#89 風と海、船と魚
「ラフェム、ショーセ……、と、シーカさん。本当に……行くんだよね?」
「ああ。よろしく頼む」
「オイラ……本当に何も出来ない、弱いからね? 何度でも言うけど、自分の身は自分で守ってね? 最善は尽くすけど……守るって、断言は出来ないから……」
朝とも昼とも言える、中途半端な時間。
俺たちは、座礁し砂浜に横たわる、そこそこの大きさのヨットを目印に落ち合った。
ヨット……と言っても帆の形は見慣れぬ物だ。三角のあれじゃない。海賊船とか、お土産品のオールドチックな船の置物に付いてる奴みたいに四角くて。
同じ柱に麻紐で結んである畳まれた布も付いている。
あれから、詩歌の機嫌はてんで駄目だ。
そもそも俺が提案したんだが、俺を視界に入れようとしないし、声掛けなんて尚更だ。
ずっと黙って俯いて、ラフェムの後ろに着いていくだけ。俺も有言実行で気配を出来る限り消してはいるが……俺のこと、マジに嫌いなの……?
フィペスカは動物を愛でるように、船底を撫でる。船底は銀の塗料で塗られていて、まるで魚の腹のよう。
ひとしきり、愛でた後、調子の悪そうな詩歌に気付いて不思議そうに眺める。
「シーカさん……具合悪い? 風邪? 今の海、ホント危ないからさ……。オイラ、動けない人を守る程の余裕も実力も無いんだ、体調良くないならラスリィに残った方がいいんじゃ……」
不安げな少年の言葉に、ラフェムはそっかと、なんら悪気なく軽く頭を振って、詩歌の方を見た。
「シーカ、辛いならビリジワン戻って大丈夫だからな?」
すなわち、離脱の提案。
詩歌は顔を勢い良くあげると、掴みかかったかと思うほどの勢いでラフェムの手を握ると、ブンブンと振って声を張り上げた。
「わ、私は! 元気よ、ほら! 風邪なんか引いてないし! だ、だから置いてかないで! 私も行くの!」
「お、おう……?」
鬼気迫る勢いで懇願され、ラフェムはたじろぎ半歩下がった。
それで詩歌は我に返ったか、申し訳なさそうに手を離すと、微妙に距離を開け、また俯いてしまった。
俺の時とは違って手を凝視することもなく、拭くこともしない。……ふぅん。まあラフェムは顔が良いからね……はぁ。
ともかく、詩歌にとって今の提案は死刑宣告に近かっただろう。
まだこの異世界の常識を完全に理解した訳ではなく、そして生活に慣れておらず、頼れる友も腹を割って……異世界転生のことまで何もかも曝け出して、相談できる相手もいない。
ラフェムの家という物理的な居場所はあれど、それ以外は何も無い。そんな世界に放り出されたら、どうなってしまうのか……想像がつかない。
彼女が慌てるのも普通だろう。
突如の気迫にフィペスカも啞然としていたが、咳払いするとヨットを起こし、そのまま海へと押し出した。
彼は足が波に打たれてびしょびしょになるより先に、軽やかに跳び上がると、船に乗る。
彼の勢いと重みで船底と海底が触れ、反動と浮力で突きあがって飛沫が舞った。
「さあ、乗って!」
「おう!」
ラフェムが跳んで、船へ乗り込む。
俺も続いて飛び、着地と同時に詩歌が砂を蹴った音が聞こえた。
「きゃっ」
短い悲鳴。
咄嗟に振り向くと彼女がよろけていた。
もう、一人の力ではたち直せない程に重心が傾いている。
バランスを崩して海に落ちてしまう。
そう思ったが早いか、それとも既に言い訳か……彼女の手を掴んでしまった。
やべ……。
「……」
「……」
彼女は驚き、目を丸くして俺の手を見て、顔を合わせたくないのかそっぽを向いた。
む、胸が痛え…………。
詩歌、海に落ちてずぶ濡れになるのと、俺に触れられるの、どちらがマシだったんだ?
……って考えるより先に、まず手を離せよ、俺!
