は、大きな鞄を抱えなおしながら言った。
「店長さんこそ、こんな時間にどうしたんですか。灯りを点けっぱなしで帰っちゃったのかなと思って、気になって覗いてしまいました」
ソファの上に鞄を置く。左手首に嵌めている、黒い革ベルトの腕時計に視線を向けた。
「りりすちゃん、いないですよね?」
彼の言葉に浅間は頷く。時刻は夜の十一時を過ぎていた。
「彼女は仕事を終えて帰っているよ」
「ですよね。二色も……この時間はもう寝ているか。俺、明日の朝には別の場所に行かなくちゃならないんです。きっと顔は合わせられないんで、一度はここに戻ってきたことを伝えてもらってもいいですか」
小龍が規則正しい生活を送っていることは初対面の頃に聞いた。学生ならば起きていても不思議ではない時間帯だが、真面目な彼は就寝しているだろう。長らく友人と会えていないことを寂しがっていたので、頼まれなくともこのことは伝えるつもりだ。
「こんな遅くに帰ってくるなんて、随分と多忙なんだね」
普通ならもう一泊することを考える時刻だ。それだけスケジュールが詰んでいる、ということだろうか。浅間は厨房へ入り、冷蔵庫の中身を確認した。ハムとチーズ、カットされた野菜が少々。ランチに使ったソースの残りもある。すぐに引き返すと所在なさげにしている青年に声を掛けた。
「明日も早いようだから無理に引き留めるつもりはないけれど……もしよければ、夜食でもどうだい? すぐ用意できるから」
「夜食ですか? ありがたい話ですけれど、俺は大丈夫ですよ」
「サンドイッチなんだけど……」
浅間が言いかけたところで腹の虫が鳴いた。あまりにぴったりなタイミングだったので、ふたりして噴き出してしまう。
「ありがとうございます。いただきます」
彼は鞄を掴んでカウンタの前へ移動した。浅間は足早に厨房へと向かう。すぐに用意できると宣言したのだから、急がなければならない。プレートにパンを並べ、既に切ってある食材を挟み、パンで蓋をするだけの作業だ。フランスパンを使用した、細長い形のサブマリンサンドイッチ。プレートの端にピクルスを置き、箸を添えて出す。
「ピクルスを挟み忘れてしまったよ」
パンはピックで固定されているため、後からピクルスだけを挟むことは難しい。箸が添えられたサンドイッチという奇妙なプレートを前に、彼は少し困ったような顔をした。
「ピクルス、苦手だったかい?」
「え? いいえ、そんなことはないのですが」
浅間の問い掛けに、首を振って応える。
「フォークもいただけたら嬉しいな、って」
引き出しからフォークを出して手渡す。水を満たしたグラスも差し出した。彼は礼を言って受け取った後、サンドイッチを手にして端から齧る。
「そういえば、智恵子ちゃんがバスを乗り間違えた事件、解決して良かったですね」
食べ進めながらそう言った。どうやら小龍は、今朝の事件のことをサツキにも伝えていたようだ。それが事後報告なのか、リアルタイムでメッセージを送っていたのかは分からない。小龍が店にいる間に返信が届くことは無かったからだ。
「そのことなんだけど……君は、どこまで知っているのかな」
智恵子は無事イベントに参加できた。それは良い。だが小龍がそのことに安堵して説明を忘れたせいで、浅間は真相を知りそびれている。もし目の前の青年が全てを伝えられているのなら、是非教えてもらいたいと思った。
「彼女がどうして違うバスに乗ることになったか、二色くんから知らされたかい?」
「ああ、あいつ、何も説明しなかったんですね」
一緒に考えてもらったのに駄目じゃないか、と苦笑して。
「答えを聞いてみれば、至極単純なことだったんですよ」
サンドイッチをプレートに戻し、彼はスマホを取り出した。ホーム画面に並ぶアイコンのひとつに触れ、何かのメッセージアプリを立ち上げる。他人とのやり取りを表示したわけではなく、メモ代わりに使っている自分宛の画面のようだった。
「人間がイラストやマークを言葉で表現するとき、どうしても周囲の印象や先入観に引きずられることになります」
数個のスタンプを続けざまに入力する。順番に表示される図柄を示し、彼は浅間に問い掛けた。
「このスタンプを順に説明してみてください」
「蜂、月、風見鶏、蝶……最後のは花、だよね?」