「……嫌なら海で洗えばいいよ、はは……」
「…………」
彼女は落ちるはずだった海の泡を眺めたまま、何も言わない。
えっと、怒ってる……? 話しかけるなって怒鳴ったのに三回も破りゃあ、そりゃな……。
クソ……なんで俺、自分で言ったこと守れないんだ……。実行できない言葉ほどダサくて臭いものはないのに……。
「シーカさぁ……」
不機嫌な声。
詩歌の体が怯えるようにビクッと震えた。
俺も、覚えていない記憶が神経を針で刺し、同じように震えた。
「そりゃ無いだろ? 僕は一昨日の喧嘩も、昨日の悪夢の内容もわかんないけどさ……、流石にショーセに悪いと」
「ラ、ラフェム! 俺が悪くって! 詩歌は悪くないから! だからあの、責めないでやってくれよ!」
「でもさ、昨日ショーセ泣いてたんだぞ? いくら君がこっぴどく振っ……」
「わーっ!? いい! だめ! おしまい!」
「えっ……」
ラフェムが俺の弱さと、ありもしない痴れ言を喋ってしまう前に、騒ぎながら彼の口を塞いだ。
やめてくれよ、お前の前だから泣いたのに、バラすなって……。恥ずかしいじゃんか、一昨日に泣いて、昨日も泣いてって、泣き虫野郎って思われんじゃんかよ……。
それに告白なんかしてないのに、勘違いしたままそれを話されたら……余計拗れるじゃんかよ。
「あの……」
内輪の不穏に入れないフィペスカが、気不味そうに帆柱に寄りかかって頭を掻いていた。
「オイラむちゃ不安なんだけど……」
「ご、ごめん! 行きましょう! お願いします!」
フィペスカはため息のような深呼吸をすると、帆や帆柱から垂れ下がった縄を掴み、手繰る。
すると帆はドラゴンやコウモリの皮膜のように動き出した。まるで未知の生き物を操っているかのよう。
帯みたいな、平べったい魔法の風が帆の弛んだ部分に突っ込むと、歯車のようにぐるぐると回りだした。
波に揉まれて右往左往するだけだった船が、ゆっくりと前進する……。
ああ、海の向こうへ行くんだ。
知らない大陸へ。
ちょっぴり楽しみで、やっぱり怖い。
いよいよ旅らしくなってきたっていうか。ああ、自分は本当に、とんでもない事に足を踏み入れちゃったんだ……。後には引けないし、泣いてもどうにもならない。でも、それでも、ラフェムの為なら俺はどこだって行くんだ。後悔の念は微塵たりともない。
「みんなー!」
「おーい!」
エイオータ夫婦の声が聞こえた。
振り返って、砂浜を見ると、二人は腕を大きく振っていた。もうだいぶ島から離れてしまっていた。表情は、かろうじて大きく口をパクパクさせているのがわかる程度だ。
「頑張ってね! 絶対フォレンジまで辿り着くのよ!」
「本当にやばかったら逃げるんだぞ!」
まるで向こうが旅に出発したのかってぐらいのはりきり声で、なんだか俺まで元気になってしまいそう。
クアの親……だな、うん。
ラフェムは、寂しそうな目で微笑んでいた。
……寂しいよな。俺だって、たった二日、同じ屋根の下でいただけなのに……ご飯もおいしいし、優しくて暖かくて、離れたくない……。
ラフェムにとっては、もっと深い仲の人だ。
しかも、もしかしたら、これが最悪の場合、最後に……。
俺はどうすればいいのか考えて……ラフェムの背をポンと叩いた。
「俺たち、絶対帰ってきますから! そしたらまた食べさせてくださいよ、トカゲのステーキ!」
声を張り上げ、全身で手を振り返した。
ラフェムは一瞬だけ固まっていたが、すぐに俺と肩を組むと、一緒になって振り始めた。
「終わったら、僕の家で集まりましょう! クアとロネとネルトと、エイポンも呼ぶんで!」
「おっ! 皆で集まるのは久々になるねえ! 楽しみだ! 待ってるよ!」
船はどんどん島から離れていく。
どんなに小さくなっても、声が届かなくなっても、夫妻はずっと手を振っていた。
やがて水平線に島は飲まれた。
ラフェムはずっと組んでいた腕を解くと、船尾の縁に座った。
その表情は真剣と、寂しさと、微笑みが混ざり合ってどれとも言えないものだった。
「……頑張らないとな、皆の為にも」
「おう、絶対に生きて帰るぞ! じゃあ、俺は船頭の方で魚来ないか見てるから」
鼓舞したくて肩を叩いた。
ラフェムはハッとして微笑みながら力強く頷く。そして肩をコココンと叩き返した。
船にぶつかる波の音と、帆や海面を擦る風の音が止むことなく続く。
揺れる船で転ばぬように、そしてなるべく帆柱傍にいる詩歌と、船の操縦に集中しているフィペスカの意識に入り込まないように、慎重な忍び足で通り抜けて、船先の板に腰かけた。
島の影さえ見えない、盛大に漠然と広がる一面の海。ほんとに何もないから、同じとこをぐるぐるしてんじゃないかって不安になる。太陽の向きが変わってないから、ちゃんとまっすぐには進んでんだろうけど。
波に揉まれて、ぼんやりとアイスドラゴンの背に乗った時の記憶が蘇ってくる。
風の音と揺れが似ているのだろうか。
人々が豆粒に見えるぐらい高い高い上空で、ふわふわの龍の首に跨ってた時の景色と音。
その前後の記憶が、じわじわと滲み広がる。
ラフェムはすっかり傷が癒えたな……全身ひび割れてたのに。全身ったら全身だ、頬から……、……うぅ、ムズムズしてゾッとする、思い出したくないな……。
詩歌には酷いことをしてしまったな……そういや俺はあの頃から気持ち悪いことしてたか……彼女でもないのに、彼女だったのしても急に慰めるために抱きしめるとか、言葉遣いも全部キモかったかも、初めて会ったときのも、なんか、全部キモすぎたよな……、うん……嫌がるよね……そりゃぁ……。
詩歌と出会って、あのドラゴンと出逢って、逃げられなくて、胸を刺されて、気を失って。
あの時はもう終わりなんだって思ったけど、なんだかんだ今まで生きてこれた。
だから、なんだろう。死ぬ予感はしないんだよな。なんとかなる。そんな変な落ち着きが心の何処かにずっとあって。お陰で勇気や心がひしゃげなくて済んでいるのかもしれない。根拠ないただの驕りだから、気を引き締めなきゃだけど。
海を進むにつれ、フィペスカの追い風に唸り声が混ざり始めた。
なんだか肌がぴりぴりする。潮風もあるけど、それだけじゃない。
きっと……。
「そろそろ魚の群れの上、過ぎっから……腹括ってね」
フィペの低い声に、咄嗟に海を見た。
……なーんも、いない。
ただ、底の見えぬ藍色が続いているだけ。
魚影とか、そういうのは何も見えない。
……ん?
藍色の中から、何かが泳いで浮上してきている。
かなりでかい魚影だ。マグロぐらいの大きさの……。
「フィペ……俺たちぐらいのでかい魚が来る。あれか?」
「……違うけど、合ってる……」
フィペは帆を動かす紐から手を離すと、床へ置いていた弓と板を削った簡素な矢を拾い上げ、船頭へ軽やかに跳んできた。
ドン、と音を立て着地した彼の、冷たく鋭い氷のような目にハッとして、影へ注意を戻す。
影はどんどん色付き、銀色の丸々とした体がヒレから煌めく鱗まではっきり見えるほど水面に近付いてきた。
その真下の、一面の深い紺の影が……ちぎれたように浮き上がる。
パシャと音を立て、水上へ飛び跳ねた俺と同じぐらいの大きさの肥った魚。
フィペスカが更に前へと乗り出し、船の先端を踏み潰す勢いで利き足を置いた。
同時に船が大きく揺れ……血が俺たちの体に降り注ぐ。
さっきまで目で追っていた魚は、何かに貫かれた。
鋭利な凶器、立派な家の柵を一本ぶち取ったような槍に鮮血が伝う。その根本は……巨大な巨大な口の中。
もっとデカイ魚が……鮫やシャチよりも大きい、ラグンキャンスより大きい、ヨットと同じぐらいの魚が……大きいと思い込んでいた魚を捕らえていた。
ぎょろりと目を動かしたのは、俺たちを食えるか品定めしたのだろうか。真っ黒の目玉に、俺とフィペスカが小さく小さく縮められて映っていた。
この間、刹那の出来事のはずなのに、まるで何十秒にも引き伸ばされたように感じた。だって、こんなデカイなんて、想像できるわけが……。
巨大な魚は重力に従って海へ落ちる。ドポン、と音と共に噴水の如く水飛沫があがり、再び船が揺れ、船内が海水に濡れた。
今、立っているのはフィペスカだけだった。
揺れに耐えられず、俺もラフェムも詩歌も倒れたから。
「何!? 今のヤゴみたいな口の魚! お、大きすぎる! 船に穴開けられる! 壊されちゃう! もう終わりよ!」
「そうならないよう、船底は頑丈にしてある。ただ……」
フィペスカが強く弓を矯め、水面へ垂直に矢を撃った。
纏った刃の風は、まるで小さな竜巻のよう。
荒ぶり強烈な渦を作り、海に風穴をこじ開けた。
途端船が大きく横へ揺れた。
避けたか、当たって怒ったか、わからないが船の下で魚が暴れて、波が産まれたのだろう。
「体当たりされ続けられたら船はぶっ壊れる!船が壊されて餌になる前に、魚が諦めるとこまで突っ切って逃げるんだ!」