スタンプはシンプルな絵柄で、誰が見てもそのようにしか見えないはずだ。この並びには覚えがある。五台のバスを識別するために掲示された、アラクネのメンバの名前にちなむ五種類のマークだ。スタンプで代用しているので全く同じ図柄というわけではないだろうが、描かれているモチーフは同じのはず。
「正解です。まあ、風見鶏というよりニワトリだと思いますけどね」
青年は微笑みながら言った。確かにその通りで、ただの雄鶏を描いたスタンプを勝手に風見鶏だと認識したことに気付く。先入観に引きずられるというのはこういうことか、と納得した。
「アラクネのメンバに風見さんという方がいるから、つい」
「それが先入観ですね。俺は、このスタンプを説明してくださいとしか言っていませんので、厳密な正解はニワトリです」
そんな話をしながら、更にスタンプを入力していく。今度は全て花の絵だった。
「これならどうですか?」
「バラ、チューリップ、タンポポ、サクラ、だね」
今度は先入観なく答えられたはずだ。この並びが、何かの法則に基づいているという心当たりはない。子供でも分かるようなシンプルな絵柄なので、純粋に見たままを答えた。
だが、彼の口角が悪戯ぽく上がっていく。
「本当にそうですか?」
画面を指し、たたみ掛けてくる。浅間は再びスタンプを見た。まさかチューリップに見せかけたユリノキという引っ掛けでもあるまい。
「店長さん、さっきはこのスタンプのこと、花だと言いましたよね」
その言葉を聞いて、やっと気付いた。
「同じスタンプなんですよ。さっき店長さんが花と認識したのと、この桜は」
「なるほど。でも僕にとって前者は間違いなく花だったし、今回はサクラ以外に答えようがない。単体ではどちらともとれる絵だったとしても、何と並ぶかによって呼び方が固定されるわけだ」
「そういうことです」
またサンドイッチを口に運ぶ。残りが半分以下になったところで、彼はフォークを手にしてピクルスも食べた。
「さて。アラクネのイベントの関係者は、蜂・月・鶏・蝶・花というマークの並びを何度も目にしていたはずです。五台のバスにメンバが乗り込み、移動しながら参加者と交流するという企画は、目玉でもあったはずですから。マークの由来がそれぞれの名前であることも知っているでしょう。あれを桜のマークと呼ぶ人はいない。あくまで花房さんを表すマークですので、桜ではなく花なんです」
つまりあの時「花のバスはどれですか」と智恵子が尋ねていたならば、正しいバスに案内されていたのか。スタッフにとって「桜のバス」は存在しない。名前に桜という字が含まれるメンバは乗っていないのだから。
とはいえ、これだけでは納得のできない部分がある。
「いくらスタッフの間では〈花のバス〉と呼ばれていても、彼女の言う〈桜のバス〉がそれを指していることくらい分かりそうだけど……。それに、結局あのバスが何だったのかもさっぱりだ」
「それに関しては、間が悪かった部分も大きいんですよ」
グラスの水に口をつけ、話を続ける。
「だって、実際にあったんですから。全く無関係なバスではなく、イベントのために用意されたバスとしてもう一台」
「それが桜のバスだと?」
「はい。うっかりそちらに案内されてしまったわけです」
そう言われても、状況をうまく想像することができなかった。アラクネに所属するメンバのうち、動画に顔を出しているのは五名だと聞いている。おそらく、演者としてイベントに登場したのも同じ五名だろう。六台目のバスがあったとしても、ファンの見知った演者が乗り込むことはできないのだ。そんな不平等な企画が通るはずもない。
そもそも、「花のバス」と「桜のバス」が同時に存在するなんて。
「どうしてそんな紛らわしいことを……」
「いえ、スタッフがそう呼んでいたわけではないと思います。桜のバスというのは、あくまで智恵子ちゃんの呼び方なので」
彼の言う通り、智恵子を待っていたスタッフは「カードに描かれたマークと同じものを掲げるバスに乗る」ように指示しただけだ。彼女はそれを桜と認識したので「桜のバスはどれですか」と訊いた。実際にカードを見せながら尋ねたわけではない。
「店長さんなら、サクラという言葉に裏の意味があることを御存知ですよね」
摘まめるほどになったサンドイッチを口に放り込む。プレートの上にはピックとフォークだけが残った。未使用の箸は傍らに置かれている。
「馬の……」
「あ、そっちじゃないです」
「ニセモノのお客さんのことだね。あらかじめ報酬を貰って、雇い主にとって都合の良い行動をする――」
そう答えている内に浅間も気付いた。アラクネのイベントは数百名の参加者によるクイズ大会だ。これほど大勢でのクイズを成立させるためには、事前の仕込みも重要になってくるのではないだろうか。
それは、騙すためではなく。参加者の全員を楽しませるために。
「例えば選択肢式のクイズを出したとき。ひとりずつ答えを聞いて回ることもできませんから、複数の部屋を用意して正解と思う方へ入ってください、という形になると思うんです。その際、人間はどうしても周りの動きにつられてしまう心理があります」
「自分で出した答えではなく、最初に動いた人に影響を受けてしまうんだね」
「そうです。それに、答えが分かっていてもすぐには動きづらく、ロスタイムが発生する可能性もあります。それを回避するためにも、数十名にひとりの割合でサクラを混ぜておくことは効果的なんですよ」
会場のモニタに問題が表示され、シンキングタイムが設けられる。それが終われば即座に動きだす参加者が散りばめられている。あらかじめ決めた通り、それぞれがバラバラの選択肢を選ぶことになっている。
「間の悪いことに無断欠勤したアルバイトがひとりいたんですよ。サクラ用のバスの近くにいたスタッフは、その人を待っていました。それで、後から来た智恵子ちゃんをサクラだと勘違いしてしまったそうです。もちろん運営のミスですから、謝罪や返金はあると思います。とはいえ行き先は同じなので、結果的には合流できたわけです」
この真相に至った小龍は、そのまま乗っていても大丈夫であることを智恵子に伝えた。続けて「他の乗客の顔をまじまじと見ない方が良い」とも伝えていたが、それは彼女の楽しみを奪わないためか。周りにいるのは台本通りの動きをする偽の参加者ばかりだ。
「ああ、だからバスが近付いたときにカーテンを閉め始めたんだね」
「渋滞ぎみでしたから。写真で見えたのは花のバスだけでしたけど、同じ時刻に出発して同じ場所に向かっているんですから、他のバスも近くにいたでしょう。窓越しにサクラの顔を覚えられてしまっては困ります」
本物の参加者に馴染めるよう、アラクネのファンらしい服装をしているサクラたち。外見の区別はつかないが、中身はあくまでアルバイトなのだから、車内が静かなことにも納得だ。彼らにとっては仕事場へ向かうバスである。
「そういうわけだったんです。聞いてみれば駄洒落みたいな話でしたけど、当事者としては焦ったでしょうね。智恵子ちゃんも……もちろん、二色も」
空になったプレートを差し出しながら、彼は控えめに笑顔を見せた。小龍が真相に至り、もう心配は要らないことを智恵子に伝えた後。魂ごと崩れ落ちるかのような深さで呟いた「良かった」という言葉が、彼の想いを表している。良かった。ただそれだけだ。愛だとか贖罪だとか、そんなことは何もかも取っ払って。あなたが無事で楽しく過ごしているなら、ただそれだけで良い。
二色小龍は、きっともう大丈夫だろう。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
そう言ってから、彼は鞄を掴んで立ち上がる。ガラス扉の向こうに見える宵闇に、栗色の髪が溶け込むようだった。浅間は時計を見上げた。秒針が動く様子をしばらく眺め、日付が変わる瞬間を目撃する。
たった今、この場所は十一月になった。
ならば新たな事件を起こしても構わないだろうか。
「帰る前に、ひとつ質問してもいいかな」
少しくたびれたグレーのパーカ。黒縁眼鏡の奥に覗く、ひとえの瞼。腕時計は左手首に。足元は黒い紐のスニーカー。どこにでもいるような容姿の大学生が、観葉植物に囲まれて深夜のカフェに立っている。
ここまで随分と長く掛かってしまったが、ついに確信した。
目の前にいる彼は、自分の知らない人物である、と。
「君は――誰だい?」
〈十月・ウミガメのスープの冷めない距離 終〉
一年以上更新が途絶えてしまい、申し訳ありません……
趣味で受けた検定試験の勉強のため、執筆をお休みしておりました。
完結まであと二話。このまま駆け抜けていくつもりですので、よろしくお願い致します。